二
祝津(しゅくつ)の燈台が、廻転する度にキラッキラッと光るのが、ずウと遠い右手に、一面灰色の海のような海霧(ガス)の中から見えた。それが他方へ廻転してゆくとき、何か神秘的に、長く、遠く白銀色の光茫を何海浬(かいり)もサッと引いた。
留萌(るもい)の沖あたりから、細い、ジュクジュクした雨が降り出してきた。漁夫や雑夫は蟹の鋏(はさみ)のようにかじかんだ手を時々はすがいに懐(ふところ)の中につッこんだり、口のあたりを両手で円(ま)るく囲んで、ハアーと息をかけたりして働かなければならなかった。――納豆の糸のような雨がしきりなしに、それと同じ色の不透明な海に降った。が、稚内(わっかない)に近くなるに従って、雨が粒々になって来、広い海の面が旗でもなびくように、うねりが出て来て、そして又それが細かく、せわしなくなった。――風がマストに当ると不吉に鳴った。鋲(びょう)がゆるみでもするように、ギイギイと船の何処かが、しきりなしにきしんだ。宗谷海峡に入った時は、三千噸(トン)に近いこの船が、しゃっくりにでも取りつかれたように、ギク、シャクし出した。何か素晴しい力でグイと持ち上げられる。船が一瞬間宙に浮かぶ。――が、ぐウと元の位置に沈む。エレヴエターで下りる瞬間の、小便がもれそうになる、くすぐったい不快さをその度(たび)に感じた。雑夫は黄色になえて、船酔らしく眼だけとんがらせて、ゲエ、ゲエしていた。
波のしぶきで曇った円るい舷窓(げんそう)から、ひょいひょいと樺太(からふと)の、雪のある山並の堅い線が見えた。然(しか)しすぐそれはガラスの外へ、アルプスの氷山のようにモリモリとむくれ上ってくる波に隠されてしまう。寒々とした深い谷が出来る。それが見る見る近付いてくると、窓のところへドッと打ち当り、砕けて、ザアー……と泡立つ。そして、そのまま後へ、後へ、窓をすべって、パノラマのように流れてゆく。船は時々子供がするように、身体を揺った。棚からものが落ちる音や、ギ――イと何かたわむ音や、波に横ッ腹がドブ――ンと打ち当る音がした。――その間中、機関室からは機関の音が色々な器具を伝って、直接(じか)に少しの震動を伴ってドッ、ドッ、ドッ……と響いていた。時々波の背に乗ると、スクリュが空廻りをして、翼で水の表面をたたきつけた。
風は益々強くなってくるばかりだった。二本のマストは釣竿(つりざお)のようにたわんで、ビュウビュウ泣き出した。波は丸太棒の上でも一またぎする位の無雑作で、船の片側から他の側へ暴力団のようにあばれ込んできて、流れ出て行った。その瞬間、出口がザアーと滝になった。
見る見るもり上った山の、恐ろしく大きな斜面に玩具(おもちゃ)の船程に、ちょこんと横にのッかることがあった。と、船はのめったように、ドッ、ドッと、その谷底へ落ちこんでゆく。今にも、沈む! が、谷底にはすぐ別な波がむくむくと起ち上ってきて、ドシンと船の横腹と体当りをする。
オホツック海へ出ると、海の色がハッキリもっと灰色がかって来た。着物の上からゾクゾクと寒さが刺し込んできて、雑夫は皆唇をブシ色にして仕事をした。寒くなればなる程、塩のように乾いた、細かい雪がビュウ、ビュウ吹きつのってきた。それは硝子(ガラス)の細かいカケラのように甲板に這いつくばって働いている雑夫や漁夫の顔や手に突きささった。波が一波甲板を洗って行った後は、すぐ凍えて、デラデラに滑った。皆はデッキからデッキへロープを張り、それに各自がおしめのようにブラ下り、作業をしなければならなかった。――監督は鮭殺しの棍棒(こんぼう)をもって、大声で怒鳴り散らした。
同時に函館を出帆した他の蟹工船は、何時の間にか離れ離れになってしまっていた。それでも思いっ切りアルプスの絶頂に乗り上ったとき、溺死者が両手を振っているように、揺られに揺られている二本のマストだけが遠くに見えることがあった。煙草の煙ほどの煙が、波とすれずれに吹きちぎられて、飛んでいた。……波浪と叫喚のなかから、確かにその船が鳴らしているらしい汽笛が、間を置いてヒュウ、ヒュウと聞えた。が、次の瞬間、こっちがアプ、アプでもするように、谷底に転落して行った。
蟹工船には川崎船を八隻のせていた。船員も漁夫もそれを何千匹の鱶(ふか)のように、白い歯をむいてくる波にもぎ取られないように、縛りつけるために、自分等の命を「安々」と賭けなければならなかった。――「貴様等の一人、二人が何んだ。川崎一艘(ぱい)取られてみろ、たまったもんでないんだ」――監督は日本語でハッキリそういった。
カムサツカの海は、よくも来やがった、と待ちかまえていたように見えた。ガツ、ガツに飢えている獅子のように、えどなみかかってきた。船はまるで兎より、もっと弱々しかった。空一面の吹雪は、風の工合で、白い大きな旗がなびくように見えた。夜近くなってきた。しかし時化(しけ)は止みそうもなかった。
仕事が終ると、皆は「糞壺」の中へ順々に入り込んできた。手や足は大根のように冷えて、感覚なく身体についていた。皆は蚕のように、各々の棚の中に入ってしまうと、誰も一口も口をきくものがいなかった。ゴロリ横になって、鉄の支柱につかまった。船は、背に食いついている虻(あぶ)を追払う馬のように、身体をヤケに振っている。漁夫はあてのない視線を白ペンキが黄色に煤(すす)けた天井にやったり、殆(ほと)んど海の中に入りッ切りになっている青黒い円窓にやったり……中には、呆(ほお)けたようにキョトンと口を半開きにしているものもいた。誰も、何も考えていなかった。漠然とした不安な自覚が、皆を不機嫌にだまらせていた。
顔を仰向けにして、グイとウイスキーをラッパ飲みにしている。赤黄く濁った、にぶい電燈のなかでチラッと瓶(びん)の角が光ってみえた。――ガラ、ガラッと、ウイスキーの空瓶が二、三カ所に稲妻形に打ち当って、棚から通路に力一杯に投げ出された。皆は頭だけをその方に向けて、眼で瓶を追った。――隅の方で誰か怒った声を出した。時化にとぎれて、それが片言のように聞えた。
「日本を離れるんだど」円窓を肱(ひじ)で拭(ぬぐ)っている。
「糞壺」のストーヴはブスブス燻(くすぶ)ってばかりいた。鮭や鱒と間違われて、「冷蔵庫」へ投げ込まれたように、その中で「生きている」人間はガタガタ顫(ふる)えていた。ズックで覆(おお)ったハッチの上をザア、ザアと波が大股(おおまた)に乗り越して行った。それが、その度に太鼓の内部みたいな「糞壺」の鉄壁に、物凄(ものすご)い反響を起した。時々漁夫の寝ているすぐ横が、グイと男の強い肩でつかれたように、ドシンとくる。――今では、船は、断末魔の鯨が、荒狂う波濤(はとう)の間に身体をのたうっている、そのままだった。
「飯だ!」賄(まかない)がドアーから身体の上半分をつき出して、口で両手を囲んで叫んだ。「時化てるから汁なし」
「何んだって?」
「腐れ塩引!」顔をひっこめた。
思い、思い身体を起した。飯を食うことには、皆は囚人のような執念さを持っていた。ガツガツだった。
塩引の皿を安坐をかいた股の間に置いて、湯気をふきながら、バラバラした熱い飯を頬ばると、舌の上でせわしく、あちこちへやった。「初めて」熱いものを鼻先にもってきたために、水洟(みずばな)がしきりなしに下がって、ひょいと飯の中に落ちそうになった。
飯を食っていると、監督が入ってきた。
「いけホイドして、ガツガツまくらうな。仕事もろくに出来ない日に、飯ば鱈腹(たらふく)食われてたまるもんか」
ジロジロ棚の上下を見ながら、左肩だけを前の方へ揺(ゆす)って出て行った。
「一体あいつにあんなことを云う権利があるのか」――船酔と過労で、ゲッソリやせた学生上りが、ブツブツ云った。
「浅川ッたら蟹工の浅か、浅の蟹工かッてな」
「天皇陛下は雲の上にいるから、俺達にャどうでもいいんだけど、浅ってなれば、どっこいそうは行かないからな」
別な方から、
「ケチケチすんねえ、何んだ、飯の一杯、二杯! なぐってしまえ!」唇を尖(と)んがらした声だった。
「偉い偉い。そいつを浅の前で云えれば、なお偉い!」
皆は仕方なく、腹を立てたまま、笑ってしまった。
夜、余程過ぎてから、雨合羽を着た監督が、漁夫の寝ているところへ入ってきた。船の動揺を棚の枠につかまって支えながら、一々漁夫の間にカンテラを差しつけて歩いた。南瓜(かぼちゃ)のようにゴロゴロしている頭を、無遠慮にグイグイと向き直して、カンテラで照らしてみていた。フンづけられたって、目を覚ます筈がなかった。全部照し終ると、一寸立ち止まって舌打ちをした。――どうしようか、そんな風だった。が、すぐ次の賄部屋の方へ歩き出した。末広な、青ッぽいカンテラの光が揺れる度に、ゴミゴミした棚の一部や、脛(すね)の長い防水ゴム靴や、支柱に懸けてあるドザや袢天(はんてん)、それに行李(こうり)などの一部分がチラ、チラッと光って、消えた。――足元に光が顫(ふる)えながら一瞬間溜(た)まる、と今度は賄のドアーに幻燈のような円るい光の輪を写した。――次の朝になって、雑夫の一人が行衛(ゆくえ)不明になったことが知れた。
皆は前の日の「無茶な仕事」を思い、「あれじゃ、波に浚(さら)われたんだ」と思った。イヤな気持がした。然し漁夫達が未明から追い廻わされたので、そのことではお互に話すことが出来なかった。
「こったら冷(しゃ)ッこい水さ、誰が好き好んで飛び込むって! 隠れてやがるんだ。見付けたら、畜生、タタきのめしてやるから!」
監督は棍棒を玩具のようにグルグル廻しながら、船の中を探して歩いた。
時化は頂上を過ぎてはいた。それでも、船が行先きにもり上った波に突き入ると、「おもて」の甲板を、波は自分の敷居でもまたぐように何んの雑作もなく、乗り越してきた。一昼夜の闘争で、満身に痛手を負ったように、船は何処か跛(びっこ)な音をたてて進んでいた。薄い煙のような雲が、手が届きそうな上を、マストに打ち当りながら、急角度を切って吹きとんで行った。小寒い雨がまだ止んでいなかった。四囲にもりもりと波がムクレ上ってくると、海に射込む雨足がハッキリ見えた。それは原始林の中に迷いこんで、雨に会うのより、もっと不気味だった。
麻のロープが鉄管でも握るように、バリ、バリに凍えている。学生上りが、すべる足下に気を配りながら、それにつかまって、デッキを渡ってゆくと、タラップの段々を一つ置きに片足で跳躍して上ってきた給仕に会った。
「チョッと」給仕が風の当らない角に引張って行った。「面白いことがあるんだよ」と云って話してきかせた。
――今朝の二時頃だった。ボート・デッキの上まで波が躍り上って、間を置いて、バジャバジャ、ザアッとそれが滝のように流れていた。夜の闇の中で、波が歯をムキ出すのが、時々青白く光ってみえた。時化のために皆寝ずにいた。その時だった。
船長室に無電係が周章(あわ)ててかけ込んできた。
「船長、大変です。S・O・Sです!」
「S・O・S? ――何船だ?!」
「秩父丸です。本船と並んで進んでいたんです」
「ボロ船だ、それア!」――浅川が雨合羽(あまがっぱ)を着たまま、隅(すみ)の方の椅子に大きく股(また)を開いて、腰をかけていた。片方の靴の先だけを、小馬鹿にしたように、カタカタ動かしながら、笑った。「もっとも、どの船だって、ボロ船だがな」
「一刻と云えないようです」
「うん、それア大変だ」
船長は、舵機室に上るために、急いで、身仕度(みじたく)もせずにドアーを開けようとした。然し、まだ開けないうちだった。いきなり、浅川が船長の右肩をつかんだ。
「余計な寄道(よりみち)せって、誰が命令したんだ」
誰が命令した?「船長」ではないか。――が、突嗟(とっさ)のことで、船長は棒杭(ぼうぐい)より、もっとキョトンとした。然し、すぐ彼は自分の立場を取り戻した。
「船長としてだ」
「船長としてだア――ア?!」船長の前に立ちはだかった監督が、尻上りの侮辱した調子で抑(おさ)えつけた。「おい、一体これア誰の船だんだ。会社が傭船(チアタア)してるんだで、金を払って。ものを云えるのア会社代表の須田さんとこの俺だ。お前なんぞ、船長と云ってりゃ大きな顔してるが、糞場の紙位えの価値(ねうち)もねえんだど。分ってるか。――あんなものにかかわってみろ、一週間もフイになるんだ。冗談じゃない。一日でも遅れてみろ! それに秩父丸には勿体(もったい)ない程の保険がつけてあるんだ。ボロ船だ、沈んだら、かえって得するんだ」
給仕は「今」恐ろしい喧嘩が! と思った。それが、それだけで済む筈がない。だが(!)船長は咽喉(のど)へ綿でもつめられたように、立ちすくんでいるではないか。給仕はこんな場合の船長をかつて一度だって見たことがなかった。船長の云ったことが通らない? 馬鹿、そんな事が! だが、それが起っている。――給仕にはどうしても分らなかった。
「人情味なんか柄でもなく持ち出して、国と国との大相撲がとれるか!」唇を思いッ切りゆがめて唾をはいた。
無電室では受信機が時々小さい、青白い火花(スパアクル)を出して、しきりなしになっていた。とにかく経過を見るために、皆は無電室に行った。
「ね、こんなに打っているんです。――だんだん早くなりますね」
係は自分の肩越しに覗き込んでいる船長や監督に説明した。――皆は色々な器械のスウィッチやボタンの上を、係の指先があち、こち器用にすべるのを、それに縫いつけられたように眼で追いながら、思わず肩と顎根(あごね)に力をこめて、じいとしていた。
船の動揺の度に、腫物(はれもの)のように壁に取付けてある電燈が、明るくなったり暗くなったりした。横腹に思いッ切り打ち当る波の音や、絶えずならしている不吉な警笛が、風の工合で遠くなったり、すぐ頭の上に近くなったり、鉄の扉を隔てて聞えていた。
ジイ――、ジイ――イと、長く尾を引いて、スパアクルが散った。と、そこで、ピタリと音がとまってしまった。それが、その瞬間、皆の胸へドキリときた。係は周章(あわ)てて、スウィッチをひねったり、機械をせわしく動かしたりした。が、それッ切りだった。もう打って来ない。
係は身体をひねって、廻転椅子をぐるりとまわした。
「沈没です!……」
頭から受信器を外しながら、そして低い声で云った。「乗務員四百二十五人。最後なり。救助される見込なし。S・O・S、S・O・S、これが二、三度続いて、それで切れてしまいました」
それを聞くと、船長は頸とカラアの間に手をつッこんで、息苦しそうに頭をゆすって、頸をのばすようにした。無意味な視線で、落着きなく四囲(あたり)を見廻わしてから、ドアーの方へ身体を向けてしまった。そして、ネクタイの結び目あたりを抑えた。――その船長は見ていられなかった。
……………………
学生上りは、「ウム、そうか!」と云った。その話にひきつけられていた。――然し暗い気持がして、海に眼をそらした。海はまだ大うねりにうねり返っていた。水平線が見る間に足の下になるかと、思うと、二、三分もしないうちに、谷から狭(せ)ばめられた空を仰ぐように、下へ引きずりこまれていた。
「本当に沈没したかな」独言(ひとりごと)が出る。気になって仕方がなかった。――同じように、ボロ船に乗っている自分達のことが頭にくる。
――蟹工船はどれもボロ船だった。労働者が北オホツックの海で死ぬことなどは、丸ビルにいる重役には、どうでもいい事だった。資本主義がきまりきった所だけの利潤では行き詰まり、金利が下がって、金がダブついてくると、「文字通り」どんな事でもするし、どんな所へでも、死物狂いで血路を求め出してくる。そこへもってきて、船一艘でマンマと何拾万円が手に入る蟹工船、――彼等の夢中になるのは無理がない。
蟹工船は「工船」(工場船)であって、「航船」ではない。だから航海法は適用されなかった。二十年の間も繋(つな)ぎッ放しになって、沈没させることしかどうにもならないヨロヨロな「梅毒患者」のような船が、恥かしげもなく、上べだけの濃化粧(こいげしょう)をほどこされて、函館へ廻ってきた。日露戦争で、「名誉にも」ビッコにされ、魚のハラワタのように放って置かれた病院船や運送船が、幽霊よりも影のうすい姿を現わした。――少し蒸気を強くすると、パイプが破れて、吹いた。露国の監視船に追われて、スピードをかけると、(そんな時は何度もあった)船のどの部分もメリメリ鳴って、今にもその一つ、一つがバラバラに解(ほ)ぐれそうだった。中風患者のように身体をふるわした。
然し、それでも全くかまわない。何故(なぜ)なら、日本帝国のためどんなものでも立ち上るべき「秋(とき)」だったから。――それに、蟹工船は純然たる「工場」だった。然し工場法の適用もうけていない。それで、これ位都合のいい、勝手に出来るところはなかった。
利口な重役はこの仕事を「日本帝国のため」と結びつけてしまった。嘘のような金が、そしてゴッソリ重役の懐(ふところ)に入ってくる。彼は然しそれをモット確実なものにするために「代議士」に出馬することを、自動車をドライヴしながら考えている。――が、恐らく、それとカッキリ一分も違わない同じ時に、秩父丸の労働者が、何千哩(マイル)も離れた北の暗い海で、割れた硝子屑(ガラスくず)のように鋭い波と風に向って、死の戦いを戦っているのだ!
……学生上りは「糞壺」の方へ、タラップを下りながら、考えていた。
「他人事(ひとごと)ではないぞ」
「糞壺」の梯子(はしご)を下りると、すぐ突き当りに、誤字沢山で、
と、書いた紙が、糊代りに使った飯粒のボコボコを見せて、貼(は)らさってあった。
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