「小説三里塚」第二章 入植

戸村一作:著『小説三里塚』(目次へもどる

第13話 出稼ぎ暮らし

三里塚の畑仕事(70年代) 木の根に続いて、古込都落があった。この地方には駒井野とか古込とかという、字(あざ)がある。古老の物語では、その地名には由来があった。明治初年に始まる下総御料牧場以前から、牧場の外郭を囲んで大土手があった。それは徳川幕府時代の、野駒の放牧地を止める名残りの一つだった。野駒は大土手の中で野生に飼育され、自然繁殖して育った。そして年に一度、大名の乗る馬を選んで捕獲し、江戸に運んでいった。捕えた野駒を導き出す出口だけは、大土手が切れていて、そこは「木戸」といって、いつも番人が立っていた。
 これらの地名はそうした中から、自ずと名づけられたものらしい。だから古込の「込」は、馬を封じ込める意で、駒井野も駒が放し飼いにされていた関係で、そのように呼ばれたのであろう。

 その古込にも戦後、木の根と同じに入植者が入り、古込開拓部落が生まれた。部落には道路に沿って一八戸の家があった。その中ごろには「遠山細胞赤旗取扱所」と書いた立看板が、道端に立っていた。
 そこが石井幸助の家だった。

 石井も芝山町吹入の農家の三男で、戦争から帰ると、古込に入植した一人だった。彼の家には木の根、天浪から集まってくる数名の入植者がいた。当時入植者の暮らしは一様に苦しかった。その関係か共産党に対する、一部の者の魅カは大きかった。石井はせっせと、「赤旗」の読者を募って歩いた。その日曜版は無料で配った。だから義理でもとらねばと、思う者もいた。
 その後、石井は「赤旗」の購読者をこの地域だけで百名にしたとかで、「赤旗」から表彰されたことがあった。
 彼等の仲間は古込の石井幸助、鈴木栄、木の根の金城倶輝、中塚秋夫、加藤好雄らだった。彼等は野良仕事の合間をみては、よく石井幸助の家に集まった。

 古込の鈴木栄の妻は人形を造ってはよく三里塚の町へそれを抱えて売りにきた。古込から三里塚に出る道はひどい凸凹道で、おまけにニキロもあった。作った人形を背中にその道を、痩せた体を左右に振って自転車を漕ぐ彼女を、よく見かけたものだった。
 その頃、木の根の中塚らは遠山村役揚で肥料横流しがあったというので、それを曝いた模造紙三枚続きの壁新聞を、三里塚の十字路に貼り出した。中塚は少年の頃から自転車屋の丁稚奉公に出され、辛酸を嘗めたという関係か、この世の不正義に対して反発する面もみえた。

 一般開拓農民も彼等には一目おき、一種の期待をもって、その行動を見守っていた。相変わらず開拓農民の生活は苦しく、いつになったら浮かばれるかも知れず、その先は真暗だった。いかに苦しくとも、ここで人後に落ちるのは誰も耐えられなかった。石に噛りついても、何とか生き延びようとお互いに競い合っていた。誰でも自分で耕し、種を蒔いた土地には、限りない愛着を覚えるものだ。だが、開拓生活五年にして早くも、試練の時が来た。
 苦しい生活の中にも供出は、半ば強制的だ。――こんなに苦しいならいっそのこと諦めて、他に職を求めたらと思う者すら出てきた。農民の農業に対する絶望感の兆しだった。

 武治は何とか、打開策を考えねぱならぬと思った。自らのためにも、そうせざるをえなかった。特に開拓地には水田がなく、畑作一方に頼らねばならなかった。だが今までのように麦と落花生ばかりでは生計が立たず、野菜栽培、養鶏、養豚、酩農などによる多角経営の営農が、どうしても必要になってきた。入植者たちもこの危機を何とか乗り切るためにも、何らかの処置を考えねばならなかった。誰しも土地を切り売りしたり、出稼ぎにいくのは好まなかった。彼等は農協から借金して、家畜の飼育に設備投資した。
 だが、やってみると動物の飼育は管理が難しく、駈け出し者には容易な業ではなかった。まず、体の自由が奪われ、家族総ぐるみで働いても毎日忙しく、日曜日も祭日もなく、常時家を留守にできないという制約があった。家人から、不平が絶えず出てきて、一家の主人は悩まねばならなかった。
 せっかく、設備投資したものの、ついに中断してしまう者も現われてきた。

 七月のある朝のことだった。
 武治が例の朝仕事を、畑でしていた。農道を靴の音がするので、思わず頭を上げて見た。
 珍しく中塚秋夫が背広を着込み、鞄を下げてどこかへいくところだった。中塚はこの界隈でも人一倍精農家で、早くから乳牛を数頭飼育していた。畑作に乳牛だから、朝晩の搾乳もあり、夫婦で毎日忙しく働いていた。
 その中塚が小綺麗な背広に鞄を持って、朝早く出かけていくのである。武治は不思議に思って、声をかけてみた。

 中塚はちょっと立ち止まった。もじもじして、言葉にためらった。
「あのー千葉へ……」
「千葉へ……何しに……」
「内職……」
 中塚は武治の顔から眼を外らして、はにかんだ。
「ほう、いつから……」
「今日から……実は前から知っている千葉の板金屋で、是非頼むとお百度参りされちゃってよ。ついつい……」
「それでも中塚さんとこは乳牛やってるから後が大変だ……」
「それが昨日、いい値で買い手がついたから売っちゃったよ」
 あんなに熱心だった中塚が何故、急に牛を手放して出稼ぎに出たか、武治は解せないものがあった。彼も農協からの借金組とは聞いていたが……。

 武治は去っていく背広姿で坊主頭の中塚の後姿を、じーっと見送った。急に思い出したように鍬をとると、サッサッという土を切り返す音を後に、麦の畦間を向こうへ進んでいった。
 武治は畦を切りながら考えた。
 金城も中塚も「赤」かぶれして、口ではマルクスがどうのこうのと何かわかったようなことをいっているが、やはり彼等は農民として生きる土根性を持っていないのだ。それにしても、この俺はどうだろうか。武治は一抹の不安に襲われながらも、「開拓農民として強く……」と、自分にいい聞かせるのだった。

 すると、その翌日には岩沢と加藤が船橋競馬場の守衛になって、木の根から通い出したことを知らされた。野良仕事は妻がやり、女のできない仕事を彼等は休日を利用して一ぺんにすませるという芸当をやった。だが、こうした二股主義の農業は次第に畑が荒れ、収穫は半減していくばかりだった。
 古込では人形屋を妻に持つ鈴木栄が、突然畑を隣りの人手に売り渡して、千葉市に引越すことになった。鈴木夫婦は近くの農家から三輪トラックを頼み、家財道具を積み込み、子供を連れて、古込を引き払っていった。

 五年を契機として開拓部落に、変化がきた。畑を他人に切り売りしたり、入植から脱落していく者が現われてきたのだ。
 鈴木栄に続いて間もなく中塚秋夫が木の根から、そして金城倶輝が全面的に畑を売り払って、木の根を去っていった。
 武治は彼等に依頼され、金を工面して二人の土地を買ったので、急に三軒分、四町五反の農地を持つようになった。武治はこれから農業で自立するにはどうしても、土地を増やさねばと日頃考えていた。だから売手があったら無理してでも土地だけは買っておこうと心掛がけていた。実際百姓をやってみれば一町五反ぐらいではとても食っていけないことが、年とともに解ってきたからだった。

 これはひとり武治ばかりでなく、入植者の誰もの悩みだった。――といっても土地はそんなに簡単に増やせるものではなかった。
 だから武治は土地を手放す者があれぱ、借金してでも土地だけは持とうとした。農業を専業として生きようとする武治にとって土地は唯一の拠り所だった。

 そうした、武治にとっての一つの疑問は、遠山細胞という開拓者らだった。彼等は「赤」だといわれながら、進んで戦後、農民運動にかかわってきた。その彼等が、出稼きに出る。そして離農していく。開拓農民としてもっとも思想的に強固たるべき者が、金に眼が眩み、土地を後に脱落していく。

 武治も一人の入植者として、開拓生活がいかに苦しいものであるかを知っていたから、遠山細胞の鈴木や金城、中塚らをしてなぜそうさせたかという理由もいくらか解っていた。武治にも彼等と同じに悩みの種はあった。土地は増えたものの、その反面、農協や親戚に借金が残った。彼ばかりでない。開拓地の入植者の殆どが、どこかに借金を背負っていた。働けば働くほど残るものは借金の嵩みだった。
 誰だってこんな百姓をするならいっそのこと、土地を売り払って他に新しい職を求めようとする気の起きるのも、無理からぬことかもしれない、と思うと、同じ開拓者としての中塚らにも同情を覚えざるをえなかった。

 農民としての脱落を防ぐにはどうしたらいいか。そのため開拓農民として共同戦線を張る方法は、ないものだろうかと、武治は考えた。
 これは深刻な問題で他人事ではない――自分の問題だ。これを開拓者共通の死活問題として捉え、解決していかねば共倒れになるばかりだ。中塚らのように牛を売り払って出稼き農民には、何としてもなりたくなかった。あくまで百姓として土に活き、木の根の土に帰るのだという情熱の火を、新しく燃やし続けるのだった。武治は説子にもそれを伝えた。

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