[闘う人々は手をつなごう!]
前エントリーへのコメントを拝読いたしました。失礼な言い方を許してほしいのですが、正直申し上げて「脱力」してしまいましたので、少し予定を変更して書きます。「植民地」云々については、アッテンボローさんのサイトにdkさんが解説抜きで思い出を書いておられますので、そちらから推察してください。あと、ご迷惑なようで恐縮しておりますので(皮肉ではない。本心)、もうレスはいただかなくて結構ですよ。私も当面、この問題については、これを最後にしたいと思います。また機会があれば是非とも友好的に議論しましょう。
●「脱力」派になってしまいました(苦笑)
>実例と言うより、こんな事よくある話ではないでしょうか。
この部分に一番脱力しました。「よくある」のは中核にいたからでしょ?普通は「よく」ありませんよ。通常の感覚では、話しかけただけで監禁して数時間も殴られて「詫び状」を書かされたと言えば「相手はヤクザ?」としか思われません。私は元活動家だから、元反戦高協さんのこの書き方も、ぎりぎり容認できます。しかし、たとえば「杉並親の会」周辺の一般市民が元反戦高協さんの書き込みを読んだらどう思うか、そんなことも考えたことがおありですか?
確かに私も「この程度のことはよくありました」みたいに書いたのも悪いです。でもそれは「これはとりわけ酷い例ではないんだよ、本当はもっとすごいんだけれども、あえて遠慮するね」という事を言外に含ませたものであって、すなわち「これほどのことでさえ」という意味です。元反戦高協さんの「これくらいのこと」とは意味がまったく逆です。
[Sponsor Ads]
誤解しないでほしいのは、「お前ら反革命だから、手足の骨を砕いたり、片足切断くらいで許してやったのをありがたく思え」だったら、まだ討論のしようがあるくらいなんですよ。中核の恐怖支配など「なかった」の次は「えっ?これくらいよくある話でしょ?」では、討論のしようもありません。感覚が違いすぎます。だから「脱力」。
とりあえずは先のエントリーにおける私のコメントもあわせて見てください。アッテンボローさんのサイトにも書いたことですが、殴ったほうは「これくらいのこと」と思って忘れていても、一方的に無抵抗で殴られた方は一生でも忘れない心の傷になっているものなのですよ。DVと同じです。人間、どんな世界でも、やっちまったことは簡単に取り返しがつかないんです。
●革命観・暴力観に対する違和感
>政治党派に限らず人の特定集団は外部に対して攻撃的であり、防衛的であるし、同じ作用は集団内部にも作用します
>左翼の場合、理性とかが作用し、理不尽な、あるいは反人権な暴力の行使に批判する手前、自らをあえてそのような暴力の行使を積極的に言わない。積極的に言う場合それは必ず政治的位置付けがなされていると言うことでしょう。
どうも中核派の発想は、いつでも「中核派という共同体(特定集団)」が周辺に影響力を拡大していく中で、他の共同体(とその価値観)と衝突し、これを撃破してさらに拡大していく的な発想で、その延長線上に「革命」を考えているように思えるのですよ。しかしそれでは中核派の革命というのは、要するに「中核が天下をとる」ってだけの矮小なイメージしかわきません。
私が中核派の物言いの中で、一番違和感を感じたのは、「最大の党派闘争は自民党との党派闘争だ!」というアジでした。そりゃ違うだろうと。自民党との戦いは、「党派闘争」ではなくて、「階級闘争」だろうと。闘うのは中核派ではなくて、中核派をその一部とする労働者階級人民だろうと。
だいたいが「プロレタリア革命」というのは、人類史全体の壮大な事業(世界プロジェクト)の一環であり、そのほんの始まり、序章にしかすぎないわけですよね。誰がそれを行うかと言えば、勤労者大衆、つまり人民なわけで、「前衛党」はそのための機関にすぎないわけじゃないですか。われわれは元反戦高協さんも私も含めて、「権力をとる」ために闘ったんじゃなくて、「権力を廃絶する」ために戦っていたわけでしょ?私達は無政府主義ではなくて共産主義だったから、その過程でいったん人民の側の権力を樹立するにしても、権力奪取ではなく「徹底的に人民に奉仕するためだけに存在している」革命党の高度な道徳性は、革命の萌芽を含むあらゆる段階で貫徹されていなくてはならないはずです。
党派闘争とはすなわち、誰がこの人民の事業の先頭に立って牽引するかを大衆的実践の中で競うというのがその本質であり、判定者は闘う人民だけです。ブルジョア権力政党とプロレタリア革命政党との抗争は、党派闘争ではなくて人民と権力との階級闘争がその本質なんです。日本を代表する革命政党である中核派が、「人の特定集団は外部に対して攻撃的であるが、ただ左翼の場合は反人権な暴力の行使を批判している手前、あえてそのような暴力の行使を積極的に言わないだけだ」なんて”ヤクザの縄張り争い”みたいな認識では困るんですよ。それでは中核派という「特定集団」の「外部」にいる私達個人や他団体は、安心して中核派と行動を共にできないじゃないですか!
こういう「革命運動という人民の事業における暴力行使」の問題を、「特定集団が外部に勢力を拡大していく過程における暴力行使」におきかえて理解しまう発想は、元反戦高協さんのコメントのあらゆる場所に散りばめられています。
曰く「このような問題の多くは”程度の問題”といっても差し支えない」「程度の問題とは、基本的に集団関係の矛盾が暴力的形態となるもの、政治の延長であると思うからです」「敵対党派との関係を位置付けた時、敵対の度合いにおいて対応が異なるのもその時の政治情勢であり、そこにおける政治的判断でしょう」など。
●対権力闘争と内部ゲバルトの関係
>左翼の場合一般的に言って政治の問題とは、それを対国家権力との関係を基礎にしておくべき課題でしょう。
>例えば二重対峙という戦略設定も、第一が国家権力との関係だと言うことです。
中核派の人々にとって、「対カクマル戦争」を否定されるのは、私達にとって「安保-日韓闘争」を否定されるに等しいということは承知しております。それくらいの中心課題で、しかも苦しい闘いだったわけですよね。ただ、最近の元中核派の方の各種書き込みなどを読んでいますと、その「中心課題」は私達が想像していたのと違って、革命軍にまかせきりであり、一般活動家がいつもカクマル戦のことを考えていたわけでもないそうですね。そのへんが外部に発表されていた印象と違うところです。
さて、この場合、カクマル戦争を、対国家権力闘争との関係で考えれば、カクマルの襲撃から対権力闘争を守る「防衛戦」ということになると思います。しかし私の記憶では、中核派は対カクマル戦争を、対権力闘争そのものとしていたように思います。それが先制的内戦戦略の肝だと理解しておりましたが?まあ、ここは以下に、以前に書いた文章を再録して終わりにしておきます。
戦旗派は二次ブント分裂の過程における、激烈な内ゲバを勝ち抜きながら形成されてきた党派です。ですから内ゲバは「現実問題として新左翼への失望と闘う部分への混乱をもたらすもの」として否定しながらも「あらゆる場面で『絶対に』してはいけないこと」だとはしていませんでした。私も西田派との内ゲバの可能性については18歳で結集した当時から、常に意識だけはしていました。
結集当時の私が理解していた戦旗の内ゲバ論は「組織や運動を防衛する」ものであり、それは「党のための闘い」でした。だから受動的・限定的で、かつ、一見こちらからしかけるように見えても、その本質においては防衛的なものでなくてはならないということでした。また、「党のための闘い」なのですから、戦旗・共産同運動の綱領的内容を支持しているわけでもない一般の人々に訴えたり理解や支持を求めたり、ましてや巻き込むような筋合いのものではありません。
それは完全に党のコントロール下で、かつ政治目的達成に必要な最低限の範囲内で厳密に行使され、一旦行使した後は早急に収拾・終結をはかるべきであり、いくら自分が有利であり、相手を壊滅させることが容易な場合でも、防衛という最低限の政治目的を超えてそれ以上拡大させてはならないというのがその内容だったと思います。中核派の「カクマル戦争」に対する運動論的な批判もこの観点からなされていました。つまり、革命運動そのものに敵対する革マル派から、組織と運動を防衛する「党のための闘い」にすぎないものが、あたかも革マル派との内ゲバそのものが革命闘争であるかのように路線化されていると。
要するに中核派にとって「党のための闘い」である「カクマル戦争」をもって「党としての闘い」におきかえていく、そのことによって「カクマルを何人殲滅したか」ということがまるで革命の前進であるかのように言いなされ、無限に内ゲバを拡大していく以外になくなる。そのことが問題である。と、していたはずです。また、中核派は「カクマル」がファシストであり「外ゲバ」であると主張していたわけですが、もしそうだとした場合でも、ファシズム自体は資本主義社会において物質的基盤を持っており、常にファシズム思想は再生産されてくる。だからその現れにすぎない一つ一つの組織を壊滅させていくことは広い視点から見れば無意味である。よってあくまでも帝国主義本体との闘いの過程における2次的、補完的な防衛戦と位置付けるべきであるということだったと思います。
●さて・・・どうするか?
>このような議論は意味がない、と言うより建設的ではないと言うことは草加さんご自身はよく認識されておられるはずだと思います。
いいでしょう。では観念的な話ではなく、私のような経歴の個人は具体的にどうすればよいのか、いずれどこかであきらかにされるのを待つとしましょうか?
>もしも草加さんが言われる、左翼大連合構想もこの国家権力との関係で考えるべきであると思います。
別に私は「左翼大連合構想」など提唱していません。帰る巣のないただの個人ですし、そこまで自惚れてはいませんよ。ただ、闘う意思のある人なら誰でも「余計なこと」を一切考えずに飛び込んでいける枠を、個人としてあらゆる党派の方々にも要望しているだけです。私にとってはそれこそが「前衛党の責任」であり、当たり前すぎる要望なんですがね。それがそんなにすったもんだと議論しないといけないことなんでしょうか?
ちょっとむなしくなりつつあります。。。。
—————
※本エントリーの一部に不適切な表現があったために、該当箇所を削除いたしました。そのため、削除前に投稿されたコメントが、一部何のことかわからなくなっています。皆様には深くお詫び申し上げます。なお、削除した文章の全文と事実説明をこちらに残してあります。
●関連リンク
◇党のあり方って何だろう?(アッテンボロー)
◇全三里塚勢力の対話と団結を求めます(旗旗)
◇元反戦高協さんへのレス(1(旗旗)
◇年中行事、あるいはアホのひとつ覚え(despera)
◇「共同声明全記録あとがき」(鹿島拾市)
◇小林さんの文章を手掛かりに- 戦旗派体験総括への道(1)
◇「規約」の思い出(三里塚など)
◇蔵田さんの回答書への読書感想文
◇つうかあんたらまだコミュニストなの?
—
レスしなくても良い、と言われるのですが少しだけ…
組織に帰属している人は、どうしても視野が組織中心となり(それではいけない、もっと広い視野が…と思っても)、逆に組織が消滅したりそれから抜けた人は、組織の人間の視野の狭さを指摘する、ということはいたしかない事だと思います。
前衛党を自認する集団とは言え、これも組織原則というものがあり、組織的視点とならざるを得ないのです。これが運動論(党派闘争論、共同戦線論など)、組織論などの具体的な党のあり方においても貫徹される、ということはそれ自体否定できないものと考えます。
また日向派がせっかくの中核派の共同戦線の申し込みがあったとして(ネタ元は草加さんの書込みです)、それが中核派ではかったるい、四トロでは楽だ(と言うように私には理解できるのです)ということで、脱落派に加担したとは情けないと言う感じです。でもありそうな話ですね…
しかし、この場合の問題は極めて重要な問題であり、少なくとも国家権力による二期攻撃、その中軸である反対同盟切り崩しに対して支援と言う立場とは言え、いかなる態度をとるのか、ということが選択の課題であると思います。
また、西田派を中核派の別働隊みたいな評価もいかがでしょうか。西田派なりの日向派に批判があり、それと同時に二期攻撃に対する西田派の政治的立場というものがあるのでしょう。
ほかにも異論がありますが、あまり生産的だと私も思いません。ここらでこの問題を語るのはやめにします。。
>西田派なりの日向派に批判があり、それと同時に二期攻撃に対する西田派の政治的立場というものがあるのでしょう。
それはその通りですね。少なくとも、西田派の方が読んだら非常に不快になると思いますし、よしんば批判するにしても、こういう書き方はよくないですね。
まあ、「インターのほうが楽だからくっついてたんだろう」という言い方も、私から見たら同レベルなんですけど(苦笑)。しかし「せっかくの中核派の共同戦線の申し込み」とは凄い言い方ですね。中核派は良くも悪くも政治のプロです。そんな好意に満ちた申し出ではありません(そのことを非難するのではありません。むしろ中核政治のしたたかさには学ぶべきとさえ思ってましたから)。私らはただ子分になるのが嫌だっただけなんですよ。
それはともかく、西田派の方々には謝罪申し上げます。問題の記述はエントリー本文からは削除の上、経過を管理者日記のほうに残しておきます。