by ときわ列車
こんばんは。3回目の投稿、ときわ列車です。
今回の私論を書くにあたり、まずは今月17日のmixiでの「つぶやき」を時系列順に転載します。
①テレビ東京で以前動画で見た「教育勅語を唱和させる幼稚園」が出てきてます。この幼稚園、「密告制度」まであるとか…恐ろしい((((;゜Д゜)))
②そういう幼稚園に通わせる親曰く「厳しくやってくれる」とか…厳しくやって【くれる】ならイデオロギー教育があっても良いんですかと言いたいです。
③さらにさらにその幼稚園は先生に海上自衛隊の体験入隊をさせるとか…もうゴリゴリの「タカ派幼稚園」ですな…
④そりゃ最低限の「しつけ」は必要でしょうが、どうもその「しつけ」の概念自体が左派攻撃と右派イデオロギーの肯定に利用されてる気がします…
これらのつぶやきは、大阪府の私立幼稚園「塚本幼稚園」がテレビで紹介された時の自分の実況です(念の為幼稚園の動画も載せます…https://youtu.be/oDfveoy1ixo)。
さて、最近滋賀県大津市でのいじめ自殺発覚を皮切りに次々にいじめにまつわる「事件」が取り上げられています。こういう事件が起こる度に「人として当たり前のことを教えなければならない」ということがまことしやかに言われています。たしかにそれは必要です。ところが、「人として当たり前」という言葉を楯に取り、「道徳教育を復活させなければならない」という論理を展開する保守系の人が出てきます。ここで言う「道徳教育」というのは愛国心(=「国家体制」を愛すること)とセットになったものであり、さらにそれは「日教組悪玉論」や「戦後政治左翼支配論」ともセットで持ち出し、とどのつまり「左翼的な価値観こそ『人として大切なこと』を教えなくした」という結論に持って行こうとするものです。
はっきり言ってこれは論理の飛躍も甚だしいもので、いったいいつ左翼が「人として大切なこと」を壊したと言うのでしょうか?非正規雇用化やリストラを進める大企業、消費税や所得税は増税するのに法人税にはそれをせず、ただただ大企業に有利な政治をする国家こそ「人として大切なこと」を置き去りにしてきたのではないのでしょうか?原発事故もまさにそんな社会のあり方が起こしたと言えるはずです。
つぶやきの転載でも言っていますが、「しつけ」の概念自体が左派攻撃と右派イデオロギーの肯定に利用されてるのは非常に危険だと思います。そしてもっと危険なのは、今の子どもたちの親にあたる人がそうした「しつけ」や「人として大切なこと」が「国家道徳」と混同されていることに対して危機感も何も抱いていない人が見受けられることです。
そればかりか、親が「しつけ」や「人として大切なこと」を自分では教えようとせず、それを幼稚園や学校に「丸投げ」しようとする姿勢まであるように思います。親の側が「幼稚園や学校が間違ったことを教えるはずがない」という「無責任体質」になっているという見方もできてしまうのではないかと思います。
ですが、「国家」道徳というものは多分に排外主義を含んでいるものです。例えば教育勅語には「国難に際しては国と天皇のため力を尽くそう、それが国運を永らえる途」という内容のものがあります。「国難」が起こったらひたすら国家とその「頂点」に立つ天皇に自らの力を捧げようとするその姿勢は「人の命」よりも「国家体制」を優先させるものであり、そこにおいて真っ先に「非国民」の命は顧みられなくなるでしょう。
結局のところ、日本社会における「いじめ」とは、僕は「排外主義が子どもたちの間で矮小化された形で出てきたもの」ではないかと思うのです。「みんなとは違うところがある人」や「浮いているように見える人」に対して、「寄り添う」のではなく集団で拒絶したり時に暴力(直接・間接を問わず)を振るい、そして周囲は見て見ぬふりで実質的にそのいじめを「容認」する…「子ども社会」でこういうことがなかなかなくならないのは大人社会で差別・排外主義が蔓延していることの何よりの証左なのです。
いじめをなくしたいなら、大人社会の中にある差別や排外主義の問題にきちんと向き合った上で、「人として大切なこと」や「道徳」を「国家」から切り離さなければなりません。もちろん、全てのいじめがすぐには無くなるとは思えませんが、少なくとも大人が排外主義から脱却しようとしなければ、いじめを減らすことができないのは確かだと思います。
さてこれは余談ですが…
自分自身、落ち着きがなかったり、いとも簡単に「一人だけ反対意見を言う」ということをしてきた人間なので小・中学校の時は真っ先にいじめの槍玉に挙げられました。
幸い、気軽に相談できる先生もいましたし、また先生の側も自分の話を聞き入れていました。ただ、これは僕自身の問題ですが、「先生に相談しただけで解決した気になっていた」ことや「先生に言えば先生が『懲らしめて』くれる」という形で「依存」してはいました。場合によってはいじめに遭ってもいないうちに1度でも殴られたりしたことがある相手に対して「死んだふり」までする始末でした。
今思えば、自分自身いじめとは向き合っていなかったと思います。そればかりか単に「復讐したい」とまで思っていましたし、今もその「復讐心」が残っています。自分も「排外主義」や「権威に寄り掛かって生きようとする」姿勢から自由ではないのでしょう…
そんな自分の「過去」と向き合う意味でも、排外主義とたたかい、今起こっている「いじめ」に向き合いたいと思います。
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