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三、第四インターの右翼日和見主義と三里塚二期決戦からの逃亡
ところで今一度とらえかえしておくならば、3・27三里塚闘争を組織化する過程において思いもよらぬ中核派との党派闘争に直面し、それへの対処に苦慮せねばならなかった3~5月の闘争過程でのわれわれの混乱は、そもそもわれわれが三里塚闘争方針としては、
(1)反対同盟の分裂固定化は否定的なものとみなし、再統合の実現に向け尽力する。
(2)三里塚闘争の死滅につながる内ゲバ事態の三里塚闘争への持ち込みはなさず、その回避をはかる。
(3)反対同盟農民の主体性を無視し党利党略のみで三里塚闘争にかかわる傾向を強める中核派に与しないが、同時に反中核運動に空港反対運動の内実を切り縮めるような一切の傾向にも反対し、独自の立場をとる。
(4)一坪共有化運動の推進は反対同盟の方針に従う必然性において闘わんとするものであり、党派として一坪共有化運動に拘泥する理由は歴史的にいっても存在しない(昨10・11まではそもそもわれわれがこの問題をめぐりインター方針と連帯する会内部でぶつかっていた)。
(5)党派利害の反対同盟への押しつけ、反対同盟員のそぎおとしは農民同士の離反をつよめ団結を弱めるので批判する立場にたち、あくまでも反対同盟の主体性にもとづき闘い抜く方向を堅持する。
などといった内的確認をなす位置にあったにもかかわらず、こうしたわれわれの意図とはウラハラに「分裂の主謀者」、「一坪共有化運動の権化」として中核派に批判され、「打倒の対象」とされることから生じた組織的戸惑いを内的根拠としたものである。
これは結局は2・22声明から3・5声明提起に至る過程での、三里塚現地におけるわれわれの対処が独自の政治的立場の貫徹としてはなされず、中途半端に現場の自然発生性に拝跪する傾向におち入ったため生じた問題なのであるが、このような事態の生起は、われわれの政治的観点や路線的方向を対象との関連で具体化し、物質化する構造的な力の切り拓き、つまり本質的な意味での「政治の主体化」が組織的になされない限り、今後ともおこりうることといわねばならない (例えば思いもよらなかった七九年間題という形で過去においても同様の政治的混乱が生まれている)。
が、ともあれ、この結果われわれが一時期三里塚闘争から後退せねぱならなかったことによって、その政治的空白に乗じる形で、反対同盟(熱田一代表)の内部では青年行動隊がヘゲモニーを形成し、又第四インターとプロ青が党派的にそれを尻押しする構造ができあがってしまったのである。
つまりわれわれは3・27闘争時に同盟に対し有していたヘゲモニー性からさえも後退する位置に現在たち、しかも闘争の方向が例えば5・20関東ブロック集会に見られるように、二期決戦も、8・8パイプライン供用開始粉砕も問題としないエコロジー運動丸出しの脱政治、脱党派を基軸とするに及んでは「空港廃港、農地死守、二期着工攻撃粉砕」の基本路線さえもがあいまいなものになりつつあるのではと憂慮しないわけにはいかない。
もちろん熱田氏や小川源さんなどの親同盟は、昔とかわらぬ気持ちで闘っているわけだが、実際の闘争ヘゲモニーが青行隊に移行している以上、このままでは二期工事の来年度着工の切迫性に対しても全反対同盟をあげては闘い抜けないのではという危倶さえが生じてしまうのである。
その場合問題となることは、もとより革命党派に結集しているわけではないそれ自体戦略的総路線を内包しない青行の「変質」にあるわけではない。そうではなくてインター、プロ青が無批判にその傾向にのっかり、反中核の一点だけで結束を強めようとし、三里塚闘争全体の戦略的方向性を全く無定形なものに置き換えんとしつづけていること、そのデタラメ性と非マルクス主義こそが批判されねばならないのである。
この間の経緯から言えば、とくに78年3・26管制塔占拠闘争や5・20開港阻止決戦を「連帯する会」主力党派として担った第四インターの政治的後退は著しいものであり、例えば『第四インターナショナル』No.45影山論文などでは、その傾向が「新しい三里塚闘争理論」にまで高めあげられようとしているのである。ゆえにわれわれはここにおいてこの彰山論文に代表される第四インターの三.二六総括や闘争の方向提起に対し明確な批判を加え、われわれと彼等の路線上の対立の根拠を明らかにしておく必要がある。そこではわれわれと彼等のくい違いが、全く本質的な路線対立にねざすものであることは、ただちに判明するのである。
1982年10月発行の『第四インターナショナル』45号所収、「三里塚空港廃港への戦略のために」、影山進二論文は、労農合宿所派遣のDの執筆によるといわれているが、その最も特色とするところは、第四インター的ものの考え方=戦術左翼主義が骨格的に浮かび上がっていることにある。
つまりインターの本音で書かれた三里塚闘争論として、戦術左翼の思考で書かれた労働組合主義、右翼経済主義をそれは全面露呈させているのである。
たとえばその出だしからがそうである。「戦後労働運動を支えた本隊は大局的に常に三里塚闘争の外にいた」「総評労働運動と三里塚闘争は互いに多少触れるところはあっても、ついに今まで合流することはなかった」「三里塚闘争の勝利はこの本隊をたぐりよせる闘いである」。
結局これが影山論文の言いたいことのすべてなのかもしれないが、社共の闘争放棄と権力への屈服(=条件闘争化)に対し、三里塚農民がこれを拒絶し、非妥協長期の実力闘争として農地奪還の闘いに突入した闘いの契機そのものが、この影山論文では全く無視黙殺され、労働組合主義的にゆがめられ、総評労働運動をたぐりよせる闘いに勝利の展望が置換されることから、すべてが出発するのである。
3・26の総括もこの位置からなされるのであり、それは「戦術的突出」でしかなかったとされる3・26の意義の「否定」を別の戦術の展開において置換せんとするものでしかない。
すなわち「3・26は60年代後半から展開された新左翼の戦術急進主義運動の極致であり、それを最も批判したわれわれがそれを最大限のところで体現したところにおいて新左翼の歴史的使命を終えた」「偉大な3・26の戦術的勝利は3・26以降、ただちにその戦略的弱さを内包していたことを鮮明にした」「3・26はさきにも記したように、その進撃は権力、政府に対して『突入』の域を出てなかったところにおいて、全国的には労農人民の記憶の中に霧散され、吸収されてしまった」というのである。
これが「偉大な3・26」を主力として担った党派の現在的な3・26に対するうけとめの言葉であるのかと思うと、全くあんぐりしてしまうのであるが、3・26へのこうした評価から影山論文が言わんとすることは、「3・26を越えて権力総体に立ち向かう革命への準備をとり急がねぱならない」「二期阻止・廃港闘争は戦闘部隊の準備では代替のきかない戦略上の問題である」「公団を包囲.占拠するにとどまらず権力総体を包囲・占拠する組織建設と大衆運動方針があわせて必要」ということである。
つまり、二期決戦だ、二期着工阻止だと騒がず、権力総体を包囲・占拠することをもっと大局的に考えよ、組織建設を急げ、戦術的突出でない運動方針を提起せよ、と主張しているわけである。そこでは現在の三里塚闘争に対する認識として「その後の話し合い攻撃の懐柔の中で、反対同盟の中に条件派的『長いものにはまかれろ』という空港との共存の思考がはびこりつつある」といったことが全く没主体的に語られ、それを下敷とすることによって「二期阻止」と「廃港のための闘い」はちがうのだということが強調される。
つまり、「三里塚闘争は視覚的には、困難な廃港への戦略を後方におしやって目にみえる二期阻止の闘いに全体が傾注している。だがわれわれはこの困難を3・26以降今一度『完全勝利』即ち廃港のための闘いを開始するところにきたといえる」という具合に。
ここから影山論文は二期阻止への突出ではなく廃港のための闘いだ、要するに「権力の包囲という戦略」だなる内容を開陳するのであるが、それは実際は二期決戦から逃亡するための方便でしかないものである。
そこではまず「政府・公団に奪われていった大地を北総農民の死活をかけた共有すべき社会建設の財産として逆に反対同盟が奪還していくことは二期阻止を攻勢的にかまえ、しかける闘いだ」と、廃港のための闘いとして大地共有運動がかかげられる。そして「ここに全国的に広がっている反戦・反核・反安保の巨万の大衆のエネルギーを補給しながら村の再建-平和村を実力で建設してゆかねばならない」「反対同盟は公団の土地を箏い返し、減反に苦しむ農民の先頭に立って、飢えた第三世界の人々に米を送り、争議中の労働者を真底支え、連帯していくセンターにならねぱならない」「そして周辺住民を空港の騒音と開発公審に落とし込む『県民のまきば』や『芝山文化博』『工業団地』などの『共存』の幻想を打ち破り『三里塚農民の支配と自治』で行政までを管理する闘いに踏みこまねばならない」と全くアプリオリに、あたかも権力との攻防ぬきにそれが可能であるかのような社会革命主義の夢が打ち出されているのである。
しかも影山論文の本題であったはずの労働者階級獲得のためには何をやるのかについては「職場の中に一労働者の中に、地域にそして世界に、三里塚の旗を掲げて反戦と、労戦の右翼再編反対と三里塚闘争支援の決議をあげて闘い抜くことは、今や歴史の連続性をかちとる闘いである」なるまことにお粗末な結論がセットされるだけなのである。
結局は、職場で「三里塚支援の決議をあげる」ことが、二期阻止ではない「廃港のための戦略」であり「権力の包囲」だというのである。なんとインチキな三里塚闘争論であり、逃亡の論理であることか。
われわれが見るべきことは、このような影山論文的発想が現在の第四インターの三里塚闘争論を全面的に支配しているということ、ゆえに二期決戦など結局とうの昔にインターは放棄しているのだという事実である。このような論拠を下支えにしつつ青行などがエコロジー的変質をとげている以上、第四インターの闘争路線にわれわれが与することは絶対にできないのであり、原則的な批判を繰り広げることはもはやわれわれの使命でさえあるのだ。
それではこの影山論文的発想の誤りは何か。
それは第一に総じて関西ブントの「政治過程論」と同様の、闘争戦術の駆使による階級形成、労働者の獲得、組織化論に本質的なところで第四インターが落ち入っており、組織戦術上の問題となることや党建設のための闘いがすべてそれに代行されようとすることから、矮小な3・26否定が導き出されることである。
言い換えれば影山論文は右翼戦術左翼主義の観点において急進左翼主義を批判するという自己矛盾で成立しているのである。もっとわかりやすく言えぱ、政治過程論が「大衆運動の続行は当然その闘争を漸次的に深化させる。しかしながらそれのみによっては闘争の質的発展はありえない。この量から質への転化即ち『飛躍』をもたらしうるもの、これこそが我々のいう戦術である」といい、「改良闘争を戦術によってより政治的に、つまり対権力の直接的対決へ向かって発展させ、その過程で革命の条件を準備し、全体として大戦術へと発展せんがためである」という具合に、闘争戦術のエスカレートによって権力闘争にまで闘いを発展させようとする、戦術の左傾化をもってする権力との対決論であるのに対し、その裏返しとしての「突出」ではない右傾化、住民闘争へのレベルダウンをもっての権力との対決論であり、発想の根源は戦術左翼主義として同等なのだということである。
少しは冷静に考えてみようではないか。
3・26が空港に対する戦術的突出でしかなく、又あの時管制塔を破壊したからといってそれが政府危機-政治危機-革命情勢に至るような条件になかったということは、まずもって自明のことである。ましてや管制塔占拠をやったがそれによっては総評労働者を直接組織できなかったとか、市民社会深部でのヘゲモニーの獲得には至らず、空港を解体しきれなかったなどというのも、それ自体あたりまえのことである。
だが影山論文はこの組繊活動の日常的遂行をつうじ長期にわたって積み重ねられていく組織建設上の問題、その前進を媒介にしての組織力量の発展、伸張の問題、そして労働者階級の組織化の進展など、ひとえに組織建設上の問題として独自の位相において措定されるべきことを、管制塔占拠の一事をもって一気になし遂げられるべき大衆運動的課題であったかのように設問し、それがはたせなかったことの否定として、今度は戦術的突出の意義そのものも否定するという度しがたい誤りにおち入っているのである。そこから突撃ではないもっと住民運動的な戦術”大衆運動方針が必要だといっているにすぎないのであり、それが権力との対決の「戦略」にまでまつりあげられているだけなのだ。
われわれは74年戸村選以来のインターとのかかわりにおいて、とくに三里塚闘争方針というにとどまらず、何故インターがああも次から次へといろんな闘争戦術を考えつき、その実現を要求してくるのか全く不思議であったのだが、こうした影山論文の発想を基軸的なものとして考えるならば、それがまさに第四インター的発想の基軸でもあることがわかるともいえる。第四インターはレーニン主義党建設の意志統一を骨格として持たない連合党であり、関西ブント的な戦術左翼(しかも右派の)集団でしか本質的にいってないのである。
要するに労働組合内での民同的存在を根っ子としつつ、その発展を戦術イメージのアップ、ダウンによってはかろうとするだけの集団であり、ゆえに結集軸となっているものはただの市民主義左派の心情でしかないのだ。
だから戦術的突出ではない戦略の構築だという場合でも、その戦略は日帝権力の攻撃の激化に抗し、階級情勢そのものを革命的激動に向かって高めあげていく戦略的領導の方向性として措定されるわけではなく、労働者階級をより多くつかみとるための戦術的イメージのダウンとしてそれは語られなおすだけのことである。
つまりは労働者階級なり農民存在にとってのもっとも身近な問題をとりあげ、ゆるくつかみ込んでいくというように戦術的ダウンをなすことが、戦略の構築あるいはその実現とされるわけである。
このような影山論文なりインターの発想に最も欠落しているのは、多量の共産主義者の産出、労働者階級・農民の主体形成、階級形成の観点=革命運動の内延的発展の追求であり、レーニン主義的な目的意識性をもっての組織化、革命的前衛への発展を如何にかちとるのかの組織的観点がないのである。
組織建設の内的発展を独自に措定せずそれを戦術イメージに横スベリさせることが、質をとわない量としての獲得のみを志向させ、同時に内的コンフリクトをともなわない組織建設の空洞化を不断にまねかしめるということなのだ。
しかも情勢の推移に対しこれを受けとめ、情勢そのものの戦略的切り拓きをめざす発想も欠落させたまま、党としての闘いを即党のための闘いに等置しようとするのであるから両者は混在化され、闘ってものびないから闘わないという結論が出てこざるをえないのである。これでは革命党建設の内延的発展、共産主義的主体への形成をかちとることもできなければ、階級闘争の戦略的領導もできないこと、うけあいである。影山論文の内実とするものはこれだけですべてである。
第二にこれをもう少し内容的に整理するならば、そもそも革命運動への主体的かかわりと戦略的領導においては、二つの要素の獲得が排定されるのである。すなわち一方における党としての闘いにもとづく情勢そのものの戦略的切り拓き、権力の攻撃を打ち破り侵略反革命を阻止し、蜂起を可能とする客観的条件をつくりあげていく運動的領導の闘いと、他方におけるその過程においての多量の共産主義者の産出、労働者階級の政治的意識の覚醒、それを保障する前衛党建設の前進という組織領域での闘い=主体的条件の形成(党のための闘い)である。
これらは一つの絡みあいとして進展するわけであるが、一個の大衆運動の戦術展開の中でそれが時間的にも場所的にも同時に実現されるなどというわけでは決してない。弁証法的な連関構造をもって、前衛的指導性の内容としてそれは発展するのであり、ゆえに3・26管制塔占拠ひとつをとりあげ、そこに権力の打倒までも内包させる形で両要素の貫徹性を吟味しようとすること自体が本末顛倒というべきことである。
それは3・26への余りの過大評価というものであり、六〇年安保で国会に突入したが安保はとおってしまった、それは何故だ式の戦術への意味付与でしかない。
これはわれわれが3・26総括を「武徳の思想を獲得せよ」として、闘いぬいた精神的緒力の評価と闘争的意義の守りぬきに求めようとしたこととの対比からいってもインターの理論的対象化の遅れを示すものである。
影山論文のそれは文字通りの一点突破・全面展開の志向であり、全面展開しなかったから一点突破もいけなかったのだという総括に等しい。
そしてそこから来たるべき二期着工攻撃一の全面対決も否定する、むしろエコロジー的に平和村建設を展望し行政までを支配する自治区をめざせという裏返し的な戦術ダウンを要求するのであるから、どうしようもない右翼日和見主義の総括だといわざるをえないのである。
しかも政治的にはそれは3・26をもってこれまでの空港建設阻止闘争は終わったものとみなせ、実力対決を叫ぶ新左翼運動そのものが「歴史的使命を終えた」という認識にたて、なる結論に至るのである。事実その通り影山論文には書かれているではないか。これはまさにブントの右派潮流的敗北主義であり.闘争放棄であり、裏切りであって絶対に許せない逃亡の論理以外の何者でもないのである。
そもそも日帝権力を打倒せず、「行政まで支配する」ことがどうやって可能だというのか。或いは二期工事をやられて空港が完成して平和村をつくったところで、どうしてそれが廃港につながるというのか。この論理矛盾に対してさえインターと影山論文は無自覚である。
ここではっきりとさせておくべきことは、「歴史的使命を終えた」のは、3・26で持ちこたえることのできなかった第四インターなのであり、断じて三里塚闘争ではないということである。影山論文はインターの敗北宣言であり、逃亡の合理化以外のどんな位置も持たないものである。それを政治的に隠蔽すべく青行の尻押しをして三里塚闘争をエコロジー運動的に変質させようとし、「連帯する会」からの「決戦論者」つまりわれわれ戦旗排除を策しているのだ。中核派のゲリラ戦の展開を「地下秘密戦争」などとヤユし茶化しきるのも同様の敗北主義、右翼的逃亡の合理化以外の何ものでもない。
われわれは三里塚闘争の原則的方向をここまでおとし込めようとし、革命的左翼の戦闘的伝統をはずかしめる第四インターに対しては、われわれの戦略的方向の保持と三里塚闘争勝利のためにも、これ以上の「妥協」をつづけることは原則的にできない。
三里塚闘争の勝利の方向をめぐる路線論争を大胆に提起し、二期決戦勝利を反対同盟の全体的確認とするべく闘いぬき、はっきりとした分岐をかちとろうではないか。それがない限り、「反戦・反核の砦」を宣言した三里塚闘争の革命性は死滅し三里塚農民の不屈性・不滅性そのものが闇に消えさっていくことを、今やはっきりと認識するべきである。
第四インターからわれわれが学ばねばならないことはここにおいて潰えさったのである。すべての同志諸君に確認したい。八・八パイプライン供用開始を目前に控え、二期着工のタイムリミットも来年いっぱいといわれるように、決戦体制構築の必然性は日増しに強まっているのである。最早一刻の猶予もできないほどに切迫した情勢として現在をとらえ、二期決戦必勝の戦闘体制を構築すべく、われわれは論争の組織化に着手しようではないか。三里塚闘争のエコロジー的変質との闘い、わけても影山論文に示されるようなインターの実力闘争からの逃亡の開始は徹底的に批判されなくてはならない。三里塚闘争の勝利にかけて原則的な路線論争を組織しぬくことは、八三年春夏大攻勢の戦取の重要な課題であり、さけてとおることのできない一大水路である。これを以上の内容確認をもってはっきりと確認してもらいたい。
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