武装を内包する革命党Ⅱ 戦旗派83年中期総括

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一、83年5・22集会勝利の地平として捉え返すべき諸点

 5・22集会は3・27三里塚闘争後の極めて困難な諸状況の下で組織化され、打ち抜かれた全く党的な闘いであったが、広範な人民の支持を集めることに勝利し、現在のわれわれの力量をほぼ出しきる成功を×××名動員として克ちとった。この集会の勝利的貫徹の持つ意義はきわめて大きなものである。

 それは第一には三里塚第一公園と横堀共同墓地広場での分裂集会となった3・27三里塚闘争前後の政治局面、われわれを取り巻いた一方における中核派の「党派戦争宣言」事態と、その収拾をめざした「3・18革共同への申し入れ」をめぐる「連帯する会」、第四インターの反対策動に対し、その両方をのりきり、打ち破る位置性においてわれわれが5・22集会を打ち抜いたという点である。

 そもそも大地共有化運動を発端とする三里塚芝山連合空港反対同盟の三・八分裂に対して、中核派は自らの党派的横暴に対し農民自体がさしむけた批判として、その過程でまきおこった「三・三幹部会声明」等をうけとめようとはせず、これをどこか他の党派が自分達にさしむけた策略、陰謀のたぐいとして分裂の主謀者さがしをなし、全く理不尽な「党派戦争宣言」をもって、「ギタギタに粉砕せよ」「徹底して追いまくり、蹴ちらせ」といった対処をわが同盟に対し振りかざしたのであった。

 当初その主謀者とされたのがわれわれであり、「獅子は兎をとらえる時にも全力を尽くす」等というおよそマルクス主義とは縁もゆかりもないような尊大なポーズをもって、彼等はわれわれに襲いかかってこようとしたのである。もとよりわれわれは、三里塚反対同盟の分裂によって何の利益を得るわけでもなければ、中核派を政治的に窮地におとし人れることに展望をたくす何の必然作を有していたわけでもない。むしろ同盟の分裂は闘争全体の戦闘力からいっても、又それが中核派対青年行動隊という形になった場合の青年行動隊のエコロジー的変質の危険性からいっても、われわれにとっては回避すべき命題以外の何ものでもなかったのであり、そうであるがゆえにこの事態の進行にはわれわれは全くとまどい、ひとつの組織的混乱状態みたいなものに一時期おち入ったといっても過言ではない。

 何故ならぱわれわれは第二次ブントの七花八裂に対して党勢を保持しきり、70年安保闘争を主流派として領導したかつての中核派に対し少しは党的幻想を抱いていたし、十年来の対カクマル戦争の歴史がこれほどまでに中核派の政治展開を変質させきっていたとは全く思ってもいなかったからである。試練派が繰り返していた「津久井一派の官僚的変質」といったことも、理論的な地平からうけとめていたにすぎず、ましてやわれわれが中核派を直接の党派闘争の対象とするまでに党的伸張をなしてきた等という認識には、全く達していなかったのであるから、ここでの混乱はやむをえないことでもあった。

 われわれは成長過程にある青年期の党派として、第二次ブントがなしえなかった武装闘争を内包する全人民的政治闘争の政治的領導をきわめて原則的に実現することを志向しつづけ、それにより今日の一定の伸張をもたらしたのであり、そこでは73年6月のアダチ分派問題に対しても内ゲバを回避する方策をとりつづげてきたのである。ゆえに少くとも大衆運動における戦略的×××名動員の定着化ぐらいまでは、80年以降の政治展開とそこでの政治的位置をキープしつづけんとすることは、この間の戦略的意思統一の前提をなすものであり、当然中核派の「内ゲバ宣言」に対しても、これを回避せんとするのがわれわれにとっての大道であった。われわれは中核派のスターリン主義的変質に対し、これを見限る位置に立ちつつ、内ゲバ回避のための対処をなす以外なかったのである。

 つまり「3・18革共同への申し入れ」は、それが中核派の内ゲバ恫喝に屈するものだ何のといくら大衆運動的観点から批判されようと、われわれにとっては党の死活をかけた問題であり、当然いわねばならないことであった。われわれはそれを、(1)内ゲバに突入しても現下の力関係からいって軍事的に勝利できる見込みがないこと、(2)党派闘争に突入し、戦争にのめり込んだ場合の混乱、消耗のほうが、内ゲバを回避し、やらないようにした場合もたらされる混乱、消耗よりどう考えても大きなものであること、(3)内ゲバによって三里塚闘争全体が疲弊し、闘争全体の生命力を喪失してしまうと予測されることから決断したわけであり、全党が一致団結してこの決断と対処を守りぬきさえすれば必ず次の地平が切り拓かれると確信することにおいて「申し入れ」たものである。

 だがこれに対し「連帯する会」系諸グループ、諸派にとっては、われわれがこうした対処をなすことは、中核派に対し戦旗という防波堤がなくなり、今度は自分達が戦争事態に巻き込まれることになるが故に、反対を必然化させたのであった。
 これらの諸派、とくにプロ青やインターにあっては、「空港より緑の大地を」に示される青行のエコロジー的変質は、レーニン主義的党建設や前衛党の戦略的領導に反対するという自分達の路線の貫徹にとり全く一致する方向にたつものであり、ゆえに中核派の排除は望ましいものだというわれわれとは全く逆の価値判断にたつのであるが、しかしながら中核派のホコ先だけはわが同盟にむけさせようとする全く都合のよい要請から、わが同盟に対しては「3・18声明の撤回」を「大衆運動の利害」を根拠に申し入れ、それがなされないことに対する断罪をセクト主義丸出しの「連帯する会からの戦旗の排除」として実現しようとしたのである。

 そこでの食い違いは結局は三里塚闘争の戦略的領導をめぐる路線的対立に裏打ちされたものであり、二期決戦よりも「二期が来ない運動」を、共に反中核の形で闘えというのが、第四インターなどのわれわれへのつきつけの中味である。
 ゆえに戦略的方向性との関連においても、われわれがこれを拒否することは全く当然のことである。
 何故ならぱそれは、82年「9・16青行文書」批判以来の、否それ以上に80年8・22政治集会以降のというべきわが同盟の安保-日韓体制打倒潮流としての基本路線と戦略的方向を、あくまでもわれわれが守り抜くのか否かという本質的命題として結局はあったからである。

 この拒絶においてわれわれがはっきりさせておくべきことは、中核派の内ゲバ主義的変質を差し引いたとしても、戦略的方向性としては、われわれにとってはインター、プロ青的方向よりも中核派のほうが、まだ政治的に近い位置にあるという基本間題である。つまりは闘い方の基軸性として、われわれは青行のようなエコロジー的変質において三里塚闘争を担うことはできないのであり、これを批判しきる地平の構築がわれわれの勝利の展望なのである。
 インターを主導力とした「連帯する会」からの戦旗排除の目論見が成功しえず、われわれがそこに残りえたのはそうした位置でのわれわれの戦闘力、動員力の持つ影響に対し、彼等がそれを無視しえず、無いものとして考えることが結局は不可能だったからである。

 つまり三月の過程では中核派との攻防を闘い、四~五月の過程では主要にはインターの「反中核大衆戦線」からの戦旗排除の策謀と闘いぬくことによって、そのどちらにくみするのでもない独自の安保-日韓体制打倒潮流としてのわれわれの政治的地歩をキープしぬいたのであり、5・22集会における、昨年8・1政治集会、12・19二期決戦勝利集会を引き継ぐ動員力の保持は、それらすべてによるわれわれへの封じ込めが成功しなかったことを例証するものである。
 これによりわれわれは3・27以降の政治的後退を突き破ったのであり、この点が5・22集会勝利の第一の意義としてつかみとられるべき点である。

 第二にはわれわれは、5・22の勝利とこの攻防の過程をとおし、内ゲバ党派の存在に対し、内ゲバ主義反対をかかげ地域住民闘争や労働組合運動に逃げ込むといった右翼的形態ではない、より正面きった突破の方向を明確化したことである。5・22集会はその方向を大衆的に刻印するものとして、独自の意義を有するものであったといわねばならない。

 われわれが三里塚反対同盟の分裂事態に対し、中核派の内ゲバどう喝にさらされ、これへの対処に坤吟せねばならなかったというそもそもの基本問題は、その整理の方向として、われわれが革共同両派の糾察隊なり、JACといった内ゲバ部隊と同等のものを構築しておらず、又それにむけての党の武装をおろそかにしていた結果であるととらえては絶対にならないことである。
 そうした観点の徹底化においてもたらされる結論は、内ゲバ部隊をつくって内ゲバに勝利することを展望するか、或いは又その全くの裏返しとして、内ゲバなど絶対にやらないことを至上目的としてただやみくもに内ゲバ党派との対立を回避し、逃げまくることを党的延命の道とするといった全くの右翼日和見主義的方向にしか至らないものである。

 内ゲバ軍事力が強烈なものであるかどうかが革命党としての威信を高めあげ、人民の信頼を獲得することにつながるわけでは絶対になく、全く逆に、日帝国家権カに対する革命党-革命勢カとしての闘争力の存在、戦闘カの有無が、人民に対し革命党への信頼と威信を築きあげるのである。

 われわれがこの十年間の闘争展開に対し総括すべき点は、その点で大衆動員、闘争結集のみを基軸としてきたわが同盟の在り方が、日帝権力に対するありとあらゆる形態をもっての闘争展開の自由を内包させてきたとは決していえず、権力にとっても内ゲバ党派にとっても比較的底の浅い組織力、闘争力としてしか位置してこなかったという限界性の克服の問題である。

 日帝権力との実力攻防に打ち克つ陣形の構築、いつでもゲリラ・パルチザン的闘争形態をもって権力と闘い抜ける党的構えが作り上げられていたならば、その組織的戦闘力の存在に対しては内ゲバ党派であろうと、右翼民間反革命であろうと、日帝国家権力にしてからがそうおいそれとは手出しすることはできないのである。この点での陣形構築の遅れと、その観点をつかみとるまでの問題整理の不充分性が、3・27を前後する対処過程でのわが同盟の混乱を生み出さしめたといわねばならない。

 そのためにこの過程にあっては党の正規軍建設(=RGの再建)が糾察隊やJACへの対抗手段としてかかげられる傾向とか、内ゲバを題材とした文書を今更のように読みまくってそれ自体うんざりしてしまう、ひいては階級闘争そのものからも召還しようとするといった傾向も内包されたわけであるが、5・22集会を組織化し、党的前進を再度開始するなかにおいて、日帝権力との攻防に打ち克つ陣形の構築が内ゲバ党派、民間反革命との関係も規定することを全党的につかみとることに成功し、問題の整理がなされたのである。

 5・22集会において大衆的実力闘争と結合したゲリラ・パルチザン戦闘の遂行、大胆なそれへの着手を訴えきり、全党全軍の基本的な意思統一をなしきったことはこの点においてわれわれの内的な前進を意味するのであり、今後の闘争展開のあり方、組織建設の方向を明確化するものである。その物質化にむけ全力が傾注され、構造的な確立がめざされねばならない。
 5・22集会貫徹の意義は、80年代階級闘争の領導にとり必然ともいえるこの問題整理との関連からとらえ返された時、一層きわだった位置を持つことがおさえられねばならない。

 第三には3・18声明後の防御戦に勝利しぬき、各戦線・各地区党が昨年8・1政治集会に匹敵する動員を実現し、6・19反安保反中曽根闘争から7・31政治集会、8月ニュージャージー横須賀寄港、トマホーク配備阻止闘争への突破口を切り拓いたという組織総力戦、「党としての闘い」としての5・22の意義である。

 これは少しかたちをかえていえぱ共産同・赫旗派が四、五月過程での明大生協移転問題の煮つまりとそこでの解放派(狭間グループ)との党派闘争において、地区労に調停を依頼する等という民同的対処を内包させ、その処理をめぐってML・紅旗連合と遊撃グループに完全に分解し、地区党の奪い合いに入るといった党的脆弱性、左翼サークル主義を全面露呈させていることとの対比において考えても明らかである。
 われわれ戦旗・共産同の組織的団結と、構成主体の政治的成熟度が、かなり構造的なものとなり組織力を増している結果のりきった三~五月の実証として5・22を捉え返すことができるということである。それが単に内的な成熟として言えるのみでなく、具体的な各地区党の動員力の保持と増大として例証された点において意義を持つのである。

 少くとも「三・一八」をめぐる事態ぐらいの攻防で党の団結にヒビが入り、党的動員力が大きく後退してしまうのでは、われわれのアダチ分派後の党建設、主体形成の苦闘は全く口先きだけのものであり、本質的に脆弱な小ブルサークル主義の位置にたつだけのものとみなさざるをえないわけであるが、それを全く払拭する地平においてわれわれは5・22の戦取を実現し、次の闘争展開への突破口を切り拓くことに勝利したのである。たしかに赫旗派のような混乱は、単一の分派として十年の実践を重ね歴史的に蓄積された党史を持つわれわれには考えもつかないことであり、何よりもわれわれは、彼等よりもっと政治的に錬磨され、各主体は党全体に対し従属的であり、原則的な確認、闘争主体の政治的思想性を骨幹的に作り上げてきたとも言えるのであるが、しかし赫旗の混乱は「ブント主義の再来」であり、「他山の石」と言うべきものであって、笑ってすませられることでは決してないのだ。

 動員力の保持が、政治的方向性、党的対処への構成メンバーの基本的合意を基軸とすることから言っても、われわれの乗り切りに対し、赫旗派が綱領だ理論だと「レーニン主義」をいくら振り回しても、第二次ブント総括の主体化には全く成功しなかったことが彼等にあっては顕在化しているのである。その逆にわれわれ戦旗・共産同の今日までの歩みが着実なものであり、全くもって主体化された内実をもつものであることは、ここにおいて例証されたといわねぱならない。
 5・22集会の勝利を突破口に6・19に攻めのぼり、ニュージャージー寄港阻止闘争の大爆発を実現し、もって真のブント主流派としての政治展開を継続しきること、これを次の課題として是非とも確認したい。

 要するに赫旗派の敗北は党的主体形成の本質的地平における理念性、理論主義の敗北であり、われわれにとっては「ブント」の敗北の一つの形態として反面教師としての位置にだけ立つものである。下級を自己の足にしたてあげようとし、党への絶対的帰属性を忘却しきり、意見のくい違いを組織の分岐にまですぐに拡大するようなそんなデタラメなインチキ革命家、政治的未熟性はもはやわれわれは、この先のいかなる試練の到来においても完全にこえでた地平において対処しきり、党を守り抜くことを意志統一しようではないか。
 5・22勝利の地平は、ゆえに大衆運動的展開におけるもり返しといったレベルだけからでなく、その過程における組織的コンフリクトに打ち克った位置性において確認されねぱならない重要性を有している。

 たしかに三月過程における三里塚闘争へのかかわり、そこでの運動展開や対処のアマチュア性とジグザグについては、より下向した位置において総括を深めるべき点は多々あるのであるが、ともあれ3・27以降5・22にまで辿りついた現在の地平からとらえ返し、以上のような三点の基本的意義を5・22総括としてまずもっておさえておきたい。
 この三~五月の過程はアダチ分派問題以来最大の政治的試練として位置したことは歴然たる事実であり、ここでの苦闘を血肉化することによって、更なる飛躍を実現していくことこそわれわれの使命である。

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