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五.革命運動における牧歌的概念の克服
わが同盟が今日巨大な前進をとげるに至ったのは、83年三・八分裂以降極めて短時間のうちに革命党として必要な武装化の問題に着手し、これをやりとげてきたからである。わけてもそこでのメルクマールとなることは85年7月、革命運動における牧歌性に埋没していられる情勢が去り、その克服をかけて闘いぬくべき必然を訴え(=85年上半期総括「新たな主流派の創出」)、革命党としての機構化をはかり、事態に対処せんとしてきたことである。
それでは革命運動における牧歌的概念の克服とは、何を内容性としたことであろうか、ここであらためて論じておきたい。
何故それを問題とするのかといえば、われわれの今日までの発展にもかかわらず、70年代中期の血債の思想・猛省精神を党是とした頃組織結集したメンバー等というに限らず、党の発展にたちおくれ、組織ブラ下がり主義におちいってしまっている場合が散見できるからである。
組織ブラ下がり主義というのは、組織活動の内容的発展、共同主観の前進に対し、主体がその過程での努力をおこたったために取り残されてしまい現実に対処するすべを失い、実体的役割りを果たせなくなっている場合をいう。つまりたてまえ性としては戦旗・共産同の党是をもち回りながら、現実的・実体的にはたちおくれてしまい、主体的な空洞化を生起させている状態をさしていうのである。
例えば86年正月山行において、わが同盟はA隊赤石岳~聖岳、B隊塩見岳、C隊甲斐駒ケ岳の三隊をくりだし、三里塚二期決戦や4―5月天皇・サミット決戦への戦闘的気運をつくりあげていこうとしたわけであるが、実際にはA隊三名、B隊一名の滑落者を出してしまい、ブルジョアジーのお世話になって、ヘリコプターによって救助されたのであった。
この場合、ここでわれわれが実現しようとした山行計画が余りに極限的なものであり、わが同盟の力量性をはるかに越えでていたから敗北を喫してしまったのかといえば、決してそんなことはいえないわけである。われわれはそれ以前にも、冬の赤石~荒川三山走破をおこない白峰三山縦走をなし、もっと極限的な状態におかれた5月の裏銀座山行を貫徹し、2月の白馬岳に行き、塩見山行を物質化してきたのである。
問題はそうした党としての力の蓄積に対し、それを客観化し、彼岸化し、己には無縁なこととして避けてとおってきた部分が存在したからこそ、事故の発生はそれ自体やむをえないことであったとしても、事故が発生した時点から巻き返すことができず、パ二ックに陥り、部隊全体を危機におとしいれたという点に、わが同盟が総括すべき点が存するのである。
何故ならばわれわれは「戦争の不確実性」を学び、「戦争を主体化する上で最も問われるのは精神的諸力以外にはない」ことを何度も確認し、「戦況が困難になるにつれて、もはや事が順調に運ばなくなり、潤滑油の切れた機械さながらに機械そのものが抵抗し始める、するとこの抵抗を除去するために指揮官の大なる意志力が必要となる」(以上『理戦』19号、松木沢論文)ことを、戦争指導の核心として問題にしてきたからである。
ゆえに86年階級攻防の勝利性だけをあつかい、そのうちに内包したわれわれの弱さに眼をつぶろうとすることは罪悪であろう。ここに生起したわれわれの弱さは、是非とも克服されていかなければならず、レーニン主義者たらんと欲するならば、自分に不都合なことであったとしても眼をそむけず、現実を直視し、そこからたちあがることが必要である。
そうした点で、86年正月山行にあらわれたものは、わが同盟が末だ内包する弱さの露呈であり、組織ブラ下がり主義の破産の露呈であって、かかる弱さの克服のためにも、牧歌的概念の否定がいそがれねばならないのである。
ともあれ、われわれが牧歌的概念の否定として喚起するものの内実をつき出しておくならば、次のことがいえるのである。
第一にはゲリラ・パルチザン戦闘や非公然活動を担う覚悟や決意が観念的なものにとどまっており、実際上の能力を全く身につけておらず、それこそ政治主張的なものとしてしか主体化されていない場合である。
それはゲリラ・パルチザン活動や非公然活動を担うに必要な自然科学的知識を全く特ち合わせていず、全く有効に機能できないという場合と、ゲリラ・パルチザン活動や非公然活動という極限化された状況性の中で、日帝権力との熾烈な攻防にさらされるからこそ必要な、より高次の政治的団結、党的意志結集を形成できず、団結を崩壊させてしまう場合とを含んでいる。
もとより自然科学的知識(機械工作や電気関係、自動車に関する知識、火薬や薬物の取リ扱い、或いは建築や土本工作についての知識など)は、誰もが一様に身につけているものではなく、それ自体各々が専門的分野であり、特殊技能に類することがらである。それ故文科系出身で、職業的経歴もなく、党生活だけで人生を送ってきたというような条件下にあるならば、自然科学的知識や技能を身につけていないことも、それ自体としては全くやむをえないことであるかもしれない。
だがそうであるならば、逆に党生活だけで今日まで生きぬいてきたという政治のプロフェッショナルとして、極限化された状況下にあっても組織の団結をはぐくみ、目的意識性を保ち、組織の抗戦意志を維持できるよう機能できねばならず、そのどちらの要素も全く欠落している場合には、牧歌性におちこんでいると指弾されてもやむをえないのである。
第二には決意や覚悟は充分に打ち鍛えられており、決して観念化されてはいないのだが、実際上の必要性に対応できる主体形成をなしえておらず、現実の攻防の中では思考停止=パ二ックに陥ってしまう場合である。
こうした場合が派生するのは、一番大きくは実践的な経験が足らず、それこそ場数をふんでおらず、対象化されるまでに至った経験の蓄積がなされていないからである。
ゆえにこれはひとつの「成長の病」であるのだが、しかし「成長の病」であったとしても、それでよいということにはならない。小さな経験であったとしても、そこから多くのことを学び、実践対応力を身につけていくことが問われるのであり、主体的意欲をもち、無気力感におちいらず、経験を主体化せんと苦闘することが現状打開の道である。
第三には一定の個人的経験やテリトリーを有してはいるが、それ自体が全共闘活動家的なものでしかなく、現下の政治警察との攻防には対応しきれないおくれたもの、古いものとなっているのに、その狭い個人的経験の領域からだけものごとを推しはかろうとする場合である。
これは例えば冬山山行にそくしていえば、今はもうポリプロピレンやクロロファイバーなどの化学繊維を重ね着するレイヤード・システムが主流をなす時代になっているというのに、ウールの下着を着ていき、しかも家を出てから帰ってくるまで、決して着替えてはいけないだとか、はなはだしきは濡れても体温でかわかすのだ、寒い時には酒をのんで暖をとれなどと言ってる場合がそれだ。
あるいは冬山山行を遂行する能力に限らずとも、車を奪う場合にはマイナスのドライバーを無理やりつっこんで回せばエンジンがかかるだとか、砂糖を入れれば車のエンジンは焼ききれるなど、その他いろんな迷信に類するようなことまでもかたくなに思い込み、科学的立場にたちきれず、かつ実験などによって実証することにより日々改め、真理に接近していくことができない場合、それらはすべて現実の階級攻防の中では力を発揮できない牧歌的立場におち込んでいるのである。
そうした傾向に己がおち込んでいる、牧歌的立場を克服しえないがゆえに組織ブラ下がり主義になってしまっていると考えた場合には、まさにそこにおいてこそ真摯な革命的共産主義者の立場にたって、己を分析し、原因を究明し、己を少しずつではあっても作りかえていく作業に取り組むことが必要であり、そうした主体的立場に立脚できず、ニヒルになったり、無気力感にとらわれて自己喪失するようになるのでは、全く問題は解決しないのである。
もちろん革命党における生起した問題の解決の方法というものは、たとえ個人の失敗であったとしても、それが組織活動遂行上生起したものであるならば、組織が生み出したものとして対象化すべき必然をもっている。別の言い方をすれば、組織活動上生起した問題を個人の性向一般に還元してしまってはならないのであり、あくまで組織が生み出したものとしてとらえ、組織的な解決の道を選択していかねばならない。そういう個人性と組織性との弁証法的統一の必然を特つのである。
だがその場合にも、組織的対象化と克服のための組織的対処が必要であると共に、それを生起させた主体の側の自己克服の闘いの措定が絶対に必要となるのである。これをネグレクトしてしまい、全く没主体的に何でも組織のせいにして、己自身を問わない等というのでは、それ自体第二次ブント活動家以下のレベルにあるだけだ。
わが同盟の今日までの勝利性は、その全く逆に、自らの弱さを認めることに躊躇せず、自己変革の現実性において人をして認めざるをえない関係性をつくりあげんとしてきた、まさにその連なりのなかにこそあるのであり、そうである以上、戦旗・共産同を構成する革命家であるならば、自己変革することによって他者をして認めざるをえない現実性を作り上げるために尽力すべきである。
「実に精神的量は、じかに見られ、かつ感得されることを要求するのである」というクラウゼヴィッツ『戦争論』の命題は、わが同盟の党是をなす考え方であり、そういう強さを特ち合わせず、いつまでも人にたよるだけの精神的幼児性を脱却できないのでは、たとえ20年前の全共闘運動であったとしても、破産は眼に見えているであろう。
以上述べていることは決して非公然活動の領域や、ゲリラ・パルチザン戦闘の遂行能力に限っていっていることではない。
組織局の日常活動や各部局の専門活動において、いまやわれわれはアマチュアリズムを排し、手工業性を脱した専門家を必要としているのであり、組織建設のプロには組織建設のプロとしての技量がとわれ、各専門部局にあっては、その専門部局としての任務をまっとうできる能力性が絶対的に必要となっているのだということを、いっているのである。
ゆえに古い、自分のちっぽけな経験性にだけ依拠し、学習し、他者から学ぶことによって己を向上させることができない、ひからびた頑迷派としかいえないような存在に成り下がることを拒絶し、つねに進取の精神を持ち革新者でありつづける革命家、必要なときに必要な能力を発揮できる存在感ある革命家になることを誓い、共に精進しつづけようではないか。
1987年をわが同盟が己の年とすることができるか否かは、全くもってわが同盟の前衛党としての技量、時代に対応できる能力性にかかっているのだ。
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