戸村一作:著『小説三里塚』(目次へもどる)
第35話 恩賜の煙草
武治は東藤の説明で、眼を丸くした。
「ここに仏様をお祀りいたし、あくまでも政府に対しては非暴カをもって闘うのです。そしてあらゆる民主勢カをここに結集しなければなりません」
武治は淡々と語る彼の言葉に魅せられ傾聴していくうちに、何かこう自分が素晴らしいカを握ったかのように思えてくるのだった。武治はこの頃、反対同盟はおろか、支援団体にすら、一抹の不安感を募らせていた矢先――東藤の出現は「鬼に鉄棒」ともいうぺきものだった。
その時、傾いたタ陽が雲を突き破った。一瞬茜色のまばゆい光が横なぐりに、部屋に射し込んできた。
逆光をうけた黄衣の東藤の体から、後光が射した。武治は思わずハッとした。跪き合掌して、拝みたくなった。東藤は黙して語らず微動だもしない。まるで聖人の彫像を見るかのようだった。
普段見るこの部屋が、今日の武治には、天来の別世界に変わった。神秘な雰囲気が、辺りを包んだ。
二人の間に沈黙が続いた。暫くして武治は思い出したように、茶碗を取り上げ、お茶をゴクリと一口飲んだ。武治の喉仏が激しく上下した。武治は東藤に視線を向け、何事かいおうとする気配だった。東藤もそれを感じたのか、二人の視線がかち合った。
東藤は武治の激しい視線をまともにうけて、一瞬ひるんだ。彼の気迫に打たれたからである。俄然、今まで見る武治と違っていた。一種異様な気迫が、武治の全身に漲っているかのようだった。
「もしもわしの家や畑を国が奪おうとすれば、わしはこの柱に体をくくりつけても……」
武治は傍の柱を指さした。その手は節くれだって、二十数年の開拓生活の苦難を物語っている手だった。
「わしはいよいよとなれば畑に地下壕を掘って潜る――あるいは畑に杭を打ち、胴体から金玉まで縛りつけても、土地は渡さねえ……」
武治は真剣そのものだった。眼尻を釣り上げて、キッと東藤の顔を睨んだ。東藤は圧倒されて、いうべき言葉さえなく、頭を頂垂れた。東藤は武治の言葉を聴きながらも、絶えず平和塔と武治をどう結びつけるかと、そればかり考え続けていた。
「二六年血の出る開拓時代を思えば、犬猫じゃあるめえしよ、何でみすみすこの土地が手放せますか。百姓にも五分の魂はあるんですから……」
武治は拳を上げて、胸をドーンと打った。
「木川さん、今日は私はあなたの話を聞かせて頂き、深い感銘を受けました」
東藤は武治に向かって合掌して、軽く頭を下げると、また続けた。
「木川さん、私はどうしても空港阻止のための平和塔を建立したいのです。この念願成就のためには、どうしても木川さんのおカがなければなりません」
「わしも先生がここへ平和塔を立てるということを聞きまして、全く暗夜に光明を得た気持です。わしらのできることなら何でも……」
武治のこの一語は東藤にとって、何ものにも変え難い千金に価するものだった。
「木川さん是非ともカになって下さい」
東藤は武治に向かって、再び合掌して頭を垂れた。すると、武治は何を思ってか、つと立ち上がり部屋に隠れた。間もなく紫色の袱紗に包んだ何か小さな小箱を、丁重に捧げ持って現われた。
「先生これを見て下さい」
武治が取り出した物は、彼が戦地から後生大事に持ち帰った、記念の恩賜の煙草だった。彼は袱紗を開くと恭しく箱の中から、一本の煙草を摘み出して見せた。
「先生、一六の菊のご紋章ですぞ」
ニッコリ会釈して東藤は、長押の上を見上げた。そこには天皇皇后の写真が並んで、礼々しく一つの縁の中に納まって掲げられていた。
「先生、もしも強制代執行にでもなったら、そのときこそ……」
「ご立派です」
「そのときです。この恩賜の煙草を突き出して、国のため天皇のために戦ってきた者を粗末にするのかって……。先生、わしは小作人の小伜で長いこと国のために糞働き、揚句の果て、裸一貫で郷里に帰され、木の根を切り開いたんです」
「その木川さんの苦労を思えぱこそ、私はここに参ったのです。」
「農民が農地を奪われることは、自分の生身が切りとられるようなものです……。わしは札束を山ほど積まれたって、農地だけは……。一体ここを追い出されてどこに行けというのか」
「だから木川さん、ごの土地は断じて明け渡してはなりません。それにはその作戦を前もって講じなければなりません」
「その通りです、先生」
「ところで木川さん、反対同盟では過激学生と手を結んでいるが、これは問題です」
「うむ!」
「決して農民は彼等の暴カに捲き込まれてはなりません」
「わしも戦争をいやというほど経験していますからもう血を見るのはこりごりです」
「そうです。破邪顕正の剣をもって、暴カに勝たねばなりません。ごれが仏法です」
武治は喫いかけた煙草を灰皿におくと、面を上げ東藤の瞳をじーっと見つめた。その顔は感涙に咽んでいた。
「私の構想としては一刻も早く平和塔奉賛会を作り、できるだけ多くの人々を平和塔にお参りさせ、反対同盟の運動を強化したいと思うのです。木川さん……」
東藤は武治の顔を覗き込むようにして、返事を待った。
「先生の計画は反対同盟にとっても非常に有利なことですから、私のできることなら何でも遠慮なく……」
武治と東藤のいる部屋からは畑一面が、筒抜けに見渡せた。伸びた麦畑の中から顔を出して、何度も部屋の様子を窺う説子の姿がチラホラ見える。説子はこの昼日中なんで長っ話をしているのか、気が気でなく、いたたまれなかったのであろう。
武治も説子の気持は解っていたが、東藤との対話はなぜか後を曳いて、容易に打ち切れなかった。東藤と意気投合するというよりも、何か彼に心魅せられ、深い湖水の底にでも曳きずり込まれるようで、話を止めることができなかった。説子が畑で待ちくたびれているのを知りながら、話はついに二時間余り、すでに陽は松林の陰にかくれようとしていた。
「先生、私は長い軍人生活をした者ですが、一体、戦争によってわれわれは何を掴んだのでしょうか。空港反対をしてからは、これに疑問を感じてしょうがねえですよ、先生」
武治は何を思ったか、急に膝元に置いてあった恩賜の煙草を鷲掴みにして、東藤の面前に突き出した。
東藤は唖然として、武治の顔を見つめた。武治はなおも煙草を握った手を、東藤の面前から引こうとはしなかった。
「長い軍人生活はこの恩賜の煙草一つだっ。全くの無駄奉公、無駄飯食い、馬鹿者っ」
武治は誰に向かって一喝したのか、激しい口調で叫んだ。それはまさに怒号にも等しい、悲痛な絶叫だった。その瞬間、彼の手からハッシと恩賜の煙草が畳の上にたたきつけられ、煙草は箱を破ってあたりに散乱した。武治の叫びは己れに向けての、絶句のようにも聞けた。その反面、東藤は冷静そのものでさして反応を示さない。武治は急に東藤に対して、違和感を覚え始めた。
武治は東藤の前に感情をむき出しにした自分に、一種の恥じらいをさえ覚えるのだった。それでも武治の胸の中にたぎる激情の血潮は、なおも納まりそうになかった。
武治は畳の上に這いつくばると、散らばった恩賜の煙草を、諸手でせわしく掻き集め、それを廊下に向けて、ハッシとたたきつけた。そして立ち上がり、両足でグリグリと捻り潰してしまった。煙草の中身がはじけて飛び散り、一瞬きつい香りが鼻を衝いた。
彼はやや気分を取り返したか、静かに掌で掃くようにして、飛散した煙草を掻き集め、縁先に立って庭に棄てた。吹いてきた風が粉々になった煙草を、庭中に撒き散らした。
部屋に入って、ふと、長押を見上げると、彼の掲げた天皇皇后が、彼の暴挙を咎めるように見下ろしていた。
武治は何ともいえぬ嫌悪感に襲われた。そのまま手を長押に延ばし、むんずとその写真を鷲掴みにしたい衝動に駈られた。逸る胸の内を納めようと、そこから眼を外らした。――が、心臓の高鳴りが、激しく耳に伝わってくる。
彼は自分ながら他人の前で、こんなにも激情に駈られ、感情をあらわにしたことは、今まで一度もなかったことに気づいて驚いた。
天皇から下賜(かし:身分の低い者に物を与えること)された紙巻きたばこ。明治からの皇室の慣例として下々の者へのお礼やおみやげとして生産された。戦争時には大量生産され、軍隊への支給品でもあったが、この小説のように戦前教育を受けた者には「もったいなくも陛下よりくだされたありがたいもの」「自分が天皇のお役にたった証」として、精神的に重要で神聖なものとして扱う人が多かった。箱には黒で「賜」の文字が入り、1本ずつに菊紋が入っている。戦後も長く宮内庁の贈答品という扱いで公費で生産され、禁煙の風潮の中で2006年からは「恩賜の金平糖」に変更して存続している。
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