佐藤紅緑『ああ玉杯に花うけて』後編

 へその秘伝をおぼえてから千三はめきめきと腕が上達した。浦中と黙々は復讐戦をやる、そのつぎには決勝をやる、復讐のまた復讐戦をやるという風にこの町の呼び物になった。

「チビ公のやつ、どうしておれの球をあんなに打つんだろう」
 光一はふしぎでたまらなかった、実際千三はいかなる球をも打ちこなした、対師範校との試合にはオールヒットの成績をあげた。それは光一に取ってもっとも苦しい敵であったが、しかし光一はそのためにおどろくべき進歩を示した、かれはどうかしてチビ公に打たれまい、チビ公を三振させようと研究した。昔、武田信玄と上杉謙信はたがいに覇業を争うた、その結果として双方はたがいに研究しあい、武田流の軍学や上杉風の戦法などが日本に生まれた。もっともよき敵はもっともよき友である、他山の石は相砥礪(あいしれい)して珠になるのだ。千三があるために光一が進み、光一があるために千三が進む。
 戦場においては敵となりしのぎをけずって戦うものの光一と千三は家へ帰ると兄弟のごとく親しかった。
「今日は一本も打たせなかったね」
「このつぎにはかならず打つぞ」
 二人はわらって話し合う。どんなに親しい間柄でも公(おおやけ)の戦場では一歩もゆずらないのがふたりの約束であった。時として光一は家へ帰ってもものもいわずにふさぎこんでることがある、だが千三がたずねてくるとすぐ愉快な気持ちになるのであった。

 あるとき光一はまじめな顔をしてこういった。
「青木君、ぼくの学校へ入学したまえよ」
「いまさらそんなことはできないから、一高で一緒になろう、もう二、三年経てばぼくの家も楽になるから」
「検定を受けるつもりか」
「ああ、そうとも」
「じゃ一高で一緒になろう、きみがショートでぼくが投手で小原さんが捕手だったら愉快だな」
 ふたりは顔を見るたびにそれを語りあった。ふたりははたして一高で一緒になり得るだろうか、いまは読者にそれをもらすべきときでない。とにかく花はさき花は散り、月日は青春の希望と共に伸びやかに輝きながらうつりゆく。柳光一は四年生になった。

 そのころ学校内で奇怪な風説が伝わった、生徒の中で女学生と交際し、ピアノやバイオリンの合奏をしたり、手紙を交換したり、飲食店に出入りしたりするものがある、いまのうちに探しだして制裁を加えなければ浦和中学の体面に関する。
 憤慨の声々が起こった。
「だれだろう」
「だれだろう」
 最初のうちはこの風評をとりあげるものはなかった。
「師範のやつらがいいふらしたんだ」
 実際それは師範生徒からでたうわさである、師範生徒は中学生にくらべると学資も少ないし、また富める父兄をもたぬところからなにかにつけて不自由勝ちである、それに反して中学生は多くは相当の資産ある家の子である、かれらは自由にぜいたくなシャツを買い、ハイカラな文房具を用い、活動や芝居などを見物し、洋食屋へも出入りする、そうさせることを不純だと思わない父兄が多いのである。
 寄宿舎に閉じこめられてかごの鳥のごとく小さくなっている師範生の目から見ると、中学生の生活はまったく不潔であり放縦であり頽廃的である。

 久保井校長のつぎにきた熊田校長というのはおそろしく厳格な人であった、久保井先生は温厚で謙遜で中和の人であったが、熊田先生は直情径行火のごとき熱血と、雷霆(らいてい)のごとき果断をもっている。もし久保井校長が春なら熊田校長は冬である、前者は春風 駘蕩(たいとう)、後者は寒風 凛烈! どんなに寒い日でも熊田校長は外套を着ない、校長室に火鉢もおかない、かつて大吹雪の日、生徒はことごとくふるえていた日、校長は校庭にでて雪だるまを転がしまわった、その髪となく目となく口となく、雪だらけになったが少しもひるまなかった。
 久保井先生が去ってからつぎにきたるべき校長に対して生徒も町の人も一種の反感をもっていた、だが日を経るにしたがって新校長の実践躬行(じっせんきゅうこう)的な人格は全校を圧し、町を圧しいまではだれひとり尊敬せぬものはない。
「黙々先生と熊田先生とどっちがこわいだろう」
 町の人々はこううわさした。それだけ厳格な熊田先生が今中学校内に不良少年があると聞いたのだからたまらない。
「厳罰に処すべしだ、よく調べてくれ」
 校長の命令に職員は目を皿のごとく大きくしてさがしたてた。

 と、まただれがいうとなくそれは手塚だといううわさが立った。このことを申し立てたのは中村という同級生であった、中村は善良な青年だが、思慮にとぼしく言葉が多いのが欠点である、かれは学校中のすべてのことを知っているのでみながかれを探偵と呼んでいた、だがこの探偵は決して人に危害を加えない、口からでまかせにすきなことをしゃべりちらして喜んでいるだけである。中村は手塚が昨日不良少女と活動写真館からでたのを見た、そうして後をつけていくと洋食屋へはいったというのであった。
 級の重なるものが五人集まって相談会を開いた、もし手塚であるなら同級の恥辱だからなんとかいまのうちに相当の手段を講じなければなるまい。これが会議の主眼であった。
「きゃつは一体生意気だからぶんなぐるがいいよ」
 と浜本という剣道の選手がいった。浜本はすべてハイカラなものはきらいであった、かれは洋服の上にはかまをはいて学校へ来たことがあるので、人々はかれを彰義隊(しょうぎたい)とあだ名した。
「なぐる前に一応忠告するがいいよ」と渋谷がいった、渋谷は手塚と親しかった、かれは日曜ごとに手塚の家へいってご馳走になるのであった。かれはまた手塚から真珠入りの小刀だの、水晶のペンつぼなどをもらった。かれが手塚をかばったことがかえって一同の憤激をたきつけることになった。
「ばかッ、きさまは医者の子からわいろをもらってるからそんなことをいうんだろう、だれがなんといってもおれはなぐる、あいつは一体小利口で陰険だぞ」
「そうだそうだ」とみなが賛成した。
「いつか生蕃(せいばん)カンニング事件のときにも生蕃は手塚の犠牲にされたんだぞ」
 こういうものもあった。

「待ってくれ」と光一はいった。「一体手塚のなにが悪いんだ、問題の要点がぼくにわからないから説明してくれたまえ」
「飲食店へ出入りするが悪いよ」と彰義隊がいった。
「それはね、学生としていいことではないが、ぼくらだってそばが食いたかったり、しるこ屋へはいることもあるから手塚ばかりは責められないよ」と光一はいった。
「活動を見にゆくのはけしからん」
「しかし、諸君の中に活動を見ない人があるかね、どうだ」
 光一は四人を見まわした、一同はだまった。
「女と合奏したり、手紙をやりとりするのはどうだ」
「それはぼくもよくないと思う、しかしそんなことは忠告ですむことだ、一度忠告してきかなかったらそのときに第二の方法を考えようじゃないか、ぼくは生蕃のことでこりた、生蕃は決して悪いやつじゃなかった、だがあのとき諸君がぼくに同情して生蕃を根底からにくんだ、そのために彼はふたたび学校へくることができなくなった、ぼくはいつもそれを思うと、われわれは感情に激したためにひとりの有為の青年を社会から葬ることになったことが実に残念でたまらん、人を罰するには慎重に考えなければならん、そうじゃないか」
 光一の真剣な態度は一同の心を動かした。
「そういえばそうだ」と彰義隊は快然といった。
「それじゃだれが手塚に忠告するか」
「ぼくでよければぼくがいおう」と光一はいった。
「よし、それできまった、だがもしそれでも反省しなかったらそのときにはだれがなんといってもぼくはあいつをなぐり殺すぞ」
「よしッ、ぼくはかならず反省さしてみせる」

 会議はおわった、光一はみなとわかれてひとり町を歩いた。悲しい情緒が胸にあふれた。かれは他人の欠点をいうことはなにより嫌いであった、ましてその人に向かってその人を侮辱するのは忍び得ざることである。
 だがいわねばならぬ、いわねば手塚はなぐられる、なぐられるのはかまわないとしたところで、手塚は自分の悪事を悪事と思わずにますます堕落するだろう、かれには美点がある、だが欠点が多い、かれは美点を養わずに欠点をのみ増長させている、かくてかれは終生救うべからざる淵にしずむだろう。
 こうかれは決心した。かれはすぐ手塚の家をたずねた。ちょうど勝手口に手塚の母が立っていた、光一は手塚の母がおりおり三味線を弾いているのを見たことがあるので、いつもなんとなく普通の人でないような気がするのであった。
「手塚君は?」
「まだ学校から帰りません」と母がいった。
「いいえお帰りになりました」と女中が横合いから声をだした。
「そうかえ」
「お着かえになってすぐおでましになりました」
「どこへいったんですか」と光一がきく。
「さあどこですか、なんだか大変にお急ぎでいらっしゃいました」
「活動じゃないかえ」と母がいった。
「そうかも知れません」
 光一は一礼して外へ出た。
「活動だ、それにちがいない」
 光一は手塚の母が平気で、「活動じゃないかえ」
 といった言葉をおもいだした。
 あの家では活動を見ることを公然ゆるしていると見える、お母さんが承知の上なのだ、それに対して学校がいくら活動を禁じてもなんの役にもたたない話だ。
 一体あの家では手塚が学校から帰ったかどうかもよく知らずにいる、それでは手塚が外でなにをしてるかを知らないのも無理がない。
「手塚は不幸な男だ」
 光一はふとこう考えると目が熱くなった、家庭に楽しみがないから、外に楽しみを求めるのだ、活動、飲食店、不良少女、遊びの友達! かくてかれはなぐられねばならなくなる。
 いろいろな感慨が胸に溢(あふ)れた、かれはそのまま足を活動小屋に向けた。
 光一とても絶対に活動写真を見ないではなかった、かれは新聞や雑誌や世間のうわさに高いものを五つ六つは見にいった、だがかれはいつもたえきれないような醜悪を感じて帰るのであった。

 活動館の前には五色の旗が立って春風にふかれている、そこからいかにも無知な子守りや女工などが喜びそうな楽隊の音がもれて聞こえる、小屋の前の軒の下に写真がいくつもいくつも掲げられてその下に大勢の子供、米屋の小僧、小料理屋の出前持ち、子を背負う女中などが群れていた。光一が第一に不愉快なのは切符の売り場に大きなあぐらをかいてしりまであらわしているほていのような男が横柄な顔をしてお客を下目に見おろしていることである、それと向かいあって栄養不良のような小娘が浅黄の事務服を着てきわめてひややかに切符を受けとる。光一はそれをがまんしなければならなかった。
 暗い幕をくぐって中にはいると正面のスクリーンに西洋人の女の顔が現われた、うす明かりに見物人の頭が見える、土曜日のこととてお客は一ぱいである。光一はようやく中ほどへ進んでようやくこしかけの端に腰をおろした、手塚がきていやしまいかとあたりを見まわしたが暗がりで見えない。

 場内にはたばこの煙がもうもうと立ちこもって不潔な悪臭が脳を甘くするほどに襲うてくる、こしかけといってもそれはきわめて幅のせまい板を杭にうちつけたもので、どうかすると尻がはずれて地にすべりこみそうになる、それを支えているのはなかなか容易なことではない、なぜこんな不親切な設備をするかというに、三等席を不自由にしておくとお客はすぐ疲れて二等席に移るからである。お客を苦しめて金もうけをしようという興行師の策略だからたまらない。
 実際興行師ばかりが悪いのでない、お客そのものも、そんなことは平気である、そのかわりにかれらはたばこものめば、物も食う、みかん、塩せんべい、南京豆キャラメル、かれらは絶えず口を動かしている。みかんなどは音がせぬから無事だが、隣席の人が塩せんべいをボリボリ食うのでその音だけでも写真を見る興味を減ずることおびただしい、いろいろな食物から発する臭気やたばこの煙や不潔な身体から発する熱気が混合して一種のにごった空気となり、人間の鼻穴や口腔から侵入するために、大抵の人は喉の渇きを感ずる、ここにおいてラムネを飲んだりサイダーを飲んだりする。足元はどうかというとみかんの皮や南京豆のから、あらゆる不潔物ではきだめのごとくみだれている。
 かくのごとく無知で不行儀な客を相手にするのだから興行師もそれ相当に不親切をつくすことになる。

「こんなきたないはきだめによくがまんができるものだ」と光一は思った。
 写真は西洋のもので、いやにきらきらと針のような斑点が光って見えるおそろしく古いものであった、光一はだまってそれを眺めた。ひとりの男とひとりの女が現われて肩に手をふれあった。見物人は声を挙げて喝采した。光一は思わず目を閉じた。それはいやしくも潔白な人間が目に見るべからざる不純な醜悪な光景である。
「ばかやろう!」
 見物人の拍手の音の中でわれがねのようにどなったものがある。
「毛唐のけだものめ、ひっこめ」
 声は彰義隊であった、かれは光一のちょうど鼻先にじんどっていた。
「おい」と光一は肩をたたいた。
「おう」
 彰義隊はふりかえった。

ああ玉杯に花うけて

「きてるのか」
「うむ、きみが忠告するはずだったが、おれはどうしてもあいつをぶんなぐらなきゃ腹の虫がおさまらないからやってきた」
「待ってくれよ、ね、決議にそむいちゃいかんよ」
「いや、おれはなぐる、忠告なんて手ぬるいことではだめだ、あれを見い、毛唐人は犬やねこのようなまねをしてそれが愛だというんだ、おれはそれが気に食わねえ、日本の写真はそのまねをしてるんだぜ、日本の役者……そうだおれはなにかの雑誌を読んだがね、米国では人間のうちで一番劣等なものは活動役者だって……そうだろう、劣等でなければ、あんな醜悪な動作をしてはずかしいとも思わず平気でやっておられんからな、けだものめ」
 あたりの人はみなわらいだした。
「なにをわらうかばかやろう、おまえ達は趣味が劣等だから劣等なものを見て喜んでるんだ、うじ虫がくそを臭いと思わないように、おまえたちは活動写真を劣等だと思わないんだ、気の毒なやつだ、ばかなやつだ、死んでしまう方が国家の経済だ、やいそこにいる会社員見たいなやつ、帽子をぬげよ、そんな安っぽい帽子をおれに見せようたっておれは見てやらないぞ、インバネスを着やがってするめじゃあるまいし、やい女、ぼりぼりせんべいを食うなよ」
 彰義隊はすっかり昂奮てどなりつづけた。
「もういいよ、どなるのはよせよ」と光一はなだめた。
「おれだってどなりたくはないさ、だが……ああ女がでた、あれはなんとかいう女なんだね、どうだ、毛唐の面はみんなさるに似ているね」

 写真はおわった、場内が明るくなった。彰義隊は立ちあがって前後左右を見まわした。光一も同じく見まわした。かれは二階の欄干(らんかん)にひたと身体を添えて顔をかくしている手塚の姿を見た、はっと思ったがすぐ思い返した、いまここで彰義隊に知らしたら大さわぎになる。
「いないね」と彰義隊がいった。
「いないよ」
「畜生め、どこかにかくれてるんだ」
 こういったときふたたび電灯が消えた。
「この間に手塚が逃げてくれればいい」と光一は思った。とこのとき彰義隊は拍手喝采した。
「やあやあ、近藤勇だ、やあやあ」
 かれは「幕末烈士近藤勇」という標題を見て拍手したのであった。とすぐちょんまげの顔が現われた。
「あれは近藤勇か」と光一がきいた。
「ちがう、近藤勇はあんな懦弱(だじゃく)な顔をしておらんぞ」
「きみは近藤勇を知ってるのか」
「知らんよ、だがあんな下等ないものような面じゃない」
「元来ちょんまげの頭は下等なものだよ、ぼくはあれを見るとたまらなくいやになる」
「それでも近藤勇ならいいよ、国定忠治だの鼠小僧だの、博徒やどろぼうなどを見て喜んでるやつはくそだめへほうりこむがいい、おれは近藤勇だ」
 だが彰義隊君の期待するような近藤勇は現われなかった、のどに魚の骨を刺したような声で弁士は説明した、それによるといものような面は近藤勇なのである。
「だめだだめだ」と彰義隊はまたもや憤慨した。
「そら敵がきた、足をくばって、足、足! 足を……右足を軽くせんと横から斬りこまれたときに体が固くなるぞ、ああああだめだ、あの役者はすきだらけだ、あんな近藤勇があるもんか、ああばかッ、上段にふりかぶるやつがあるか、手元につけこんで胴を斬られるぞ、ばかッ切っ先がさがってる、切っ先が、そんな剣客が、ああああばかばかばか」
 彰義隊があまりに憤慨するので周囲の人々はこそこそと逃げてしまった。実際彰義隊の目から見ると……光一の目から見てもこの役者の剣闘はめちゃめちゃなものであった、それでも見物人は喝采していた。

「おれは帰る」と彰義隊は立ちあがった、「ばかばかしくて見ておられん」
 彰義隊はかんかんにおこって帰った、光一はほっと溜め息をついた。そうしてしずかに二階へあがった。暗がりの欄干のそばに手塚は頭から羽織をかぶって一生懸命にスクリーンを眺めながら声をかけている。
「いよう、大統領!」
 その隣にいた小さい女の子が皮もむかずにりんごをかじっている、その隣で手塚より首一つだけ背の高いろばとあだ名されてる青年が奇妙な声で叫んだ。
「いよう、せいちゃん!」
「清(せい)ちゃん、しっかり!」と手塚は叫んだ。近藤勇に扮した役者は清ちゃんという名前なのだ。手塚はこういう場所で、役者やなにかの事をくわしく知っているということを見物人にほこりたいのであった。
「手塚君」と光一は声をかけた。手塚はふりむいたがすぐ横を向いた。
「手塚君」と光一はそばへ歩みよったときろばのひざに足をあてた。
「痛えな、気をつけやがれ」とろばはいった。
「失敬」
 光一はあやまった、ろばは中学を二度ほど落第して退学してから、ぶらぶら家に遊んでは手塚とともにどこへでもいく男である。
「手塚君、ぼくはちょっときみに話したいことがあるんだが外へでてくれんか」と光一はいった。
「いやだ」と手塚はいった。
「ちょっとでいいんだよ」
「いやだというものを無理にひっぱりださなくたっていいだろう」とろばがいった。
「大事なことだからさ、でないときみの身体が危ないんだ」
「いやにおどかしやがるね、どうしようてんだ、手塚をなぐろうてのか、面白いなぐってもらおう」
 ろばはほえた。
「おまえはだまってろ」と光一はきっといった。「おまえに用があるんじゃない、手塚に用があるんだ」
「なにを?」
「喧嘩か、喧嘩するなら外へでてやろう、ぼくが手塚と話をすますまで待て」
 光一はこういってじっとろばの顔をのぞいた、ろばはだまった、そうして隣席の女の子がかじりかけたりんごを取ってがぶりとかじった。
 手塚は光一の権幕におそれてしぶしぶ席を立った。ふたりは外へでた。と向こうのくだもの屋の前で彰義隊がひとりの学生と話をしていた。光一はハッと思った。
「手塚隠れろ、荷車の横を歩いていこう」
 ふたりは彰義隊に見つからぬように群衆にまぎれて材木屋の前へ出た。

ああ玉杯に花うけて

「なんの用だ」と手塚は不平そうにいった。
「きみは制裁を受けなきゃならなくなったんだ、その前にぼくは一応きみに忠告する、ぼくの忠告をきいてくれたらぼくは生命かえてもきみを保護しようし、また学校でもきみをゆるすことになっている」
「ゆるされなくてもいいよ、ぼくはなんにも悪いことをしない」
「それがいけないよ、なあ手塚、人はだれでも過失があるんだ、それを改めればそれでいい」
「ぼくに改めるべき点があるのか」
「あるよ、手塚、学校ではね、このごろ不良少年があるといってしきりにさがしてるんだ、その候補者としてきみが数えられている」
「ぼくが不良?」
「きみはよく考えて見たまえ」
「ぼくは考える必要がない」
「じゃ君、活動へいくのは?」
「活動へいくのが不良なら、天下の人はみな不良だ」
「そうじゃない、きみはなんのために活動へいくのだ」
「面白いからさ」
「面白いかね、あんな不純なもの、あんな醜悪なものが面白いかね」
「人はすきずきだよ、他人の趣味に干渉してもらいたくないね」
「いやそうじゃない、ぼくはきみと小学校からの友であり同じく野球部員である以上は、きみの堕落を見すごすことはできない、ねえ手塚、きみは活動が好きだから見てもさしつかえないというが、好きだからって毒を食べたら死んでしまう、活動はもっとも低級で俗悪で下劣な趣味だ、下劣な趣味にふけると人格が下劣になる、ぼくはそれをいうのだ」
「活動は決して下劣じゃない」と手塚はいった、かれは光一のいったことが充分にわからないのである。
「じゃきみは活動のどういう点がすきか」
「近藤勇は義侠の志士じゃないか」
「そこだ、きみは近藤勇を十分に知りたければ維新の史料を読みたまえ、愚劣な作を愚劣な役者が扮した近藤勇を見るよりも、専門家が調べた歴史を読み、しずかに考える方がどれだけ面白いか知れない、活動の小屋は豚小屋のようだ、はきだめのようだ。あんな悪い空気を呼吸するよりも山や野やただしは君の清浄な書斎で本を読むほうがどれだけいいか知れない、活動なんていやしいものを見ずに、もっとりっぱな趣味を楽しむことはできないのか、高尚で健全で男性的な趣味はほかにいくらでもある、趣味が劣等だと人格も劣等になる、きみはそれを考えないのか」
「ぼくは劣等だとは思わない」と手塚はくりかえした、光一はどうしても高尚な意義を理解することができない手塚の低級にあきれてじっと顔を見つめた。歴史を読み聖賢や英雄の伝記を読み、山に野に遊び、野球を練習する。それだけでも活動よりはるかに面白かるべきはずなのに、どうして見る見るはきだめの中におちていくんだろう。
「気の毒だ、かわいそうだ」
 光一は胸一ぱいになった。

「じゃ活動のことはそれでよしにしよう、第二にきみは飲食店へ出入りするそうだね」
「ああ、それがいけないのか、だれだって飲んだり食ったりするだろう」
「手塚君、ぼくだって人が洋食を食えば食いたくなる、そば屋へはいることもある、だがね、学生はどこまでも純潔でなければならないのだ、飲食店は大抵大人にけがされている、不潔な女が出入りする、学生はそういう……少しでも不潔な場所へいってはいけないのだ、身体がけがれるからだ、いいか、りっぱな玉はきりの箱に入れてしまっておくだろう、学生はけがれのない玉だ、それをきみはどぶどろの中に飛びこんでるのだ、きみは家にいれば洋食でもなんでも食える身分じゃないか、なぜ食べたければ家で食べないのだ、学校でやかましくいうのも形式ではない、そんなくさった趣味を喜ぶようにならないようにするためだ、きみのことばかりをいうのじゃないよ、ぼくだっておりおり大人のまねをしたいと思うことがある、だがそれはいやしいことだと思いかえすだけだ」
「いやだ、ぼくはぼくの銭でぼくの好きなところへゆくのに学校がなにも干渉するにはあたらないじゃないか」

「手塚君、きみはどうしてもぼくの忠告をきいてくれないのか」
「いやだ、ぼくに悪いことがないんだ」
「それではきみ」と光一は憤然として目をみはった。「ぼくはきみを侮辱したくないからこれだけいって後はきみの反省にゆずるつもりでいたのだ。が、きみがあくまでもがんばるならぼくはいわなきゃならん」
「なんでもいうがいい」
「きみの心は潔白か」
「無論だ」
「良心に対してやましくないか」
「やましくない」
「きみは不良少女と遊んでるね、いまきみの隣にいてりんごをかじっていた女の子はなんだ」
「あれは……」と手塚はどもった。
「あれはどろぼうして二、三度警察へあげられた子じゃないか」
「あれは……ろばの友達だよ」
「ろばはきみの親友だろう」
 手塚はだまった。春の日は暮れかけて軒なみに灯がともりだした、積みあげた材木にかんなくずがつまだちをして風にふかれゆくとはるかに豆腐屋のらっぱがあわれに聞こえる。光一は手塚の肩に寄り添うてその手をしっかりとにぎった。

「手塚! いま聞こえるらっぱはだれだか知ってるだろう、青木だ、青木は学校へ行きたくても銭がない、小学校にいたときはかれはいつも一番か二番であった、きみやぼくよりも頭がいいのだ、学問をしたらぼく等よりはるかにりっぱになる人間だ、それでも家が貧乏で父親がないために、毎日毎日らっぱをふいて豆腐を売り歩いている、きみやぼくは両親のおかげで何不自由なくぜいたくに学問しているが、青木は一銭二銭の銭をもうけるにもなかなか容易でない、きみが活動を見にいく銭だけで青木は本を買ったり月謝を払ったり、着物も買うのだ、きみの一日の小遣いは青木の一ヵ月働いた分よりも多い、そんなにぜいたくしてもきみやぼくはありがたいと思わない、あんなに貧乏しても青木は伯父さんをありがたいと思っている」

「なあ手塚、青木は活動も見ない、洋食も食べたことはない、バイオリンもひかない、女の子と遊びやしない、かれはただ一高の寮歌をうたって楽しんでいる、不器用な調子はずれな声をだして、ああ玉杯に花うけてとうたっている、それだけが彼の楽しみだ、この楽しみに比べてきみの楽しみはどうだ、活動、洋食、バイオリン、君の楽しみは金のかかる楽しみだ、青木は堤の草に寝ころんで玉杯をうたってるとき、きみはがま口から銀貨をつかみだして不良共にふりまいている、どっちの楽しみが純潔だろう。
 ぼくはきみを攻撃する資格がない、ぼくだって青木に比べるとはるかに劣等だ、劣等なぼくらが不自由なく学問しているのに、優秀な青木は豆腐を売っている、もったいないことだ、もしぼくらが親を失い貧乏になったら青木のごとく苦学するだろうか、きみはいつも青木を軽蔑するが、それがきみの劣等の証拠だ。活動に趣味を有するものは高尚な精神的なものがわからない、なあ手塚、腹が立つなら奮発してくれ、ぼくのお願いだ、ぼくは一生きみと親友でありたいのだ」

 光一の言葉は一語ごとに熱気をおびてきた、かれは手塚の自尊心を傷つけまいとつとめながらも、次第にこみあげてくる感情にかられて果ては涙をはらはらと流した。
「柳!」
 手塚はぐったりと首をたれていった。
「堪忍してくれ、ぼくは改心する」
「そうか」
 光一は嬉しさのあまり手塚をだきしめたが急に声をだしてないた。手塚もないた。日は暮れてなにも見えなくなった。横合いの小路をらっぱをふきふきチビ公が荷をゆすってうたいゆく。
「……清き心のますらおが、剣(つるぎ)と筆とをとり持ちて、一たびたたば何事か、人生の偉業成らざらん、ぷうぷう、豆腐イ、ぷうぷう」

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