エントリー「元反戦高協さんへのレス(2」中に、戦旗西田派(現:統一委派)の諸君をを揶揄したと誤解されかねない表現が一部にありました。
問題の表記は、これに続く中核派とのエピソードを書くための枕として書いたものであり、また「当時こう思っていた」という歴史的な記述ではありますが、その詳しい根拠を示すこともなく、結論だけをこのように書く行為は、相手としても反論のしようがない単なる「罵倒」に該当したと思います。
ここに、西田派の皆さんに謝罪申し上げると共に、一連の文章はエントリー本文から削除いたします。なお、今後の反省と事実経過の説明のため、以下に削除した文章の全文を残しておきます。(西田派に言及した部分を削除すると、その後のエピソード部分も唐突になるように思いますので、同時にこちらに移動しました。
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なお、はっきり言って、当時の共産同戦旗派(俗称:戦旗西田派)については、私らは中核派の植民地党派と思っていました。
余談ですが、中核が共有化問題で党派闘争をしかける前に、西田派ではなく、私達(戦旗・共産同)に対して、党派協定による共闘話をもちかけてきました。たしかインターと手を切って中核と組め、断るなら西田の方と連合するぞという話でしたよね。最初は現闘(団結小屋)に中核の現闘の方が訪問して会談を申し込まれたと思います。その時、私はちょうど現場に居合わせました。低いどすのきいた声で「革共同です」と言って入ってこられたのを覚えています。
はっきり言って、私らとインターは、三里塚の闘争方針を巡っては、ことごとくと言っていいほど対立するようになっており、実際問題、中核派との方が闘争方針が酷似していました。にもかかわらず私たちが対立するインターとの共闘継続を選び、中核の申し出を断ったのは、一言で言って党派的な行動と主張の自由が大切だったからです。インターとは(その当時は)ガンガンに喧嘩しながらでも一緒にいられるし、お互いになんの遠慮もいらないし、それでも闘争現場ではスクラムを組んで戦うことができた。中核とはそれができそうもなかったからです。いわば運動の多様性と独自性の保障を優先させたわけです(と、私は理解しています)。
今から考えれば、あれは私達に差し伸べられた、中核からの最後通牒でもあったんでしょうね。私達は分裂後の熱田派の動員力の4割以上を占めていましたから、もしあの時に私達が中核の「引き抜き」に応じていたら、分裂と同時に熱田派は非常に小さい勢力になっていたはずです。
まあ、余談はこれくらいにしておきましょう。
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