※この文章は2003年04月16日に某掲示板にレスとして投稿したものです。
はじめに
蔵田さんの文章について、まっぺんさんのような論文を書く能力も、またその資格も私にはありません。ただ「読書感想文」のような駄文を書いてみましたので、少々長いかもしれませんが、他に見せる場所もありませんので、ここへの書き込みとして失礼します。
なかなかレスもできませんので、無視していただいたほうが楽チンなのですが(^_^;罵倒したい方がいれば頭をたれて拝読させていただきます。
また、今日は休みなので一晩で書き上げたままの文章です。読み返すと投稿するのが嫌になりますので、目をつぶってこのまま載せます。誤字脱字などあれば御容赦ください。
まず全体的に蔵田さんの回答書は、「提案」というには多少章立ての統一性に混乱が見られるように思います。ただ、それは前田さんの質問状に対する「回答」という性格からは仕方がないものかもしれません。そこでこの「回答」に該当する部分を捨象し、純粋な「提案」として蔵田さんの文章を私なりに理解すると、次のような構成になります。
1)内ゲバとそれを擁護する論理に対する評価と批判
2)蔵田さんの方法論(「関係性の貧困」を克服せよ)
3)内ゲバを克服する方策としての「排除の論理」への評価
以下、その内容について検討し、それに対する私なりの感想を書きます。
「内ゲバ」の定義
まず蔵田さんは内ゲバの定義を「大衆的実践フィルター」を介さずして「相手党派の理論や思想の修正、変更、解体を迫ること」と規定し、政治党派の自己変革やその思想を物質化するのは大衆的実践フィルターしかないのであるから、内ゲバの論理は「自らの理論や思想の物質力への転化を否定する自己否定的行為」であり、革命運動の質としては衰退と破産を決定づけられていると論じておられます。
この「大衆的実践フィルター」とは私流に言えば「人民大衆の判断と評価」ということになると思いますが、蔵田さんは、この大衆的実践フィルター(党派の行動への大衆の判断や支持)を経ずに、自らの理論や思想を物質化しようとすることの愚かさを、「新左翼諸党派が権力を掌握している自治会権力の現状と実態」を例にあげて説明されておられます。すまわち、このような「他党派や無党派活動家に対する強権的ゲバルト行使」によって維持されている権力は、かつて新左翼がそれを否定することを歴史的使命として登場してきたはずのスターリン主義そのものであり「この似而非なる革命に、己の未来を託する人民が存在するだろうか。決して否である」と断罪し、「自己否定に等しい欺瞞と歴史への背理」と結論づけておられます。
また、その後に続く「(革命後の)人民と複数の政治党派をつなぐ『権力』を媒介にした関係性は、政治党派が獲得し、体現するイデオロギーの質に深く逆規定される」などの記述から、蔵田さんは「前衛党が領導する共産主義革命とプロ独権力」を念頭に置いておられることがわかります。 そして前衛党たらんとする諸党派に「壮大な歴史変革の大事業の主役は人民である」ことを忘れず「政治党派が具有する政治的ヘゲモニー、革命の権力、プロ独権力論を含めて」「本質的解明が問われ続けなければいけない」と自らを含める形で戒め、呼びかけておられます。ここで初めに戻って「大衆的実践フィルター」という概念が蔵田さんの第一のキーワードであることがわかります。
「内ゲバ」は左翼全体の問題である
次にこのような内ゲバの論理に対して、どのように対抗していくべきか。 ここでの蔵田さんの視点は、大衆的実践以外の方法で他者に変革を迫ってきた、他ならぬ「私達日本左翼運動」の問題という、徹底した一元論で貫かれています。
これは後述のまっぺんさんの「内ゲバ主義者とそれに反対する私達」という二元論と好対照となっています。蔵田さんの文章ではこの一元論があたかも当然の前提のように論が進められており、そのため、まっぺんさんの「内ゲバ主義者の側に屈服し支持した」という二元論からの批判が当然のこととして出てくるわけです。
第四インター的な「反内ゲバ主義」の潮流は、非常に有力な主張として存在していることは蔵田さんもご存知のはずなので、このへんは蔵田さんの説明不足のために議論が噛み合っていないように感じるのは非常に残念です。 私としては内ゲバ問題研究会の皆様には、中核派とSENKI派をも含めた所での「日本左翼運動における内ゲバの克服」という蔵田さん路線と、市民運動などとの共同歩調を前提とした「大衆運動からの内ゲバ党派の排除」というまっぺんさん路線の生産的な論争を期待しています。
「内ゲバ」発生のメカニズム
さて、蔵田さんの主張に戻りますと、「私達左翼の内部問題としての内ゲバ」の克服のために、第二のキーワードとして「関係性の貧困」というものが出てきます。
このキーワードを、自己の内ゲバに対する立場の説明なしに冒頭にもってきたがために、議論が噛み合わない原因ともなっていると思うのですが、それはともかく、蔵田さんの論からすると、「相手に対する誹謗、中傷、暴露などを含めた批判の目的、批判の正当性の根拠、さらには批判する側の政治的実践上の立場性が明確でない批判」の応酬という、(私に言わせれば)日本の左翼の昔っから、かつ根っからの不毛な政治風土こそが内ゲバを生み出す温床になっているということになります。
これを第一のキーワード(大衆的実践フィルター)から説明すると、「批判の目的や、自己の実践上の立場、そこからくる批判の正当性が明らかでない誹謗、中傷、暴露などは、大衆的実践フィルターをすっとばして他党派に理論や思想の修正、組織や運動の解体を要求する行為」となります。
そしてこれが相互の応酬によって互いの批判の内容を「相互逆規定」してエスカレートしていき、遂には「自己防御的な暴力的反批判を誘発させてしまい」さらにはその暴力(内ゲバ)の行使の正当性に、少なくとも組織内的には「一定の根拠を与えてしまう」これが蔵田さんの描き出す「内ゲバ発生のメカニズム」であり、いったん発生した内ゲバが、いつまでも延々と続きがちになることの解明です。
なるほどこれは党派の政治機関紙などによくありがちな、読むに耐えない決めつけとレッテル貼り、あげ足取りだらけの「他党派批判」の応酬を見れば、なるほどとうなずけるものがあります。
蔵田さんは、根っからの「左翼の一員」として、左翼党派同士の内ゲバにを深刻に受け止め、それを念頭において書いておられることは理解するし、そのメカニズムをうまく説明しておられるとも思います。しかしながら、それでは「党派が(自分に反対する)個人や大衆に加える暴力」はどう説明するのかという問題があります。
左翼でも何でもない一般大衆でも「批判の目的や自己の実践上の立場」を明確にしなくては、「単純な感想」としての批判もできないのでしょうか。このへんは蔵田さんの理論ではうまく説明できません。まっぺんさんの論文はこの点を非常に鋭く突いておられる所に意義があるのだと思います。
一応ここでは、蔵田さんの文章全体の大意から、最大限善意に(かつ勝手に)解釈すれば聞こえてくる、「それは内ゲバではなくスターリン主義の問題だ」とか「そんなの許されないのは当たり前で内ゲバ以前の問題だ」という蔵田さんの声を聞き流しつつ、蔵田さんの用意した土俵に乗って「左翼の内部問題」として読み進めていきましょう。
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「内ゲバ」克服の方向性
さて、こうして解明した内ゲバ問題の克服のための方策として何があるか。 蔵田さんの論理にそっていけば、もちろんそれは「関係性の貧困の解消」であり、不毛な批判のための批判ではなく、批判相手を大衆的実践フィルターの場に引きずり出し、大衆の前で自らの理論や思想の物質力への転化を競わせることで正当性の検証を行うということになるのは、論理的に当然であり必然的な結論です。
ここで蔵田さんは「関係性の貧困」に対置する第三のキーワードとして「相互批判の協働性と目的意識性」というものを持ち出されます。「根元的意味を迫る他者批判という誠実な批判と反批判行為の意味は、相互批判を媒介にして初めて有用性をもち、相互に何が獲得できて、何が共有できるかという協働性と目的意識性にある」と。
実は蔵田さんの提起は、実質的にはここで終わっているように思います。 結論としては「左翼の仲間の皆さん。お互いに排除の理論はやめて、相互に問題を共有して高めあい、運動の前進につながるような建設的な討論をしましょう。そしてその結論は大衆の判断にゆだねましょう」と、内ゲバを行っている部分も含めたすべての左翼勢力に呼びかけておられるようです。そして「内ゲバを批判している私達こそが、何よりもその模範を示さねば」という意識も感じられます。
基本的には方向性と問題意識だけが示されており、具体的な「運動方針」のようなものは何もありません。言葉は難解ですが、最終的な結論はむしろあっけないくらい当たり前で穏当で「それができれば苦労はないよ」的なものです。
「反内ゲバ主義」批判
後は「排除の論理」すなわち「反内ゲバ主義」への批判にあてられています。それは
- 内ゲバの行使をただ外形的に「堕落した暴力」として批判するのは、確かにその通りで、内ゲバは無条件に弾劾されるべきではあるが、それだけでは不充分。
- 内ゲバを行わないという徳目を相手に期待するのはこちらの一方的な願望にすぎないから、内ゲバ批判の論理になり得ない。相手は批判者への反批判の方法の選択につきフリーハンドであり、無限定的な存在である。
- だからこそ、内ゲバ批判の論理を構築するためには、
- a)内ゲバを行った党派(行使された内ゲバの意味)、
- b)内ゲバを受けた党派(相手に対して行っていた批判の内容と質)、
- c)それらを批判する自分自身を加えた第三者の立場、の三者を総合的に考察して論理展開しなくてはならない(その時こそはじめて内ゲバは否定の対象として大きくクローズアップすることが可能となる)
- 内ゲバをたんに外形的行為に限定して批判しても、それは今まで内ゲバを発生させてきた温床である関係性の貧困(批判と反批判がもつ相互媒介的関係性や相関性を一方的に否定する行為)と同じであり、敵対と報復の連鎖を断ち切る論理になり得ない。その外見上の正当性、主観的意図に反して、かえって新たな内ゲバを生み出す土壌を準備してしまう。
上記のような問題意識をもつ蔵田さんが、反内ゲバ主義の立場からする「内ゲバ党派を全大衆戦線から排除しよう」という提起に異を唱えるのは論理的に当然の帰結です。
それは(蔵田さんの目からみれば)日本の左翼運動全体の不毛な政治風土全体を変えようという蔵田さんの主張に、真っ向から反対し、「関係性の貧困」に対して「関係性の断絶」を対置するものにしか見えないからです。
それは「反内ゲバ主義」という枠組みへの大衆の囲い込みであり、そんなことをしていては、いつまでたっても日本の左翼運動から本当には内ゲバはなくならないし、かえってそれを温存する下地を再生産し、排除を推進することによって拡大される党派間の軋轢は、大衆に政治的アパシーと絶望感を与えると。
これは私レベルの運動体験者ならある程度は理解できると思います。まだ党派に結集前の「大衆」であった頃の自分を想起してみると、中核派の革マル派に対する内ゲバは非常に困った問題ではありましたが、70年安保を最も戦闘的に闘い、権力に最も恐れられる党派として、全否定の対象ではありませんでした。蔵田さんの言う通り、すべての大衆戦線からの排除までは思いませんでした。
もしあの頃、内ゲバ問題だけを争点にして、中核派を中心とするブロックと、インターを中心とするブロックに分かれてギンギンに睨み合っていたら、あらゆる新左翼系の集会がその二つに分裂して、そのどちらかを選ばないと何の運動も成り立たなかったら、やはりそれは「熱田派と北原派のどちらを選ぶか」くらい気が重いことだったに違いありません。はっきり言って失望していたでしょう。どちらの陣営にも献身的に本来の闘争を闘っている人がいるのですから。
ただ、これはせいぜい80年代前半までの話です。現在ではこういう当時の私の感覚を説明しても理解できる人など、運動家の10人に1人もおりますまい。まっぺんさんの言う通り、「いま我々の眼前に出現している反戦運動は、まさに『階級意識』などまったく持たない人々が圧倒的多数」なのであり、そこでは「内ゲバなんてやっている『恐い人』なんて参加してもらわなくて結構」という理屈のほうが、よほど説得力があるのです。
左翼同士は排除し合わないで切磋琢磨するけれども、ファシストの運動への参加はそりゃ当然だめでしょという前提で書かれた発想を見ても、やはり蔵田さんの感覚は、失礼ながら70年安保で止まっているようにも見受けられます。
これで蔵田さんの言いたいことは全部網羅して見て来たと思います。総じて蔵田さんは、そんなにめちゃくちゃなことを言っているとも思いません。
感想
まっぺんさんは「(白井氏も佐藤氏も)襲撃されてもしかたがないと氏は主張している」とか「内ゲバ襲撃者の主張にこそ絶対的価値があると言っている」などと解釈されておられますが、贔屓目にみてもそれはやや拡大解釈にすぎる。また、前半の蔵田さんの提起と、後半の内ゲバ批判のつながりを「まったく何の脈絡もな」いとは思いません。上で述べたように、むしろ論理は一貫しています。
しかしながら、明らかに特定の経験をした、今となっては狭い範囲の人にしか通用しない感覚を前提に文章が構成されています。私のようにブント系の左翼党派活動を経験した者には、ある意味なじみのある論理展開ですが、一般の市民やインター系の経験者には、むしろまっぺんさんのように受け取る人のほうが多いと思います。
誰かが忠告してあげて「革命的左翼の同志友人の諸君!」的感覚を捨て、予備知識のない市民に説明するような感覚をもたない限り、今後の討論ではますます深みにはまって、まっぺんさんのような「市民の論理」に追い詰められていかれるように思います。
とりわけても「反批判者の側が選択する反論や反批判のための手段を選ぶ際の選択基準は、批判者による『批判の手段』に限定されるのではなくて『批判の内容』をも含む。その場合の反批判者が選択する反論や反批判の方法・手段は、言論や出版による平和的手段から暴力的手段に至るまでフリーハンドであり、無限定的である」というくだりは、あまりにも舌足らずであり、まっぺんさんのように解釈されても仕方ないと思います。
蔵田さんの立場は、たとえて言うなら「犯罪の増加への防衛」をみんなが論じている時に、「犯罪者を生み出すような社会が悪い」と言い出すようなものであり、「テロの撲滅」を議論している時に「社会的矛盾こそがテロに正当化根拠を与えている」などと主張するようなものです。
決して間違ってはいないのですが、では実際にどうやって犯罪を撲滅するのかという具体策になると、話が大きくなりすぎて速効性や実効性に難があるのが常です。「犯罪者にも犯罪に走らなくてすむように暖かい手を」などと言えば「犯罪者やテロリストを擁護している」とも必ず言われます。そしてたいていは論争に負けてしまいます。
それに蔵田さんが想定しているであろう「新左翼党派だけで会場を埋めつくし、中核派も解放もインターも含めた共同行動が実現。会場ではお互いの発言にヤジが飛び交うが、殴り合う者とてなく、会場を出れば共にスクラムを組んで権力の壁にぶちあたる」などという光景は、残念ながら、もう二度と見ることがないかもしれません。
しかしながら、左翼の立場からの内ゲバ論の総括だけは、その責任においてしておかなくてはなりません。その意味で「新左翼創成の歴史原基にさかのぼって体系的に考察していくべきであり、この問題については近く別な機会に総括的に提起をするつもりである」という蔵田さんには期待しています。それは「日本新左翼」などという狭い範囲ではなく、内ゲバ政治の始祖たるスターリンと国際共産主義運動、さらにはそれを内部から生み出したマルクスやレーニンの思想にまで遡って考察していただけたらと思っております。
以上、あまりの拙さに暗然としつつも私の感想といたします。
(参考)蔵田さん論争参考リンク集
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