先の自転車を買った話に続いて、ブログではなく会員日記のほうに投稿しようかと思ったけど、たまにはブログにも軽いめの話題もいいかと思い、こちら(と mixi )に掲載してみるテストでおます。日記とブログの使い分けって難しいね。ほかにも告知やらニュース紹介やら動画や掲示板とかありますが、ほとんどの人はこれら全部をブログ一本でやっておられるんでしょうね。細かい更新はトップの更新案内にもいちいち載せていませんし、他にもいろいろあるんで、ブログが更新されていなくても、たまにはサイト全体を見て回ってくださいね。
◆「水戸黄門」の世代交代にしみじみ
さて、ご自身の意向でまもなく「水戸黄門」を降板する由美かおるさんの後継は、雛形あきこさんだそうです。先月末頃に決まったようですが、テレビや芸能ニュースを見ない私は全然知りませんでした。さらに助さん格さんも、それぞれ東幹久さんと的場浩司さんが起用されちまったそうです。じいちゃん世代は由美さんら「去っていく」人にしみじみしていて、マスコミもそういう報道が目立ちますが、私はむしろ新しく「来る人」のほうにしみじみしますね。
「フーテンの寅さん」および「ドラエモン」と並んで、日本人なら知らない人はいないだろう「水戸黄門」ですが、物心ついたから時から放映していた黄門さんは、子供の頃やはりどうしても「おじさんが見るもの」という印象が強かった。そのメインキャストが、自分の青春時代に人気だったかつてのアイドルと交代していく。これはちょっと感慨無量ですねえ。単に同年代の人だとかではなく、ずっとテレビで見続けてきた方という点が大きい。「あいつももうそんな歳になったか」みたいな。今まであまり考えたことがなかったけど、「そうか、おれもおじさんなのか」と思ってしまう。
黄門さんが里見浩太朗さんに交代した時は、普通に「里見さんも黄門さんをやる歳になられたか」としか思いませんでした。特に何の感慨もなかった。だからきっと今の20代の方も、その時の私と同じく、今回の配役にしたって、「ふーん」くらいにしか思わないんでしょうね。まあ、そう思っているあなたも、あっというまに私の気持ちがわかる歳になりますよ(笑)。私もそのうち同世代の人が黄門さんをやるようになった時には、おれも老齢に入ったのかとしみじみ思うことになるんでしょうが。
◆「今が青春」の由美さん
さて、降板される由美かおるさんですが、かねがね「いったいおいくつなのか」といぶかっていましたが、もう還暦前だったんですね。40代後半の私の歳で、ギリギリ彼女がアイドル女優だった時代の記憶がおぼろげにあるかないかくらいだと思う。ちょうど私が幼稚園にあがるか、へたすればそれより前?まあ、実際には小学校低学年頃の、彼女が中堅になってからの記憶と混同してごっちゃになっているんだと思います。今から思えば映画『同棲時代』のポスターだったと思うのですが、等身大(?)の後ろ向きのヌードポスターか何かが、スーパーの前にどんと置いてあったのをかすかに憶えています。とにかくそれくらい昔。
きっと由美さんへの大方の感想は「今までごくろうさまでした」だと思うのですが、ご本人は毎週の収録がなくなって、「ごくろさまでした」どころか、むしろこれからやりたいことがいっぱいできると、はりきっておられるそうです。「今は青春」なんだそうです。先日は数学者の秋山仁さん(63歳)との「熱愛報道」があり、アラフォーならぬ「アラ還愛」とか言われていました(本人は交際を否定)。いや、なんか、そういう「キャピキャピした老後」には、賛否両論(というよりは好き嫌い)があるかなと思うんですが、私としては素直に感服いたしました。由美さんよりずっと若い自分が枯れていてどうするんだと(笑)。
とにかく自分としては、無茶苦茶でエネルギーが溢れているという意味で、「いい歳してみっともない!」と言われるようなジジイになりたいんですよ。年取ってからもバンバン恋愛とかして、「じいちゃん、いい加減にしてくれよお!」とかほとんど悲鳴まじりに孫にたしなめられ、周囲からは大顰蹙かっているようなジジイが今の理想(笑)。もちろん援交だの買春だのはダメ。そういう意味ではない。もっと「ええ年こいて」と呆れられるような意味でですよ。でも今のままでは無理でしょう。どうも順調に枯れていってるのを感じます。きっと近所の人から、「いいおじいちゃんねえ」とかしみじみ言われるような、「良識」にあふれた温厚な年寄りになってしまいそうだ。この場合の「いい人(おじいちゃん)」は、「どうでもいい人」の略であることは言うまでもない。これではいかんなと。
◆団塊老人に期待してみる
その意味で、ちょうどこれから、これまで日本の経済的黄金時代を、ひたすら真面目に下支えしてこられた、いわゆる「団塊の世代」が老齢層に参入してくるですが、私はこの層に期待しています。とにかく従来の「老後」のイメージをひっくり返して、かき乱して、「老人」のイメージを一変させてほしいもんです。後に続く私の世代のためにも、先に耕しておいてほしい。この層は、とかく「全共闘」や「新左翼」のイメージで語られることのみが多いですが、別の面として、あらゆるジャンルでその後につながる「若者文化」の原型を作り出してきたご先祖様という側面がある。私のイメージでは、商業資本から独立し、それに先んじた意味での「若者文化」というのは、団塊世代ではじめて成立したという印象をもっています。
ですがこの層は、自分の子供の世代には、あまりに物分りがよすぎて「乗り越えるべき壁」や「権威」として立ちはだかるのは不得手でした。これは今の若い層にあまりよい影響を与えませんでしたね。「無条件の権威」という概念をもたずして、中途半端に自分の意思を通そうとするのは、実はかなり難しいし、時には見苦しくさえなります。その反動で、子供たちはカビの生えた古い権威を、自分の頭で考えて自力で乗り越える力を養うことができず、むしろ古い権威を自ら求め、何も考えずにその古い権威に寄り添って安心したがる腑抜さえ大量に生み出してしまいました。古い人々はそれを積極的に利用さえしたし、その風潮が社会の新陳代謝や活力を削いでしまいました。その流れが今の日本を形づくっていきました。
さらによく言われることですが、日本社会は権限を持った中堅世代には「責任」ばかりが求められて、自分で何かを作り出す「自由」が与えられていない。だからどうしても事なかれ主義に徹することを強要される。上の世代は団塊世代の可能性を徹底的に潰して、枠に押し込めることに全力を尽くしました。下の世代に続くものが現れなかったせいで、上の世代の目論見は基本的に成功したと思います。たまによっぽど才能のある人がその壁をぶちやぶってもてはやされるけれど、ごく普通の大部分の人々は、抑圧された企業社会の中で自分の居場所を守らざるを得なかった。
◆もう「責任」はいいんですよ
さて、団塊世代の皆様。いよいよそんな「責任」から解放される日がきたんですよ。それでも皆さんの世代はやはり大真面目に「責任」の呪縛から逃れられない思考の人が多いんでしょう。全共闘運動にしたところが、自分と社会に対する真摯な責任という発想(自己否定の論理)が根本にありましたもんね。けれど、もういいじゃないですか、今まで充分に責任責任と追い詰められて、どこでもかしこでも「失敗する自由」を与えられてこなかったんですから。失敗はイコール挫折や破滅と認識することを周囲から強要されてきた。そういう発想は新左翼運動内部における数々の悲劇にもつながっています。
ですがそういう失敗する自由のなかった皆さんの生き方は、後の世代は否定的に語っていますよ。なのに何を遠慮して、今更そういうクチバシの黄色い奴らに気を使ってやる必要があるんでしょう。覚悟のない中途半端な物分りのよさなんて、百害あって一利なしだったでしょ?そんなの感謝されるどころかバカにされるだけですよ。もう滅茶苦茶やってください。むしろ老齢こそ、皆さんの得意分野が活かせる時が戻ってきたんだと考えてもいいんじゃないですか。
かつて、それまで存在していなかった「若者文化」を創出したように、未だに存在していない「老人文化」を作り上げてくださいよ!世の商業資本どもは、皆さん方を標的にして、またぞろ「老齢世代をターゲット」にした戦略を、あれやこれや練っているようです。そんなトレンドはただの商業戦略であって、文化の名に値しません。そんなもんにとりこまれちゃっていいんですか、皆さん。商業資本どもがその後追いをせざるを得ないような、びっくらこくもんを作り出してくださいな。かつての「大人たち」が眉をひそめたように、今の若いもんに「じいちゃん、いい加減にしてくれ!」と悲鳴をあげさせるようなものをね。
どうせその後に続く私らの世代に、それらを継承発展させていくエネルギーなんてありゃしない。文化はみんな商業資本に回収されて、お行儀のいい「商品」になってしまい、大衆はあらかじめ用意されたその中から、できるだけ自分の好みにあうものを選んで「買う自由」が与えられるだけ。どうせそうなるんだったら、作り出されたものの半分も正しく残らないのだったら、今のうちにできるだけしっちゃかめっちゃかにしておかねばなりません。期待していますよ、団塊老人の皆様。つくられた「老人らしさ」やその範囲内での「良識」なんてどうでもいいですから、是非はじけてください。
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