10・10三里塚(成田)現地闘争報告(その3)ー農民のご自宅を訪問して

市東さん畑の現状 闘争報告その1その2の続きです。

◆農作業まで検問する機動隊

 大雨の中の監視行動の途中で、前回の6・27行動の後の、鈴木さんの援農でお世話になった現闘の方が、また軽トラックで迎えに来てくださり、いろいろ現地を案内してくださりました。だいたい前回のエントリで書いたようなことですが、団結街道が封鎖されてから後の、市東さんの畑への迂回路も通りました。封鎖前は「歩いて3分、走って1分」の距離だったものが、大雨の中とはいえ、車でもなかなか着かないので、あらためてその理不尽さを知ることが出来ました。

 いつも解散地点になっている現闘本部わきの、市東さんの畑に到着しましたが、そこもすっかり風景が変わっていました。空港会社は畑に通じる生活道路を封鎖しただけではなく、市東さんの畑を高いフェンスで取り囲んで封鎖していたんです。トラクターがやっと一台入れるだけの狭い入り口は開けてありますが、なんと、そこには完全武装の機動隊がいて、畑に出入りするためにはいちいち検問を受けないといけない!機動隊は「どこに行くんですか?」とか、すっとぼけたことを言っていましたが、完全に塀で囲んでどこにも行けないように封鎖しておきながら、どこに行くかもないもんです。

 これは反対運動やら活動やらに対する弾圧ですらなく、農民の「生活」そのものに対する嫌がらせであり、弾圧です。市東さんは「畑の周りの土地は空港会社のものだが、百歩ゆずったとしても、塀をたてる時には隣人に挨拶くらいしにくるもんではないか」と言っておられます。実際には空港会社は、市東さんが留守の日をねらってこっそりその畑を封鎖してしまったのです(→『卑劣!今度は畑の囲い込み』市東さんの農地取り上げに反対する会ブログ)。ちょっと想像してみてください。帰宅して、周囲のどこからでも入れた自分の畑が完全封鎖されており、かろうじて狭い入り口だけが開いている、しかも自分の畑に入るのに、いちいち検問されなければならない、その姿を見た時の市東さんの怒りはどれほどだったかを。どうして反対同盟の農民や支援の人々は、こんなにおとなしく冷静に対応しておられるのかと思うほどです。私なら怒りで体中が震えてつかみかかったでしょう。いえ、実際には私なんかよりもっともっと深い怒りにみんなが震えているのでしょうけど。

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◆鈴木さんのご自宅へ

 それからほどなくして、鈴木さんちのおっかあで、ブログ『農家便り』の加代子さんが、娘さんの運転する車で迎えに来てくださいました。「もうこんな大雨だから、工事を見張っていてもしょうがないよ」ということで自宅まで連れていってくださいました。そのころにはさすがに工事も中止されていて、ユンボも止まっています。でも、なんだかちょっと、特別扱いしてもらっているようで気が引けました。私は何かの役にたったのでしょうか?翌日の集会では、『市東さんの農地取り上げに反対する会』のYさんが、「二人で見張るべきところを草加さんのおかげで一人ですんだ。その分、援農に慣れている人が農作業に行けるのだから、役にたったんですよ」と慰めていただきました。本当にそうならいいのですが。

 鈴木さんの自宅に着いてからは、家事などで忙しくしておられる加代子さんに変わって、先ごろ亡くなられた鈴木幸司さんのお連れあいの、鈴木いとさんとお話させていただきました。いとさんからはいきなり「前に来ていた頃はどこのセクトだったね?」とか聞かれまして、「横堀戦旗です」と答えますと、「ほお、横戦(よこせん)か」と笑顔で言われました。実は三里塚には戦旗という団体が二つありまして、団結小屋のある場所で区別していたのですね。私らは横堀部落に団結小屋があったので横堀戦旗です。「横戦」は鈴木さんのおられる反対同盟北原派ではなく、熱田派にいった党派なんですが、特にこだわりもなく、当時の私たちの現地闘争団のメンバーについての思い出なども聞かせていただきました。

 それからいとさんは、私にしきりとお菓子やお茶請けの芋などをすすめてくださいまして、いろいろとお話をしました。闘争が始まった頃は、「まさか40年も国と争って負けずにいられるとは思わなかったねえ」とおっしゃっていて、「そのおかげで(鈴木幸司さんも)死ぬまでこの場所で農業を続けることができた。まあ、半分は勝ったようなものだよ」とおっしゃったのが印象に残っています。なんでも、心無い人はからは、「国策に反対するのは国賊」とか言われることも多かったらしく、「もう『国賊』って言葉が頭に刷り込まれちゃってね」とかおっしゃいましたが、私が「政府の言うことに何でも従うだけが国のためになるとは限りませんよ。おかしいことはおかしいと言える人もいないといけません」と生意気なことを申し上げますと、「そうねえ、あの人(鈴木幸司さん)も、戦争に駆り出されてシベリアに送られてえらい目にあって」とおっしゃっておられました。

 また、昔に私が熱田さんや加島さんらの家に援農に入った時の思い出などもお話しまししたが、すでにお亡くなりになられたり、引退されたりしたお二人の消息などのお話になりました。両名とも反対同盟熱田派にいった農民で、すでに現地にはおられませんが、外にいる私たちや支援党派の目からみた、○○派がどうのこうのという話とは別に、現地の農家同士(特に古くからの闘争第一世代の農民同士では)、なんというかうまく言えませんが、いわば同じ農民同士の目線みたいな感性があるのかなと感じました。

 その後、夕飯をご馳走になりながら(とれたての野菜は相変わらずうまい!)、あるいは翌朝に集会に出かける前に、加代子さんからもいろいろお話を聞かせていただきました。現地の情勢などについては、前回と前々回のエントリで書かせていただきましたが、加代子さんはイラクやパレスチナ、沖縄の問題、日本の農業問題、解放派(狭間派)にかけられている組対法についても、いろいろな集会などで現状を勉強されたり、直にみておられるようでした。なんでも組対法で指定されると、喫茶店や会議室など同じ場所に3人以上が集まったらいけないそうで、団結小屋なんかでも、一人が入ったら一人が出て、表で待っていなければならないという、マンガ的なことを強いられているそうです。それだけならまだしも、「障害者」と介護の人が一緒にいることさえ規制されて介護に支障をきたしているとか。これはもう実質的に、憲法が禁じている集団・結社への懲罰に等しい内容です。(→参考:ブログmukofungoj 醇Kiuloke「組対法弾圧は対岸の火事か」

 鈴木さんのご自宅は、直接には空港の敷地にかかってはいません。いわゆる用地外農民ですが、飛行ルートの騒音直下にあります。また、80年代における用地外農民切り崩しのための、成田用水攻撃の中心地でした。鈴木幸司さんはこの地区の中心的な農民の一人であり、用水攻撃にも断固として反対の意思を貫いた方です。その行動の背景には、戦前の天皇制政府のせいで中国侵略に皇軍兵士として駆り出され、シベリアで塗炭の苦しみをなめたという経験がありました。用地外であるにもかかわらず、鈴木幸司さんが一言「出て行く」と言えば、それだけで1億円が政府から出たと。ですがそういう金をすべて拒否し、「あちこちガタのきたボロ家」に住み続けた。そこには銭金でない価値観があるのだと。反対運動とは関係ないからと言いながら、成田用水を受け入れた農民は、せっかく用水を引いてもらった農地を直後に売り払って、みんな出て行ってしまったじゃないかと。

 他にも実現したら芝山町の80%が騒音地区に入ってしまうという成田空港の30万回発着構想や、町長でありながらそれを推進する相川勝重芝山町長(元々は反対同盟の内部候補だった人)のことなど、いろいろ書き出せばきりがない、すべて書き出せば、それだけで原稿用紙30枚以上になるであろう濃い話をいろいろ聞かせていただき、本当に空気はいりましたし、いとさんとのお話も含めて、三里塚闘争への確信を深めました。

◆中郷の小屋に一泊させていただく

中郷の監視小屋にて その夜は故鈴木幸司さんが、成田用水との闘いの時に建てられたという、中郷闘争小屋に泊めていただきました。プレハブですので、おりからの豪雨で雨の音がすごかったですが、中はしごく快適に眠ることができました。なぜか『テニスの王子様』が25巻ほどそろっていました。有名な漫画ですが、読んだことがないので手を伸ばしかけましたが、読み出すと止まらなくなりそうなのでやめました(笑)。かわりに『GS美神』の復刻版がおいてあったので、そっちは読んだけど(爆)。

 なんでも明日の集会からは、ブログ『ルンペン放浪記』で有名な田中洌さんが仲間といっしょにここに泊まりにこられる予定だそうです。私とはすれ違いで本当に残念でした。田中さんは『旗旗』の記事を見て、三里塚に行ってみようと思ったそうで、こんな若造としては、その一事だけでも、何年間も『旗旗』をやってきた甲斐があると思うくらい、本当に光栄に思っています。

 さて、翌日は朝から鈴木謙太郎さんが呼びに来ていただきまして、そのまんま、またしても美味しい朝食をいただき、その上に弁当までもたせていただきました。本当に何にもしていないのにお世話にばかりなって恐縮です。謙太郎さんには「考えもなしに来てしまい、お世話とご迷惑ばかりかけて申し訳ありません。次からはもっとよく考えて来ます」とお詫びしました。謙太郎さんには、「ああ…いいよ」と言っていただきましたが、かえすがえすも恐縮です。それにしても、三里塚のおっとうは、集会以外ではみんな無口です。おっかあはよく話してくれますけれども。

 会場に向かう直前に、『日刊三里塚』の記事で、萩原進さんの畑に冠水被害が出たことを知りました。萩原さんの畑も空港会社が鉄板で封鎖しているのですけれど、塀の基礎部分を何の考えもなしにコンクリートで固めてしまった。結果、大雨になるとたまった水がどこにも排水されず、畑がため池のようになってしまうのです。そのせいで、植えたばかりのニンジンの苗が「池」の底に沈んでしまった。後日、結局は苗が腐ってしまい、撒きなおしもできないと知りましたが、私は言葉を失ってしまい、『日刊三里塚』を見せる加代子さんに何も言うことすらできませんでした。これはわざとそうしたというよりも、空港会社(とその利権に群がる人々)は、自分たちのしたことが、周辺住民にどれくらいの影響をもたらすのか、後先のことは何にも考えていないということだと思います。ただ空港の生き残りと拡張のことしか頭にないのです。

 こうして、いとさんにもお別れの挨拶をして、いよいよ車に便乗させていただき、集会場へ向かったのであります。

その4へ続く

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