すでに多くのブログやサイトで報じられていますが、反対同盟農民の鈴木謙太郎さんが7日、突然お亡くなりになられました。私はこのことを自分のサイトで書くのが嫌というか、どう書いてよいのかわからず、一日のばしにしてきました。書こうと思い立っては、反戦カレンダーや何やかやの更新作業に先に手を出して時間を使い、なかなか書くことができませんでした。いっそこのままふれないでおこうかとも思いましたが、やはり書いておかないと、そのうち他の何も書けなくなる気がします。
この1月8日、私は三里塚反対同盟(北原事務局長)主催の新年デモと旗開きに行ってきました。その出発集会の会場で、いつもお世話になっている鈴木加代子さんの御夫君で、鈴木幸司さんの御子息、鈴木謙太郎さんが前日の7日にお亡くなりになったことを初めて知り、まさに愕然としました。
死因は心原性脳梗塞とのこと。まだ57歳で、年末の反対同盟の忘年会にも元気に出ておられたそうです。旗開きで司会を務められた萩原富夫さんからのご説明によりますと、謙太郎さんは1月6日の午前0時すぎに自宅で急に倒れられ、すぐに救急車で病院に運ばれたそうです。反対同盟や支援の方々も急を聞いて駆けつけ、容態を見守られる中で医師の治療が続いたわけですが、その時はまだ謙太郎さんも意識があって会話もできる状態であり、医者も「命に別状は無い」とのことで、緊急手術などの措置は行われませんでした。医者の話を聞き、謙太郎さんの様子をみて、駆けつけた人たちもとりあえずは安心して一旦帰宅されました。ところがその後、同日の14時くらいから容態が急変。翌7日の早朝にはさらに悪化して危篤状態となり、9時すぎに自発呼吸が停止して、ご家族の願いも届かず、10時頃にお亡くなりになられたそうです。
いきなり倒れた翌日には帰らぬ人となられたわけで、昨年にお父様である闘争第一世代の鈴木幸司さんが亡くなられた時ももちろん残念ではありましたが、私ごときが僭越ながら、身近にお声をかわした知り合い、それも、とても天寿を全うしたとは言いがたい若い方の突然の急逝には、また何とも言えない悔しさがつきまといます。今回はあまりに突然すぎるし若すぎる。本当に残念だし悔しいです。
こんな時、謙太郎さんの生前から本当に三里塚のために力を尽くしてこられた方々や、逆に謙太郎さんと一度も身近に接する機会のなかった方々なら、ただ一言、「お悔やみ申し上げます」「遺志を継いで闘います」と心からの言葉を故人にたむけることで充分だと思います。ですが、とりわけ鈴木加代子さんからあれだけ心をくだいたお世話になりながら、何一つお力になれていない私が、いったい何を書けばいいのかと悩みます。むしろ何を書いても失礼になる気がして仕方がありません。
思えば謙太郎さんは、加代子さんらご家族とは本当に仲のいい夫婦、仲のいい親子、仲のいい家庭でした。どこに行くにも何をするのも二人でいっしょだった。加代子さんが「私らはただ死ぬまでここで農業をしたいだけ、どんなに虐げられても絶対に屈したりしない」と、マシンガンのようにしゃべりまくる傍らで、寡黙でほとんど口をきかないけど、黙ってさりげなくいろいろと歓迎してくれる謙太郎さん。その対比が本当に闘争とかそういうのとは関係なしにしても、とてもいい夫婦だったなあと思います。
私はブント統一委派(首都圏ではイコール旧西田戦旗の方々ですが)の皆様のご厚意で、中郷部落の鈴木さんのご自宅に弔問させていただくことができました。あの、いつも元気にしゃべりまくる加代子さんが、一言も発せずに哀しみに耐えておられました。その傍らでは娘さんたちが加代子さんを支えておられました。夫の鈴木幸司さんに続いて息子を亡くされたお母様の鈴木いとさんが、とても気丈にしておられたのが心に残っています。
家の中のことや御親戚のお世話は、鈴木さんたちと個人的にも親しい中核派の現闘の方が、ご夫婦で目を真っ赤にしながら悲しみをこらえて切り回しておられるようでした。それに引きかえ全く役立たずの私は必死に我慢しましたが、ご焼香の時に謙太郎さんの遺影をみてとうとう我慢できずに大声で泣きじゃくってしまいました。こんな私が本当に辛いはずのご家族の前で、それをそっちのけで涙をみせたところで白々しいばかりです。第一ご迷惑でしかありません。そう思ってぐっとこらえ、これ以上の醜態をさらす前に急いで遺影に手をあわせてからご遺族の皆様に手を付いてお辞儀をし、統一委派の皆様と一緒においとまいたしました。なお、当日は統一委派の皆様には元対立党派崩れの私にいろいろと気を使っていただき、大変に親切にしていただきました。あらためてこの場で厚く御礼申し上げます。
謙太郎さんは集会でもあまり目立った基調や決意表明などをされる農民ではありませんでした。ですが私の印象では決して「集会でしゃべるのが苦手」というわけではなく、たまに司会などをつとめられた時には、まとまったしっかりした内容を、熱く、でも感情に流されずに語れる方でした。自分からはしゃしゃり出ないけれども、話せばすごく深い内容を語れる方でした。また、集会などであまり表に出ないかわりに、デモの時は先頭でデモの責任者やシュプレヒコールなどを担当されることが多かった。50名逮捕の大弾圧があった昨年の5・20をはじめ、緊急闘争などで現場の責任者をまかせられることも多々あったように思います。
全然間違っていたら申し訳ないですが、私は萩原進さんが表に立って方針を打ち出されることが多かったのに対し、鈴木謙太郎さんは実務面で反対運動の「縁の下の力持ち」として力を尽くしてこられた方という印象をもっています。各種のシンポジウム的な集会には全国から請われて各地を飛びまわっておられた。空港会社からは一坪共有地強奪の裁判に引っ張り出され、萩原事務局次長が言っておられましたが、「日本一忙しい農民」だった。「謙太郎の寿命を縮めたのは空港会社だ」と萩原さんは無念の思いを語っておられました。
思えば加代子さんや鈴木いとさんとは、今までに長い時間お話させていただく機会もありました。ですが謙太郎さんは大変に寡黙な方でしたので、私のような者ではなく、もっとちゃんとしたまっとうな支援の方にはどうだったか知りませんが、私はあまりまとまって会話をした記憶がありません。2010年の10月に、かつて鈴木幸司さんが80年代の用水闘争の時に建てられたという、鈴木家の離れ(監視小屋)に一泊させていただいたことがありました(→参照:「10・10三里塚(成田)現地闘争報告(その3)ー農民のご自宅を訪問して」)そのおり、緊張して朝早くから目をさましましたが、小屋には他の支援の若者が持ち込んだマンガ本がどちゃりと置いてありまして、朝からそれを引っ張り出して読んでおりました。そこに謙太郎さんが迎えに入ってこられ、ええ歳してマンガに没頭している私にちょっと呆れたような顔をされ、少しばかりバツの悪い思いをしました。あるいは昨年の反対同盟旗開きのおり(→参照:「反対同盟の新年デモと旗開きに参加してきました」)、謙太郎さんの運転する車で会場まで送っていただきました。旗開きではすき焼きとしゃぶしゃぶが食べ放題だと知って、「そんなもの何年も食べてないですよ!」とはしゃぐ私を見て珍しく「わはは」と大声で笑われ、「一年分食っとけ!」と言われたのが思い出です。
ああ、ほんと、ロクな思い出ではありませんね。農家の女性の方はわりとよく話してくださる方が多いですが、男性の方は無口な人が多いです。私はいつも邪魔になってはいけない、わたしごときが参加させていただいているのだという思いが強く、相手が無口な方だと、こちらから執拗に話しかけるようなことがなかなかできません。でも、もう少しだけでもこちらからいろいろお話をおうかがいしてもよかったのかなあと、今さらながら少し後悔しています。
謙太郎さんが亡くなられ、鈴木さんのお家は男手がなくなりました。一方、中郷部落には単なる条件派ではなく、目的意識的に空港会社の味方をして鈴木さんたちに敵対する空港推進(共存)派もいます。犯人はわかりませんが、以前から鈴木さんの飼い犬が暴行を受けたり、毒入りの餌を食べさせられたり、台所の引き出しにネコの屍骸が入っていたりなどの嫌がらせが続いています。鈴木さんの家に隣接する辺田部落(空港建設の用地外)を地図から消してしまう廃村化の攻撃など、農家としての生活をたちゆかなくする生活(営農)破壊攻撃が続いています。その最中で逝ってしまった家族思いの謙太郎さんは、どんなにか心残りだったでしょう。
そんな中、加代子さんは産直野菜の出荷を早々に再開させるそうです。旗開きでは、反対同盟の皆さんが「全国の皆様、どうか鈴木さん一家を支えてください」と心から呼びかけられていました。「言われなくても!」と言いたい。本当に何かしたい。けれど、何をどうしていいのかわからない。私なんかただの貧乏な一般庶民にすぎない。いくら偉そうなことを言っても、集会での「動員一人」以上の存在ではない。自分の生活を維持して守っていくだけで精一杯で、毎日へとへとになっている無力な存在。誰かを「助ける」なんて、口に出すのもおこがましい。
そんな私が何を書けばいいのか、どうすればいいのか、本当に落ち込んでいます。ただ、せめてサイトやブログについては、そんな気持ちをぐっとこらえて続けていこうと思います。それすらやめたら農民に申し訳なさずぎる。どうか次の3・25三里塚全国集会には、それを読んでたとえ一人でも二人でも現地に足を運んでくれたらと思います。
追記)この文章に関する自己批判を書きました。どうかあわせてお読みください。
→「昨日のエントリに関する自己批判」
参考リンク
◇訃報(反対同盟ブログ)
◇鈴木謙太郎さんの遺志を引き継ぎ市東さんの農地を守る決戦勝利へ(反対同盟ブログ)
◇訃報 鈴木謙太郎さんご逝去(1)(関実・三里塚)
◇訃報 鈴木謙太郎さんご逝去(2)(関実・三里塚)
◇鈴木謙太郎さんとの別れ(関実・三里塚)
◇反対同盟 2012年団結旗開き(関実・三里塚)
◇鈴木謙太郎さんの急逝のりこえ、2012年三里塚決戦が幕開け(『前進』速報版)
◇「謙太郎さんの分まで闘う」1・10告別式 友人・仲間多数が哀悼(週間『三里塚』)
◇【訃報】三里塚反対同盟・鈴木謙太郎さんの死を悼む(たたかうあるみさんのブログ)
◇三里塚反対同盟農民・鈴木謙太郎さんの急逝を悼む(北島邦彦の「すぎなみ未来BOX」)
◇【訃報】三里塚芝山連合空港反対同盟 鈴木謙太郎さんご逝去(マル共連BBS)
◇中郷反対同盟 鈴木謙太郎氏を追悼する(全学連(伍代委員長))
◇鈴木さんの意志を受け継ぎ、TPP粉砕・農地死守・三里塚軍事空港廃港へ(末光道正のブログ)
◇1/8三里塚闘争始まる!(3・14法大弾圧を許さない法大生の会)
◇鈴木謙太郎氏死去(三里塚芝山連合空港反対同盟・北原派幹部)(時事通信)
◇鈴木謙太郎氏死去(訃報新聞)
3/25を今から予定に入れておきます。
本当に残念な話です。拙ブログでも書きましたが、闘士が年若くして「逝かれる」のは本当につらいし、打撃です。
他方、「反原発運動」をはじめ、私等よりも若い世代が、私等と違う感性と運動論で「たたかい」を始めております。「たたかい」をどう引継ぎ、発展させていくか?そんな「宿題」を謙太郎さんからもらったと思って、頑張りましょう。