最近、掲示板の書き込みなどを読んでいて思うのですが
「それが現実なんやからしゃあない」
という安易な現実迎合の発言が非常に多い。むしろこの論理が今の日本に満ち満ちているように思います。これを私は「現実主義」とは呼べないと思います。物事は「仕方がない」と思った時に仕方なくなるのです。
私も以前は「現実だから」あるいは「もう決まったことだから仕方がない」だから「こうしたほうが得だ」と簡単に言う人を「現実主義者」だと軽く見ていました。しかしこれは自分が言いたいことを「現実」の名を借りて言ってるだけのことです。それとも本気で「仕方がない」と思っているだけなら、それは現実主義ではなくただのニヒリズムです。
最近、読売新聞に連載されていたキッシンジャー氏のコラムを読んで、「なるほど現実主義者とはこんなふうに物事を考えるのか」と目からウロコが落ちました。
まず、これを達成できたら勝利だという明確な目標があり、次に与えられた情勢、彼我の力関係など、それこそ世界的に連動した視野で分析し、2手も3手も先を読んで、設定した目的を達成するために今考えられる最良の1手をうつ。
そこでは様々な勢力がまるで将棋の駒のように整理され、キッシンジャー氏の論理展開が進むにつれ、それらがまるで「カチン」とふれあい、歯車が「カチャリ」と回る音が聞こえてくるようでした。それは「現実やからしゃあない」という世界とは無縁であり、ここまでやってはじめて「理想主義者の空論」を「無力である」と批判できるのだと思います。
もちろんキッシンジャー氏を持ち上げるつもりは毛頭ありません。そうやって得られた結論には同意できないことがほとんどだし、第一、アメリカというスーパーパワーがあるからこその「現実主義」だと言うことはもちろんです。ただ、本当の現実主義者というものを教えてもらったし、日本の「論客」達がいかに小物かということもよくわかりました。
さて、ではこのような現実主義に死角はないのか?キッシンジャー氏のような「現実主義者」に対抗するための「理想主義者」の戦略はどうあるべきなのか?ここではそのことについて思うところを書いてみたいと思います。
ちょっとダシに使うみたいで申し訳ないのですが、レッドモール党のまっぺんさんの文章です。
たとえば世界を「ブッシュ対テロリスト」の図式で解釈するか、「まだ見ぬ第三の勢力」の可能性を考慮に入れるかで、「現実」と「夢想」との区別をするのだとしたら、これまでの世界は非常に頻繁に「夢想家たちによって変革されてきた」事実を見落としていると言わねばなりません。
もしも世界が「現在ある勢力の動向によって支配される」というあなた方「現実主義者」の見方に沿って動いてきたのだとしたら、いまだに南アフリカの「アパルトヘイト」体制は続いているでしょう。いや、それどころか奴隷制度さえも続いているでしょう。いやいやそれどころか、未だに、古代エジプトの王朝だって続いていたかもしれません。
(四トロ同窓会二次会掲示板より)
さらに続けてまっぺんさんは、
自分が「より正しい」と信じる行動は、決して孤立した「自分だけのもの」ではないはずです。自分の考えに「理」があれば、いつか、それは大きな集団的意志になっていくはずです。
と、「まだ見ぬ第三の勢力」を作り出していくことの可能性を語っておられます。
この部分は中東、特にイラクに関して、「ブッシュ対テロリスト」の図式を打ち破る「第三の勢力」について語っておられるところです。
これについては半分同意、半分疑義があります。
「まだ見ぬ第三の勢力」が、「自分の考え」つまり良心的な個人の頭の中から生まれて、「いつか大きな集団的意志になっていく」のを待っていたら、それこそ100年かかってしまいます。それは個人の頭の中から生まれるように見えて、じつはもうすでに存在しているものではないでしょうか。
問題は単純です。頭で考えたことを実現するのではなく、すでに存在している勢力の中から、「誰の立場に立つのか選ばねばならない」ということです。「現実主義者」との違いは「ブッシュかテロリストか」の2択ではなく、「ブッシュかテロリストか民衆か」という3択だということです。
「まだ見ぬ」ではありません。殺され、家を焼かれ、空爆で苦しみ、鉛の玉で体を砕かれて死んでいった人々、洗濯物を乾しただけでイスラエルの狙撃兵に頭を粉々にされた少女、何の罪も補償もなくブルドーザーで家を破壊された何万人ものパレスチナ人、そんな民衆がそこにいるではありませんか。
彼らはただ絶望し、悲しんでいるだけの存在でしょうか。彼らは絶望していません。どんな状況の中でも希望を捜そうとしています。そして何より怒っています。声をあげつづけています。すでに臨界点に達したその怒りを、米軍は力で何とか押さえつけているだけです。米軍はそんなに強大なのでしょうか。私にはただ軍事力という木っ端につかまって、怒りの海の中に浮いているだけのように見えます。
「米軍か、テロリストか」と問われたならば、私たち夢想家の答えはひとつのはずです。
「私たちはその両者に虐げられた民衆の側にのみ立つ」と。
「まだ見ぬ」とか「どちらも選ばない」だけでは、私たち夢想家の思いは言い尽くされていません。夢想家なら夢想家らしく、こう言いましょう「歴史を創る主人公は民衆である」。
確かに歴史は夢想家によって創られてきました。しかし「第三の勢力」は夢想家が作ったのではありません。すでにそこにあったのです。夢想家はそこにいた人々に共感し、その立場に立ち、それを力にまとめあげた人々です。まっぺんさんが例にあげている南アのアパルトヘイトとの闘いに関しても、もし南アの人々で、「自分たちは家畜ではない」と叫んで立ちあがる人が一人もいなかったら、「家畜でいいよ」と頭を下げて生きていたら、確かにいまだにアパルトヘイトは続いていたでしょう。
現実主義者の誤算は、いつも「民衆」というものを、自分たちのゲームの盤上に住んでいる力なき者、支配される対象としてしか見ないことです。頭を砕かれた少女の思いなど、そんな情緒的なことは考慮されません。死者の数は数量として把握されるのみです。
資本主義礼賛が強いアメリカ軍は、どれだけの費用でどれだけの敵を殺せたかと、命さえ資本主義的効率ではかる傾向が強いと言われます。また、アブグレイブ刑務所での拷問や非人道的な扱いも、刑務所の運営まで「民間委託」する中で発生しています。
しかしもし、「駒」として考慮にいれていなかった勢力が、単にゲームの盤だと思っていたものが、突然に起き出してきて「おい、人の顔の上で何を勝手なことしてやがんだ」と言い出したらどうでしょうか。これが理想主義者の戦略です。
抑圧され、無意味に殺されたりすることは、人間の自然な摂理に反します。およそ常に殺しつづけなくては成立しないような支配であるならば、アメリカにとっても大変な重荷であり、軍事的・局面的に勝利しても道徳的に敗北し、いつかは崩壊してしまいます。その時、日本には「米軍の協力者」という汚名だけが残るのです。「力」だけの支配は人間の自然の摂理に反しているがゆえに、「未来の現実」につながっていません。
また、私たち夢想家は、「理想主義者」であっても、決して「空想主義者」であってはならないと思います。この点についてだけは、現実主義者の声に耳を傾けるべきです。
「みなさん、争いはやめて話し合いましょ~」と、耳に聞こえのいい空論を唱ているだけではいけないと思います。(何もしないより100倍いいが)
まだまだ何もできていない自分への自戒をこめて。。。
理想主義者の戦略-まっぺんさんからの講評
昨日の「現実主義と理想主義者の戦…