私たちはサムライなんかじゃなく、「奴隷の子孫」であると誇りたい 

なおじさんのコメントへの返信が長くなりましたので、大幅に加筆修正の上でこちらにスピンオフしておきます。なお、私の自室は上の業者さまの写真より約40%ほどマシ…かもしれないです(笑)。

 私なんかの書いたことでも なおじさん のお役にたてたようで嬉しいですが、そんなにおほめいただくと、なんかかえってこそばゆいなあ(笑)。

 きっと私と実際に合って、三日も一緒に暮らしたら、絶対に心底がっかりしますよ。どっかに一億円が落ちてないかなあとか、いきなりどっかで素敵な女性とお知り合いになれないかなあとか、そんなこと考えて暮らしている、どこにでもいるただのおっさんですから。とりあえず部屋をなんとかしてちょっとは片付けないとね。

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世の中に「いい人」も「悪い奴」もいない

 基本的に現世には神も悪魔もそのへんをうろうろ歩いていたりはしないので、特定の誰かを祭り上げて依拠したり、逆に貶めて叩きまくるのはどうかと思っています。人間の心というのは誰でも7割くらいが善で、3割くらい悪で、それから弱い部分が7割くらいで、でも強い部分を3割くらいもっている。私もそういう普通の人間です。

 それから大切なのは、人間はいかようにでも変われるということだと思っています。一人の人間をとってみれば誰でも良いこともすれば悪いこともする。だからどんな指導者に対しても「おまえのそこはおかしいぞ!」と気軽に議論できること、その議論のやり方(不毛な「内ゲバ」や内紛や分裂にならないこと)、そしてそういう議論を容認できる組織や運動や指導者であるのかという点を私は重視しています。特に政治や市民運動の分野では、一時的な成功やら「時代の風にのっている」ことより、それが一番大切なことです。

 なおじさんのおっしゃるその彼も、実は本質は7割くらい「いい人」なんろうなと感じました。「差別者が日常の中で『いい人』だからってそれがどうしたというのだ」という人もいるだろうし、それはまったくその通りです。「いや、彼はいい人だよ」と言われても、差別されている側からすりゃ、だからなんだって話にしかなりません。

 ただ、そこで終わらずにもう一周考えることも、差別イデオロギーと闘うに際して有益なこともあるのではと考えています。私とその彼も、さらに「差別糾弾」とか言っている人とでさえ、実は紙一重でさほど変わらない人間だということを忘れちゃダメだというか、そうでないと、またぞろかつてのような「奴は敵だ。敵は殺せ」というレベルの低劣な政治(「在特会」がまさにそうなわけですが)に舞い戻ってしまうと思うのです。

差別には麻薬的な快感と習慣性がある

 思うに自分より下の人間をつくって差別するというのは、一種の快感があるんですよね。だけれど単純に差別して虐げると良心に咎める場合がありますから、それを正当化する屁理屈が必要になってくる。その屁理屈が時代によっていろいろ変わるだけで、本質的に江戸時代から今にいたるまで何も変わっていないわけです。

 それが今だったら「なんちゃら特権」とかいうんですか。厳しい毎日の生活のなかでも、「ほら、君はむしろ被害者なんだよ。君は本当はもっと偉いんだよ。なのに…」みたいにささやかれたら、本当の敵と地道に闘うより、本当は手をとりあうべき自分より弱い者を(ネットや脳内にしろ現実にしろ)イジメるほうが簡単で手っ取り早く、ほとんど麻薬的で抗いがたい快感があるんだろうなと思います。しかも「それが正義なんだ」とか囁かれるんだから!

 「在特会」とかのメンバーには、ニートや引きこもりなど、本来なら左翼として闘わなくては問題の解決にならないはずの人がなぜか多く存在しているといいますが、それはこういう理由からかと思います。日雇い野宿労働者のおっちゃんにも「朝鮮人」や「部落」を差別する人もいます。彼らを許せないと思う前に、手を取り合うべき生きづらさを抱えている底辺の人同士がお互いを差別して傷つけあうことで自己確認するなんて、なんで悲惨なと思います。

 それはまんまと分断されて本来の敵の手のひらで踊らされているだけなのですが、そうやって一度分断されて孤独に過ごしてきた彼らが、「お仲間」同士の中で現代社会で奪われた連帯感を、歪んだ形で「取り戻す」という面もある。かつての原理研(統一教会・勝共連合)なんかがまさにそうでした。一度その麻薬や「連帯感」にどっぷりはまると、そこから抜け出て本来の現実と向き合うのは、とても辛いことなんだろうと思います。

今こそ相互批判の自由と「左翼の仁義」の復権を

 ちょっと脇道にそれますが、だからこそ、弱者同士の分断や内ゲバを正当化する彼らに対する左派の側がですよ、内ゲバ・分裂・罵り合いではない、虐げられた者の本当の連帯をちゃんと見える形で作っておかなくてはならないと思うのです(批判の自由を容認する作風・論争や反論のルール・そういう文化的土壌)。

 かつて新左翼が全盛の時代には、そういう暗黙のルールみたいのが確かにあったわけで、それこそたまには集会の会場内でさえヒートアップしてぶん殴り合いながら論争しつつ、一時間後にはケロリとして互いにスクラムを組んで権力にぶち当たったりしました。

 そういう暗黙の了解(文化や作風)をさして「左翼の仁義」とか言われたもんですが、今ではそんなお約束は通じない。それは新左翼が凋落していく局面で分裂と内ゲバの文化にとってかわられ、一緒にやるなら批判はするな、批判するときは分裂か潰し合い、会場内で手が出るのは集会を潰す目的だからといった感じで、現在にいたるわけです。そういう歴史的な負の教訓が何も生かされず、継承もされていないことが、この国の大衆運動の不幸なのです(かといってよい子は今どき会場内で殴り合ったりしちゃダメだよ(笑)。

 さらに蛇足ですが、昔の新左翼活動家同士(に限らず)の論争というのは、本当に全存在をかけてものすごく真剣に論争してたんですよ。たとえば特定の集会に行くか行かないかでも徹夜で論争して、そいで論争に負けたら本当にその集会に行ったり行かなかったりしてたんですよ。議論の結果で行くべきだとなったらデートや試験を蹴ってでもいくわけで、今はそんなことありませんよね。

 それもその場だけ「言い負かす」のではなく真正面から真剣に議論するわけで、そのためにも、みんなものすごく真剣に勉強していたわけです。まあ、そのせいで演説や機関紙やビラの内容が難しくて一般に理解されにくいものになっていくという副作用もあったわけですが。

 だから新しいルールや文化を作るといっても、私にとってはそれを(今の時代にあわせたよりよい形で)復権するという感覚が強いのです。誰がそれを作るのかといえば、それはこれを読んでいるあなたや私がですよ。人にそれを要求しても何もはじまりません。「だってあいつらのほうが先に誹謗中傷してきて…」とかそんな話じゃないんです。優しさも愛も反スタも口で言うだけなら簡単です。誰に対しても(少なくとも闘う者同士の間で)そういう態度がとれなければ、どんな大義を掲げた運動も中身がありません。

 まさにそれをスターリン主義というのです。「奴はスターリン主義者だ、スターリン主義者は殺せ」では意味がないというか、それこそなんのこっちゃですよね。かつての共産党(民青)活動家は、学園で新左翼に対して「この暴力主義者め!」と叫びながら殴りかかってきたわけですが、「あいつらが先に誹謗中傷してきて…」とか言っているあなたもいずれそうなりますよ(というかすでにそうなっているかもね)。

 なんか自分だけ損しているみたいに思う局面もあるでしょうが、逆に自分がやるだけでいいんですから、他人の態度を変えてやろうと思うよりずっと楽で簡単でしょうが(笑)。

私たちは本当に幸運です

 さて、話を戻します。近代以降の歴史だけを見れば、たまたま戦争や差別主義が復権しているかのように見える時代に生まれついたことは不運にも思えますが、奴隷の時代や中世・封建時代に生まれついたよりは幸運というか、命まで賭けないでやれることの幅がいろいろ大きいわけじゃないですか。

 ここにくるまでに無数の、そして無名の人たちが時の権力者と闘い、極壁の露と消え、血叫びをあげつつ無残に殺されていったわけで、そういう人たちのこと(その時代における左翼ですね)を思えば、私たちは本当に幸運だし、その犠牲の上にあぐらをかいているわけにはいきません。ずっとバトンは営々と何千年もわたされ続け、そのバトンは今、私(たち)の手にあるのです。

 アフリカの大地に発生したといわれる私たち人類の歴史の中で、その99%は歴史も残っていない原始的な時代です。今は人が人を虐げて暮らしている残りの1%の時代ですが、この有史の1%を、人類が爆発的に輝いて自滅していった一瞬の輝きにするか、人類史の次のステップへの産みの苦しみの時代にするかは、今生きている私たちにかかっています。

 そういう人類史という観点で鳥瞰していますと、その片隅で「天皇陛下万歳」でキイキイしている人ってのは、ほんとうにくだらないことしているなあとしか思えなくなります。そんで未来の人たちにはマジ申し訳ないんですが、もう滅びるなら滅びるで、しょせん人類はそこまでの存在だったんだから、それはそれでしょうがないくらいに思ってます。

 まあ、そうは言いつつ、実際には長い視点で見れば楽観視しているからこそ、そんなことも言えたりするんですけどね。このままいけば最悪の時代や場面で晩年をむかえる可能性も大きいですが、それでもその後の時代の人のために、できるだけ多くのタネを残していけばそれでいいじゃありませんか。それも運命です。

 いろいろ行きつ戻りつするので、かつてこの国でも「天皇陛下万歳!」な時代もありまして、そのせいでこの国は一度終わってしまいました。それでもそこに住む人々の暮らしや歴史は終わらないわけですよ。またぞろこの国を一度破滅させた勢力が、「今度はちゃんとうまくやるから」とか、あまつさえ「いや、あれは間違ってなかった!」とまで言いたい放題。

 まあ、またしてもこの国を終わらせたいなら、そしてそれを私たちも含むこの国の人が止められずに許してしまうなら、それはそれでいさぎよく責任とって、そこからまたはじめるだけです。

誇り高き「奴隷の子孫」であれ

 かつては「被支配階級」と言ってましたが、今は「99%」とか言うらしいですね。古代の「被支配階級」は奴隷だったこともあるのです。だとすれば今の時代の「99%」の子孫であり後継者である私たちは「奴隷の子」です。

 そのことを、わけのわからない閉鎖的な、そして「1%」の人たちが私たち「99%」を分断して争わせるために流布するイデオロギーたる「サムライの国の子」だの「天皇の国の民族」であるよりも、奴隷の子であることを100倍誇りたいと思います。フランツ・ファノンは『地に呪われたる者』と呼びましたが「私たちは全世界の血塗られた奴隷の民の子孫であり、奴隷の民の後継者として生きかつ死んでいくのだ」と誇り高く言いたい。

 そう考えれば、日本という地域史、その中での現代史、戦後史という一瞬の中で、私たちのすべきことやできることも見えてくるではありませんか。その中では単純に「奴隷の子孫」だけではなく、先進資本主義国の住民としての植民地従属国の人たちに対する歴史的現在における責任とかの問題もあります。そういうこの時代における個別の問題などを含めて、営々と続くバトンを受け取り、また次の千年を生きる人々に託していけばそれでいいのだと思っています。

 それをどう受け継ぐかは次の時代の人が考えればいいことです。私たちは私たちの時代や、そこで運命に与えられた自分の人生を精一杯生きるだけです。自分の足元や周りの人たちを見て、日々愚直に生きる普通の人たちを、そして最下層の人たちをこそ尊敬し、学び、頭でっかちな「使命感」に思い上がらず、等身大の自分にできることをすればそれでいいのだと思います。なんというか、私の言いたいことを要約すると、「細かいこと気にしないで、気楽にいこうぜ!」ということです。

(最後までお読みいただき、ありがとうございました)

<参考>なおじさんのコメントより

なおじ より:2013年4月28日 7:29 AM

こんにちは。
お元気そう、というか、少なくともこのサイトを「細々ながらも」継続していかれようとするぐらいには元気でいらっしゃるみたいで安心しています。
どんなに丁寧に説明しても見解の違う他者の意見にちっとも耳を傾けない人は相手にしない、という草加さんの方針に激しく同意します。ただ、恥ずかしいかな、私がこういう方針を取ろうと思うようになったのは、つい最近なのです。今思えば、えらく時間を無駄にしたように思います。
私の幼馴染に、とんでもなく悪保守(悪しき伝統を頑なに守ろうとする)な男がいます。なんせ彼にとって、児童虐待も人格崩壊した大人が殖えたのも女性が「神聖な(彼にとってですよ、念の為)」子育てを放棄=社会進出したのが原因なんですから。その彼の最近の口癖は、「朝鮮人や中国人は最低」「同和特権は目に余る」。まあ予想すべきでしたが、ここまで来てやっと、「この男を相手にするのは止めよう」と思うほど、私は鈍い人間です。
彼のことをツラツラと書きましたが、彼が悪いというよりも、こうゆう頑なな人と付き合い続けた自分の馬鹿さかげんが情けないです。結局、私に残ったのは「言っても無駄だ」という徒労感。

草加さんのブログのエントリーで、「部落差別反対の活動をしていたお坊さん」の話を例に、躊躇している人たちの背中を押す話があり、私は多いに感動しました。ただ、体調面(心療内科にかかりきり)を差し引いても、大好きな家族や親戚一同から絶縁されるのを承知で、何かの運動に加わる勇気や元気がなく、とても後ろめたい。全てを捨てる覚悟がないと、いわゆる保守王国で、今の大きな流れに逆らうことは出来ない。そんな実感に捕らえられています。

草加耕助 より:2013年5月3日 8:14 AM

結局、ケースバイケースでしかありえないのですが、それでも明らかに「時間の浪費」としか言えない相手や、カッコ付「思想」というのはあるものです。なおじさんがあげたように、そういう考え方の人に限って凝り固まっていますので、およそ議論というものが成立しません。
こういう人は「議論」とは相手を屈服させることだと勘違いしているので、よく聞いていると、つまるところ「お前は俺と違う考え方をしているのがけしからん」と言っているにすぎないことがわかります。だからこっちがいろいろと話を前に進めようと材料を提供しようとも、あるいは本意ではないのですが、仕方なく正面から論破するような無粋なことをしようとも、それでもへこたれずに同じことを何度も何度も繰り返して、それへの同意を一方的に迫るだけなのです。およそ積み重ねとか深化とか発展ということがありません。

なおじさんがあげているような極端なものは、そこまでいったらもはや右翼というよりヘイトとかカルトという類のもので、普通に冷静な人が見ればおよそ相手にする価値のないものです。そういうのは、実は「左翼」を自称している人にもいたりするわけで、近寄らない、相手にしないのが無難です。そういうのを相手にしなかったからと言って、それで普通の人からの評価が下がるとかいうことは一切ありませんから大丈夫です。もちろんそれは猫のシラミや肥溜めの蛆虫を一匹ずつ潰して退治しようとしても仕方ないように、一対一的に直対応しても仕方ないという意味であって、そういうカッコ付「思想」なり、それが生み出されてくる社会構造なりへの批判や考察は必要だと思います。そういう社会構造を問うことなしに対応しても、結局はもぐら叩きになってしまうと思うので。その上で、被害者の救済・防衛、差別に対する抗議・糾弾、その社会的な克服ということを第一義に考えるべきだと思います。

より実践的に、そういう凝り固まった人が家族とか自分にとって大切な人である場合ですが、そういう「思想」はたいての場合、実生活や実体験とは何の関係もなく、そこから遊離した一方的に加工済の「情報」によって後天的に植えつけられた観念であることがほとんどです。要するに妄想だということです。妄想はそれにとらわれている間は、他人がいかに否定しても肯定しても、それを強化することにしかなりません。議論が成立しないのはそのためで、たとえ右翼でも、妄想ではない地に足のついた思想の持ち主とはちゃんと議論が成立します。だからこの人は妄想っぽいと思ったら、その話はいったん打ち切り、愛情をもって接してあげるというか、人種だの国籍だの性別に関係ない、「人間」としての優しさや愛情を育んであげるということになるのかなと思っています。そういうヘイトな考えをもって「実践」している場合、必ず社会や他人との関係の中で軋轢を生み出して、まともな社会生活を送れない場面が多々でてきますから、そういうことの繰り返しの中で、本人が自分を大切にすることで気がついていくのを待つしかないと思います。

あと、あまりご自分を責めるのはどうかと思います。「大切な家族や親戚と絶縁する覚悟」とか必要ないと思います。もし何かをするとしても、そういうマッチョな「覚悟」でやると、本当に絶縁してしまいますよ。私の場合は「人が溺れているのを助けるのが何がいかんのかなー。今までの私と何もかわらんよー。アハハ」と軟体動物のような感じでやってまして、家族親戚だろうが誰に対しても門戸を閉ざさない、相手が嫌がってもこちらから「歩み寄り切る」感じでやってますと、そのうち「あいつはああいうヘンな奴だからしょうがない」というポジションをゲットできます。まあ、誰でもそうなるかはわからんので保証の限りではありませんが。ただしこちらが常に門戸を開いていても、相手が一方的に門戸を閉ざす場合はしょうがないという覚悟ももっています。それは本当にしょうがない。

まあ、かつては私もそういう「覚悟」のようなものが尊いという、マッチョで硬派な思想だった時期もあるわけですが、やはり短期で太く燃え尽きるのではなく、まずは自分の足元を見て、たとえ細くても末永くしぶとくしたたかに闘い続けることが大切だといういうふうな考えに変わってきました。できないことを無理にやる必要はないですよ。できることはいろいろあるはずです。できないことをできないと悩むより、できることをしないことを恐れましょう。アハハ。

なおじ より:2013年5月3日 6:35 PM

こんにちは。
GWもお仕事で忙しいようなのに丁寧な返信をありがとうございます。
読んでいて涙が出そうになりました。
「たとえ細くても末永くしぶとくしたたかに闘い続けることが大切。できないことを無理にやる必要はない。できることはいろいろあるはず。できないことをできないと悩むより、できることをしないことを恐れよう。」
全くその通りだと思います。この詞を忘れたくないので、手帳に記載したくらいです。

ところでくだんの彼ですが、彼は人当たりもよく真面目で勤勉で、特に目立つ存在でもありません。また前述したような考えを声高に主張するわけでもない。相手が私だから、「安心」して本音を喋っている感じです。でもだからこそ、最近の世論調査の結果なんかを知るたびに怖ろしくなります。もはやサイレントマジョリティの本音とはくだんの彼のようになっているんじゃないかと。前回のコメントは、私が勝手にそう思い込んだ挙句に絶望して、吐いたものです。

でもたとえどんなに絶望的状況が訪れても、諦めて何もしないとか、ましてや「バンザイ突撃」なんか絶対やっては駄目だと目が覚めた思いです。私も人生の残りがみえてきました。父が亡くなった年齢に私も近づいています。そんな状況、残り時間のことも含めて、できることを、たとえ細くても末永くしぶとくしたたかに、続けていきたいと思います。

本当にありがとうございました。

3件のコメント

草加さん、いつもいつもモヤモヤしているものを整理してくれて嬉しいです。
「反レイシズム運動」内部でも不協和音が出ているようですね。僕は、身体が空いている時はとりあえず現場にいき、呟けるところで呟こうというスタンスで動こうと思っています。

「左翼の仁義」、大切にしたいですね!

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