「から」つうか
ほとんどログ状態になっとりますが(^∇^;
また黒目さんから「80年代の香り」とか言われそうですが(w
投稿者:草加耕助@懐かしの80年代左翼 投稿日:12月28日(火)07時24分41秒
>それはそれで「きれいな結論」なんだけど
っていうのは、私はまっぺんさんの書き込みに感じました。結論はまとまってますが、具体的なイメージになると、WPNが政党化したようなものか、緑の会議が過激化したようなものしか思い浮かばない。せいぜいがべ平連かな。そういうのが「党」である必要があるのかなと思いますし、それが発展してたとえば政権に参画しても、ドイツの緑の党みたいに「それで何が変わったの?」つーことにしかならないんじゃないかと。
そもそも「大衆運動発展のため」だけなら、党なんて必要ない(つーかむしろ害悪)のでは?まっぺんさんの言うようなものなら「市民運動のナショナルセンター」で充分ちゃうのと思います。
党が必要なのは、やはり権力問題、つまり権力を「打倒する」なり「奪取する」あるいは「廃絶する」まで展望してのことだと思います。私が党の必要性を認めるのはこの一点です。まっぺんさんの主張はレーニン「何をなすべきか」で出てくる「経済主義者」の主張みたいと思いますし、その限りでやはり「古い」と思う。
まっぺんさんの主張は(権力の打倒→奪取→廃絶のために党が必要という立場に立てば)いわゆる「存在が意識を規定する」という古い命題があるわけですが、自然発生的には「社会的国家」「福祉国家」「大きな政府」を要求する方向しか生まれてこないんで、言い訳しないで最初から「国家の死滅」「賃金制度の廃止」etcを掲げ、それを大衆の生活的な実存の外部から注入(宣伝・扇動・運動・組織化)していくしかないというレーニンの主張への反論に未だ成功していないと思います。まあ「正しい党の主張」を大衆に押し付けていくというスターリン主義的な歪曲への批判にはなっていますが。
私が考えているのは、まっぺんさんの「口できれい事言ってても、いざ権力を握った時にほんとに大衆のためにちゃんとやれるんかい?」という問題意識とは似ているけどすこし違って、党であれ、市民運動であれ、ノンセクトであれ、あるいは久我山さんの言う「七人の侍型実行委員会」であれ、力をつけて影響力を持った時に、その影響力に見合った規模での「大衆への押し付け」に陥るパターンと原因があるんではということであり、黒目さんの言う「気色悪さ」の解明ということですね。「反スタスターリン主義」というわけわからん言葉があるように、このへんの解明ぬきに、いくら組織論の青写真をくり広げても、絶対に同じことの繰り返しに(いずれは)なると思うわけです。
この問題意識は10代の頃から持ちつづけていて、一応はちゃんと答えてくれた戦旗の「スタ克論」に魅力を感じたことは前に書きました。2chの戦旗スレではこのスタ克論を「反スタと労働者国家擁護の中間」みたいに理解しているかつての同士の書き込みがあって、ちょっと驚いたりしましたが、ともあれ、この「スタ克論」というキカイダーの「良心回路」のごとき「自己批判回路」を持っているはずの戦旗が「?」な状態にある以上、ある意味この問題では自分が全面依拠してきた「スタ克論」をも「単なる一つの主張」として相対化し、もう一度考え直さなあかんなあと思っているわけです(来年の課題?)
>印象で語ってしまうのですが、党から指導がくるタイプの運動の人にとって、
>どこからも指導がこないで、勝手に動いているような運動ってのがブキミな
>もんに見えているんじゃないだろうか、という事を考えているんですが。
うっ。ちょっと党派活動家に対する差別入ってる?(w
ロボットちゃうねんから(って「パラチェン問題」以降は大きなことは言えないか!)
まあ「不気味」というよりは、「こいつら何をしたいのか」が見えない、行き当たりばったりにいろいろ言ってるように見えるというのはあった。そういう「したいこと」がある人々からは、「行き当たりばったり」な人ってのは、むしろ「運動の発展」の桎梏に見えるのでは?
「したいこと」が看板に書いてある同士なら、お互いに妥協や連合の余地もあるのだが、アメーバみたいでしかも自分達の「したいこと」に文句つけてくる輩は「無責任野党」みたいに見えるんよ。んで、逆にアメーバから見れば、相手は自分の「したいこと」を押し付けてくるような官僚的存在に見えるわけで。まあ、共産党にとっての「トロツキスト」みたいなもんかなあと。
(ここで言う「したいこと」というのは、党的なかっちりしたものだけでなく、漠然とした運動の方向性みたいなものを含む広い意味ね)
>「現在の方針も過ちかもしれないが」とか「これからも多くの過ちを犯すかもしれない」とか言い出しちゃって。。。
>ってのはオモロイですね。
座談会なら非常に良い提起だったんだろうけど、政治集会でのアジ演説すからね。ここで「よしっ!」とか「そうだ!」とか叫んでいいもんかわからなくて会場が静まってしまうという(w
>俺、いしいひさいちの安下宿共闘会議の
>「我々は~なるべく闘うぞ!」「なるべく闘うぞ!」っていうの、大好きなんですが。
戦旗派社学同の初代委員長もあの漫画が大好きで「面白い!」って地区まで来て言いまわっていましたが、確かに面白い。(いしいひさいちは解放派だったそうですが)
私は漫画はギャグ漫画専門でしたが、回りでも小林よしのりが好きな人が多かったですね。もともと左翼にはファンが多かったように思うけどなあ。特に「東大一直線」と「異能戦士」。私も「異能戦士」は好きだったけど、まさか後年にこんなことになろうとは!
あと個人的には「ハイスクール奇面組」とかも好きで、「我々は社会の歯車にはなれないが、社会を味付けする調味料になろうではないか」という「落ちこぼれ宣言」には結構感動し、自分の行動指針になってたりして(苦笑
音楽は頭脳警察とか岡林とかいう方向に行く人と、中島みゆきとかいう方向(笑)に行く人に別れたな。
こうして見ると、三浦さんやまっぺんさんみたいな「カッコイイ」人はいないみたいだなあ。「党」という看板をはずせば、安下宿共闘会議とかわらない実態で活動してたかもしれん。
新資料紹介
投稿者:まっぴょん 投稿日:12月28日(火)12時30分45秒
議論はともかく、いいだもも氏が「レーニン、毛(もう)終わった」という本を出版しました。これがまためちゃくちゃ分厚い!まだ入手したばかりなのでずえんずえん読んでませんが、マルクス以来の共産主義の歴史を跡づけ、組織論についてかなり突っ込んだものになっている事が目次からわかります。1275ページ・五千円。広辞苑みたいな厚さにたじろいでますが、11月人権ホットラインの講座でお会いした時、「ぼくの遺書だから必ず読んでね」と言われた事もあり、がんばって読みたいと思います。\(^o^)
空気
投稿者:へら 投稿日:12月28日(火)23時20分43秒
>ロボットちゃうねんから(って「パラチェン問題」以降は大きなことは言えないか!)
ブントすか。私は戦旗両川のほうに一時いたのですが。
同時期にテーゼの高橋よしあき氏もいたのでパンク方面を。スターリンとか。
三里塚団地闘争の東峰会館にはマンガは当時の若者らしくプチフラワー、アスカ等ころがっていましたな。
80年代。都心でプールバーとかいっているのと、三里塚援農とかのギャップはなんだったのか。
相原コージ的問題。
>空気
投稿者:イレギュラーず 投稿日:12月29日(水)00時34分5秒
へらさん
三里塚援農の心得ですか?それは、都会でしか生活したことのない人たちに対して「意味」のあることでしょうね。「学ぶ」以前。援農で一生懸命やったつもりが駄目だったかもしれないな~。私も同様でした。
ロボットつーか
投稿者:黒目 投稿日:12月29日(水)01時06分10秒
なんか、全党をロボット化しようというような党もあるこたありますが(W、そおゆうんじゃなくて、なんつーかさ、最も古典的ないいだももですらレーニンもう終わったなどと口走る今日においてですな、まだ「党による指導」てな様式が生きているという事は、それはそおゆう必然があるからこそ生きている様式なんであるとゆうか。
なんというかな、「会社で働く」のと「自営業で働く」のの違い、という感じに近いんじゃないかと。会社で働くのって、効率いいんですけど、ずっと同じ会社で生きてきた人というのは独特の様式を、肯定的にも否定的にも持つというような事がありましょう。そんな感じなのではないかと思うんですが。
たしかに党組織とかこさえて運動したら、ひっしこいて運動しやなあかんから効率いいだろうなと思うこた思うんですが(W
まっぺんさんの「でけえ党方針」というのが出されていますが、俺らの立っているところは、そんな地平に全然いきつけへんところのさ、なんというか、「共闘関係の作法ゆうもんをちゃんとしましょう」とかさ、そおゆうレベルの問題なんじゃないかと思ってるんですけどね。
東さんの「反省したレーニン主義者」というのは、なんか膝をぽーんて叩きましたが(w
得んのう
投稿者:へら 投稿日:12月29日(水)23時37分11秒
.>前。援農で一生懸命やったつもりが駄目だったかもしれないな~。私も同様でした。
援農は実質的に農業を手伝うというより体験学習的なところがありましたね。
ロボット。中核派の天神峰現闘闘本部の要塞化で溶接の仕事を手伝った時、数百の機動隊に囲まれ俺はいったい何をやっているんだろう、明日会社なんだがと、頭が空白になったときがありました。
まださせられ感があった分カルトよりましだったかと。
森達也の「A」とか見ると。党派でいえば「動員」という言葉であっちにいかされこっちにいかされは嫌でしたな。運動にとり「効率」的だったのだろうけれど。
レーニン主義反省問題
投稿者:黒目 投稿日:12月30日(木)23時16分57秒
レーニン主義なりマルクス主義なりのその「主義」の是非以前の問題やと思うんですが、運動つーのは「労働運動」と「学生運動」の2本立てであると想定されてきたわけでありますが、そこに「市民運動」というカテゴリーが登場した。
この「市民運動」の位置付けを巡る議論なのではないのかな、と。
まあ、「党派運動」というもんがあったわけですが、その党派運動が市民運動を名乗り始めたら、党派運動が市民運動の最大大手になってしまった、という状況が90年代以降の状況であるか、と。
んで、市民運動を大衆的運動として運営していく作法というもんは、声なき声の会以来、べ平連なりなんなりで蓄積あったわけですが、そおゆうもんが全部すっとばされているという状況なわけで。
で、党派運動的には、
1.レーニン主義放棄して市民化する
2.市民運動の中にレーニン主義の論理を持ち込む
というどっちかの選択肢をそれぞれの党派が選択したわけでありますが、そこで「自立した大衆運動としての市民運動」という存在様式が死滅してゆく、とゆー、そおゆう塩梅なのではないか、と・・・いまオモタ。
党と大衆運動について
投稿者:まっぴょん 投稿日:12月31日(金)16時32分4秒
黒目さんが言うところの「レーニン主義」とは、かなり広い意味におけるレーニンの主義・主張全般を指しているように思いますが、僕はレーニンの業績全般を否定はしません。ぼくの個人的基準において取捨選択したレーニンの肯定的部分を仮に「レーニン主義」と呼ぶとすれば、党派運動に対しては、黒目さんが言うところの「2.市民運動の中にレーニン主義の論理を持ち込む」方針を支持する立場です。なぜ「論理を持ち込む」事を支持するのかは、以下、先日の草加耕助さんへのレスも含んで説明します。
(1)大衆運動の「発展」とは
ぼくは「大衆運動の発展のために」党は必要だと言いました。それに対して草加さんから「大衆運動発展のためだけなら、党なんて必要ない(つーかむしろ害悪)」という反論が帰ってきました。ここには「大衆運動の発展」についての理解の違いがあると言っていいでしょう。「大衆運動」の「量的拡大」だけをもって「発展」と言うなら、確かに党なんて必要ありません。しかしどのような大衆運動でも「拡大すればいい」のでしょうか? おそらくここで議論している我々は反動的な「大衆運動」に対しては反対するでしょう。例えば日露戦争終了後、日本国民の戦勝気分は大陸征服をめざす熱狂的な「大衆運動」を引き起こしましたが、我々はあんな運動を肯定できるはずがありません。また現在も靖国神社を祀り、愛国意識・国防意識を高めようとする「国民運動」が存在しますが、これにも反対ですよね。つまり左翼にとって「運動の発展」とは「量」はもちろん、その中身=「質」が重要であることです。「大衆運動」はそれに方向性が与えられて初めて意味を持つものです。一定の「綱領」を持った「党」の必要性は、「大衆運動の方向性」に影響を与えていくうえで必要なのです。いいかえれば「大衆運動の左翼的発展」のために党は必要なのです。
(2)「レーニン主義を持ち込むな」?
そこで現在、世界で沸き起こっている大衆運動を見てみましょう。典型的なのは「反戦運動」であり、もうひとつは「反グローバリゼーション運動」です。前者と後者は渾然一体となっていますが、それでもかなり明確な違いを見ることができます。とりわけ日本では反グロ運動は左翼の位置に立っていますが、反戦運動はかなり一般的な「平和意識」を前提として担われており、どこやらのお食事問題に見られるように、警察権力に対する全く無防備な意識も見られるほどの水準でしかありません。現在の日本の反戦運動の水準はここまで低水準なのです。30~40年前のベトナム反戦運動とは、同じ市民運動であっても参加者の意識の違いを強く感ぜざるをえません。黒目さんは「大衆運動にレーニン主義を持ち込む」と表現しましたが、大衆運動は様々な意識が流入してくる種々雑多な集合の場であり、ほっといても常に大衆運動には「××主義」が持ち込まれているのです。それが「組織的・集団的に」か「個人的に」か、或いは「意識的に」か「無意識に」かに関わらずどんな「主義主張」であっても持ち込まれるのです。その中で「レーニン主義」だけを持ち込むな、という事にどんな意味があるのでしょうか? 問題は「持ち込むな」ではなく「何を持ち込むべきか」「何を拒否すべきか」なのではないでしょうか? ぼくは「内ゲバ主義を持ち込むな」を前提としてレーニン主義であろうが何であろうが多いに持ち込んだらいいと思いますけど。
(3)階級史観はまだ有効であると思う
歴史的事件を演出した大衆運動はいくつもありますが、それを我々はどう理解するべきなのでしょうか? ロシア革命から70年後、ソビエトは最終的に破産しましたが、それでも十月革命の経験からは沢山の肯定的教訓を引き出せると思います。あの革命は「自立した大衆運動」によって起こされたものであり、且つ、そこには多くの「左翼党派」が関わっていました。また大衆は積極的にボリシェヴィキを押し上げ、彼らを政権の地位につけました。党と大衆運動との関係は、少なくとも革命初期には肯定的に捉える事が可能です。ぼくが「大衆運動の左翼的発展」のために党が必要だと思うのは、現在もこの世界を「階級史観」に基づいて解釈しているからであり、階級的和解は絶対にありえないだろうと確信しているからです。資本主義グローバリゼーションのために絶対的貧困と不幸が拡がり続けるこの社会を変革するには、階級的変革=ブルジョアジーによる市場独占を終わらせる以外に方法が無く、その事を大衆が自ら理解し行動していく必要がある。そう考えた時、(ぼくの願望としては)最終的に左翼的発展を遂げた大衆運動には効率よく敵と戦い、目標を獲得するための「組織」が必要となる、という事です。「大衆運動が党を必要とする」ようになるだろう、と僕は思っています。
いや、レーニン主義の「主義」としての是非の問題じゃないと思うんですよね
投稿者:黒目@マツケンサンバみた 投稿日:12月31日(金)23時12分44秒
まあ、レーニン主義で「市民運動」なるものが位置付くのか、という問題もありますが(W、それはそれぞれの党派によるレーニン主義の解釈だと思いますが。
この間の事態とは、この40年ほどの間に積み重ねられてきた「市民運動の論理」、自立した市民としての政治行動、という線が、解体されてきた過程であると考えます。
で、ひとつには、東さんの指摘する、「方向を失ったレーニン主義者の市民運動へのなだれ込み」という現象が90年前後に生じ、その後は市民運動の党派系列化という現象が進んでいった。
もちろん、党派の人は仕事をよくこなしますので、仕事をこなす事自体はなんら非難されるような事柄ではない。俺らのようなぼんくら学生上がりとはその辺は質的に異なります。まさに党派的「効率のよさ」がそこにはある。まわりは楽です。で、気がつけば、「自立した市民の運動」が絶滅危惧種となってきている。
もちろんこれは、党派によっていろいろでありまして、自ら市民運動化しようとしたところもあり、あるいは、自らの論理を市民運動に持ち込んだところもある、という事です。
そしてこれはもちろん、その党派の側の責任にのみ帰する事柄でもない。我々は党派運動に寄りかからない、自立した運動を生成しなければならず、そしてまたそれはでんでんできてへんやんけ、というのが現状であります。
「市民隊列」で歩いている人をよく見たら、みんな党派の人と学生運動OBばっかりで「ニセ市民隊列やね」とかよく冗談言っていましたが、まったく冗談じゃなくなってきたなと。
で、平行する話ですが、党派というもん、あれって、なんでタダの「活動家集団」じゃダメなのか?という問いをよく党派の人に投げるのですが、大体、相手がキレて終わってしまうのですが(W、
たとえば、まあいちいち例にだして申し訳ないですが(W)第4インターで言うと、全人民がトロツキーの主義を受容してトロツキー主義の革命が起こる、てなこた原理的にありえへんわけで、そこでトロツキー主義の線を打ち出す事にどれだけの意味があるのか、というのが甚だ謎なわけです。
前にもここでまっぺんさんとさんざんやらかしましたが、別に「内ゲバ反対」という論理は、トロツキーの主義を介在しなければ出てこないものでもなんでもなく、そしてそこで内ゲバ反対をいう事が、端から見てても正しい方針であったからというて、それがトロツキーの主義の正しさを示すものでもなんでもないわけです。「死ぬのはイヤだ恐い、内ゲバ反対」というのよりも、「トロツキズムの原則の立場から内ゲバ反対」という事の方が、より上等でより正しい、てなこた無いわけです。
ほんなら別にトロツキーの話いらんやん、と。またその主義で結集した党とかいらんやん、と。
もちろん、その事によって、トロツキーの言説の価値が減ずるもんでもなんでもないわけであってさ。
とまあ、そおゆう事を考えているわけですよ。
追記
具体的には「WPN問題」と言われているところの問題、これは実は、この党派と市民運動という構造の問題が集中的に現れた問題なんじゃないか、と思っています。
チャンスというところの「若い人たち」のところに問題が集中的に現れたように見えましたが、実は若い奴を使って腹話術やってる奴の問題だと考えた方がいいんじゃないか、と。「若い奴が世間を知らない事が問題だ」なんて話になったような気がしますが、若い奴が世間知らないのはいまに始まった問題じゃないわけでさ。そんなん、結論としてありえへんやん、と思うわけです。
追記
そもそもその党派がいなけりゃ運動なんか全然ない地域、というもんを考えると、一概にも言えないよなあ、と、いま思いました。
今年もよろしくお願いします\(^o^)/
投稿者:まっぴょん 投稿日: 1月 2日(日)16時06分43秒
あまり「おめでとう」とはいえない昨今の状況。今年こそはもう少しまともないいニュースを聞きたいものですね。昨日はまったくコンピュータのスイッチを入れませんでした。本日からぼちぼち。
えーと、黒目さんの言わんとする意味、わかりますけどね。っちゅうか、現場でずっと頑張ってきた者の経験から出てきた言葉だなーやっぱ。かく言う僕は党派から引退したのはもちろんだけど、運動に本格的に関わっていない分、過去の経験の記憶をもとに組み立てた「論理」展開なので、そのあたりの説得性には自信がない。
ゆっくり議論しましょう。
一夜あけて
投稿者:黒目 投稿日: 1月 2日(日)21時23分10秒
これはやっぱり一面にすぎないよな~と思いました。
レーニン主義者が市民運動に雪崩れ込むのと同時に展開した事として、
1.市民運動が党派的教義を獲得して党派化する
2.冷戦構造の崩壊とともに生じた、自衛隊や安保を承認していこうという動きが市民運動の内部から生じている
というあたりも無視できん要素ですね。
この辺、まっぺんさんの下の方の「大衆運動の質的問題」という問題意識に関わる事かと思いますが、この「大量転向」に対して、レーニン主義が果たして有効に作用したのか?という問題で観ていくといいのかな?
まっぺんさんはやはり「党派人」やね
投稿者:草加耕助@懐かしの80年代左翼 投稿日: 1月 3日(月)08時12分3秒
まっぺんさんと黒目さんの書き込みを読んでいて、先ほど記憶の片隅からむくむくと思い起こされてきたのだけれども、20年くらい前の、市民運動を含めた反戦・反安保の大衆運動をどう作るかという議論において「全共闘型」と「全学連-反戦型」という分け方を仲間内でしていたなあと。まあ、これは飽くまで「党派側の視点」での分析だったわけすが。
「全共闘型」というのは主にインターの路線を指していて、まさしくどんぴしゃり、まっぺんさんの書き込みの内容そのものなわけです。党派も市民も水平的に横並びの「場」を作って、その「場」に左翼的な方針や主張を持ち込んで合意を形成し、全体を左翼的な方向に発展させていくという。
「全学連-反戦型」というのは主に戦旗派の路線で、あらかじめかっちりした党派間共闘を締結し、小さくても左翼的な反戦運動の潮流を作ってしまう。そしてこれを核として、市民運動なんかとも柔軟に共同していく。言わずと知れた三派全学連や反戦青年委員会のような方向なわけで、加入戦術的イメージの「持ち込み」とはまた違うわけです。
まっぺんさんと黒目さんのやりとりは、やはりアレですね。「市民運動の方向をめぐる論議」というより、「党派人と市民活動家の対話」ですね。「全共闘型」といったところで「大衆運動の左翼的発展」のためにする党派の「戦略」であることに変わりはないのですから。
私は思うのですけれど、結局は「党派の市民化」と「市民運動の党派化」という黒目さん指摘の現状(と乱暴に言ってしまいますが)から見て、やはり両者はちゃんと別れていたほうがいい、そのほうがお互いのためじゃないかと。別れた上で共同するのがいいんじゃないかと思います。
大衆「の中から生まれる」でも「にわけいる」でも「に~を持ち込む」でもいいけれど、政治組織の側からするそういう夢はもう見尽くされたのでは?と思います。20年たってみて生み出されたものは「市民運動の党派化」であり「党派」のぐちゃぐちゃした「市民への溶解」であり「ニセ市民隊列」の縮小再生産だったんではと。これはやはり、市民と党派の双方にとってよくないことやと。
なんかそういうのって「大衆迎合型外部注入論」って感じに思えてしまうんですよね。私には。そうではなくて党派だったら、まずもって大衆が「是非あそこの党員になりたい!」と思うような組織や運動を作ってみいと。
続きをまた三日以内くらいに(笑)書きたいと思っとります。
なるほど
投稿者:有象無象 投稿日: 1月 3日(月)10時51分24秒
すいません 横レスですが デモなどで、まっぺんさん、黒目さんとは
おそらく近くにいたこともあると思います。
正月なので、ちょっと書きます
なおこれで投稿は終わりだと思います
さて、草加さんのご指摘はなかなか感心しました
というのは、70年代以降、いわゆる新左翼が凋落し
80年代になって 党派の市民化 が始まったわけですし
また市民運動 といいつつノンセクト 無党派 といいながら
結構、排他的 特定の人あるいはグループと付き合うが
それ以外はノー その理由が 「あそこは内ゲバ党派だから」
とか いっていながら、実際 特定党派とは ずぶずぶの馴れ合い
だったりと
無党派の方が党派的 な差別選別をするという いわゆる「政治を打つ」
という傾向が、ますます顕著になったのが、90年代~今日 だと思います
また
「暴力反対だからデモも非暴力で!」という主張を、ぶっちゃけ昔はヘルメット
かぶっていたような党派あるいは元党派の偽装市民が主に主張するというパロディ
いいじゃないですか!三里塚開港実力阻止 !を掲げていた過去を隠さなくても
と思っちゃいますよ
なお
まっぺんさんは党派人ではないでしょう
というのは、
インターの一番栄光の時代は知ってますが
厳しい時代 内ゲバでぼこぼこやられた以降のインターの経験はないわけで
このぼこぼこ のときに 党派の市民化 への コペルニクス的転換を
インターが 行い いまの WPNへの入り込み にまでいたっているわけで
この内ゲバ 以降の 党派的生き残り 姑息ともいえるやり方も含めて
党派としての生き残り戦術ー政治を打った
の末にいまのインターがあると思います
(私はインターではありません 念のため)
こういう泥水をかぶる覚悟があるのかどうか 泥水かぶっても
党派として生き残る といういやらしさ こそ 共産主義党派
の本質だと私は思います
そして方向性
投稿者:有象無象 投稿日: 1月 3日(月)11時12分47秒
黒目さんのおっしゃるようにぶっちゃけ市民隊列みると
市民風活動家と学生運動OBばっかということは事実です
WPNでも、「桃太郎旗はやめてください!若者がいやがります」
などとTさんはじめ中心スタッフが怒鳴ってます。
その脇でかわいげに写真を掲げて、ピースを表現しているピースボートなど
はWPNでいうところの「若者」なのですが
実際はピースボートのほうが非常に排他的で党派的なのです。
またTさんにしろ党の人ですし(笑)
もうやめよう偽善的市民顔は!
と思っちゃいますよ
逮捕弾圧があると、純粋市民より偽装市民党派人のほうが
びびっちゃって、「そういう逮捕されるようなことをするからだ!」
などと救援もかかわろうとしない という現実
平和!ピース!を旗印にしているところへ、ちょっとでも弾圧があると
へこむという
すでに述べられてますが、会食問題ではチャンスが主に主犯として標的になりましたが
けっきょくは腹話術だった というのが真相でしょう
つまり
警察とは連絡をしていた それは チャンスに担わせていた
自分たちは警察とはアクセスしていない というポーズ
しかし チャンスにも行き過ぎがあり 周りからも非難された
そこで、自分たちは関係ないと開き直り チャンスを いけにえにした
偽装市民は安全圏にいたい という
だからこそ 7・4WPN弾圧があるとびっくりし
当初 はねあがり の仕業と とぼけようとしたが
さすがに 中心的スタッフも逮捕され とぼけもできない
もちろんこれは WPN幹部が考えていた以上に
権力の選挙前弾圧が激しかった結果であり 幹部が悪いわけでは
ありませんが あまりにも厳しい弾圧に純粋市民が抗議している中で
あわてまくってしまった のが現実です
歩道橋の上や隊列の中でも 不当逮捕はおかしい!という声や
警察に抗議に行くべきだ!という声が、かなりあがったにもかかわらずです
もうやめよう 活動家の市民顔
党派は党派でいいじゃないか 市民は市民でいいじゃないか
生き残る前衛主義と「若者」
投稿者:noiz 投稿日: 1月 3日(月)19時12分9秒
うーん、ぼくなんかは、「ほんとは活動家のくせしてな人」が「市民」「普通の人」面するのを嘲笑するたちの人間ですが(事実「自分達は普通で~すプレゼンテーション」を裏返しの前衛主義として唾棄してきた)、さすがに
> つまり
> 警察とは連絡をしていた それは チャンスに担わせていた
> 自分たちは警察とはアクセスしていない というポーズ
これはないのでは? と思います。
確かに、「今時の普通の若者」(実態は「若者」の極一部にすぎないのに「若者」総体を代表representationしているかのような顔をする連中)との「邂逅」にWPN中枢の一部左翼などがはしゃぎまわって前後不覚になったという把握は、まあそんなもんかなと思います。
これらの(党派的な)人々は、「久々の若者獲得」ではしゃぎすきたために、あるいは共闘対象に関する事前の調査をまともにしなかったたために、自己プレゼンが鼻につく自称若者連中のスタンダード(可能ならあらゆる[警察も含む行政権力も当然このうちに包摂されている]は使嗾すべしという行動規範)について予め察知することができなかったか、あるいはうすうす知っていながら、「自分達で教育できる、善導できる」とタカをくくっていた可能性もありえなくもない。しかし、前者だったら脇が甘すぎるし、後者だったとしたら、なんかもう近付くのが怖すぎですが…(笑
そもそも警察にありがとうと言えるピースウォークなるもの、はたして「素人」が組める行動なのか? と疑ってかかることができない感覚が怖い。それはある思想のもとに組まれた行動であって、そうした思想を持つ人々を「素人」と規定して「かえられる」と捉えるのであれば、それはやはり前衛主義の裏返しにすぎないタイプの大衆主義ではないかと、はげしく思うわけです。
そんなわけないのは、Be-in/WPN(あるいは Earth Day / WPN)で明白になっていると思います。あーいった人たちは以前からあーなのであって、確信的にあーいった行動を組織してきた。だからこそ Be-in や半官半民イベントの Earth Day と、いちおー「平和」運動としてある WPN を無前提に接合しても気にならないという立場を取ることができるという。もちろん「異文化探検」は一概に否定するものではないと思いますが(笑)、異文化にある人々をそう安々と「改宗」させられるものではないと踏まえておくべきかと。
Re:全共闘型運動
投稿者:まっぴょん 投稿日: 1月 3日(月)19時30分25秒
フランスの経験ばっかり持ち出してアレですが、世界の反戦運動・反グロ運動の中でフランスにおける労働者・市民の運動はうまくいっている方だといっていいと思います。そこで日本の新時代社とか労力派もせっせとそれを模倣して、なんとか日本にもフランスみたいな大衆的で戦闘的な運動ができないかと思ってるんでしょう(その願望達成の道はまだまだ遠いだろうけど)。そのフランスの反戦・反グロ運動は市民運動と労働運動と知識人の関与によって形成されてきました。
労働運動の方は、社民的な裏切りを繰り返してきたCFDTから独立した戦闘的労働運動が形成され、それが現場で闘争委員会を組織しスト権を確立し闘うという、「全共闘型」の陣形で闘争を進めてきています。労組の代表がこれまでにも何度か日本にやってきてそれを熱く語っていきました。SUD-PTT(郵政労組)、SUD-Rail等が代表的なもので、これらを中心に10労組共闘が作られています。
市民運動ではATTACが有名ですが、これも失業者組織、移民労働者組織、農民組織などの実力闘争を背景として形成されたものです。そこに上記の戦闘的労組と、「ルモンド・ディプロマティーク」誌(日本の「週刊金曜日」みたいなものらしい)が参加しています。日本では、こうした運動の背景なく、インター派と一部の市民を中心に作られたようですが、フランスでは広汎な市民運動として展開され、そのうえで一切の政党への支持を行わない事が決められています。しかし、それらの労働運動や市民運動には第四インター派だけでなく多くの党派人が入り、一緒に活動している。それどころか、これらの運動を担って突出した活動を行っている有名人には例えばジョゼ・ボベなどのようなアナキストがいる事が知られています。こういうフランスの市民運動の状況をやはり「潜り込み」と規定するのでしょうか?
党派人がこれから作ろうとしている市民運動との新しい関係の形成を「潜り込み」と規定するのは古い「党派意識」にいまだにとらわれているからなのではないでしょうか? 「党派と市民とを分ける」ためには「市民」というものを無色透明な「聖域」のように規定する事が必要になります。しかし昨年末に書いたように、「市民」の意識は一様ではなく、すでにそれぞれ種々雑多な「××主義」意識がはびこっています。「左派的市民運動」の規定に反対ならば、どんな「市民運動」なら賛成なのでしょうか?実際にここで議論している人々の多くが、実際には「自衛隊派兵反対」「軍国主義反対」「君が代・日の丸反対」「グローバル資本主義反対」であるように思いますが、それだけですでに「左派的市民運動」になっちゃうんじゃないでしょうか?
つまり党派に所属していようといまいと、我々自身が「ふつーの市民を装うサヨク」と自覚するべきか、「左翼的意識も含めてみんな市民と規定していいのだ!」と考えるべきかどちらかという事になるわけです。僕は後者の規定の方が妥当だと思っています。
う~む
投稿者:黒目 投稿日: 1月 3日(月)23時52分0秒
「党派運動」と「市民運動」の分離再結合方針はさ、いま分離したら両方なくなっちゃうという状態になっているからなあ(W
更に最低な状況としては、「前衛党」と「市民運動党」に分離というありがちな・・(W
大衆運動原理主義者としては(W、党派活動家(あるいは党派的活動家)が、きっちり大衆運動に立脚して運動せえよ、と言う話にしかならんのではないかと思います。
大体は、「自分のとこの運動」というものがあり、多くの運動が集まって作る「大枠の運動」というものがあり、そんで「大枠の会議」に出る人はその大枠の動きを担いつつ、ワレんとこの運動の都合も考えなきゃならん、という事をそれぞれが背負って出てきているわけです。俺自身も、俺が仲間とやっている運動があり、で、大枠の会議にでてワレんとこの運動の都合をゴリ押ししたりしているわけです。これは「そういうもん」なんであって、個別の運動の都合を無視したような「大枠」はツラいので長続きはせんのであり、その辺の塩梅を都合つける過程が運動の生成過程そのものである、と俺は考えておるわけです。
で、「党派運動」というのも、そこに出てくる「個別の運動」であるわけですが、党派の運動、あるいは党派的運動と、市民運動大衆運動の差異はどこに生じるか?
原理的問題じゃなくして、運動の現場において現象として立ち現れる事として、という話ですが、決定的な差異は、党派運動(党派的運動)は、運動総体が「斯くあるべし」というグランドデザインつーんですかね、そういう世界観を持っている、というところなのではないか?
俺らなんかは、俺らの都合でもの言うだけであり、他さんの都合も勘案しつつ、どこまで俺らのワガママが実現できるか、という極めて単純な動きなわけですな。
しかし、運動の在り方として「斯くあるべし」つーのを持っているところは、その世界観に総体をはめ込もうという動きをする事になります。
それが、他者の動き方を「そういう事はしてはならない」「○○は禁止」といった現れ方をするのではないか?
「そんなんするんやったら、俺らは乗られへんで」という話ならわかる。
しかし、「○○は市民的ではない」、こんなん、意味わからんわけでさ。その党派性を共有している人間にしか理解できひん基準なわけです。
これが俺の言っているところの、「党派性の市民運動への持ち込み」という現象です。
で、その人たちが、そんな「一般論としてこれはいけない」というような話じゃなくして、ワレんとこの都合の問題として話がでけへんのか、というたら、でけへん筈はないやろ、ちゃんとワレんとこの都合でものゆうたらええやんけ、というのが、俺の言っているところの「大衆運動に立脚」という話です。
さらに踏み込んだら、「その役に立たない世界観、捨てろよ!」と・・・あわわ
追記
党派「的」運動について
「市民運動はかくかくしかじかあるべき」という世界観を持つ「市民運動」の人が「党派的」になっていく、という話もここに含まれているのは言うまでもなく、また「ノンセクトはかくかく(以下同文
さらに追記
何十年も繰り返されてきた同じパターンだと思いますが、
1.大衆運動で党派の人が一生懸命運動する
2.その運動でのその党派の比重が大きくなる
3.スケベな気持ちが働いて、引き回したくなる
4.反発くらう
5.当該党派、イヤになって当該運動から召還
6.当該運動崩壊
番外編.党派のその運動の担当者が消耗して召還
とゆー、おなじみのしょーもないパターンを未だにやってるのを見ると、実に頭いてえというか。もうホントにどおよ実際。
読まされるほうはたまったもんではないでしょうが
投稿者:草加耕助@懐かしの80年代左翼 投稿日: 1月 4日(火)10時24分28秒
時間がないのと、考えがまとまってないのと、筆力がないので、キーワード的なとこだけ羅列しておきたいと思います。一つ一つが長文の書き込みにするような事項ですが、とりあえずは問題意識のみの全面開花で結論がないという(笑
>分離再結合方針・「大枠の運動」
その「大枠の運動」の運動を一度解体せえとか思っているわけではないんで、それはそれで必要かと。
ただ、これは主に党派の方の責任と思うのですが、党派は「○×市民行動」とかに分離不可能なくらい溶けるなよと。党派は党派として、ちゃんと外から見てもわかりやすい形で「大枠の運動」に参加しなさいと。
こういう溶け込みが、外から見て複雑怪奇でわかりにくい現象になってんちゃうかと。市民運動かと思って参加したみたら「あそこは○○派系」とか(そういうレッテルが正しいかどうかは別にしても)後から人に「後ろ指」さされてみたりとかね。そういうのって、素人にとっては一番いや~なことやから。
そのかわり「市民」の側も「大枠の運動」に党派が生のままで(最低限、青共同など直接の下部組織の名称で)参加し(共闘のルールさえ守れば)党を代表して発言することを規制しちゃだめです。集会の発言が「正しい我が党に結集せよ!」でもいいやないですか。たかが桃太郎旗ごときを規制すんな!むしろそういう愚直で外からみて「言い訳のないわかりやすさ:的姿勢が求められているんではないんかと。
>「斯くあるべし」
そういう物の言い方をするんが党派であって「俺らの都合」的な話は公の場ではしない(爆)のが党派の作風なんよね。それはまあ、何と言うか、許してやってほしい(笑
いわゆる「引き回し」とか「話が進まない」とかいう問題と、そういう「物の言い方」の問題とはまた別の次元だと思うし、別の次元でなくてはならんと思う。
「共闘」というのも「党派闘争」の一形態という側面もあるわけで、内ゲバが最低の党派闘争だとしたら、共闘はむしろあるべき党派闘争であって、大衆運動の中で競い合っていくのが党派の本来の姿だと思うんよね。まあ、そこに素人さんを巻き込むのも問題かなーというのはある。よほど党派の度量が試されるとも思うけど、やはりまずは党派間でちゃんと共闘を作ってそこで競ってほしい。
>フランスの経験・古い「党派意識」・全共闘型運動
なんかね、80年代にインターの人らとしてた論争をそのままここで再現してるので苦笑してしまうのです。なんか俺達ってあんまり変わっとらんなあと。当時は「ラルザック」だったかな?
こういう欧州の話を「素晴らしいじゃないか」的にされてから日本の運動勢力を見渡しても、私にはいったい彼らが(理想や理念でなく具体的に)何をしたいのかよく見えなかったんですよね。別の言い方をすれば途中の理屈はいいけど結論に同意できないというか。
当時の感覚では「非党員」を看板にかついでの囲い込みか、もしくは市民運動の「足」としてしんどいとこだけ担わされて、結局は現状の市民運動はそのまま何も変わらないんではと思ってました。まさか市民運動が党派化してまうとは思ってもいませんでしたが。
私らが主張してた「全学連-反戦型」は結局じぇんじぇん全くこれっぽっちも実現せず、大枠ではインターが主張していた方向に進んでいったので、その意味で私らはインター路線に完敗したわけです。んでここ20年、その枠内でいろいろやってきた現状の中、結局は当時と同じ論争をせなあかんということがあるわけで・・・というのが私の問題意識。
ちなみに「全学連-反戦型」というのはインターやプロ青の人がつけてくれた名称でね。やはり「それは『古い』党派意識や」と言われた。んで私らも負けずにインターの主張に「全共闘型」という名称をつけ返してあげたという。「おまはんらこそ充分に古いやんけ」というわけですね(笑
>この間の事態とは、この40年ほどの間に積み重ねられてきた「市民運動の論理」、自立した市民としての政治行動、という線が、解体されてきた過程であると考えます(by黒目さん)
>「党派と市民とを分ける」ためには「市民」というものを無色透明な「聖域」のように規定する事が必要になります(byまっぺんさん)
うーん。やはり「市民」や「積み重ねられてきた市民運動の論理」の頭ごなしに、党派人同士でこんな論争していて申し訳ありませんでしたと思うところがあるんやけどねー。
>潜り込み・持ち込み
「潜り込み」=その党派の主張を正義とする人以外からは悪意ある戦略
「持ち込み」=自分の考えを意見として表明し、その実現を望んで努力するという当然の権利
違いはビミョーではあるけどさ(笑
>「左派的市民運動」の規定に反対ならば、どんな「市民運動」なら賛成なのでしょうか
いや、反対してるんじゃなくてね。「左派的市民運動」を作るためにはどうしたらええかという話をしているつもりやったんやけどね。
>「左翼的意識も含めてみんな市民と規定していいのだ!」
意識も問題ではあるけれど、「党」と「市民」は古いのなんのと言ってみても、やはり行動・組織原理が全然違うものと思うわけです。たとえそれが善意から出た行動なり戦略だとしても、党派のようなかっちりした(?)組織が、その力を自覚しないで行使したらおかしなことになってまうんではないかと。欧州の経験から学ぶ最大の点は、そのへんをしっかり自覚して抑制的にバランスを持ってかかわっていることかなと。
「市民」ブリッコした左翼への不信感
投稿者:いち「市民」 投稿日: 1月 4日(火)12時20分16秒
はじめまして。たまにROMしてます。
わたしはおそらくこの板で言うところの「市民」に当たる人間だと思いますので、その立場から本音の意見を言わせて貰います。
皆さんの議論を読んでいて、水を差して悪いなあと思いながらぶっちゃけた話をしますが、一昔前はゲバ棒担いで左翼党派運動やってたような層が、いまさら「市民」面して自分らの市民運動の領域を荒らすなという考えを持ってる自称「市民」も市民運動圏には少なくないわけで、市民運動における党派活動云々以前に、日本の「市民」の中には党派という存在自体を拒絶する層もあるわけです。
皆さんの前では言わないかもしれないけど、「市民」仲間の会話では「全共闘や新左翼崩れはウザい」だの「いまさら左翼活動家が環境派や人権派ブリッコして、自分らの築いた市民運動の領域にしゃしゃり出てくるな」「ブンドのようなセクトがNGOを自称するのはNGO活動のイメージを悪くする、止めてくれ」と言っている人間も少なくない。
チャンスML界隈辺りでも、WPNで初めて運動に関与した運動初心者が、新時代社辺りがWPN実行委に関与すること自体に「過激派の運動と思われるのは嫌だ」との感情を吐露する場面もあったんじゃないかな?
こんな事を書くと反共市民意識やら何やらと反論が返ってくるかもしれませんが左翼総体が今どき「サヨク」とも揶揄される「市民」にすら嫌われる理由をも突き詰めて考えるべきなんじゃないですかね。日本共産党も含め、日本の左翼総体は大衆運動の発展には必ずしも寄与せず、むしろ民衆の自立的な運動の中にセクト主義を持ち込んで荒らしまくった歴史があるから、その辺の総括ないままに「市民」に擦り寄ってもね。
というか、「キモサヨうざい」と陰口叩かれてまで「市民」に擦り寄る前に、まずは左翼党派としての大衆運動をしっかり組織せよと言いたい。左翼の癖してWPNに擦り寄ったりATTACの看板借りてまで「市民」ブリッコするインターは左翼として恥ずかしく無いのですか?まだ中核の方がマシだと思う。
こちらも左翼党派が市民運動の領域に急接近してくるから、世間からはアンタらは過激派系じゃないの?だの何だのと後ろ指を指されてウザいと思うことがあります。別に左翼が左翼の運動圏で好き勝手やる分にはど構わないが、自らの左翼大衆運動が組織できないからと言って市民運動に近付いてきたり、ましてや偉そうに党派の市民運動組織論を説いてこちらの世界を好き勝手に荒らしかき回すのはは止めて欲しい。
ヨーロッパがどうであれ、日本には日本の運動史があるし、さんざん運動圏で暴れて引っ掻き回しても総括一つすらしない左翼党派連中の歪んだ前衛主義はお断りなんですから。
この間の議論の中では、いち「市民」さんのようなポジションを「党派化した市民」という事で整理してきたと思います。
投稿者:黒目 投稿日: 1月 4日(火)12時49分0秒
しかし、「自立した市民運動」なんてもんが、どこにどれぐらい残っているのか、というのが甚だ疑問なんですよね。「自立した市民運動」なんてもんがあるんなら、WPNの実務をなんであんなに党派の人間に握られるのか、理解できんわけで。
そこで革共同のような、あるいは代々木のような全くの一元的支配の方が、表面上波風立たないのでそっちに流れたりするのだろうか?
まあ、「自称市民」がさんざんひっかきまわして「党派が全部悪いんだー」という総括出すという日本の運動史的な経験も確かにあるんですが(W
そういうのがまた、内ゲバ党派の延命に手を貸すという構造もあるのかしらん?
WPN
投稿者:いち「市民」 投稿日: 1月 4日(火)13時20分31秒
要は党派がWPNのような市民運動の看板を掲げることが自党派の拡張にプラスになるという現状認識をしているから、あんな状況になっているわけでしょ。自立的な市民運動を党派運動に変質させようという党派側からの介入攻勢に晒されてきたのが、ここ二十年位の市民運動の歴史でもあったと思います。
WPNを通じて反戦運動初体験の機会を得た若者や主婦は、市民運動を名乗りつつも実際はヘルメット連中が跋扈している日本の反戦市民運動の惨状にうんざりして、普通の市民は去っていく。そりゃあ普通の市民はヘルメット被ったキモサヨとは係わり合いになりたくないからね。結局、普通の市民意識をもった人達の間には運動は拡がらず、キモサヨばかりが残るという構図になるわけです。
より現実の市民社会に根差した運動を作りたくても、政治的思惑を隠し持った党派が介入し組織を牛耳るから、この日本には何時まで経っても真の市民運動は根付かないのです。左翼党派の人間が偉そうに市民運動の組織論を語る必要はありません。むしろ党派は排除すべき存在であり、市民運動は真の一般市民に支持された運動を目指すべきです。
あなた方が羨ましがっているヨーロッパでは普通の家にピース旗が掲げられている場面は珍しくないのに、なぜ日本ではそういう光景が無いのか。それは市民運動を党派運動に変質させようとする左翼党派が存在するからです。つまり、市民ブリッコした党派の存在こそが市民運動のガンなのです。
こっちはただまともな市民運動をやりたいだけなのに、ヘルメット被った連中のせいで世間から市民運動は過激派繋がりと思われるのは、もううんざり。
でも、左翼も情けないですね。自らの大衆運動を組織できないから、市民ブリッコして市民運動に参画しなければ大衆にコミットできないんだから。特にインターはね。いっそインターは思い切って党派を解散して、どこかのNGOにでも加入戦術仕掛けて執行部牛耳って、市民運動団体にでもなればいいんじゃないかと思う。
それはちょっと「ステレオタイプ」では?
投稿者:まっぴょん 投稿日: 1月 4日(火)16時36分1秒
> ヘルメット被った連中のせいでー
・・・・って言うじゃなぁい。だけど、
ヘルメットをかぶったのは非党派「趣味者」のしょくんで、
それを禁止したのが「実行委」の党派人ですからー!
ざんね~ん!!!
真面目なはなし、そういう所に党派のいやらしい「潜り込み意識」と
「市民運動は無色透明であるべきだ」というような、変な意識を感じますよ。
いや、いいんじゃないですか(笑)>「ステレオタイプ」
投稿者:noiz 投稿日: 1月 4日(火)17時20分21秒
党派を排除し、「市民」に純化したもう一つの党派性をもった運動をやりたい人はそれをやればいいわけであって。早い話、左翼党派人お断りというコードをもった運動があってもいいじゃんと個人的には思う。ぼくは党派人ではないが、そういうとこにはいかないけどね。たとえば、戦争に反対する運動なのであれば、課題共闘でいいじゃんと思うからね(ただしいろいろと含みがあって個人的には「あそこ」とはやれないとかあるわけですが(藁))。
ただし、これまでの文脈で語られていることは、その市民主義(といっても矜持は単に「自分は左翼党派とは違う!」という挟持にしかすぎない…)に純化する意識というのも一つの党派性のあらわれであって、その党派性もまた間断なく問われ続けるべきものであって無謬ではありえないのだ、ということを認識しようよ、みっともないからさ、ってことなのではないかと思います(笑)。無告の大多数にとって、市民運動の市民だろうが左翼だろうが右翼だろうが、対象化すべきもの(=運動者)として存在していることには変わりがない。
そもそも既存のメット被ってきた左翼党派人をいくらテッケツしようが、そのことで自己の「普通の市民」度が達成されていくわけでもなく、むしろ逆でしょう。普通プレゼンは難しいよ。やればやるほど泥沼なのだから(笑)。無告の大多数(というより市民運動に参加しない圧倒的多数)の意識は「市民運動の市民」と(普段は)分離していると見るべきなんであって、そこに自分達は「普通の市民」でございと念仏唱えても、十分「異物」としてあるのではないかとさえ思う。
つまり、運動するもの=社会の異物と己を客体化するところからはじめようと、私は言いたいのであります! わら
市民運動の「市民」の概念って、つまり階級主義的に人をくくるんではなくて、幅広い階層(階級)の人々の間で連帯しようってことでたてられた「仕切り」じゃないんでしょうか。でも、そこには本来的には政治組織人あるいは利害団体(農民組合とか労働組合)に所属している人がいたっていいんではないの? という。
ま、市民市民言う人に対しては、「エゴ」から生起せる住民運動の歴史も踏まえたうえで、その市民なるものの概念について少しく解説してもらいたいとの思いがあるのは隠せず、というところでしょうか。
あと、ヨーロッパの話を無前提に混入させると話がこんがらがる。あっちでは「新らしい社会運動」と分析されるほどの情況があるわけであって(しかもそう言われてきたのはだいぶ昔ね)、その「社会運動」の内実をもってきて(たとえばATTACとかPACEの旗を掲げよう運動とか)、日本の言われるところの「市民運動」と比較しようとするなら、もうちょっと整理してほしいところですねえ。
※そもそもPACE旗は、60年代に非暴力主義運動の人が個人的に掲げていたものを、02年にイラク攻撃反対で一致する伊太利の四団体によるキャンペーン運動が採用してひろまったもの。いきなり「普通の市民」がバルコニーに掲げはじめたわけではなくって、「掲げましょう」というキャンペーンがあってそれが受容されていったという経緯をふまえるのでなくては、と思います。そしてその背景には、媒介者(運動者)→大衆という構造があるということは動かせない。
んで、草加さんのネタふりへ
投稿者:黒目 投稿日: 1月 5日(水)00時20分54秒
80年代運動の諸前提とかすっかり忘れちゃっていますが、
>>「斯くあるべし」
>そういう物の言い方をするんが党派であって「俺らの都合」的な話は公の場ではしない
>(爆)のが党派の作風なんよね。
まさにそういう話なんですが、そういう「作風」なんですよね。
んで、そこで提示される「斯くあるべし」つーのは、実は、「俺らの都合」の部分から発生してるわけですやん。例えば「うちは学生を連れてこなあかんので、臨教審がどおたらのスローガンを入れてほしい」とか、「野宿者運動なので公園立ち退きのスローガン入れて欲しい」とか。それはそれで、その場においてそれが妥当であれば入れられたり、「そんなん全然関係ないやん」とかいう話になったら却下されたり、とかいうだけの話であるわけです。本来。
ところがそれが「党派的作風」を介在させる事によって、「日本帝国主義はまさに臨教審なんたら答申に全体重をかけ、これを突破口に一挙に派兵国家体制の構築を目指しているのだ!」みたいなさ。まあそれはそれでひとつの切り口なんですが、「臨教審なんたら答申に言及していない方針なんか全然駄目だ!」みたいな事になるとややこしいわけで。
そこで無駄に話をややこしくせんでもええやんけ、という。
そのオノレの方針に見合った情勢分析、見合った理論を探してくるという作風が、サヨクの会議をカテキズム的世界に陥れているのではないノカー、と
草加さんのいわはる「全学連ー反戦」型、つーのも、要するに戦旗共産同としてはオノレの存在様式としてはそういう運動構造が望ましい、という話であった筈であり、一般論として社会運動の在り方として「全学連ー反戦型」であるべきだという「理論」は後からついてきたもんとちゃうんか?と思うわけです。
自らを省みておきますと、俺らは当時、ネグリだかガタリだかの「分子革命」とか「自由の新たな空間」とか喜んで読んでましたが、それはまさに俺らのような存在様式を「モル状闘争」として肯定する「理論」であったからであり、「おお!フランスのエライ先生が俺らの事ほめてるやんけ!」とゆうさ(W。こういう形で俺らも、俺らの存在様式に見合った理論を見つけて拾ってきているのであり、別にネグリだかガタリだかを読んだ上で、その理論に基づいてそういう運動を作ったわけでもなんでもないわけで。
で、「大枠の運動」とかいうと、結局のところ、全体の構造を見渡して、その構造の中で妥当な様式を作っていくしかないんであって、そこで「モル状闘争だ」とか「全学連ー反戦型だ」とかゆってみてもどんならんのではないか、と。
楽屋ネタばらしておきますと、俺は現在、「関西有象無象反戦行動『その他。』」と称して動いているわけですが、この主体名を考えた会議では「関西の青年学生運動をどうするか!」みてーな話が出て、「関西青年学生反戦行動」みたいな名称も案として検討されたりしてたのですが(W、「もうちょっと実態に則した名乗りを上げようよ」って事で、有象無象、ハミダシ分子を自称する運動が立ち上がった、という経緯があります。最初から「有象無象の運動をやろう」てな目的意識があって立ち上げたわけでもなんでもないわけで。
ちなみに「その他。」は、デモに出発する際に司会者がよく言う「デモの順番は、労働組合・諸団体・市民団体・その他の順でお願いします」というのの、「その他」ってのは俺らの事を指しているのであろう、というのに由来します。
いち市民さんへ
投稿者:dk 投稿日: 1月 5日(水)03時46分57秒
日本のNGO史で伏せられている部分?があるのではないでしょうか。
それは、いわゆるかつて市民派と呼ばれるブロック?に関わった新左翼党派がNGOの基礎をつくり、そして広げる上で大きな役割を果たしたということです。
どことは言いませんけどね、組織替えする前は、第4インターが大きな位置を占めていたNGOとかもいっぱいある。問題は、第4インターがNGOから手を引いたというより、支えるだけの人材を供給できなくなってしまったという問題ですかね>まっぺんさん
事務局員レベルとか、中央委員会レベル、ボランティアレベルと様々あるわけですよ。
だいたいXXXXというNGO自体が共労党系だったけど、気がついたらだれも党派運動をする意義を見いだせなくなって、本当にNGOになってしまった!なんていうのもありますしね。そういう左翼ブリッコと手を切る?切れるわけないだろう?だってそこのNGOはでかいからねぇ。
ノンセクトの活動家が気づいたらNGO活動家になってるなんてこともあるし。
私は違いますがね。
これは経験則的な実感であります(笑)
大衆運動の原則について
投稿者:セクトNo.7 投稿日: 1月 5日(水)14時37分5秒
大衆運動は党派がいても市民がいても、なんも構わんから大衆運動なんと思います。排除の論理が適用されるなら、それは誰がやろうとセクト運動でしかありません。(個人だろうが党派であろうが)党派が「ウザイ」なら自分が党派以上の主導権(当たっている言葉じゃないかも?)をとればいいのだし、党派は党派として自らの原則性(何をもっての原則?)において運動にかかわればいいんだと思います。
百万人署名運動とか九条連とかとかを隠れ蓑に、自らの内ゲバ主義の清算もせずに市民づらをして大衆運動にもぐり込もうとする輩は、排除されるべき対象と思う。内ゲバ全盛期に大衆運動の事務局を担ったものとして、彼らのやってきたことがどれほど市民・学生が運動にかかわることを阻害してきたことかは、今の運動から言っても昔話では決してないのです。
彼らが内ゲバ主義を自己批判し清算しない限り、大衆運動に参加する資格は、その党派性において否定されるべきものと思います。
大衆運動は黒目さんが言うようにお互いの「折り合い」をつけながら、お互いの違いを認め合いことでしか連帯できんと思います。それは党派であれ個人であれ同じことじゃないかと。第四インターの諸君がどれだけ人材を提供してきたのかは知る由もありませんし(大藁 謎)、党派がNGOになろうとNGOが党派になろうと私の知ったことではないのですが、『私たちの作風』ちゅうのを作っていかなくてはと思います。
ただし、内ゲバ主義者の輩との共闘は、それ以前に同席できるもんではありません。最も党派ちゅうもんは、何がしかの内ゲバ的体質は持っているもので、それはそれとして閉口するものでしたが、しょうがないものと思います。
追記(15:25)
草加さん、「全学連ー反戦型」と言いますが↓見ると反戦というのは、イメージ的に違うような?
で、まっぺんさん、流れている曲名知ってますか?ん、鍋ちゃんが知っているのかな?
http://homepage2.nifty.com/ikariwoutae/starthp/subpage11.html
その人材だった一人として
投稿者:一同窓生 投稿日: 1月 5日(水)19時51分52秒
ヘゲモニーを求めたか、というとそうでもない。その戦線で黙々と活動するメンバーが第4インターである状況が各戦線存在すると、党への信頼、党への結集、が進展するだろうという自覚だけだったなー。あとはまさに大衆運動主義の感性、運動を楽しむというような感性。
どの党派も大概そうだと思うけど
投稿者:まっぴょん 投稿日: 1月 5日(水)20時04分43秒
献身的でまじめな活動家たちと、その上にあぐらをかいてる「患部」がいるわけでふ。
第四インターについて言えば別な「個人的」理由でやめた私めは、その後の深刻な状況に雪崩をうってやめていった同志達と心情を共有してないというか、本当には理解してない。たぶん。
なんか別の話として展開してるな(w
投稿者:黒目 投稿日: 1月 6日(木)07時45分4秒
NGO関係でゆうと、まあ俺の狭い見聞の中だけの話ですが、
元第4インターの人はNGO方面でよく遭遇しますが、これがまた党派としての方針で入っていってるのでは全然ない。で、新時代社の人はそっちに行った人は、わりと知らん顔という傾向なんじゃないですかね。
もっと党派色濃厚なNGOありますが、それはインター関係じゃない。
まあ、党派活動家の「身の振り方」としては、NGO活動家になるというのは、非常に妥当な、どっからも文句でえへん選択であるかと存じますが。
あと、一同窓生さん、一般的な党派メンバーの雰囲気としてはそおなんだと思いますが、外の会議とかに出てくるような人は、各党派共通して、独特のキャラクターを生成していくもんじゃないかしらん。「あ、この党の人はマトモなんだ」と思っていても、実は裏で・・てなのに繰り返し遭遇している身としては、苦笑せざるをえない、つーか。まあ、一人の人間の人物像も、決して一面的ではない、と言えばそおなんですけどね。
長文申し訳ない
投稿者:草加耕助@懐かしの80年代左翼 投稿日: 1月 6日(木)10時55分13秒
いち「市民」さんの指摘に関しては、党派の「市民運動利用主義」に対する批判の部分について同意します。つまり「左翼の主張を言い訳することなく堂々と掲げた大衆運動」が組織できないから「市民運動に擦り寄る」ことで活路を拓こうという発想なら、やはり批判されてしかるべきだと思いますし、市民運動側にそのような動きを「うざい」と思う人が存在することも理解できます。「まずは左翼党派としての大衆運動をしっかり組織」するべきではないのか?という指摘も正論だと思う。
ではそういう「自立した左翼大衆運動」が「自立した市民運動」との対等な共闘関係を求めてきた場合にどうすんのか?ということが、いち「市民」さんの書き込みではよくわかんなかった。「とにかく過激派あつかいされたくないので党派は全部ダメ」というなら、それはちょっと同意できないっていうか、noizさんの言うように、そういう純市民主義的なセクト性をもった運動を「やりたい人はそれをやればいい」し「あってもいい」けれど、ただ自分は「そういうとこにはいかない」と思うわけです。
私は党派人としてしか活動経験がないからこういう感想を持ちましたが、黒目さんのレスは市民(大衆)運動を担っている側の視点としてさすがだなあと思いました。確かに「党派が全部悪いんだー」というのも「日本の運動史的な経験」からは(耳が痛いけど)あるんですが、それはたとえばある党派が敗北の原因をインターのせいだ、中核のせいだ、戦旗が悪い、スターリン主義者が裏切ったからだetc・・・で済ましてしまうようなものでしょう。ではなんでそんな「うざい」党派にWPNの実務を担わせることになってんのかってことですね。
dkさんや一同窓生さん、とびいりさんのご指摘では、インターの活動家が草創期のNGOなどの大衆運動を担ってきたということですが、そう言えば80年代初頭くらいまで、インターの活動家が(私らの感覚で言うところの)「各個別戦線」の現場に散って頑張っていたような記憶があります。あんなにいっぱい「戦線」を抱えて大丈夫か?的に思っていました。実は戦旗・共産同も一時期は同じようなことをしてましたが、その頃にインターの活動家がしきりと戦旗の活動家を個別に呼び出しては、こういう大衆組織にオルグするということがあったんだけど、あれはいったい何だったのかな?
しかしそれをパワーにまとめきれずに各活動家がNGOに溶けてしまったのは、いいことだったのか悪いことだったのか。インターから見てもったいないことなのは確かですし、「中核派とは違う大衆運動」の路線闘争で「完敗」した側としては、挑戦権を得たインターにはもちっと頑張って何かを残してほしかったなあと。
セクトNo.7様へ
>草加さん、「全学連ー反戦型」と言いますが:↓見ると反戦というのは、イメージ的に違うような?
いえ、ですからこの名称は下で書いているようにインターとプロ青の方々が「君らの言ってるのは全学連、反戦型の運動でもう古いんだよ」的に名づけていただいたもので、おそらくは名づけた方も単なる印象として語っただけと思われます。
まあ、それも今は昔のことなんで、昔の主張がどうこうということではなく、それをふまえつつも現在的に言うならば、お互いによりかかったり溶けたりしない「自立した左翼大衆運動」と「自立した市民運動」の大枠での対等な共闘と、その大枠の中で互いに制動しあわない「路線や主張の自由競争市場」みたいなイメージかなと思います。
何と言うか、うどん屋の釜(ユーだけ)なら簡単じゃ!という話になるわけですが。。。
んで最初に市民運動側に「自立」を要求するのではなく、まずもって左翼側に「自立」を要求するんが手順として正しいかなと。「分離」しなくてもそれは可能だと思いますし、また、左翼側が党派協定などで一つの「左翼大衆運動市場」を形成し、左翼同士の競争は主にそこでやってくれるのも歓迎すべきことだと思っています。これらのことは、まっぺんさんの言う「左派的市民運動」形成のためにも必要なことだと思う。
書いてて自分の存在と話の大きさとのギャップに、もう嫌になるし、恥ずかしくなるし、涙ちょちょぎれるわけですけれども、とにかく総じて「○○市民連合こと実は××派」とか「あそこは内部で○×派が牽引してる」とか「党派的主張をちょっとオブラードに包んで出してみる」とか、党派の運動の活路や拡大を求めて市民運動市場に乗り込むとか、それでお互いに「あれはダメ、これは禁止、これはこうするべき」とか不信感丸出しで制動しあい、陰では「うざい」とか言ったり言われたりという、そういう「わかりにくいこと」をなくして欲しいわけです。
市民運動の内部に「党」の概念や組織を持ち込んでいっても、まっぺんさんの言うようにはならず、むしろ黒目さんの1~6+番外編のほうが、残念ながらはるかに現実に近いと思いますので。
んで、黒目さんのレスへの返答ですが、まっぺんさんの言う通り、どの党派でもだいたい下部というのは「献身的でまじめな活動家」なわけで、「オノレの存在様式としてはそういう運動構造が望ましいという話で」はなく、本当に「斯くあるべき」と心底思っていることが多いわけです。
だから妥協とか落としどころみたいな「ボス交」は、犯罪行為か裏切りと思ってるわけで余計にたちが悪いということになって「カテキズム」ちゅうことになるんではないかと。少なくとも私はそうでした。
むしろ「ウチは○○やってるんでスローガンに入れてもらわないと困る」みたいなんは、個別課題に取り組んでる「専門店的なノンセクト」に多かった発想のような気がします。そんで党派が中心の集会の場合は、心では「全然関係ないやん」と思いつつも、それはそれでスローガンが一行増えるだけやから、ごちゃごちゃ言わんと入れてあげることが多かったような。どんなこじつけでもまあ平気。党派はそいうのに違和感ないから(w
それでみんながワレのとこの位置付けと主観でバラバラに取り組みつつ、当日の行動は共同するみたいな感性。党派中心の共闘会議の雰囲気とか感性なんて(私の回りでは)こんなもんでしたけどね。たまにノンセクトとか黙ってると「あんたんとこの○○運動のスローガン入れなくていいの?」って逆に聞いてあげたりしたくらい。
と、いうような世界に住んでましたが、何か?(笑
まあ何と言うか、現在進行形の大衆運動の実践家である黒目さんの、きわめて現実的な問題意識と、昔の記憶をたよりに論理の世界に生きている私やまっぺんさんの齟齬もあるのかな?と思いますが、今から思えば三里塚闘争なんかも各党派にとってこれに近い世界だったんでは?
>俺らの存在様式に見合った理論を見つけて拾ってきているのであり
>その理論に基づいてそういう運動を作ったわけでもなんでもない
同じことの「見方」の問題だと思うのですが、私らみんなが学者や理論家になれるわけでもなく、その理論家のお仕事というのは、私らが心の中で「何となく」もやもやと感じているものを「ほら、あんたの言いたいことはこれやろ」と形にすることだと思うわけです。別に私らは学者の言うてることを実践するために運動してたのではなく、逆に学者は実践活動での問題(「もやもや」)を整理することで、俺らに奉仕するためにいるんじゃくらいに思ってました。
つまり「おお!これじゃ!」と思う理論があったなら、それは「元々自分が感じていたこと」を理論化して使いやすく、実践の役に立つ形してくれたのであって「自分の都合のよい理論を拾ってきた」とか、そこまで自分の行いを斜に構えて見るこたあないと思いますが。
学者の理論だって、単に学者の頭の中で生まれたわけではなく、同じ社会体制を生きることによって、いわば社会の中から生み出された共有財産なんですから。
誰かがどこかで同じようなことを書いてましたが、やはり黒目さんが「有象無象」になったのも、ある意味「必然」だったわけでしょ。
そういうことです
投稿者:一同窓生 投稿日: 1月 6日(木)21時23分1秒
黒目さん、同じ党派だからといっておんなじ人は居ない。ただ同じ党派だとある程度思考パタ
ーンは似てるように思う。私の旧同志でも党の方針を貫徹させるべく強引な人もいたし、運動
全体の利益を考えて「思慮深く」行動する人もいたわけで、十人集まれば十色です。同じ党派
でも嫌いなやつは嫌だ、他党派でも話の合うやつは好きだ、ということもありました。
ただ「大衆運動主義」への自戒は常にありましたね。個別の大衆運動はやがて終わる、次につ
なげるためには「人」を獲得しなければ、すなわち「組織」を作らなければ、強迫観念のように
いつもありました。ノンセクトの諸君はそこをどう考えているのか不思議でならなかった。ノン
セクトの諸君は「修行僧」のようなものだという説があって当時の私は妙に納得したものでした。
それからすると、党派メンバーは「俗人」というか普通の人かな。
もやもやの整理=理論化が、「大衆」運動の奉仕となっていれば、どんなによいことか!
投稿者:noiz@労働の随に 投稿日: 1月 6日(木)22時14分35秒
書き込みの題名であえてそう書くということは、「大衆」運動の現場の端に身を置いているものとして「実態はそうなってるのかなぁ?」という疑問を持っているからこそ…だったりして(笑)。話脱線させてすみません。
黒目さんが指摘されていますが、日本の(大衆)運動の現場では、海外の「理論」が、「あ、それ、私たちがやっていることをうまくいってるじゃん」という経験的な実感として掴み取られるようなもんとして「再発見」されたりすることがあると思う。しかし、その「理論」の紹介(というより翻訳輸入)を行う人やその成果をネタに色々な批評をする人たちは、現実にある運動のなかでのある事柄を経験的実感のもとに意味付けしていくということをしているのか、というと、そうでもないよな… と思うことがよくあります。
たとえばですね、ネットワークネットワークだのあるいは新たな造語としてのスポークスカウンシル(←そのうち輸入=消費されるかなと思っていたが、やはり有名人のまとまった単著のなかで使われてないと無理なのかと主つているところ)とか、でもそれはいってしまえば「ただの実行委員会」じゃん! いま紹介・唱道してだから何なの? っていうことがあったりするわけですが(笑)、結局日本でも、似たような実態は運動現場のなかで追求/追究されていたりするわけで、そうした実情を知らない人ほど声高に念仏としてそれらのタームなりを唱えてしまう。いわゆる知識人にもそういうところがあって、あんた輸入だけしててそれでいいのか、と言いたくなったり…
逆に言うと、知識人によって紹介されてきた「理論」なり「概念装置」なりというものを、ローカルに再構成して使い倒す・検証する・使えるものだけ使う、というようなことを、あまりしてない「我々=運動者」の生態についても何らかの指摘ができる、ってことではあるんですが。
それにしても実践と理論をつなぐような立場の人、少ないですよねえ(まったくいないとは言うつもりはありませんが)。輸入されてごついままの理論を、そのまま運動に適用・敷衍しようとする逆倒の人はそれなりにいるかもしれない(大衆運動者、党派活動者、「市民な人」問わず)。
> ノンセクトの諸君は「修行僧」
! 笑ってしまった。
そおか、党派メンバーのが普通の人っぽいのか(W
投稿者:黒目@修行僧つーより自分で得度したニセ坊主(w 投稿日: 1月 6日(木)23時39分13秒
まあ、俺らのが浮世離れしてんであって、世間ではセクトメンバーみたいなタイプの方が一般的なのかもしんないといまオモタわけですが(W。
ちなみに俺らは党派の人を「会社の人」と呼んでいました。もちろん「新時代社」とか「戦旗社」とかの「社」なんですが、「人事異動」とか「中間管理職の悲哀」とか、大変そうだなあ、とゆう。まあ、そう思ったら、現代の労働者階級の一般的存在様式なわけですが(W
「ノンセクト」つっても、専門店型もありーの、社会主義総路線型もありーの、なんですが、俺なんかは自分のやれる事だけやっとったらええわ、というダメ型ですね(W。いろんな事を呼びかけられても、シノギもあるしよお関わりきらんで、というのんで結果的に専門店、みたいなさ。
俺はそもそも、百人とか千人とかの単位の人間が、同じ理論同じ方針を共有して同じ事考える、なんちゅーことは原理的にありえへんやろ、という地平で、理論方針共有型の党派という存在様式に懐疑的なんですが、
一同窓生さんのいわはるような在り方だと、ある種の人材・人脈プールですよね?
それやったら別に最低限の方針共有した活動家集団でなにが足らんの?というのがまたわからんかったりします。
大衆運動との関わりとゆー事で言えば、「大衆運動はいつかは終わる」とかゆっちゃったら、市民運動なんか持続的に存続しえない、ゆう事になりませんか?
逆に、例えば「トロツキー共有できない私」
は、第4インター派に結集し得ないわけであって、それは世間を狭くする事なんじゃないか、と思うわけです。
あとさ、理論的整理問題ですが、我が国の全共闘の経験とかべ平連の経験とかすら、こお、相対化して「経験化」される作業がほとんど為されていないというのはキビシー状況ですね。マル共連とかの方がこういう作業ちゃんとやってんじゃないかという気もします。
安東仁兵衛@現代の理論がどっかで書いていた事やったと思いますが(別の人やったかも・・・)、構造改革派立ち上げる時の話として、いいだももなんかの認識は、グラムシという「新理論」を輸入して、それを担いでまわる事で新機軸を打ち出す、みたいな話であった、というような。これって、欧米から新理論が輸入される場合のひとつのパターンですよね。で
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