やれることだけやればいい-戦旗派体験総括への道(2)

勤労青年山の会

 元戦旗メンバーからもメールなどは最近ちょこちょこいただくようになりました。貴重で真摯なご意見、感謝しています。ですが、掲示板などの「人目にふれる場所」に自分なりの「意見」を書込むのは躊躇される方が多いようです。

 戦旗であったことをアッケラカンと公言して発言したり、組織をコケておきながら何の苦悩もなく政治活動を続けることへの罪悪感めいたもの、ちょっとした影のようなものを引きずっているところ、でも内には語り尽くせない思いを山のように秘めているところが、「元戦旗」に共通しているようです。かく言う私もこうして発言できるようになるのに15年かかったわけですが、もしパラチェンとロフト事件がなければ、今でもROMに徹して沈黙していたと思います。

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 私はそんな元戦旗メンバーの気持ちがわかるし、まるで「戦争の話を楽しそうに語る爺さん」のように自分の闘争経験を話す人達に比べれば、はるかに愛すべき人々だと思っています。けど、パラチェンによって「戦旗・共産同」は消滅したというのが私の認識です。後継組織はあるとしても、基本的に「終わったこと」なんだから、未整理のまま、何でも語って吐き出してしまえばいいと思います。何でも対象化して総括・主体化しないとものが言えないのは戦旗出身者の悪い癖です。

 これは手前味噌でも何でも無く、様々な書き込みやメールを見る限り「元戦旗メンバー」というのは本当に良質な人が多いと思います。特に今まで沈黙してきて、「このサイトを見てはじめてメールしました」という方の文面は驚くほど良心的です。私みたいに平気でぽんぽん発言してきた人間はむしろ質が低いかも、というか明らかに低いですよね、ハイ(^_^;

 しかしそれだけにみんなズルくなれないのです。「昔は昔」として「党派崩れ」「戦旗崩れ」になることができないだけで、内には語り尽くせない思いを山のように秘めています。

 「左派市民運動」の中には、実態として「元党派活動家」や「元ノンセクト」によって牽引されているものも多いでしょう。戦旗も反戦市民運動との軋轢を「これは『市民vs党派』の問題でなく、党派崩れの政治ゴロ達との『党派闘争』として認識しておくべきだ」と言ってましたもんね。まあ、共闘を通じた批判と健全な党派闘争はむしろいいことだと思いますが。

 いずれにせよ市民社会の一員として生きて行く、あるいは生きていかざるを得ないことに罪悪感めいたものを持つ必要はさらさらありません。むしろその中で自分らしく生きていく、自分を偽らずに堂々と生きていくためにはどうすればいいのか、組織のないところで「戦旗派的な自己否定の回路」で思考しても、堂々回りに陥ってしまいます。

 戦旗・共産同はなくなりました。しかも自分で自分を否定して。それは私達にとって一面では屈辱であり残念なことではありますが、考えようによっちゃ、これからは何をしても何を言ってもいいのです。極端な話が佐藤さんみたいに右翼になっちゃってもいいのです。

 後継組織たる「ブント」にも何ら遠慮やコンプレックスを抱く必要もなくなりました。「私達は君らが間違っていたと言ってる運動から君たちより少し早く召還しただけだ。そして今は私なりの苦闘を続けている」と。

 屁理屈でも何でもかまわない、そう言い切ってしまいましょう!(^◇^)/

 「左派市民」。このいかがわしくも魅力的な言葉はしかし戦旗体験者としてはあまりいい意味の言葉ではありませんでしたね。ですが市民社会における左派として、自分なりのポジションを模索していこうではありませんか。もちろん「何もしない」ことも選択肢のうちです。政治に関わるだけが人生ではありません。人生はそれ自体がアドベンチャーなのですから。

 私が言いたいのは「関わりたいと思うなら、関わればいいじゃん」ということであり「忙しくて出来ないなら、できることだけすればいいじゃん」ということです。必ずしも戦旗派的に「職と生活を賭して」しなければ意味がないと考える必要はありません。そして「関わりたくないのなら、関わらなければいいじゃん。それはちっとも悪いことじゃないよ。そのうち気持ちに余裕ができたら一緒に何かの手伝いにでも行こうや」と。

 これらのことを、わたしなりにこのサイトで表現していけたら、そして元活動家の語り尽くせない思いを代弁していけたらと考えています。

 どうぞこれからもよろしくお願いします。m(-_-)m

ここまで読んでいただいてありがとうございます!