【資料】国が管制塔戦士の給与を差し押さえ

投稿者:草加 耕助
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 元および現活動家の皆さんなら知らぬ者のない78年3・26管制塔占拠闘争ですが、その時に管制塔まで突入に成功したいわゆる「管制塔戦士」たちに対し、5千万円におよぶ請求がなされていたことを覚えておいででしょうか。その請求に基づき、27年後の今春より、唐突に管制塔戦士の給与差し押さえが開始されました。

 その請求金額は27年分の利子を加算して1億円を超えています。一般労働者としては破滅的な金額です。先ごろマスコミ報道でもこの事実が公表されましたので、「旗旗」でもこの問題を公表すると共に、正式にこの問題に取り組んでいきたいと思います。

 かつて管理棟ビルに突入した管制塔戦士たちは、直通エレベターなどを乗り換えるたびに襲いかかる警官隊を決死の覚悟で阻止したメンバーが次々と逮捕されていきながら、残ったメンバーが必死に最上階へと駆け上がりました。

 その過程ではついに警官がピストルを抜いて戦士達につきつけ、万事休すの事態もありました。警察官は安心したのか勝ち誇ったのか、ニヤリと笑ったそうです。その時、戦士の一人がバッと両手を開いてピストルの前に立ちはだかり「お前達には大義がない!撃てるもんなら撃ってみろ!」と身を投げ出しました。すると勝ち誇っていた警官の両手が手がブルブルと震え出したと言います。

 こうして最上階にたどりついた数名のメンバーでしたが、管制室の鉄扉を破ることができず、やはりもはやこれまでと思われました。しかし彼らは落下の危険を顧みず、外壁のパラボナアンテナをよじ登り、ついに管制塔占拠に成功しました。管制室に入った彼らの最初の言葉は、管制官に対する「君たちは危ないので避難して下さい」だったと言います。

 この闘いの正確な意義を知るには、三里塚闘争と成田空港建設の過程を知らなくてはなりません。その延長線上に戦士達の行動があったのですから。それは運輸省自身が、暴力的な空港建設の非を全面的に認めて農民に謝罪している(たとえ口先だけであったとしても)ことから推して知るべしです。

 ともあれ私たちはこの闘いに深く感動し、「第二、第三、そして無数の3・26を!」「管制塔戦士に続け」と、さんざんに彼らを天井まで持ち上げて拍手喝采を送り続けてきました。そんな私たちが今更口をぬぐって、「昔のことさ」と知らぬ顔をきめこみ、彼らにだけ犠牲を押し付けて、それでよいんでしょうか?それはもう闘争の是非や思想性を超えた、人間としての最低限の「仁義」の問題だと思うのです。

 ここでは、今後この問題にとりくんでいく上での、一通りの資料・声明などを掲示しておきたいと思います。

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(共同通信)元活動家の給与差し押さえ 成田管制塔占拠の賠償求め

 成田空港開港直前の1978年3月、過激派が管制塔を占拠した事件をめぐり、最高裁で元活動家16人に計約5000万円の損害賠償を命じる判決が確定した訴訟を受け、原告の国と成田国際空港会社(旧・新東京国際空港公団)が、元活動家の給与を差し押さえる強制執行手続きをしていたことが5日、分かった。

 95年7月の最高裁判決後、元活動家らから支払いはなく、利子を含めて総額は約1億円になっている。7日に時効を迎えるため、差し押さえの手続きをとった。これにより、時効は最高で10年中断される。
 空港会社によると、今年2月から6月末にかけて、元活動家の居住地の裁判所に対し、給与差し押さえや支払い督促の申し立てを行った。(7月5日)

(毎日新聞)<成田管制塔襲撃>元活動家の給与差し押さえ 機器破壊で

 成田空港開港前の78年3月に過激派が管制塔を襲撃した事件で、国と成田国際空港会社が元活動家16人に機器の損害賠償を求めた民事訴訟を巡り、国側は10人の給与を差し押さえる強制執行の手続きをし、定収のない6人についても支払いの督促を行った。7日に迫った民法上の時効を中断させることが目的。(7月5日)

(朝日新聞)成田空港管制塔襲撃事件、元活動家の給与差し押さえ

 成田空港の建設反対を掲げた過激派が開港直前の78年3月に管制塔を襲撃した事件を巡り、国と新東京国際空港公団(現成田国際空港会社)が損害賠償を求めた訴訟で、国などが、被告となった元活動家に対し、給与を差し押さえるなどの手続きをとったことが5日わかった。最高裁で認められた賠償の時効を中断させるためという。

 国土交通省と同社によると、95年7月の最高裁で被告側に約5000万円の支払いを求める判決が確定したが、債権の時効の成立が今月7日に迫っていた。支払総額は利子も含め約1億円という。

 今回、給与の差し押さえや支払い督促の手続きをとられたのは元活動家の16人。今年2月からそれぞれの居住地の裁判所に申し立てを始め、今月初めまでに15人に対する申し立てが認められ、本人や雇用主に決定が通知された。

 この事件は、開港を4日後に控えた78年3月26日午後、過激派のメンバーがマンホールをつたって管理棟ビルに乱入。最上階の管制塔を占拠し、ハンマーなどで機器類を破壊した。管制官らは屋上に避難し、約2時間後にヘリコプターで救出された。この事件で開港は約2カ月延期された。(7月5日)

(読売新聞)「成田」元活動家の給与差し押さえ、国など手続き

 成田空港の開港阻止を狙って1978年3月、過激派が起こした「管制塔襲撃事件」を巡り、国と成田国際空港会社(当時・新東京国際空港公団)が損害賠償を求めた民事訴訟で、国と同社は、被告の元活動家の給与を差し押さえる強制執行手続きに踏み切った。

 最高裁で総額約5000万円の損害賠償が確定したものの、支払いがないまま7日に迫っていた時効は、今回の手続きにより、最高で10年間、中断される。国と空港会社は「国民の税金で建設した施設を破壊された。うやむやにはできない」としている。

 国と空港会社は81年、損害賠償を求めて提訴し、95年7月、元活動家16人に支払いを命じる最高裁判決が確定した。しかし、この10年間、元活動家からの支払いは全くなく、利子も含めた総額は約1億円に膨れあがっている。民法上の債権の時効は10年だが、裁判所が給与の差し押さえを認める決定をし、債務者本人と雇用主の会社に通知すれば、時効は中断される。

 最高裁判決後、国と空港会社は、元活動家に書簡で賠償金の支払いを請求するなどの措置を取ってきた。しかし、請求そのものには法的拘束力がなく、賠償金を支払えるだけの所得があると見られる元活動家からの支払いもなかった。また、収入が全くなかったり、度重なる引っ越しで所在不明になったりした元活動家もおり、賠償金の徴収は進まなかった。(7月5日)

管制塔被告団の声明

 私たち元管制塔被告団は、政府及び成田国際空港会社(元新東京国際空港公団)の損害賠償の時効差し止めを意図した賠償強制執行の着手に対して満身の怒りをもって抗議する。

 二〇〇五年(今年)七月七日、一九七八年三月二十六日管制塔占拠にともなう器物の破損にかかる損害賠償請求訴訟判決の時効の日に当たる。最高裁判決から十年もたつ今年三月、法務局は突然元被告たちに対し、給与の差し押さえを始めとする賠償の強制執行に乗り出した。賠償請求に理があるならば当然被告団はそれに応じたろうし、政府も素早く賠償執行に取り掛かったはずである。

 なぜ政府は賠償請求の執行にすぐに取り掛からなかったのか?
 答えは明白である。全く請求に理がなかったからであり、いわゆる管制塔占拠後に国と空港反対同盟の間で展開された「成田空港問題シンポジュウム」においても、非は歴代政府にこそあることを当時の運輸省課長さえも認めていたからである。

 二〇〇五年(今年)七月五日の新聞各紙に取り上げられた「元活動家の給与差し押さえ」の記事は、政府と成田国際空港会社による新たな「成田空港反対運動」に対する攻撃であると私たちは理解している。
 手狭であり、不便であり、使用料がどこよりも高く、ソウルの仁川空港を始めとするアジア各国の空港に利用者を奪われている「成田空港」は競争力を上げるべく、滑走路の延長・新たな滑走路の取り付けを迫られている。
 私たちへの損害賠償強制執行着手は反対闘争に対する圧力であり、今後ますます反対同盟やそれを支援する人々に対して強まるだろう政府の攻勢であると捉える。そうであるならば私たちは少々老いてはいるが、再再度政府に対する闘いを宣言せざるをえない。あらゆる方法で反対運動に対する弾圧・圧迫を打ち砕くために立ち上がるだろう。

 元管制塔被告は最高十年(未決通算加えると十二年)、短期の者でも(未決通算を加えて)六年の刑期をまっとうして来た。皆が社会に出て新たに社会と家族と職場の関係を築いてきた。この過程の労苦は計り知れないものがあった。一人の仲間が自死で尊い命を奪われてさえいる。

 今回の政府の賠償強制執行の着手は、私たちが出獄後築いてきた社会・家族・職場関係を引き裂くことになった。一九七八年の不当な空港強行開港宣言を管制塔占拠によって粉砕してから二十七年、「成田空港問題シンポジュウム」で政府が反省の弁をたれてから十三年、私たちの闘志はあの時以上に大きくなっている。不当な「成田空港」の建設に反対するばかりか今度は家族と職を守ることもふくめて私たちは闘いに立ち上がる。
 今から政府はますます強固になる空港反対闘争に遭遇することになるだろうし、政府・新国際空港会社は意図とは逆に大きな困難に直面することになるだろう。

正義は管制塔占拠の瞬間も現在も私たちにある。
私たちは絶対に負けない。
                                   二〇〇五年七月九日

三里塚闘争・成田管制塔被告への報復(レッドモール党/まっぺん氏)

 先日報道された空港突入戦士たちへの損害賠償強制執行について、どうしても書いておきたいと思います。

 1978年3月26日、開港直前の成田空港に突入した反対派の青年たちは、管制塔に駆け登って機器を破壊し、開港を約2ヶ月延期させました。当日、全国から駆けつけた万余の人々は、管制塔に赤旗が翻える様子が三里塚公園の集会場から見えた時、ほんとうに涙を流し、躍り上がって喜びました。またこの様子をテレビの臨時ニュースや号外で知った全国の多くの人々からも驚くほどのはげましの声が反対同盟や逮捕者に届けられたものでした。

 これに対して、警察権力は、ハイジャック防止目的のために作られた「航空危険罪」をまだ開港もしていない空港に適用し、計画立案の「首謀者」に懲役11年、行動隊長に8年を始めとした重罪をかけ、また関係組織に対してあらゆる違法な捜査や横暴を繰り返すという報復に出ました。そして、この行動を反対同盟と切り離し、「一部の過激派の無法行為」として片づけようとしてきました。

 しかし、この成果が反対同盟と、三里塚に連帯する人々の「総意」にかなったものである事は、その後の反対同盟の声明にも明らかです。反対同盟の染谷さんは当時こう言っています…「うれしかっただよ。三里塚公園で集会の最中、大勝利した、空港を占拠したって知らせあったの。もう大変な拍手だった。夜テレビでみたの。高いところ壊した青年、にっこり笑って出てただよ。青年たちの心、農民の心と変わりねえべえ。変わらないどころか、神様だよ。いくら反対同盟がんばっても、あんだけのことできやしねえ。」

 これは決して「一部党派が勝手にやったゲリラ」などというものではなく当時の我々にとっては「共同の闘い」であり、16名の戦士たちは「我々によって送り出されたコマンドー」なのであると、少なくとも私は認識しています。しかし、そのコマンドー達は、何年ものあいだ獄中に繋がれ、中には肉体や精神まで破壊された者もいます。なぜ「彼ら16名だけ」が、更にこのうえ何十年にもわたってこの大きな闘いの後始末をしなければならないのでしょうか? その事に、ささやかながらかつて共に運動に参加した者として苦痛をおぼえます。

 法廷闘争ではもはや手だてはないと聞いております。それならせめて、大々的なカンパ活動を組織するのが、最後まで彼らに対して責任をとる事になるのではないでしょうか。当時彼らを送り出した組織や人々、また心ある活動家諸氏にはぜひ取り組んでいただきたいと願うものです。三里塚闘争については初心者向けに下記リンク先に経過を簡単にまとめてあります。
http://www.redmole.info/sanrizuka.html

管制塔元被告団への大衆的カンパを! ―管制塔占拠-成田開港阻止闘争への不当な損害賠償請求攻撃をゆるさない―(かけはし

 政府と成田国際空港会社は、一九七八年三月二十六日の管制塔占拠闘争の元被告たちに、損害賠償請求の強制執行の攻撃を行ってきた。すでに今年四月以降十人に対し、給与の差し押さえの強制執行の手続きを取り、定収がない六人に対しても支払いの督促を行っている。

 政府は「成田空港シンポジウム」で自らの非を認め、それ以後一切賠償問題に触れることがないまま、時効の直前に突然強制執行という手段に訴えてきたものである。こうしたやり方を絶対に許すことはできない。この攻撃は政府が一度非を認めたことを反故にし、暫定滑走路を北側に延伸しようとすることと決して無縁ではない。われわれは三里塚芝山空港反対同盟とともに断固として闘い続けるであろう。

 だが管制塔元被告団にかけられた損害賠償四千三百八十四万円は法定利息を含め総額一億三百万円にもなっている。これを放っておけば毎年自動的に二百万円余の利息が加算されていく。その上、四月から毎月給与の四分の一が差し押さえされている。

 苦渋の選択として、管制塔元被告団は今年年末をメドに一億三百万円の一括払いを決めた。なお、カンパは10月末集約とする。管制塔元被告団に全国の仲間に声明(別掲)を発表し、この運動をともに担うことを求めている。

 われわれは管制塔元被告団の決定を支持し、ともに闘いともに苦闘を担うことを確認した。
 全国の同志、友人の皆さん。この管制塔元被告団にかけられた損害賠償強制執行をはね返すために多大のカンパをお願いします。
 期限がせまっており、まだ管制塔元被告団の口座が開かれておりませんので、当面、新時代社口座 00150―8―157442に管制塔被告へのカンパと記入して振り込みください。管制塔元被告団の口座が開かれましたら、すぐにご報告致します。

二〇〇五年七月十一日 新時代社

78年管制塔占拠 民事損害賠償請求で給与差し押さえ(SENKI

1978年3月の成田空港管制塔占拠をめぐり、国と新東京国際空港公団(現成田国際空港会社)が求めた損害賠償請求で、現在管制塔戦士一人一人に給与の差し押さえがはじまっています。山下和夫さんからの投稿を紹介します。(編集部)

4月から給料の25%が供託されています  管制塔戦士 山下和夫

 今から二七年前の一九七八年三月二六日、成田空港が管制塔占拠により開港不可能となりました。当時学生であった私も四七才となり、今の会社に二十年近く在職するに至っております。いつか来るとは思ってはいましたが、直面すると唐突に感じられました。しかし一方で「決着をつける時が来た」と覚悟を固めてもおります。  

 二〇〇五年三月三十日、東京航空局、気象庁の申立てで、四月六日には空港会社の申立てで、地方裁判所より「債権差押命令」が送付されて来ました。「総額一億三千六十万円に満るまで」給与の二五%がカットされるというものです。私の場合、四月分より給料から天引きされています。カットされた給与は法務局に「供託」されるとのことです。  

 一九八一年三月二四日(時効の二日前)、国(航空局、気象庁)と空港公団の三者より、四千四百万円の賠償が請求されました。八九年三月には地裁で、約半額の賠償の判決が、九二年六月高裁では請求全額の賠償判決が下りました。九五年七月に最高裁が被告側の上告を棄却。その年十二月に三者からの納付請求がありました。しかしこれ以降取立行為は一切なされず、今年に入って七月で時効となる直前、今回の処置となったわけです。  

 被告十六名に対して約一億円の連帯請求がなされています。私の職場につきましては幸い会社側との話し合いで、「過去の古傷」ということで早急に解決するよう言われるにとどまっています。法的には「差押」を理由に解雇するのは不可能のようです。しかし社会通念的には辞めざるをえないところ。「古傷」として一定の理解を得られた状況には感謝しています。  

 成田空港の闘いは、政府自身も認めているように、当初より「ボタンの掛け違い」によって、現地の声、存在を無視し、建設が押しすすめられてきたことへの反対の闘いでした。政府・公団は反対する声に対しては、農民の生活=農地を強権=「土地収用法」で奪い、支援者には機動隊による暴力と逮捕でのぞみました。自民党政府の農民を見下した政策によって、双方に多数の死傷者を生み出した失政に対し、管制塔占拠は最大の闘いになったと思っています。  

 最近新聞紙上で明らかにされたように、並行滑走路が「短い」ことを理由に空港会社社長が国交省に「行政指導」を受けるなど、成田空港は当初からの失政のツケを未だ引きずっている現状にあります。この記事を見た時、自分史的には二十才の学生が管制塔に突入し、その後の人生の半分以上関わりを持ち続けたことは、「意味」のあったことだったのだと、自己確認している次第です。  

 そして最後の闘いとして、今回の国からの賠償請求に、佐藤氏、水野氏、石山氏の三氏とともに対峙していこうと思っております。  

 どうか、一人でも多くの方にご理解いただき、御支援くださるようお願い申し上げます。

突然の差し押さえに生活上の危機  管制塔戦士 佐藤一郎

 三月二十八日帰宅するや、郵便受けに裁判所からの特別送達の不在票がはいっていました。裁判所からの特別送達に心当たりもなく、日常的には珍しいものなので、様々に思いをめぐらして郵便局に連絡を行い翌日受け取りました。推測通り管制塔民事裁判の判決に基づく差し押さえ命令でした。  

 内容は、債権者国土交通省及び気象庁は損害額何がしかの金額を、私の月々の賃金及び一時金、更には退職金が発生するならばそれからも、各々四分の一を差し押さえるというものでした。同時に我が職場宛にも同様の命令が送付され、もしこの命令に会社が服さないならば、会社も連帯債務者となるとの趣旨が、極めて事務的に書かれてました。  

 書式も通常の横書きA4ワープロ文書で、過去に目にした旧来見慣れた裁判所の書式とは異なり、実に簡素なものでした。被告の住所欄を見ると、現住所以前の住所として横浜市港南区港南何々番地横浜刑務所内と、まったく何の配慮もないまま記載されており、それが直接会社にも送付されていました。まさに「四分の一の差し押さえ」以上の生活破壊攻撃としか言いようがありません。  

 権力のお前の自業自得だろうと言わんばかりの扱いに怒りがこみ上げてきました。幸い会社は何か「若気の至り」的な解釈で、今回のことは過去のことなので問題にしないが、ただ裁判所の御命令とあればそれに従うしかありませんといった態度で臨んできました。私自身が微妙な立場に置かれたことは事実であり、権力とはこんなものなのだろうと思いました。なお、後に聞いたところでは会社に送付された文書には、加えて貴社としてこの命令に応じますか応じませんか、どちらかに○を付けろとのアンケート形式の裁判所宛の回答書が付いていたとのことです。更にそれから時日を経ずして、空港公団の事業・債権を継承した空港会社名で同じ文面の差し押さえ命令が届きました。  

 一九九五年七月最高裁での確定判決以降、記憶をたどっても一度たりとも催促なり督促状らしきものを受け取ったことはありません。民法上の消滅時効が二十年であり、それがこの七月であることも全く意識せずに日々を送っていた身にとっては、青天の霹靂といった事態です。他の多くの被告たちも同じ実感を抱いたのではないかと思います。  

 それぞれさまざまな思いを抱いて、市井の中にささやかな生活を営んでいた被告も多く(かく言う私もその一人ですが)、突然二十七年前の一九七八年三月二六日の管制塔占拠闘争と、その後の裁判闘争・長期の下獄の鮮明な記憶がよみがえってきました。権力の報復攻撃が全身を押しつぶすように立ちはだかってきた感じです。  

 民事裁判が裁判闘争・長期の下獄に対して傍流の権力の攻撃と捉えていたことと、財産も持たず失うものはないとあまり危機感を持たずにいたため、薄給からの差し押さえはいざ現実のものとなると、生活上の危機と今後の生活設計の大幅な変更を強いるものとなりつつあります。  

 この差し押さえ攻撃の意味は、現在の三里塚の情勢と、更には社会情勢を十分反映したものであると思います。それを踏まえて真正面から受け止め、めげずに跳ね返して生きたいと考えています。被告団も再び、今回の事態を跳ね返すとの固い決意を求心力として団結を強めています。今回の事態に至りその報告に接するや、直ちに激励や支援の気持ちを寄せてくださった皆様に、この場を借りて感謝の念を表します。と同時に二十七年前の闘いが、まだまだこのような形で続いているわけです。今後の厳しい闘いへの支援を心から訴えます。

二〇〇五年七月十二日 佐藤一郎

元管制塔被告に対する財産差し押さえが開始されました! 当時、共に闘った仲間で、支えるために協力してください

 元管制塔被告に対する民事訴訟は89年3月に東京地裁で被告側が敗訴し、高裁で全額賠償の判決のあと、95年7月には最高裁で確定しました。  

 当時、被告団は、賠償請求に対して、一切応じない(インター・プロ青)という方針で臨み、従って、差し押さえの対象となる財産は、(家族名義へ変更しても)持たない、というのが被告側の対応となったと聞いています。  

 原告側は、今頃何故と、誰もが思うような今年3月(時効直前)になって、賠償金(延滞利息を含めて)約1億円を支払うようにと請求書を送りつけてきました。かつ元被告人等が勤務する会社に対し、就業確認の手続きを進め、その上で地裁は、手取り給与の25%を差し押さえる原告側の請求を認める決定を下しました。4月からは山下和夫氏の給料からの天引きがはじまっています。  

 私たちが負う責任が如何なるものか検討を要しますが、他方で、山下和夫氏の呼びかけにあるように、経済的圧迫が加えられ続ける現実に、私達は目をつぶることをしたくはありません。それは、若き情熱を傾けた自らの所業に対する冒涜ともいいうることだからです。

 但し、管制塔の件は29年前のことです。28歳以下の人には生まれる前のできごとになりますので、そんな方々に運動をお願いするのは、無理のあることかと思います。従って、当時を共有するものが痛みを分け合うこと、これが基本になります。原告側と交渉中と聞きますが、どうであれ相応のまとまった金額が必要となります。交渉がまとまらない場合は、被告を支援する毎月一定の金額を要します。  

 どちらの場合にも対応できる、管制塔損害賠償対策基金の設立が望まれるところです。  SENKI読者のみなさん、何とぞご協力をお願いします。

78年当時三里塚現闘団長 渡辺文博
同現闘員 早見 亨

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