(資料)東トルキスタン(新疆ウイグル)について/三浦小太郎さん

投稿者:草加 耕助

 ご存知のように「新疆ウイグル自治区での暴動」がマスコミで報道されています。今のところ情報は決して充分とはいえませんが、とにかくまず、日本ではほとんど知られていない東トルキスタンについての前提的な基礎知識や認識を、それぞれの論者の間で共有するべきだと思っています。

 しかし運動の初期には仕方がない面があるとは言え、日本語で読めるネット上の情報は今のところどうしても扇情的なものが多いです。そこで左右を問わない冷静な議論の試みの一つとして、多少古いものですが評論家で右翼活動家の三浦小太郎さんがあえて左派系の掲示板である「四トロ掲示板」に投稿された講演抄録をここにも再録しておきたいと思います。三浦さんの講演録は非常にコンパクトにまとまっていますし、扇情的にならずに、東トルキスタンの歴史を概括しておられます。それを知識として学ぶことについては謙虚であっていいと思うのです。

 なお、この講演録では、前半が東トルキスタンをめぐる客観的な歴史的経緯、後半に進むにつれてそれに対する三浦さんの意見という流れになっています。収録にあたっては、この三浦さんの見解に対して同掲示板によせられた左派側の意見も収録しました。同時に本サイト内の「カゲキ派への100の質問」からも一部を転載しておきます。これらをあわせて読むことによって、(まともな)左右の人々が共に「東トルキスタンの人々の平安と中国の圧制に対する抗議」という目的と善意を共有しながらも、どこで意見が分かれるのかがよくご理解していただけると思います。

 このエントリーが「反中国」や「嫌中」、あるいは「漢民族 vs ウイグル人」のような偏狭なナショナリズムや民族的偏見ではなく、本来の核心問題である人権・人道の問題としての幅広いウイグル人への支援や問題への理解に役立ち、またそのための議論のきっかけとなることを願っています。

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東トルキスタン独立記念日とは 投稿者:三浦小太郎 投稿日: 2006年 4月 6日(木)18時29分36秒

ここが相応しいかどうか分からんのですが、東トルキスタン問題(新疆ウイグル)について、左派の方々にもお考えいただければと思い、拙文を紹介します。現在の東トルキスタン亡命政府や独立運動には様々な問題もあると思いますし、また最近ちょっと扇情的過ぎる報道が多い気がしますので、まあ私としては冷静に語ってみたつもりです。
「諸君!」06年5月号に、尊敬する水谷尚子氏の、独立運動家ラビア・カデイールへの優れたインタビューが載っています。こちらも手にとってみる事をおすすめします
(本稿は11月12日、13日、大阪、東京で行われた東トルキスタン独立記念式典にて講演した内容を抄録したものです)

◆盛世才による新疆支配

盛世才 本日は、通常日本では「新疆ウイグル」といわれております、東トルキスタンの独立記念日を祝う集会にお越しいただきありがとうございました。日本でこのような集会が行われるのは多分初めてのことと思います。本日は、東トルキスタン共和国の独立とはどのような経緯で生じたものなのか、その歴史的意味合いとは何なのかについて、私なりに簡単に述べてみたいと思います。なお、この問題、また中国の民族問題についてより詳しくお知りになりたい方は、毛里和子著『周縁からの中国』(東京大学出版会)を是非お読みください。最も公正な学問的著作であると思います。なお、本日はいまだに一般的である新疆という言葉を便宜上地域名として使わせていただきます。

 1933年、新疆地域は、盛世才といういわゆる軍閥がクーデターを行い、政治的に支配しておりました。盛世才は政治的には親ソ・新中国共産党の政策を採り、同時に中華民国政権とは独立した勢力を築こうとしていたのです。実際、ソ連もこの地域に親ソ政権ができれば中国に対して圧力をかけられるわけですから、経済的にも軍事的にも積極的な援助を行いました。多くのウイグル人、カザフ人がこの時期からソ連に留学していること、ソ連の影響の強いエリート層が作られていたことは、今後の新疆の運命に大きな影響を及ぼすことになります。

 しかし独ソ戦が勃発し、ソ連が当初のドイツの電撃戦の前に敗北の一歩手前まで追い詰められると、盛世才は直ちにソ連を見捨て、それまでは国内で活動を許していた中国共産党員をも逮捕し、さらには外交官以外のソ連人を全員国外追放し、急遽姿勢を転換して蒋介石の国民党との接近を図ります。1943年1月から国民党の大軍が駐屯し、約10万人の兵士が新疆に駐留しますが、軍隊というのは生産をする機関ではありませんし、もともと経済的に豊かなわけではなく、農業、牧畜などの平和な生活を営んできた新疆にはあまりに重い経済的負担がかかるようになりました。ウイグル人、カザフ人は、労役や挑発に苦しみ、ソ連との貿易の停止がさらに経済に打撃を与えます。しかも、誇り高き遊牧民から1万頭もの軍馬を徴発するなどの、各民族の精神を踏みにじる行為が続発しました。

 しかし、ここまで其の時其の時のマキャベリズムだけで同盟関係を変えるような政治家は結局信頼されないのですね。盛世才と国民党との間には次第に対立が生じ、国民党は軍事的圧力の元結局1944年8月に盛を免職し、無理やり重慶に連れ去ります。新疆がこのような政治的混乱の只中にあったときに、東トルキスタン独立への民衆運動、そして各国の干渉が起こったのでした。

◆独立運動とソ連の干渉

東トルキスタン国旗 1944年春から、新疆では激しい武装闘争が始まります。盛世才の独裁体制、そして国民党の軍事支配と経済的搾取に抵抗するゲリラ闘争です。「3区革命」と呼ばれる激しい民衆の戦いは、主としてイスラム教に基づくものでした。同時に、この地域での覇権を再興しようとするソ連の軍事顧問団が参加しており、またゲリラ軍はソ連で軍事的拠点を持ち、軍事訓練や指導なども受けていました。

 各民族のゲリラ軍は連合して進撃、1944年11月12日、民衆軍はクルジャ地域全域を占拠、東トルキスタン独立共和国を宣言します。独立記念日はこの日を記念したものです。同時に、臨時政府は、直ちにソ連人軍事専門家を呼び、軍事的整備、政治機構の確立を急ぐと共に、45年4月にはゲリラを正規軍に編成、45年9月には東トルキスタン全域を解放、東トルキスタン共和国が歴史に姿を表したのでした。

 しかし、独立運動への流れはここから停滞します。独立軍は首都ウルムチ占拠への進撃を、ソ連軍事顧問により停止され、壊滅寸前だった国民党軍との停戦を余儀なくされます。これは、ヤルタ協定による中ソ交渉、8月14日の中ソ友好同盟、それ以降の中ソの親密化が大きな影響をもたらしたのです。このことはまた後で述べます。

 ソ連の指導による国民党と独立運動側の和平協定の過程で、ソ連政府の命令により、殆ど撤退していきます。続いて、独立運動内部の、イスラム系、民族運動系の指導者が、多くソ連領事館によって病気療養などの名目で退けられ、東トルキスタン共和国自体が解体され、中華民国内部の自治領とされました。46年7月2日、独立派の新聞「革命的東トルキスタン」自身が「今日を持って東トルキスタン共和国は解散を宣言する。(各地域は)省政府の直接管轄下に入る」と発表。東トルキスタン共和国はわずか1年半で終わったのでした。
 では、この東トルキスタン共和国の本質とは何だったのかを見ていきましょう。

◆イスラム勢力と親ソ勢力

東トルキスタン共和国建国直後、臨時政府にはイリハン・トレというイスラム系の指導者が選ばれました。彼の主張には極めて激しいイスラム色、反中国、そして独立への強い意思が現れています。

「目を覚ませ!今は目覚めの時代となった。アッラーは我々の神であり、ムハンマドは我々の聖者であり、イスラムは我々の信仰であり、東トルキスタンは我々の祖国である。(中略)血生臭い圧制を意味する中国の旗は、我々の足の下で踏まれて塵となった。(中略)いわゆる新疆が中国の一部であるというのは真っ赤な嘘である」(共和国成立大会でのイリハン・トレ演説)

 イリハン・トレは主としてクルジャでの民衆蜂起を組織、宗教リーダー、地主、商人、牧主などの支持を受けていました。ここにはいわゆる民主派、進歩派、親ソ派知識人は少なく、ある意味、最も民族主義的、宗教的色彩の強い運動だったとも言えるでしょう。そして、このときに立ち上がった民衆の意識を率直に体現していたのではないでしょうか。

 しかし同時に、親ソ派の民族解放組織が発表した「我々はなぜ闘うのか」では、宗教色はまったく見られず、自分たちが中国ではなく東トルキスタンにルーツを持つ諸民族であることは明確にした上で。漢民族支配排除、民族の平等、民主政府樹立、ソ連との友好関係確立、税の軽減などの方針を打ち出しています。実際の東トルキスタン共和国の政治綱領として発表されたのは後者の思想が中心となったもので、独立、民主化、そして外交的には明確に親ソ姿勢を打ち出したものでした。これは明らかにソ連に近い勢力の意向が反映されたものですが、勿論、この時点では独立への意志は堅持されていたのです。

 しかし、先述しましたように、46年の段階で東トルキスタン共和国そのものが消滅するのは何故でしょうか。これがソ連の影響であることは言うまでもありませんが、当時の世界状況の中で、この東トルキスタン問題を考えてみたいと思います。

 もともと、共和国を成立させた民衆の武装闘争に、どこまでソ連の軍事力が関与していたかはさまざまな説があります。しかし、ソ連が直接に軍事的、物質的支援を行ったことは殆どの論者が認めているところですし、同時に、東トルキスタン共和国と国民党との和解、同時に共和国そのものの消滅がソ連のイニシャチヴで行われたことはほぼ確実でしょう。なお、このことを強調し、東トルキスタン共和国それ自体をソ連の衛星国に過ぎないという視点で論じたのが、王何著「東トルキスタン共和国研究」です。この学者の「多民族社会 中国」(岩波書店)は、以前私たちの機関誌にて批判したようにきわめて悪質な本ですけれども、こちらに関してはソ連の一次資料に当たるなど、研究書として一定の水準を示しているとは思います。しかし、この結論はあまりにもソ連の存在を過大視するあまり、中国支配に対し立ち上がった民衆の力を不当に低く評価し、同時に東トルキスタン独立運動そのものを否定しようとする意志が強く感じずにはおれません。

◆ヤルタ会談が独立運動を失速させた

ヤルタ会談 少し話がずれましたが、ここで重要なのは、ソ連の姿勢が何故変化したかであります。東トルキスタン共和国が成立し拡大していく中、1945年2月、ソ連は英米とヤルタ会談を行います。ヤルタ会談はご存知のように第2次世界大戦の戦後処理を論じたものですが、ここでは中国不在のまま、外モンゴル、新疆なども話し合われ、ソ連は中国の国民党政府と、中国問題、また対日問題では歩調を合わせることを決定します。

 この後、1945年の6月から中ソの交渉が始まり、7月には、中国側から「ソ連政府が新疆の騒乱などを中国が平定するのを援助するなら、中国は外モンゴル問題で妥協してもいい」という提案がなされ、結局この線が合意事項となったのです。外モンゴルはモンゴル人民共和国として独立する(親ソ政権)東トルキスタンは新疆として中国政府に戻す。こうして、ヤルタ協定後、ソ連は姿勢を急変したのでした。

 この姿勢変換にはもう一つの理由があると思われます。東トルキスタン共和国が純粋な親ソ政権、もしくは傀儡政権(たとえば初期北朝鮮のような)であるのならば、ソ連はこの地域の独立を国益にかなうものとして、中国側に対しこのような妥協はしなかったかもしれません。(私はこの意味で、東トルキスタン共和国を単なる衛星国とは考えない立場をとります)しかし、これは推測ですが、現実の民衆蜂起が激烈なイスラム教的、民族主義的思考を示していたことから、ソ連はこの独立国が単なる親ソ政権にとどまらず、ソ連。東トルキスタン国境の諸民族、イスラム教勢力と今後結びつき、中央アジアに大きな勢力となっていく可能性、ソ連のスターリン体制そのものへの起爆剤となることを恐れたのではないでしょうか。

 独立を失って以降、新疆の運命は益々悲劇的な方向をたどります。ソ連の命じる妥協案を受け入れるか否かで、東トルキスタン共和国政府内部にもさまざまな対立、分裂が生じ、結局は親ソ派知識人、アフメトジャン、アバソフらの勢力が、ソ連に従う形で独立を放棄します。1946年5月、アフメトジャンは独立放棄の意志をこう述べています。

「現在、東トルキスタン共和国の自由と自治のために、長期的な流血と戦争を継続させ、さらに大きな被害を人民にもたらすか、それとも第2次世界大戦がすでに終結した状況に鑑み、戦争をやめ、(国民党中国政府との:三浦注)和平交渉の形で解決を図るかという二つの路線しかない。国民政府の領袖蒋介石はすでに、『辺境地帯に住む民族に対する談話』の中で各辺境民族に充分な自治権を与えることを約束しているので、流血の闘争を通じなくても問題を解決できる可能性が出てきた。」

 この『第2次世界大戦がすでに終結した状況に鑑み』という言葉の裏に、中ソという2大『戦勝大国』に愚弄される運命を見る思いがしますが、同時にこの時期、東トルキスタン共和国内部で、いくつかの反漢民族テロルが起き、共和国政府を悩ませていたことも作用していたようです。それまで抑圧されていた民族が立ち上がるとき、どうしてもこのような報復テロは避けられない面があるのですけれども、親ソ派であると同時に、民主的、進歩的知識人だった指導部には耐え難い事態でもあり、一刻も早い事態収拾を図りたい思いもあったのかもしれません。

 しかし、外モンゴル独立承認など、ソ連との関係を優先するためであれ多少は『辺境民族自治』承認の傾向があったこの次期の蒋介石政権は、毛沢東の中国共産党の前にあっけなく敗れ去ります。1948年から49年までの間に、イスラム系、民族主義系の指導者は新疆からソ連の手によって殆ど追放されてしまいますが、さらにスターリンは、毛沢東政権成立後は、早く新疆を「解放」するようアドバイスをする有様でした。

◆リーダーたちのなぞめいた最後

 中華人民共和国成立後、共産党の?力群に語ったアフトメジャンの言葉はあまりにも惨めなまでに、かっての独立運動そのものをほぼ完全に否定してしまっています。彼は民衆の蜂起が自然発生的なものであって、盲目的だったこと、宗教勢力や封建勢力の力が強かったこと、その中で漢民族へのテロが行われてしまった事などを次々と自己批判しました。そして、アフトメジャン、アバソフ、イサクベク、ダリルハンら最後に残ったリーダーたちは、毛沢東から北京に招かれ、1949年8月22日飛行機で旅立ちますが、その11月、バイカル湖上で飛行機事故により全員が死んだという、余りにも不自然な最期を遂げることになります。

 東トルキスタン独立共和国の独立は、以上のように、第2次世界大戦と中ソ両国の力関係の分析無くして理解しにくいものです。しかし、私たちはここで、現在の東トルキスタンの状況の中で、この独立共和国をどのように捕らえなおすかを考えてみるべきでしょう。

 1990年以降、東トルキスタンではいくつもの民衆による抵抗運動が始まっています。その多くは、民族独立とイスラム教に根ざした戦いであり、これは中国が文化大革命以降徹底した宗教弾圧を行ったにもかかわらず、民衆の伝統意識が守られたことを意味します。いや、むしろ、文革から改革解放に移る中国社会の中、あらゆるモラルや伝統が崩壊し、ひたすらな利益追求・経済優先の中で各民族の伝統が益々破壊され、漢民族企業家が東トルキスタンにも大量移入して経済侵略を行っている中、民衆の中に、もう一度民族の伝統と信仰が蘇り、それが抵抗の火種となっているのでしょう。
 そして、この抵抗運動の中で、かっての東トルキスタン共和国は新しい夢として蘇りつつあります。さまざまな大国の力関係に左右され短命に終わったにせよ、中国政府に抗して立ち上がった民衆が、一度は支配を跳ね除けて独立を勝ち得たことは、輝かしい歴史的事実として蘇り、全世界でこのような独立記念日を祝う行事が行われているのです。歴史とは冷たい活字の中に埋もれているのではなく、今ここで生きている人たちの思いの中で蘇るものです。

 同時に、私たちはまた、『歴史を夢見る』と共に、『歴史に学ぶ』ことを忘れてはなりません。では、東トルキスタン共和国は何故滅び、モンゴル人民共和国(外モンゴル)は、たとえソ連の影響下であったとはいえ生き延びたのか。これは中ソの取引による残酷な偶然です。しかし、同時に考えておかなければならないのは、民衆の純粋な怒りや意思だけでは政治的成果を出すことは難しい。常にこの東トルキスタン独立は、中国、現在のロシア、そして中央アジアのさまざまな国々との政治的力学の中で勝ち取らねばならないのです。その意味で、中国国内の各少数民族との連携を深めると共に、独立運動はさらに中央アジア諸国、諸民族との間に深いつながりを持たねばならないでしょう。

◆独立運動の新しい道

 そして、かつての東トルキスタン共和国は、イスラム教的価値観、反漢民族、強いナショナリズムに根ざした勢力と、親ソ派に代表される、民主派、進歩派、また宗教色の弱い勢力とに分断され、結局ソ連に後者が操られる形で失速していきました。この歴史の過ちを繰り返さないためにも、必要なのは、民主・人権、そして国家主権と独立の意志と、イスラムに代表される宗教ならびに民族特有の文化・価値観との融合・連立こそ、独立運動を真に思想的に勝利させる道だという視点です。

 私は昨年夏、トルコのイスタンブールを訪れました。私は亡命政府も独立運動も、トルコのよい面には大いに学んで戴きたいと考えております。トルコはイスラム教国ではありますが、同時にアタチュルクの革命以降、近代国家としても見事に発展し、勿論さまざまな問題はあれ民主的な国造りに成功しつつあります。さらに、全世界のトルコ系民族の祭典を行い、そこには中国からの圧迫を受けつつも、東トルキスタンの代表もまた参加していたのです。イスラム的価値と近代化、民主化、そして民族主義の両立は決して不可能ではないことを、独立運動家の方々が多く在住するトルコでこそ学んで欲しい。民主派とイスラム派、穏健派と、過激な闘争も辞さずという勢力とは、決して対立するものではなく、運動上はむしろ補い合うべきものです。

 イスタンブールで、私はコーランの和訳本を持って行きました。日に数度、コーランの朗誦がマイクを通じて流れるこの近代都市で、コーランの次の文章を読んだとき、たとえ日本語訳とはいえ、少しばかり敬虔な気分になった思いがしたものです。

『どちらの海からも真珠は取れる、珊瑚も取れる』(コーラン・メッカ啓示)

 イスタンブールは、西欧と中東社会、イスラム社会の境の街です。そして、どちらの海からも、欧米からも、中東からも、そしてここアジアからも、それぞれの地域から、それぞれ別の素晴らしいものは取れる。そのような考えが真のグローバリズムです。各地域の、民族の、国々の思想を尊重した上で、民主主義、国家主権、そして民族自決といった、これまで人類が勝ち得てきた価値観を世界に確立していくこと、同時に貧困や抑圧を解決してゆくことこそが、真のグローバリズムであり、それは東トルキスタンをはじめとする中国の各民族を支援することの本質をなすものと考えます。

 私の話は、1944年に、命を捨てても独立のために戦った東トルキスタン民衆や、困難な独立運動やその後の世界情勢に愚弄された指導者に対し、あまりにも冷たいものに感じられた方もいらっしゃるとは思いますが、東トルキスタン共和国とは何だったのかを、皆様がお考えになる参考となれば幸いでございます。(終)

<参考1>右派系掲示板での三浦さんの同趣旨の投稿
<参考2>三浦さんおすすめの参考文献と三浦さんのコメント
横山宏章『中国の異民族支配』(集英社新書)
 「コンパクトな入門書としてはこれが一番」
毛里和子『周縁からの中国』(東京大学出版会)
 「この文章はこの本をまとめたもので私のオリジナリテイは皆無(笑)」
水谷尚子『中国を追われたウイグル人』(文春新書)
 「ウイグル問題だけでまとまった本って、現代の人権問題については未だこれだけ。やはり日本ではまだ未知の問題であることがわかる」

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東トルキスタン 投稿者:川島 投稿日: 4月 7日(金)07時52分40秒

 ソ連外交の反階級性の問題ですが、ヤルタ会談の核心的問題は、ソ連スターリン主義が米帝国主義と妥協し、「東トルキスタン」を放棄した、ということではないでしょうか?
 1945年までは、「反ファッショ」の名の下に米英帝とソ連が協定した時期です。それが対立へと転化するのは、46年のチャーチルの「鉄のカーテン」の演説以降です。一方中国の45年段階の中央政権は、親米の国民党政権です。46年から国共内戦が全面化し、49年に新中国が誕生しています。

 国家や民族より人間が大切だと考えます。また、国家や民族という単位は歴史的に変化するものです。現在の民族の概要は近代に形成され、20世紀の帝国主義の時代になって、抑圧する民族と抑圧される民族への分岐が起きたのだと思います(単純な問題ではなく、複雑な抑圧―被抑圧関係や対立関係を形成しながら)。
 マルクス主義の理想は、働き搾取されるものの解放が、人間の解放となり、民族への抑圧を打破して、インターナショナルをかちとることでしょ。それをソ連スターリン主義は、帝国主義からのソ連防衛のダシに、抑圧された民族の闘いを利用したのだと考えます。皆さんご存知の公式的な話しで恐縮ですが・・。

 民族運動やイスラム運動を一面的に肯定するのはおかしいと思います。国家と民族の中にも抑圧する者とされる者がいます。イスラムも、肯定的な面もありますが、批判すべき面もあると思います。例示のトルコは、軍部の権力が異様に強く、また、左右のテロが吹き荒れる国家と聞きます。また、クルド人を民族とすら認めず、残酷に弾圧しています。他方、クルド人問題も独立すれば解決するような単純な問題ではなく、また、クルド人はイスラム教徒ですが、イスラムに依拠してたたかおう、などと考える人は極少数でしょう。
 以前、私のホームページにロシア革命以後の、ソ連とトルコ系民族の問題、およびイスラム主義の問題を論じたことがあるので、関心があれば、ご覧になって下さい。

 繰り返しになりますが、民族や国家という単位より、現実に搾取されながら必死に生きる一人一人の人間の方が大事です。「三浦さんはいい人だ」というネット上の友人がいますが、三浦さんは右翼をやめて左翼に転向しませんか?

<参考>三浦さんの「トルコ美化論」へのむじなさんの突っ込み

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続・東トルキスタン 投稿者:川島 投稿日: 4月 8日(土)08時36分33秒

しつこいようですが・・。三浦氏の書き込みは歴史的経過については、そういうことなのか、と読みました、しかし、

>民主主義、国家主権、そして民族自決といった、これまで人類が勝ち得てきた価値観を世界に確立していくこと、同時に貧困や抑圧を解決してゆくことこそが、真のグローバリズム

という総括が逆転してると思います。「貧困や抑圧を解決してゆく」ためのグローバルな階級闘争の中で、抑圧された民族の「国家主権や民族自決」という問題も積極的に位置ついていくのだと考えます(民主主義は前者に入れててもよいですね)。

 現在のように複雑化している民族や国家の様相に、一律に古い定式を当てはめることはできないでしょう。中東やアフリカの定規で引いた線のような国境は、帝国主義の侵略者が決めたものです。また、中央アジアのトルコ系の民族国家はそもそもソ連の政策と一体のものとして誕生したものです。それらは出発すべき現実ですが、不変の形式などと考えることはできないでしょう。資本主義誕生当初の「一民族一国家」というヨーロッパモデルが現代の世界規模では通用しないことを端的に示しているものこそ、トルコという国の現実ではないでしょうか?

 資本主義という抑圧を前提にした社会を世界的に廃絶し、社会主義を実現することがあらゆる民族抑圧と対立をなくする基礎なのだということで、インター、元インターの皆さん、頑張って下さい。

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続々東トルキスタン問題。 投稿者:倉知某 投稿日: 4月 8日(土)18時06分13秒

三浦小太郎様

>「現在の東トルキスタン亡命政府や独立運動には様々な問題もあると思いますし、また最近ちょっと扇情的過ぎる報道が多い気がしますので、まあ私としては冷静に語ってみたつもりです。
「諸君」06年5月号に、尊敬する水谷尚子氏の、独立運動家ラビア・カデイールへの優れたインタビューが載っています。こちらも手にとってみる事をおすすめします。」<

 私も読みましたが、民族の自決と独立、その国土の問題は、あのパレスチナとユダヤの問題のごとく、最近はクルドとトルコ・セム・ペルシャとどこが民族の固有の根拠地なのを定めるかは、その時代をいつに仕切るかによってとても難しいですわね・・・。

 私の友人に中国人の日本の学校の先生がいますが、その人の話では、あの地域(新疆ウイグル)は今はウイグル人の土地となっておりますが、西暦840年に蒙古高言の都斤山(ウトケン山)の西南カラバルガズンの地(今のウランバートル)を根拠としていた九姓鉄勒(ウイグル)が、北方の森林の民、アンガラ川(エニセイ川の上流、バイカル湖北方の地)のキルギス族の猛襲を受けて四散、アルタイ山脈をこえて、その数10万人の部族が、唐朝の西域節度使の亀茲(クチャ)高昌(トルハン)伊州(ハミ)に大挙亡命した。もともと漢民族の王朝の地にウイグルが逃げ込んできたと言うのである。

 ならば唐朝の前は、どの部族の根拠地かと言えば、イシククリ湖な西方の砕葉城(スイヤーブ、現在のフルーゼ当たりか?)を首都とした西突厥(トルコ)の領有地である。トルコ人の制圧し、漢人の唐王朝が支配権を得て、この地に大量のモンゴル人のウイグルが入り込んで来た。

 その前と言えば、鳥孫(アーリア系)の土地であり、この支配権を得ていた匈奴(トルコ?モンゴル?)を討滅して、漢王朝が西域都護を置いて、この鳥孫を入貢させ属国としていたことからも、歴史的に見るかぎりにおいては、18世紀に満州族の清王朝の乾隆帝が遠征し、準部(ジュンガル部族)を討ち、この地を中国領土とした(新疆ウイグル)地区、決してウイグル人の固有の土地とも言えないと彼は断言する。

 独立運動家ラビア・カデイール氏を読めば、あの土地がウイグル人の郷土であり、よそ者漢人の圧政には憤りと、ウイグル人への同情の気持ちが高まり、中国人の友人の歴史講義を聞けば、現在、施政権を持つ人に帰するとの論理が妥当の如く思え、このように民族自決と国土の問題は実に厄介なものとつくづく思う・・・。

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東トルキスタンについては 投稿者:三浦小太郎 投稿日: 4月 9日(日)10時03分35秒

 東トルキスタンについては、まあ、ここでずっと議論するのもどうかと思うし、問題提起として考えていただければ充分です。

 本音を言いますとね、あのシルクロード地域というのは、前近代時代には国家とかはなかったといってもいい。たとえ王朝国家が、時にはトルキスタン、時には中国系の影響下にあったとしても、まあ遊牧民である民衆にとっては大した問題ではなかったんですよね。この構図が大きく変わるのは清朝時代かと思いますし、やはり中華民国、中華人民共和国時代に、民族問題は深刻化したわけですよ。

 今の独立派も問題はある。それは正直、シンパシーを持っている私自身認めざるを得ないです。イスラム原理主義に走っちゃうグループや、また「SAPIO]あたりで出ているような、テロと軍事行動を安易に語るグループもいる。私はテロや暴力を全否定はしていないんですけど、少なくとも本当にそういう道を選ぶんなら平然とジャーナリズムで喋ったりするべきじゃないしね。様々な組織が分裂しているのも事実だし。

 まあ、私はこの件でも、あんまり歴史論争になってもしょうがないと思う。歴史的には、倉知さんが言うような面は確かにあるんですよ。むしろ、今現在、中国が民主化され、同時に民族自決権が認められていく事が重要で、パレスチナ問題でもそうなんですよね。ですから、トルキスタンは何百年も前から独立していた云々という議論にはあんまり私は乗りたくないし、そういうことはここでも喋らなかったんです。

 これは川島さんの議論になりますが、民族とか近代国民国家なんて概念は、人類の歴史の中ではごく最近のものに過ぎない、という考えは、私はこれまた事実としてはその通りだと思いますよ。しかし、同じ意味で、民主主義も、人権も、法治の概念も、同じように人類史の中では新しい概念です。そして、私は、近代国家とか民族と言う概念が人間を縛り抑圧する危険性は勿論認めるんですけど、同時に、国家システムがあってこそ民主主義も人権も守れるという点もありまして、そちらの効果をより重視するわけです。そして、民族、宗教、歴史といった概念が所詮根拠が薄いものだという視点に皆さんが立たれるのは分かるんですが、今この世界の現実を見ると、私も含め、そういうものが必要な人間は一杯いるし、そう簡単に幻想といって切り捨てることは出来ないと思います。

 「国家、歴史、宗教は、たとえ幻想であれ人間にとって絶対必要な幻想である」というのが「右」の根本理念なんです。まあ、このあたりはおいおい考えていければと思います。そして、マルクス主義が本当の意味で個人を幸福にし解放するとは今の私にはやはり思えないんですね。論理的におかしいというんじゃないんですよ、そんなに勉強もしてないし。ただ、論理的に正しすぎる思想って人間にはあんまり向かないような気がする。変な言い方かもしれないけど。

 関係ないかもしれないけど、ついでに言いますと、私は左から右に来た人たちの言論って、正直好きになれないんですね。なんか、すごく単純な気がするんですよ。私と違ってマルクス主義とかそれなりに理論的訓練を受けてるから、議論の組み立てはうまいし組織作りもうまいんだけど、どうも自分に都合のいいデータばっか集めて論理を組み立てている気がする。左翼時代も右に変わってからも、歴史の複雑な面や、その時代を懸命に生きた人への共感ってのがどうもすくないんじゃないかと思う。

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Q12.中国によるチベット弾圧などの人民抑圧をどのように考えますか(「カゲキ派への100の質問」より)

ニクソンと握手する毛沢東 たとえば中国の米国接近、国際的桧舞台への登場と台湾封じ込めといった自国利害の追求は、反米帝解放闘争を闘いとってきたベトナムとの対立へと導いていきました。このような、国際階級闘争の前進と結びつかない、スターリン主義的な一国的民族的利害の追求は、やがてベトナム侵攻など「社会主義国」同士の対立へと拡大していきました。

 そもそもプロレタリア革命は、侵略戦争を自国支配者に対する内乱に転化してロシア革命が成立したことに示されるように、労働者を侵略戦争に動員し民衆同土を殺し合わせるためのブルジョア民族主義(愛国主義イデオロギー)の鎖から人々を解放することを思想的にもめざしたものです。ですからそこでは小国・被抑圧民族の自立と解放を、人民の抑圧や隷属からの解放をめざす一環として承認し、民族の自由な結合にもとづく労働者国家の連邦をつうじて、民族国家の障壁を越えた世界革命を展望していくことが問われているのであり、チベット問題もそのような視点で考えるべきものです。

 左翼運動が単なる特定党派の権力獲得運動や自国領土の拡大・保全などの民族・愛国主義運動になってしまっては、人類史の未来はありません。そのような愛国主義では、国家のせいで民衆が苦しめられている現代世界を変革することができないばかりか、小国・被抑圧民族にとっては「社会主義国」が帝国主義にかわる新たな抑圧国として登場したにすぎません。

 このような左翼運動の内部における愛国主義は克服されねばならず、たとえば私達帝国主義足下で闘う日本人民にとっては、私たちが日常の中で不断にさらされ続けている第三世界人民や在日中朝人民に対する帝国主義的差別排外主義イデオロギーと主体的に闘うことで、チベット問題に見られる中国の大国主義を超えでた内容を、実践をもって獲得しぬくことが問われているのです。
 その意味で、自分達は在日中朝人民への差別排外主義を鼓吹しながら、一方ではチベット問題で他者を批難する右翼排外主義者は御都合主義であり、そこには正義性も、また中国を批判できるだけの思想的内実も資格もありません。

 結局はこのようなブルジョア民族主義(愛国主義)や大国主義を実践的に越えることが全くできないスターリン主義や、右翼排外主義を克服するためにも、自らを変革する内的な革命をともなった運動をつくりあげることが問われています。

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2件のコメント

緩慢なホロコースト

刺激的な題をつけましたが、いちおう情報提供を「中国政府によるウイグル人虐殺抗議デモ」渋谷区宮下公園 7月12日(日)15時おそらく右派系の皆さんが多く参加されるのでしょう。当該サイトの雰囲気にもちょっと馴染めないところもありますが、それは呑み込んで(笑…

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