<公安調査庁のスパイエ作(上)>からの続きです。
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第2弾埼玉 対日共から革命派へシフトする公調
●はじめに
全国の同志、友人の皆さん!闘う労働者・農民・学生の皆さん!
わが戦旗・共産同は極悪反革命スパイ東海林孝幸に続き、本年2月以降わが同盟へのスパイ活動をもくろみ接近してきた、公安調査庁埼玉公安調査事務所勤務の職業スパイ「佐野修」こと木村修の捕捉・摘発に勝利したことを、ここに報告する。
われわれは昨年天皇Xデー弾圧を契機として強化された権力弾圧に対し、これを一過性のものととらえるのではなく、八八警察白書路線に基づく構造化された革命党破壊の攻撃と捉え、戦略的武装の更なる高次化によって闘うことを意志統一してきた。
とりわけ7・4フレームアップ弾圧を契機とし、わが同盟の最高指導者をも不当逮捕するにいたった戦旗派壊滅の攻撃に対しては、これを83年3・8反対同盟分裂における中核派からの党派戦争宣言、86年右翼民間反革命との闘いにつぐ第三の試練として位置づけ、武装の強化を公然-非公然の重層的展開をなしうる建党建軍闘争としてかち取ってきたのである。
まさに本紙634号で暴露した公安調査官=極悪反革命スパイ東海林によるスパイエ作の摘発は、こうしたわが同盟の戦略的武装の強化によって実現されたのだ。
すなわち、われわれは権力や民間反革命など一切の組織破壊攻撃から党を防衛しこれを索敵して、必要に応じて反撃しうるような実体的な武装の強化をかちとり、全階級戦線で反革命を摘発し粉砕する闘いに全党全軍が決起していたのである。もちろんこの闘いはわれわれをしてこれまでにない試練を課し飛躍を問うことになったのであるが、われわれはこの試練をつうじて真に日本革命を戦略的に領導しうる前衛党へと飛躍するのだという凄まじい決意をみなぎらせて前進をつくりだしてきたのである。
このようなわれわれの反革命への包囲網に吸い寄せられるように捕捉され摘発されたのが公安調査庁埼玉公安調査事務所勤務「佐野修」こと木村修に他ならない。この男は2月大喪弾圧の直後から街頭情宣などでわれわれのまわりを俳個しており、それをわれわれがすでに不審者として確認し、リストアツプしていたにもかかわらず、「天皇制はもう古い。話を聞きたい」などと見えすいた事をいいながらわれわれの懐に飛び込んできたのだ。日く「三里塚はわからないが権カは許せない」、日く「自分が昔できなかったことをやっているあなたを応援したい」などとミエミエの言辞を弄しながら接近をはかろうとするこのスパイに対し、沸き上がる怒りを抑えつつ、それをバネとすることによってわれわれは謀略工作摘発の闘いに決起したのである。
すでに東海林摘発の闘いに着手していたわれわれは、この反革命スパイ木村の全過程をわれわれの掌中に置くことにも成功し、その正体を全面的に暴き出すことに勝利したのである。
●2月「大喪」前後わが同盟に接近 公調埼玉の職業スパイ=「佐野修」こと木村修
もちろんこの木村という男もスパイの常套手段として、自らの身分を偽り人民を欺く事が、その反革命的罪業の第一のものとなるのである。
当初木村は「佐野修」という偽名を語り、以下のように己の身上説明をおこなっていたのだ。
「日本大学在学中は学生運動が盛んだった。従兄弟なんかが十・八羽田闘争で逮捕されたりしていたが、自分は怖くて一度も参加したことがなかった」「現在は千葉の習志野のほうに住んでいて、30になったとき友人と東京で会社関係の不動産を扱う会社をはじめた」「私はただの勤め人だが、自分が昔やれなかったことを一生懸命やっている貴方をみて何とか応援したいと思っている」
このように説明してわれわれに接近してきた「佐野」はしかし、一切自宅・会社の連絡先を明らかにせず、ただポケットベルの番号だけを教えることによってコンタクトを取り続けようとしたのである。われわれは反革命の潜入を絶対に許さないという革命党の防衛原則に基づき、東海林摘発の闘いと併行して迅速に調査を開始した。われわれは「佐野」との数少ない接点である「オルグ」の場を包囲・追跡し、ついにこの男の真実の姿にたどりついた。その結果こうした「プロフィール」が百パーセントのでたらめであることが判明したのである。
われわれの調査によれば「佐野修」の本名は木村修、1947年1月27日生まれ、42才。本籍は横浜市××区×××××で、後に結婚して横浜の金沢区に住んだ後、1948年に現在の住所である千葉県××郡×××××××3-2-2に一戸建住宅を新築、家族四人(妻××35才、義母××××69才、長女×××10才、次女×××7才)で移り、ここから仕事先にかよっている。
木村は「人に使われるのが嫌で、三十のときに脱サラして友達と今の会社をはじめた」などと言っていたのであるが、これもまた全くの嘘っぱちであることはいうまでもない。
この男が大学卒業後に就職し現在も反人民的下僕として「使われている」のは決して民間会社ではなく、日帝自民党支配の最も悪らつな先兵たる公安調査庁なのだ。
7時20分ごろ判で押したように家を出ると、車(×59×○○○白エテルナ)で住宅都市整備公団鉄道××駅へ向かう。そして7時33分の××行きにのり新京成電鉄××駅で下車、武蔵野線に乗り換え8時3分発府中本町行きで×××へ。×××で京浜東北線8時42分発××行きに乗り換え××駅下車したあと、丁度発車時刻となる8時50分発の××××行きのバスに乗って×××××で降りる。後は人民の目を避けるように××の敷地を横切って法務省合同庁舎の裏口からこの中にある埼玉公安調査事務所に入っていく。
これが、毎日寸分たがわず繰り返されるこの男の出勤パターンなのである。
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●”勤務先”と欺騙した新宿歌舞伎町「株式会社マルク」の実態
次に、この木村が勤務先と称していた「株式会社マルク」とは何か。
東京新宿区歌舞伎町××××の○○ビル三階にある「東邦建設流通サービス」の事務所内に電話(××-○○○-△△△△)を置く、会杜登記もしていないこの会社の代表は「○○」某なる男である。会社規模も従業員が二人と小さく、新宿歌舞伎町という場所柄、地上げなどともからんだ不動産ブローカーのような業務内容であり、会社名も(中略)といううさん臭いものなのである。もちろんこのような会社に「佐野修」などという人物は存在しない。この○○某という男は木村が労働者人民にその身を偽り、弾圧の為のスパイエ作をその仕事としていることを十分知っていながら、否、そうであるが故に積極的に自分の会杜の電話を木村の隠れ蓑として貸していたのである。木村の名前を「佐野修」と偽り、この会社の社員であるかのように口裏をあわせ、埼玉公安調査事務所にいるスパイ木村と緊密な連絡をとりあって、謀略活動の片棒を担いできたのだ。
意識的に協カした社長「○○」も同罪!
具体的なシステムは東海林の「かね三印刷」の場合と全く同じで、こちらが連絡すると「マルク」の事務員がでて伝言を聞き、後に浦和の公調に電話するか、木村からの連絡をまって内容を伝えるのである。当初木村はこの会社で連絡をとるのを嫌がり「マルク」という社名しか明かさなかったのだが、こちらがポケットベル以外の連絡先を明らかにすることを要求すると電話番号だけ教え、しかも、教えてしばらくは午後から「マルク」に「出社」して電話を待つという念のいれようだったのだ。しかし、われわれの東海林摘発の閾いに次第に危機感をもった木村はついにこのルートを撤収することを決定するのである。なんと木村は金を使い込んだことを理由に、「マルク」をクビになったと言ってくれなどと、「マルク」の事務員におねがいし、とんずらを決めこもうとしていたのだ。
その結果「株式会社マルク」ルートの連絡システムは、われわれの闘いの進展に恐れをなした公調-木村によって撤収されることになり、ほとんどわれわれとの連絡には使われる事がなかったのであるが、いずれにせよ、木村が極悪の反革命スパイであることを知りながら、これに積極的に加担した罪を「マルク」の○○が免れるものではない。いかに、公調-木村が被害を最小限にとどめるため「○○と切り離す形」をとるのだとしても、われわれの追及は、その共犯者に向けても徹底的に貫徹されるものである。○○もまた職業的スパイの片われであり、自覚した反革命そのものだ!
●酒食のもてなしで情報収集はかる典型的な公調スパイエ作の手口
こうして身分を偽ってわれわれに接近した木村が次にやったことは、飲み食いに連れまわし、定期的な「小額カンパ」をすることによる買収工作であった。
三月の初めから木村がわれわれに接触したのは合計7回になるが、その度に2軒以上の飲食店に入って「接待費としておちるから」と酒や食事を著る。また、機閑紙類や本は読んだら捨てるといいながら買うのを惜しまず、その他にも五千円から一万円位の「カンパ」を「個人的に」といって渡す。しかも、「カンパ」を渡すときは必ず「この金はAさんに個人的な応援として渡すんだから全部組織に上げないで自分で使えよ」などと言うのである。これはもちろん、公調経費でおとせるからというだけではない、目的意識的なスパイエ作の意図がそこには込められているのである。
すなわち、一万円程度のカンパは飲み食いに使えば一度で使ってしまえる「手頃」な額であり、それを「個人的な応援」なる暖昧な言葉で横領することを勧め、金銭に対する革命的な厳格さを取り払うのが目的なのである。しかも木村はこれを拒否すると「君へのカンパは経費でおとせるから心配せずに使ってかまわない。その代り簡単な伝票にサインをしてくれ、そうしないと経費扱いにならないから」などと露骨なスパイ工作であることを表明したのだ。まさにこれは単なる情報収集にとどまるものではなく、合意の上での金銭の授受という関係をつくりあげ、本格的スパイ化工作のどう喝材料にしようとしたものに他ならないのだ。
もちろん、こうした将来にわたるスパイエ作だけではなく、現在のわれわれの武装闘争や組織化についての情報収集も重要な目的である。
「6・11の全体の動員はどれぐらいなのか。あなたの地区はどれくらいいるのか」
「二~三日前に成田で工事車両が燃やされて、おなじころ革労協が逮捕されたね。革労協と戦旗は違うんですか」
「韓国やパレスチナと比べるとあなたがたの闘いはおとなしいが、成田なんかも飛行機を爆弾で落としちやえば廃港になるかもしれないのに」
木村はとりとめのない詰の合い間にこうした質閉をはさみ、わが同盟の戦略的武装の現状と組織実態を探ろうとしていたのである。未だ接触の初期段階と位置づけられるが故に、木村の言ってることは殆んど世問話の域を出ないのであるが、その中にこのような質問を織りまぜることにより、対象者のとりこみが可能かどうかを検討していたというわけだ。
●20年にわたる謀略活動で反革命的罪業積み上げてきた木村
もとよりこれらの目論見は全てわれわれの意識的な接触と監視のもとにおかれていたのであり、何の実害を及ぼしたわけではない。だが木村はこうした手口により公安調査官として二十年近くにもわたって闘う労働者人民を欺き謀略工作をおこなってきたのであり、まさにその一点においてもこの男は極悪の反革命として断罪され、その罪業を追及されなければならないのだ。
例えば木村は「私達のような仕事は仕事仲問との情報交換が大切なんだ。年配の人とも話をするし、君みたいな若い人とも話をする。仕事のできる奴は情報網をたくさん持っているんだな」などと言って「JR東日本鉄道株式会社 山岸某」と書いてある名刺をみせ、自分がいかに仕事のできる男であるかということを吹聴し自慢したりもしている。これは裏を返せば、この男が公安調査官というスパイエ作をこととする職業反革命としての仕事上の情報網を持っているということであり、この名刺も国鉄労働者の闘いを破壊するための情報活動に必要な人脈に他ならないのだ。
しかも、われわれとの連絡先として使うはずだったポケットベルのコード番号としてA同志に003を指定している。このベルを使って連絡ををとり情報を取っている対象が、他に二人はいるというわけだ。まさにこの木村は生粋の公調スパイであり、許すことのできない反革命なのだ。
そうであるが故に、木村はこうした余りにも典型的な公調スパイの条件を兼ね備えた自分の姿が、木村が接近してきたA同志に不審感を懐かせるのではないかという心配にかられ、自分がスパイではないということを印象づけることに、懸命にならざるをえないのであった。
「国家権力は恐ろしい。本当に権力だけは俺も大嫌いだ。あいつら何をするかわからないから恐ろしい」
「君はこの辺では有名なの?もし権カにつけられたりしたら俺の仕事もあがったりだ。こっちは会うことによって何か得をするわけではないんだから」
「自分をスパイだと疑うんだったら君が連絡を取りさえしなければ切ることはできるんだよ」
ふざけるのもいい加減にしろ!われわれは極めて早い段階でお前の実態を掴んでいたのだ。お前がその場で罵倒され制裁を加えられなかったのは、ただ全人民の前に反革命スパイとしての罪業を明らかにする猶予を得るためであり、それが実現された今、われわれはこれを手始めとして、あらゆる手段をもって必ず木村に反革命的罪業の責任を取らせてやる。
東海林摘発にうろたえ、戦々兢々
ところで、この男もまたスパイに特有な慢心と小心のいりまじったアンビバレントな性格の持ち主である。一方で己自身がわれわれの掌中に完全に捕捉されていることにも気付かないまま、「公調に入られたり幹部が逮捕されたり、君達は警戒が薄いんじゃないか」と、勝手なことをほざいてみたりする。他方で己の罪業に常に脅えているが故に「公調のスパイは本当かい。本当だったらひどいことをするね。報復は考えてはいないのか」と探りをいれ、われわれが調査継続のためそんなことはしないと安心させると、「しかし、今度そんなことがあったら許さないんだろうね」などと何度も身の安全を確認する始末なのだ。
そもそもこの男はポケットベルを偽名で契約し、自宅や本籍の雷話さえも電話帳に登録せずに、労働者階級人民の目から逃れるようにして生きているのである。そうであるが故に、そうした生活のストレスを紛らわせるために「しょっちゅう酒を飲むので痛風になった」りしており、それでも尚、四十を過ぎたこの男の唯一の楽しみは、やはり健康を気づかいながら酒を飲み歩き、夜の町で享楽に耽ることというわけなのである。
そうなのだ!佐野=木村は反革命スパイとして長年にわたって罪業を重ねてきた結果として、永久に人民の追及の対象であると同時に、この間のわれわれへのスパイエ作の下手人として革命党による報復の的となって生涯を脅え続けて暮らすのだ。もちろん、われわれは階級敵に対してはなんらの制約も容赦もするものではない。木村が心配しているとおり必ずわれわれの報復は貫徹されるであろう。
●警備公安警察と連動し革命党破壊を策す公安調査庁のスパイ諜略工作粉砕せよ
かかる公調のスパイエ作は決して一過性のものではない。すでに本紙634号で暴露されている通り、中曽根の戦争国家計画へ有機的にくみこまれ、警備公安警察とともに反革命情報機関としてその活動が強化されてきているのである。とりわけ、日帝が米ソ核軍拡競争の合問をぬって経済大国としてのみ「繁栄」をはたしてきた戦後的杵組みが、中国スターリン主義の破産とともに最後的に崩壊しつつある今日、リクルートや消費税問題などで根底的な危機に陥った自民党支配を維持する道は、更なる治安弾圧体制の強化以外ありえない。86年中曽根戦争国家計画において設置された合同情報会議による反革命情報組織の一元化と、八八警察自書路線に基づく警備公安警察の肥大化という、構造化された人民抑圧の強化こそが日帝の生き残る道なのである。
そもそも、この木村というスパイがわれわれの回りを徘徊しだしたのは、2・24の大喪をひかえて、予防反革命的に日帝権カが次々とわが同盟の活動家を逮捕していた2月頃のことである。警視庁の公安どもが7・4フレームアップで逮捕した活動家を「非公然活動家」としてでっち上げ、2・24大喪粉砕闘争の封じ込めをねらって尾行・張り込み・街頭情宣の妨害などの攻撃を強めていた最中、これと連動してわれわれの動静を探らんととび込んできたのが、この公調スパイ木村なのだ。まさに、公安警察の革命党破壊と公調のスパイ活動は一体のものであり、今後さらに構造化されたものとしてスパイ政策がとられていくだろうことは自明であるが故に、これとの対決は革命党にとって不可避なものである。
だが、このような権カの攻撃は本質的には日帝の根底的脆弱性の証に過ぎない。政治警察の肥大化は、大義なき人民抑圧の任務と膨れ上がった官僚機構によって、その内部から腐朽を強め人民からの一層の離反を生み出しており、殺人事件や強姦未遂などこの間たてつづけにでてきた警官の「不祥事」も、まさにこうした腐朽の現れなのだ。何よりも仕事のうさをはらす為に、公調費を食いものにして銀座や有楽町、歌舞伎町で「毎晩のように飲み歩き」、「女をくどくのには押しの一手だ」などと破廉恥な生活にうつつを抜かしているこの木村という公調スパイの現実が、崩壊にむかってまっしぐらにすすむ日本帝国主義の堕落の姿を雄弁に物語っているのである。
われわれはかかる腐敗せる権力の弾圧に対しては戦略的武装の高次化をはかり、建党建軍闘争の勝利をもって闘い抜くのみである。出口なき日帝の人民支配は必ず破産せざるをえない。巨額の資金を注ぎ込んで弾圧機構を強化し、天皇制の亡霊にしがみついて人民を弾圧しようとも、帝国主義の没落と人民の勝利という世界史の基調をくいとめることなどできはしないのだ。いや、まさにそうした日帝の脆弱性をプロレタリア革命へと切り開いていく武装せる革命党としての主体的決意において、われわれは弾圧を打ち破って勝利することを確認せねばならない。
事実、われわれは昨年来一身に権カ弾圧を受けて闘い抜いてきた。昨年11・5以来の7・4フレームアツプ弾圧は、ついに5月22日わが同盟の指導的同志2名を不当逮捕するに到ったのであった。権力はブルジョアマスコミを通じて「戦旗・共産同は組織的壊減状態」であるというデマゴギーを振りまき、リクルート・消費税で高揚する人民の闘いを何とか圧殺しようとしたのである。しかし、結果はどうであったか。全くのでっち上げであるが故に両同志を釈放せざるをえなかっただけでなく、6・11闘争においてはわが同盟の圧倒的な隊列が日比谷に結集することによって、「組織的壊減状態に陥ってほしい」という願望とは裏腹に、権カの目論見は完全に破産することとなったのである。
まさに、ここでの勝利のキーポイントとなったものは、凄まじいぱかりの戦旗派壊減作戦に対し、党性を解体し大衆運動に逃げ込むのではなく、これを真のボリシェヴイキヘ飛躍するための第三の試練として位置づけきり、権カ弾圧に打ち勝ち全人民的政治闘争を領導しうる抜本的な組織建設へ向かったわが同盟の戦略的方向の正しさにあるのである。全党全軍があらゆる権カとの闘いを彼岸化せず、己のものとして捉え切り、武装闘争を担い抜く主体への飛躍をかけて闘い抜いたこと、これがわれわれの勝利を確保したのである。
まさに、このようなわれわれの歴史性と思想性にかけても、あらゆるスパイ・謀略工作を粉砕していこうではないか。これとの闘い自体がわれわれの戦略的武装の前進をつくりだすものにほかならないのだ。
(『戦旗』638号より)
第3弾名古屋 公調のスパイ活動許さず建党建軍を推進せよ
●はじめに
全国の闘う同志、友人の皆さん!
われわれはわが同盟に介入・破壊をもくろんできた中部地方公安調査局・南季彦(としひこ)、近畿地方公安調査局・安江俊雄の一挙二名の捕捉・摘発に完全に勝利した。
千葉公調成田分室東海林、埼玉公調木村の相次ぐ摘発・粉砕の闘いによって、大打撃をうけ、これまでの手口が一切通用しないと知った全国公安調査官共は、こんにちおそれおののきながらわれ先にと謀略の手をひっこめ、追及の手を逃れようとしている。今回摘発した安江、南の両名も「出張でいつ帰るかわからない」「君らみたいな恐い組織と会うのはごめんだ」「これっきりにしてくれ」(以上全て中部公調スパイ南季彦の弁)と悲鳴を上げ、われわれどの接点を一切断ち、われわれの革命的包囲網からの脱出に躍起となってきたのである。
しかし今になってわれわれの捕捉・摘発から逃れられるわけがない。どんなに息をころし、姿をひそめようと地の果てまでも追いつめて、摘発・粉砕することこそ意識的反革命、スパイに対するわが同盟の原則的対処である。かかる原則にのっとり、われわれは千葉・埼玉につづくこの中部・関西におけるスパイ摘発の勝利をもぎとったのだ。
●中部・近畿公調で「吸い出し」役を担当 「元ブント」騙るスパイ安江俊雄
今回摘発した安江と南は、公調がスパイエ作の際に用いる常套手段であるところの「吸い出し」と「落とし」の任務分担の下、わが同盟への接近を試みたのであった。まずはじめに「吸い出し」役=安江俊雄の反革命的所業について暴露していこう。
安江は87年12月頃われわれの街頭情宣において接近してきた。ビラを受けとるやいやな開口一番「なつかしいな、僕も元は社学同だったんだよ」「立命館で学内運動を主にやっていた第一次ブントだよ」「君らもブントだろ、今はどうなっているのか」などと、ズーズーしくも「元一次ブント活動家」を装ってわれわれにとり入ろうとしてきたのである。
安江はすでに摘発された東海林と同様、その場での署名の要請には応ぜず、「安江」という名字のみを告げて、われわれとの接触を開始したのであった。しかしながらそんな姑息な隠蔽工作はわれわれの摘発の前にはまったく無カである。後述するように、スパイの地金を次第に露呈しはじめた安江をわれわれは完全に監視下に置きつつ、そのスパイとしての身上をついに捕捉した。
安江俊雄は1936年1月25日生まれで現在52歳、1987年4月から本年3月末までは、愛知県名古屋市××区×××1-9-2、××××住宅403号室に住み、中部地方公安調査局に勤務、四月には近畿地方公安調査局に転勤となり、現在大阪府××市××××2-2××住宅226号にその居を定めている正真正銘の職業的スパイである。安江は警備公安警察の86年5・7「過激派壊減宣言」、同年7月の安全保障会議設置と相まって1987年に公安調査庁がその調査対象を日共から革命的左翼へと転換させたことに伴って、わが戦旗・共産同の解体を最高の任務として中部地方公安調査局に送り込まれたのだ。
「元一次ブントの活動家」だと?まったくよくいうものだ。権力のスパイであるにもかかわらず、こともあろうに「一次ブント」を名のるとは!安江よ。そんなウソ八百を並べ立てて己れの本性を欺騙した責任をわれわれは必ずとらせてやる。
●身分詐称し、買収をこととする典型的スパイ
戦旗派解体を唯一の仕事として名古屋に送りこまれてきた安江が、その所業が逐一チェックされているとも知らずにまず始めたことは、何とかして「元ブント活動家」として己れを信用させ、スパイエ作の糸口をつけることであった。その手口のことごとくは絶対に許すことのできない、ペテンにみちたものだ。
まず安江は、自分が身分を隠していることをなんとかして理由づけようと、「自分は教員関係の仕事をしている。だから君らとつきあっていることがバレるとこまる。君らの住所・氏名を聞かないかわりに私のことも聞かないでくれ」などと「権力弾圧」を口実にするのだ。そして自分が「元活動家」だったことを「証明」するために、「自分は天皇制に疑問がある」「友人にアイヌがいた」「差別はよくない」などの見えすいたペテン的言辞を吐き、はては自分が「ブント」に結集した「理由」は、「立命に黒田が講演に来たが病的で好きになれなかった」からだなどとさらに作り話を積み重ねるのである。
このようなウソとペテンこそ、公調の常套手段である。しかも安江はわれわれの革命的瞥成心をなんとかして緩和させ、スパイエ作の糸口を作り出そうと公調スパイとしての本性をムキ出しにしてきた。すなわち、おきまりの手口であるところの酒食のもてなしと買収工作をはじめたのだ。
「自分は単身赴任で話相手もいなくてさびしい。食事だけでもいいから付き合ってくれ」といっては会うたびに酒や食事を奢ろうとする、定期的な「カンパ」を行う、旅行にいったといっては土産をもってくる。しかも、飲食費が少しでも大きくなるとその都度「領収書をくれないか」ともちかけ、「手持ちの金がないので女房にもらってきた。女房を安心させるために領収書を書いてくれ」「名前だけでいいからLとしつこくサインを迫るところなど、先に摘発された千葉・埼玉公調スパイのやりくちどそっくりだ。かかるハンで押したような買収工作の中に安江が長年スパイエ作に従事してきた正真正銘の反革命であり、その経歴をかわれて革命派へのスパイエ作の尖兵としてとり立てられたことが歴然としている。
●反天皇・三里塚実力闘争に照準
スパイエ作のために恥ずかしげもなく「元第一次ブント」を詐称し、酒食のもてなしでわが同盟にとり入ろうとしてきた安江の反革命性は、その「情報収集」においても更に鮮明となる。
当初、88年年頭論文等の国際情勢のとらえ方などを「やはり第一次ブントとは違う」などとさもさもそれらしくふるまっていた安江は、88年天皇下血、「大喪」が近づくにつれ組織実体を掌握しようとする意図を露骨にしてきた。日く「中核の革命軍と戦旗派のゲリラパルチザン部隊はどうちがうのか」「戦旗派は地下革命軍はもっているのか」「公然・非公然の重層的展開とは具体的にはどういうことを指すのか」といった、どこかで聞いたような質問を発しはじめたのだ。そしてさらに今年に入ってからは自分で疑問点なるもののメモまで用意して「今度の闘争には名古屋の全員が行くのか」「三里塚の具体的方針は何か」まで聞きだそうとするのだ。こんな手口をとっているかぎり、安江が公調スパイであることなどいわずもがなではないか。
なんとなれぱこれらの質問項目、そして「メモ」を用意して質問する手口などどれをとっても千葉公調東海林や埼玉公調木村とまったく同一であるからだ。こうしてわれわれは安江の「惰報収集」から全国公調が今や明確に日共から革命的左翼へとスパイエ作の対象をかえており、しかもその場合の最大の関心事は、革命派の武装の度合であり、三里塚闘争への方針であることを知ることができたのである。
だがしかし「吸い出し」役である安江の任務はかかるマニュアルをこなすことまでである。安江の任務はわれわれとの接点を確保することであり、これ以後のスパイエ作は「落とし」役の任務となる。この安江は、突然「転勤になるので友人の息子に機関紙を渡してくれ」との名目でわれわれの前からその姿を消すことになるのだ。
もとより「吸い出し」役として次から次へと闘う人民・諸団体との接点をつくり出しつつスパイエ作の突破口を切り開いていくためにである。
しかし明々白々たるスパイは日本全国のどこにいようと許してはおけない。われわれはこみあげる怒りをバネに地の果てまでも反草命を追いつめ、断罪すべく日本全国にその調査の網を広げ、ついにこの安江が今度は何と近畿地方公安調査局に転勤していることをつかんだ。反革命安江は今度は関西地区での戦旗派壊滅工作をするつもりだったのだ。
安江よ!そうはとんやがおろさないぞ!お前のおかした罪は万死に値することを身をもって知れ!われわれはお前がどこに逃げようとも必ずや捕捉革命的断罪を行なうことを宣言する。
●公調スパイ粉砕の闘いに驚愕し逃亡した「落とし役」南季彦
「吸い出し」役安江に替ってわれわれの前に登場したのが中部公安調査局勤務南季彦(としひこ)(31才)である。
安江と同様に名字だけを名のって現われた南とわれわれが接触したのは4月初め一回きりである。というのも南は『戦旗』634号東海林の摘発にあわてふためき、やれ「出張だ」「予定がとれない」と逃げまわり、あろうことか5月22日の2名の同志不当逮捕を理由に「もうそ.んな恐い組織とはつきあいたくない」「これっきりにしてくれ」と哀願するようにわれわれとの関係を向こうから断ってきたためである。その接触の少なさゆえに彼についての調査活動は安江よりも数段困難ではあったが、われわれの執念の追跡はついに南の捕捉に成功した。
公調スパイ南季彦の住所は三重県××市×××2-66の×××宿舎であり、ここに妻×××(29才)、長女××(3才)の3人で住んでいる。
住居の捕捉と同時にわれわれは南を監視下においたのであるが、摘発の恐怖におびえながら、しかし、職業的スパイとなることで築いてきた生活は守ろうとする南の姿はそれ自体唾棄すべきものであった。
早朝6時15分頃自宅を出る南はさすがに徒歩で通勤するのは危険だと思いながらも自分の車(赤スプリンター××57・×・××××)は女房が子供を近所の××保育園につれていくため使わせてもらえないので、仕方なく毎日買い物自転車で近鉄××駅へ向かうのである。途中いつもあたりをキョロキョロし、たまたま駐車していた工事作業員がカメラをもっていただけで顔をかくし全速カで駅へ向かうというのが南の毎日の生活の始まりだ。駅からはこれまで名古屋行の準急に乗っていたのを変更し、このごろはわざわざ一つ手前の××駅まで切符を買い、××からは高い金を払って座席指定の特急券を買いもとめ、いちばん後端の席に座ってびくびくしながら名古屋に向うのだ。そんな「防衛」など実は何の役にもたっておらず、完全にわれわれの監視下におかれているとも知らない南は恐怖にかられながらただひたすらわれわれの革命的追及からの逃避のみを願い、小市民的家庭の安全のみに汲々とする毎日を送っていたのである。
そうだ。南にせよ、安江にせよ権力の犬として革命党と闘う人民へのスパイ活動を職業とするような輩に安息の日日が訪れることなどないのだ。7・4フレームアツプを手引きした千葉公調に続き、新たな組織破壊攻撃に手を染めようとした中部地方公安調査局の南、そして今現在近畿地方公安調査局に在籍する安江、これら両名に対して、われわれは東海林や木村ともども断固たる報復を貫徹することを宣言する。
(『戦旗』640号より)
●公安調査庁とは?
1952年、治安弾圧立法として制定された「破壊活動防止法」にもとづき、法務省の内局として設置された特別警察機関。
1987年度予算定員で1,849人、うち「実戦部隊」としてスパイ・課略活動を展開しているのは1,639人とされるが、各調査官はそれぞれ独自の「ツナギ」(スパイ・課略のための中継拠点で、「勤務先」として欺騙する)を有している。
従来、公安調査庁によるスパイ・諜略の中心的対象は日本共産党におかれてきたが、1986年5月7日、警察庁長官山田(当時)の「過激派根絶宣言」、7月安全保障会議設置とともに発足した「合同情報会議」(主宰=内閣官房副長官)のもとへの内外治安情報の一元化に伴い、革命的左翼へのシフトを強めている。警備公安警察が肥大化する一方、公安調査庁は行革-人員削減の対象と意っていることもあり、対過激派シフトでの「実績」づくりを焦っている。強制捜査権を持たないことに規定されて、スパイの手口は、酒食によるスパイエ作や活動家の盗み撮りなどが多い。
(『武装闘争と権力弾圧』戦旗社刊より)
RT @kousuke431: [過去記事ランダム] 公安調査庁のスパイエ作(下) https://t.co/QWqBFe5pOL