新着】渕上太郎さんの墓参に出掛けた

「愛」についての考察

照れるタイトル↑ですが。。。(笑

以下は私の「このサイトについて」という駄文を読んでいただいた方からのメールの一節です。

>「愛」といえばそれはそうなのだが、愛にもエロスもあるし、
>アガペーもあるように様々。
>もうちょっと掘り下げて、欲しいと思います。

メールを拝読させていただいて、昔(活動家時代)に読んだ「青春の北京」(西園寺一晃著・中公文庫73年刊、現在は絶版)という本の、ラストの部分を思い出しました。ご存知の方もおられるかもしれませんが、それはこんな内容です。

日本人である筆者は少年から青年時代を北京で過ごし、文革の中で知り合った中国人女性と恋に落ちます。それで一緒に日本に帰って結婚しようということになるのですが、お互いに中国と日本における革命の前進に身をささげるべきではないのか、自分たちの幸福を優先してはいけないのではないかと思い始め、討論を重ねた結果、二人は愛し合いながら別れて、筆者が単身で帰国するところで終わっていました。つまり個人の愛より人民への愛、世界の人々の解放を優先させたというわけです。
正直、そこまでする必要があったのか(たとえばその女性が中国で必要な指導的な人物であるとか)疑問には思いました。しかしその心情と決意だけは是とした思い出があります。

確かに「愛」という耳障りの良い言葉でひっくるめてしまうのは若干卑怯な気がしてきました。
「愛にもいろいろある」その通りだと思います。それが対立することもあるでしょう。

ただ、あそこで私の言いたかった趣旨は、みんな初めは権力の不正や暴力に対する怒り、虐げられる人々に対する共感からはじまったはずではないか。それが運動や組織の利害、さまざまな理屈や理論を積み重ねているうちに、およそ一般の人々から受け入れがたい、偏狭で醜悪なミニ権力(党派に限らずノンセクトも)になってしまった。
私個人としては、左翼思想も含めて全部チャラにしてもう一度初心に戻りたい。その初心(出発点)が個人の良心であり「愛」だということです。

これがおっしゃる通り、不充分であることは重々承知しているのですが、自分の人生を生きていく上で、目の前の岩をどけることにだけ、今は専念したいのです。
自分が壁にぶつかってもいないのに、なにがしかの整合性のある「思想」を完成させることを目的として思索を進めると、また同じ轍の繰り返しに陥る気がして、それはしたくありません。個人のつぶやきサイトですので、そのへんはご理解ください。

ただ、なんと言ってもこういう指摘は「はっ」と気がつかされるので、ものすごくありがいたいです。メールしていただいた方には大変に感謝しています。これからもバンバン指摘してもらえるとありがたいなあと思います。

ここまで読んでいただいてありがとうございます!

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