スガ政権『緊急事態宣言』への反対論

緊急事態宣言の再発令後、記者会見する菅首相(2021.01.07)
緊急事態宣言の再発令後、記者会見する菅首相(出典:東京新聞

 本日、今まで無策にGoToキャンペーンを繰り広げコロナ感染を爆発的に広めてきたスガ政権が世論の批判におされ、ついに「緊急事態宣言」を発出しました。そんな中で左右ともに、また左右にかかわらない素朴な一般の意見としても、ごく少数ながら「緊急事態宣言」に反対する声をあげている人もいるようです。

 これは左派にたとえれば、北朝鮮のミサイル実験を自公政権が最大限に政治利用している最中に「自衛隊は憲法違反である」という主張で街頭に立つようなもので、今のご時勢ではかなり勇気のいることです。私自身は今のところ反対ではないのですが、その勇気と鋭敏な感覚に敬意を評して少ばかり思うところを書いてみようと思います。

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「緊急事態」の大合唱に対する違和感

 私が違和感をもつのは、なにやら「緊急事態」という言葉が一人歩きしているようで、それはちょっと前までの「規制緩和」という呪文を思い出すくらいです。その呪文さえ唱えておけばなんでもかんでもまかり通るというか。ですが問題は具体的な中身です。規制緩和が「国の経済=1%の富裕層の都合」には有益でも、結局は私たちの暮らしにはむしろ有害であったように、その失敗をくり返してはなりません。

 とにかくGoToキャンペーンを続けようとした強欲な者たちを「国がもっと規制しろ」と言うのはいいのですが、結果として今さら強欲資本主義のツケをこちらに回されてはたまりません。しっかり内容を検証しつつ、いずれはここまで事態を拡大させたスガ政権の責任もしっかり取らせないと怒りがおさまりません。

 だって「緊急事態」という言葉は、民衆に大きな犠牲を強いるものであるからこそ、本来それくらい発令するものに重い責任を求めてしかるべきものです。私たちの側が「緊急事態慣れ」してしまってはいけません。その必要性ならびにそれが必要なまでに事態を拡大させてしまった責任など、常に厳しい目を向けるべきです。

スガ政権による「緊急事態宣言」への批判の声

 たとえば俳優の伊原剛志さんは、ご自身のツイッターで#緊急事態宣言反対のハッシュタグをつけた上で「緊急事態宣言出すんだったら補償もやろ!政府よ国民を助けてくれよ!そして、医療が逼迫してる??春から今まで何やってたん?疑問だらけで言うこと聞けないのは俺だけ???」「みんなもう充分耐えたよ!声をあげよう!!」などとツイートしました。この感覚は正しいと感じました。

 また保守系からの言説としては、政治学者の三浦瑠麗さんが「新型コロナが『有事』ならばやるべき医療体制の組み直しをやらず、平時と有事のあいだのグレーゾーンの質を判断してそれに対応する能力もなく、偽りの解としての竹槍精神的な自粛要請に飛びつく政治を目の前に、日本人が後世振り返るべき参照地点としての現在、緊急事態宣言発出に反対しておきます」とツイートしています

 三浦さんのツイートは、内容は全く違う(逆方向?)かもしれませんが、現状認識として左翼が強く主張していたことでもあります。新自由主義政治の中で従来レベルの医療・福祉さえ崩壊させ、コロナ禍では充分な補償なく「竹槍精神」で民衆の犠牲の元に、その医療レベルまで感染者が減ればそれでいいではすまされません。新自由主義政策の転換と根本的な改革が必要です。おそらく三浦さんの言う「医療体制の組み直し」は私が思うのとは随分と違うものかもしれませんが、強制や罰則はなしで要請と補償はセットという考えでいいと思います。

新自由主義で医療はギリギリの水準に

 左翼的にはどこもネット対応が遅いのですが、「コロナに乗じたヘイトをやめろ!」デモなどにも取り組んでこられた「差別・排外主義に反対する連絡会」のみなさんが、宣言発出の前日である昨日、「緊急事態宣言反対」の緊急行動に取り組まれた(おそらく新宿で)という風の噂。

 どういう理由で反対なのかがわからないので論評は控えますが、同連絡会サイトにある文章では「コロナ禍が格差・分断をさらに拡大したにもかかわらず、菅新政権は『自助』等を押し付け、益々新自由主義政策を推し進め…学術会議への介入でも明らかなように独裁体制へと突き進もうとしています」「コロナ禍に加え、こうした新政権の誕生で私たちの社会はどのように変貌してしまうのでしょうか。差別や分断がますます深刻になるのではないかという強い危機感を抱かざるを得ません」としています。

2020.04.19 コロナに乗じたヘイトをやめろ!緊急アクション

 先のお二人は有名人ですからネット上での書き込みにも緊張感がおありでしょうが、連絡会のみなさんは直接に顔もさらして沿道に立つわけで、その点ではいろいろとプレッシャーもあったと思います。それでも社会の主流的に対して媚びることなく問題点を提起するという、今の左翼が本来担わなくてはならない役割を果たそうとされたことに、考え方は別としても敬意を表します。

議論がないことの危険性

 本来ならこのように、現状をちゃんと認識した上で、それを共有した左翼、右翼、社民、保守やその内部において、「宣言」の必要性の是非や、おこなわれるべき社会的な政策や行動が幅広く議論されるのが、それこそ「非常事態」における正常なあり方だと思うのですが、今や私たちはすっかり「議論」やまして「連帯」が苦手になってしまい、あるのは考え方の違う人に対する罵倒と、「はい論破」なくだらない論争ゲームだけです。

 また宣言発出に対しては民意としても、また野党や左翼も、こぞって遅すぎるぞ!、もっとやれ!の大合唱ばかりで、それもどうかと思っています。もちろんそれはスガ政権の無策や、感染拡大局面でもGoToキャンペーンを「やめる気はない」と言い続けた首相への苛立ちや怒りを考えれば正当で当然な反応だと私も思います。私も現局面で、できることはすべてやるの精神から「緊急事態宣言」に反対するものではありません。

 もちろんいくら議論が大切だと言っても、ものには限度というものがありますよ。あまりに現状を無視した非科学的なものや荒唐無稽な陰謀論、人権を侵害するようなものは「意見」として認められなくても仕方ないでしょう。現状を認識も共有もしていないのですから、陰謀論にはお仲間で盛り上がってください、外国人差別など人権侵害には消えろと言うしかありませんよね。

 全体として先の「#緊急事態宣言反対」のハッシュタグでは、いわゆる「コロナは風邪」な人たちと、たまに「中国人追い出せ」とか「老人は死んでOK」なおかしな人ばかりで参考になる意見はあまりないです。逆にこういう人たちを見てると宣言でもしないとどうしようもないかもと思ってしまうという逆効果。伊原剛志さんのような正当な怒りは、むしろ「#コロナ犠牲者激増はスガの人災」のほうに多くあります。

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歴史(経緯)をふまえた議論をしよう

 そもそも昨年に安倍首相が法改正で「緊急事態」を宣言したいと言い出した時には、自民党の改憲論議の目玉として「緊急事態条項の創設」が声高に主張されていた流れがあって、なにか耳目を集める事件があるたび(「イスラム国」による人質事件、熊本地震など)改憲ムードに結びつけたいという思惑が見え隠れしていた安倍首相の脳内はわりとわかりやすかったです。

 これに対して立憲民主党の枝野氏など野党陣営も「首相の言っている内容は緊急事態を創設しなくても、すべて現行法でやれることばかりではないか(早くやれ!)」と応じますが、事態が逼迫していて早急な対策が求められているなか、さらに「野党のせいで対策ががが」とかいう詭弁(デマ)を許すわけにもいかず、緊急事態宣言の創設に応じたという流れだったと思います。こういう経緯から特に左翼の間では、もともとは緊急事態宣言という制度そのものに対して懐疑的で、批判的に検証する目をもっていたはずなのです。

 実際には改憲ムードどころかオリンピックまで吹っ飛んでしまう事態の進行、さらにはモリカケサクラといった疑獄の進展があり、やがては政権自体を持病を理由に放棄していくわけですが、そこは長くなるので置きましょう。そんな中でも「左の左」な部分は、繁華街で警察が通行人を帰宅させていく事態や、コロナ禍をまるで治安問題のように言いなして差別に結び付けていくレイシストたちの暴言、あるいは「緊急事態宣言」への翼賛から、ちゃんと対策を講じて行政の要請の範囲内で営業や生活をしている個人にまで嫌がらせをする「自粛警察」(まさに戦前の「非国民狩り」そのもの!)なる輩の出現にも、危機感をもって警鐘を鳴らしてきました。これも左翼の正しい役割だった。

 それがいつしか改憲どころではなくなって、コロナ禍でも辺野古新基地建設やらアメリカへの追従をテコとした軍拡だけはやめない現状、そして官房長官時代から首相に「経済は大切ですよ」とコロナ対策にブレーキをかけるような能天気な助言をしていたというスガ政権へのイライラ、コロナ対策への監視や検証どころか、むしろGotoさえもやめようとしないその現状に「さっさとやれ!」と怒り爆発の方向になっていったわけです。その気持ち痛いほどわかります。

 特に今回はある意味予測していなかった前回とは意味が違う。それなのに第3波を抑えるどころかついに感染爆発まで引き起こしてしまったその無策っぷりに「経済のために民を見殺しか!」という気持ちもまたわかります。でもこういう歴史(というかここ一年以内のことです)も忘れてしまってはいけないのではないでしょうか。

違いを超えた連帯の力で乗り越えよう

 繰り返しますが、私は現在の危機的状況を総合的に勘案し、今は緊急事態宣言そのものへの反対運動をするよりも、内容を監視していったほうがより多くの人の命を救えるのではないかと考えています。もちろん宣言やそこに至る発想に疑問を提起する人々の意見も理解できるし、なにより「#コロナ犠牲者激増はスガの人災」の中で、そのツケを全部まわされて生活できないのはごめんです。いろんな考えの違いはありつつも、共同でしっかりと監視し、補償を要求し、そして最後にはきっちりと責任をとらせましょう。

 考え方の違い、人種、性別、国籍を超えた連帯をつくり、その力でスガの人災を乗り越えよう。味岡修さんが言っているように、「人々は納得できる、合理的根拠があれば、蔓延を防ぐ様々な行動をとる。ある意味では犠牲的な私的利害を超えた行動である。時に必要な社会的行動を、私的な、あるいは自由な行動がそれを妨げるというのは権力の描く妄想である。反対に私的な自由な判断が妨げられることにおいてこそ様々な行動がでてくるのである」ということです。大政翼賛による「自粛」の強要ではなく、社会的連帯と行動を!理性的に、だが積極的に、どんどん声をあげよう!

霞ヶ関の風景(wikipediaより)