熱田一さんがお亡くなりになりました

熱田一さん

 47年間におよぶ三里塚闘争で、闘争第一世代のお一人でもあり、三里塚芝山連合空港反対同盟(旧熱田派)の元代表であった熱田一さんが、この1月8日にお亡くなりになったそうです。93歳の大往生でした。13日の反対同盟旗開きにて発表されたことでマスコミにも伝わり、各社が報道するところとなりました。すでに葬儀はご家族にて密葬がすまされているそうです。

 2006年86歳の時、熱田さんはついに老齢で体が動かなくなり、農業を続けられなくなって、かつて自分名義の土地を売り払って出て行った長女の娘婿に、ご夫婦ともども引き取られることとなりました。その際、三里塚・横堀部落に最後まで残っていた熱田さんの農地は、空港会社に売り払われてしまったのです。奥様のテルさんはお別れの挨拶に来た支援の人に「申し訳ない」とただ泣いていたそうです。

 農家の後継者問題は三里塚に限ったことではありませんし、ましてや反対農家でのこと。ご家族の問題に支援が無責任に口をはさむことはできませんが、それでも本当にお体が最後の最後のギリギリの状態になるまで、大切な家族を失ってまで、それでも反対運動を続けようとした熱田さんの、この時の心情はいかばかりだったでしょう。そんな熱田さんを支えることができなかったことは罪悪感で胸がいっぱいになります。テルさんの涙は、北原派、熱田派を問わず、私たち「支援」を名乗る者すべてに突きつけられたものだと思います。

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 その後どういういきさつかはわかりませんが、結局、近くにいたこの長女の娘婿のところではなく、都内の次女宅に身を寄せ、そこで余生をすごされていたようです。訪問された方のお話では、熱田さんのお話はいつも自分が苦労して開拓してきた横堀のことばかりだったとか。周囲から大切にされた穏やかな余生であったそうなので、それがせめてもの救いです。そんな熱田さんもやっと三里塚に還られ、小川源さん小川明治さん、戸村一作さんらと同じ墓所で眠られることになります。きっと今ごろみんなで思い出話に花を咲かせていることでしょう。

 私が初めて援農に入った農家が熱田さん宅でした。3月とは思えない寒風が吹く中、ニンジンの収穫をお手伝いしました。ほかにも向こうは覚えておられなかったでしょうが、私には思い出がたくさんあります。今も三里塚を歩けば、どこからか、あの元気で独特なダミ声が、今にも聞こえてきそうに思えます。思えば戦争、開拓、理不尽な空港建設への抵抗と、苦難と波乱に満ちた生涯でした。最後まで徹底抗戦を願っていた熱田さんの思いを支えきれなかったかつての支援の一人として、今はただ本当に長いあいだご苦労様でした、そして心の底から申し訳ありませんでしたと言うよりほかありません。そしてそんな熱田さんの生涯を貶したり愚弄する人がいるのなら(とりわけそれが現・元の支援の人間なら)絶対に許せないと思います。熱田さん、どうかゆっくりとお休みください。心よりご冥福をお祈りいたします。

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 1月13日、三里塚芝山連合空港反対同盟(代表世話人:柳川秀夫)は、横堀農業研修センターで2013三里塚反対同盟旗開きを行い、50人が参加した(中略)…柳川秀夫さん(反対同盟代表世話人)は、冒頭、「昨年12月に小川むつさん(元婦人行動隊)、今年1月5日に熱田一さん(反対同盟元熱田派代表)が亡くなった。かつてともに闘った先輩たちの冥福を祈りたい」と報告した。(後略)

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成田空港に反対、熱田派元代表の熱田一さん死去2013年1月13日朝日

 成田空港建設の反対闘争で象徴的な農民の一人だった三里塚・芝山連合空港反対同盟熱田派元代表の熱田一(あつた・はじめ)さんが5日、老衰のため東京都練馬区の自宅で死去した。93歳だった。葬儀は親族で行ったという。

 成田空港の建設に反対する同盟が結成された1966年から活動に参加。用地買収を複雑にする土地の共有化問題などをめぐって反対同盟が北原派と熱田派に分裂した83年、熱田派の代表に就いた。90年に健康問題を理由に代表を辞任した。※

 成田問題解決のため91年から国と旧熱田派のメンバーらで行われた「成田空港問題シンポジウム」「円卓会議」では、「農地死守」を貫き、参加しなかった。円卓会議後も暫定滑走路建設などに反対し続けた。

※実際には熱田派が闘争第二世代の相川さんや石毛さんらの主導権の元、「円卓会議」に進んでいく中で、徹底抗戦派の熱田さんが「そんなことに俺の名前を使うな」ということでの代表辞任だったらしいです。これ以降マスコミでは「旧熱田派」という呼称が使われるようになります(草加注)

戦旗派86年総括(懐古的資料室)

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成田空港に反対、熱田派元代表の熱田一さん死去2013年1月13日読売

 成田空港建設に反対した三里塚芝山連合空港反対同盟熱田派の元代表、熱田(あつた)一(はじめ)さんが5日、老衰のため東京都練馬区内の自宅で亡くなった。93歳だった。告別式はすでに親族による密葬で行われた。

 千葉県芝山町に生まれ、1966年に成田空港の建設が決定すると、農民らが結成した反対同盟に身を投じた。反対派農民の中心的存在で、行動隊長などを歴任。反対同盟は83年に運動方針の違いで分裂し、推されて一派の代表に就任した。「熱田派」は名前から名付けられた。

 90年には「体力の衰えと家庭の事情」を理由に代表を辞任。その後、公の場に姿を見せず、組織的な反対運動から距離を置いた。2006年には空港用地内に所有する土地を成田国際空港会社に売却し、反対運動から引退した。

熱田さんの「移転」について(ブログ旗旗)

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熱田一さん死去=成田空港反対元中心メンバー2013年1月13日時事通信

東峰行動での熱田さん(隣は石井武さん)

 成田空港反対運動の中心的メンバーだった三里塚芝山連合空港反対同盟・熱田派元代表の熱田一(あつた・はじめ)さんが5日午後11時すぎ、老衰のため東京都練馬区の自宅で死去したことが分かった。93歳。親族が13日明らかにした。葬儀は家族のみで済ませた。

 1966年の同盟発足当初からメンバーとして反対運動を主導。83年の分裂後、熱田派として空港用地内などの反対派所有地の一坪共有地化を進めた。

 代表辞任後、熱田派は、反対派の一部と国側との和解のきっかけとなった91年からの「成田空港問題シンポジウム」に参加。95年に村山富市首相(当時)がそれまでの政府の姿勢を謝罪し、空港整備の進捗(しんちょく)に影響を与えた。
 その後、運動から身を引き、2006年には空港用地内の所有地も売却。練馬区で次女の一家と暮らしていた。

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成田空港反対派の熱田一氏が死去 元代表2013年1月13日共同通信

 成田空港の建設に反対した「三里塚・芝山連合空港反対同盟」熱田派元代表の熱田一氏が、5日午後11時ごろ、老衰のため東京都練馬区西大泉の自宅で死去していたことが13日、親族への取材で分かった。93歳。千葉県出身。葬儀・告別式は親族のみで済ませた。

 空港反対の農民らが1966年に結成した反対同盟の中心メンバー。支援セクトの路線対立などで83年に北原派と分裂した後、熱田派の代表を務めた。

 熱田派が89年ごろから、運輸省(現国土交通省)との話し合い解決を模索する中、対話路線に反発して90年に代表を辞任。熱田氏は平行滑走路建設に反対を続けた。

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訃報:熱田一さん93歳=空港反対同盟旧熱田派元代表2013年1月13日毎日

熱田さんご夫妻

 成田空港(旧新東京国際空港、千葉県成田市)建設反対運動の指導者の一人だった熱田一(あつた・はじめ)さん=三里塚・芝山連合空港反対同盟旧熱田派元代表=が今月5日、老衰のため東京都練馬区内の自宅で死去していたことが分かった。93歳。千葉県芝山町内で13日開かれた旧熱田派の会合で明らかにされた。葬儀は近親者で営んだ。喪主は妻テルさん。

 熱田さんは、成田市に隣接する芝山町出身の元農家。1966年の反対同盟結成当初から、副行動隊長として参加した。反対同盟は空港予定地内に所有する土地を数百人の支援者名義に分割し、買収を難しくする「一坪共有化運動」を展開。新東京国際空港公団(現・成田国際空港会社)による買収が進んだ83年、再分割運動を推進する熱田さんのグループと、再分割に否定的な北原派に分裂。熱田さんは旧熱田派の代表に就任した。87年に北原派から旧小川派が分かれ、反対運動は3分裂した。

 旧熱田派が国側との話し合い解決を模索する中、熱田さんは90年3月代表を辞任。旧熱田派は国側との交渉テーブルである空港問題シンポジウム・円卓会議(91〜94年)に参加し、02年に供用開始となった平行滑走路建設に向けての動きが加速した。熱田さんは05年6月に高齢を理由に運動から引退し、06年3月に所有地を成田国際空港会社に売却した。

 同派の柳川秀夫代表世話人(65)は「一つの時代を担ってきた人。ご冥福を祈りたい」と話した。

 【ことば】成田・三里塚闘争

 千葉県成田市三里塚や同県芝山町への空港建設が66年7月、地元との合意抜きで閣議決定されたことに端を発する。反対する地域住民・活動家と国が全面対決する事態となり戦後最大級の建設反対運動へとつながった。
 警察の機動隊と住民・活動家との数千人規模での衝突が繰り返された。78年の開港直前には管制塔が反対派によって占拠される事態も発生した。
 分裂した一部の反対派により今も反対運動は現地で続いている。警察当局によると、過激派・中核派や革労協主流派なども重要な闘争課題に掲げており、警戒を続けている。

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熱田一氏が死去 成田空港反対運動2013年1月13日日経

 成田空港建設に反対した「三里塚・芝山連合空港反対同盟」熱田派元代表の熱田一(あつた・はじめ)氏が5日老衰のため東京都練馬区の自宅で死去したことが、13日わかった。93歳だった。告別式は近親者のみで行った。喪主は妻、テルさん。

 空港反対の農民らが1966年に結成した反対同盟の中心メンバーの一人。路線対立などで83年に分裂後、最大グループの熱田派代表を務めた。国との話し合い解決を模索する対話路線に反発して90年に代表を辞任。2006年に空港用地内に所有する土地を成田国際空港会社に売却し、反対運動から退いた。

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熱田一さん死去 空港反対同盟熱田派の元代表2013年1月14日千葉日報

三里塚・横堀部落開拓100年祭(04.8.7)

 成田空港の反対運動を展開した三里塚芝山連合空港反対同盟熱田派の元代表、熱田一(あつた・はじめ)さんが死去したことが13日、親族への取材で分かった。反対運動引退後に住んでいた東京都練馬区の自宅で今月5日に老衰のため亡くなった。93歳だった。葬儀は既に近親者で済ませた。

 親族によると、都内では妻や娘夫婦と暮らし、介護施設にも通所。昨年12月に入ってから食が細くなっていたという。成田市内で暮らす親族男性(67)は「戦後、畑を起こして拡大するのに苦労し、(空港反対運動中は)バイクで団結小屋などを飛び回っていた。体は丈夫で、実直な農民そのものだった」と振り返った。空港に近い同市内の墓地に納骨される予定という。

◆「三里塚・芝山連合空港反対同盟」北原派事務局長、北原鉱治さん(90)の話
 熱田氏は(空港建設を認める)条件派として分裂し、絶対反対の私たちと価値観は違ったが、恨みはない。反対闘争が激しかったころ、行動隊長として頑張ってもらった思い出がある。もう少し生きてほしかったが残念だ。

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熱田一さん死去:「農民らしい実直な人」支援者らしのぶ2013年1月14日毎日

 三里塚・芝山連合空港反対同盟旧熱田派の元代表だった熱田一さん(93)の訃報は、13日に芝山町で行われた同派旗開きで明らかにされた。

 旗開きには、支援者ら約50人が出席。熱田さんは06年3月に所有地を成田国際空港会社(NAA)に売却後、東京都練馬区の次女宅に移り住んで反対運動と距離を置いてきた。出席者らは「ご高齢でしたから」と冷静に受け止め、その後、空港周辺でデモを行った。

 熱田さんの長女の夫で、農事組合法人さんぶ野菜ネットワーク事務局長の下山久信さん(67)=成田市西三里塚=は同市内で報道陣の取材に応じた。「農民らしい実直な人だった。オートバイが好きで、酒をガンガン飲んだ」と在りし日の熱田さんを振り返った。最近は「週2回デイサービスに通い、体を動かしていた。友達もできて楽しみにしていた」という。

 一方、反対同盟北原派も同日、成田市内で旗開きとデモを行った。デモには約120人が参加した。3月7日に同空港B滑走路西側誘導路の利用が始まると、同派農家の市東孝雄さん(62)宅と農地が空港用地に囲まれる。NAAが市東さんに農地の明け渡しを求めた千葉地裁の民事訴訟も3月中の結審が予想され、北原紘治事務局長(90)は「国とNAAは市東さんの生きる権利を奪おうとしている。闘争を強めていこう」とあいさつした。

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熱田一さん死去 「一つの時代担った」2013年1月14日東京

 成田空港建設の閣議決定から約四十年にわたり、農民の代表として反対運動を率いてきた熱田一さん。芝山町内で十三日に開かれた三里塚・芝山連合空港反対同盟熱田派の旗開きで死亡が伝えられたが、関係者は冷静に受け止めた。

 代表世話人の柳川秀夫さんは「十日ごろに聞いた。一つの時代を担ってきた人だが、活動を去っていった大勢の人と同じ。残った人間はやるしかない」と話した。旗開きでは、昨年十一月に横堀地区の団結小屋が強制撤去されたことを強く非難し、反対運動を展開する方針を確認した。

 関係者によると、熱田さんは昨年十二月に体調を崩して自宅で療養していたが、五日深夜、自宅で同居していた妻テルさんと次女夫婦らにみとられて旅立った。

 親族の男性(67)は「親を早くに失い、戦争から戻って苦労して畑を開墾した。力持ちで実直で、農民そのものという人柄だった」と故人をしのんだ。

 二月中に納骨式を行い、成田市内の墓地に埋葬される予定だという。

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熱田一さん、たたかいの人生お疲れ様でした2013年1月14日ブログ「世話人花日記」様より

 成田空港反対闘争の三里塚反対同盟代表、熱田一さんが5日に老衰で亡くなったそうです。93歳。一さん、テルさん、闘いの人生本当にお疲れ様でした。
 熱田さんは、第2次大戦では中国戦線で瀕死の目に遭って帰国。御料牧場に接する芝山村横堀の開墾は若くしてヘルニアで腰が曲る重労働だったが、そんな農地を取り上げる空港建設に対して反対同盟の下で立ち上がったと言います。小川プロの記録映画でも、夫婦して立ち木に鎖で体を縛って強制収用に立ち向かう姿が出てきます。

 83年反対同盟が分裂した際は農民の主体性を重視する熱田派を結成して代表に就任したのですが、茨の道でした。ひと世代若い「青年行動隊」の人達は有機無農薬農法で全国にネットワークを作り上げましたが、相川勝重(現芝山町長)らを先頭に、空港と共存する農業へ舵を切り、運輸省・空港公団等と公開シンポジウム、円卓会議を開催。02年にはB滑走路が出来て、島村信治さん宅のギリギリ頭上から航空機が飛び、騒音悪化で近接する横堀や辺田は移転に追込まれます。

 酒が入れば「人生劇場」の「やると思えばどこまでやるさ」を歌い、徹底抗戦が生き甲斐の全てだった熱田さんの願いはいつしか無視されてしまい、熱田さんは90年3月に熱田派の代表を辞任します。

 私も三里塚には60年代から関りました。晩年は老夫婦で農業も通院にも苦労する熱田さんの支援にも末席で取り組みました。他人の人生を色々と言うのは簡単ですが、反対同盟の副行動隊長、代表として先頭に立ち続け、息子夫婦も近所も失っても頑張り抜いた熱田さん自身に悔いはないと思います。今はただ、お疲れさまと言いたいですね。

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熱田一さん死去(ユートピア村で一緒に生活しませんか)
合掌(TAMO2ちんの日常)
三里塚/熱田一(空港反対同盟元代表)/93歳(サーカスな日々)
熱田一さん死去(マル共連BBSスレッド)

成田空港反対派の熱田一氏が死去(ロイター通信)
成田空港建設反対派 熱田一さん死去(NHKニュース)
成田空港反対派の熱田一氏が死去 元代表(静岡新聞)
成田空港反対派の熱田一氏が死去 元代表(徳島新聞)
成田空港反対派 熱田一氏が死去(福島民報)

成田空港反対派元代表の熱田一氏死去(熊本日日新聞)
成田空港反対派の熱田一氏が死去 元代表(上毛新聞)
成田空港反対派元代表の熱田一氏死去(大分合同新聞)
[速報]成田空港反対派元代表の熱田一氏死去(東奥新聞)
成田空港反対派の熱田一氏が死去(福井新聞)

熱田一氏死去 成田空港反対派元代表(北日本新聞)
成田空港反対派の熱田一氏が死去(デイリースポーツ)
成田空港反対派の熱田一氏が死去 元代表(信濃毎日新聞)
成田空港反対派元代表の熱田一氏死去(佐賀新聞)
成田空港反対派の熱田一氏が死去 元代表(長崎新聞)

社会:成田空港反対派の熱田一氏が死去(岐阜新聞)
成田空港反対派の熱田一氏が死去 元代表(山形新聞)
成田空港反対派元代表の熱田一氏死去(四国新聞)
成田空港反対派の熱田一氏が死去 元代表(山陽新聞)
成田空港反対派の熱田一氏が死去 元代表(京都新聞)

■■ 三里塚を知ろう(旧熱田派系の(?)三里塚関連書籍) ■■■■■■■■■■■■

ここまで読んでいただいてありがとうございます!

4件のコメント

マル共連BBSに投稿したコメントの転載です。
http://tree.atbbs.jp/saiken/index.php?n=4381

「ご紹介ありがとうございます。
ここでの議論もふまえ、大幅に加筆、追加をおこないました。

http://bund.jp/modules/wordpress/?p=11275

あと、「移転」直前まで熱田さんご夫妻の支援に関わっておられた方のブログです。

http://happy.ap.teacup.com/mountain31812/1001.html

結局熱田さんは、旧熱田派内における最後の「農地死守派」として死ぬまであり続けたということだと思います。その熱田さんの思いを支えきれなかったのは支援の力不足だし、ましてや家族や後継者問題に口を出したり、そのことについて自分では何もできない、つか、初めからする気すらないような人間が、現実にはできっこないような理想論を対置して、熱田さん一人に犠牲を要求し、あまつさえ揶揄・批判するのは間違っていると思います。

熱田さんら農地死守派が退いてからの熱田派は、なんというかエコロジー・緑の大地派みたいな内容に純化し、それがまた空港共存(闘争終焉)派と反対運動継続派に別れ、その闘争継続派も「体を張ってでも筋を通すだけだ」という人から「交渉(話し合い)による粘り腰で一日でも長くこの地で農業を続ける」という考えの人まで種々雑多、それも「この人は何々」というようにきっちりと境界線を引いて色分けできないような状況であるという認識です。

これは私が戦旗出身だからそう思うのかもしれませんが、熱田派支援が中核派(や戦旗)への対抗路線から、ほとんど無批判に「青行路線」の尻押し部隊になってしまったことも、熱田さんに対する責任の一端として言えるのではないかと思っています。やはり一番に応援するべきだだったのは、熱田さんや小川源さんだったろうにと。」

いつもありがとう。

合掌。

熱田さんには、とりあえず「お疲れ様でした」です。

私に何か言う権利があるかどうかはわかりませんが、あくまで一般論として。
人間は誰しも矛盾の中に生きている。矛盾を引き受けて生きることができる人こそが本当に強い人で、矛盾なき(かに見える)生き方をやたらと志向する人は、実は脆弱な精神しか持てないんじゃないかと思う。まあ、それで自分が貫いて生きるのならそれはそれでいいし、ある意味潔いのかもしれないけれど、実際には、自分がそういう生き方をできないくせに人に強制する最低の人間になるのがどうも実際には多いのでは。

この熱田氏は矛盾を引き受けて黙々と生き、死ぬ、そういう勇気を持った人だったのでしょう。
立場の違いを超えて敬意を表します

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