三里塚反対同盟農民、萩原哲子さんの御冥福をお祈りします

萩原哲子さんの通夜、しめやかに

 三里塚芝山連合空港反対同盟(北原事務局長)萩原進事務局次長の御母堂、哲子さんがお亡くなりになられたそうです(享年93歳)。

 お通夜は、8月20日午後7時から成田市吉倉の八冨成田斎場で、遺族・親族、反対同盟、支援の労農学が多数参加して、しめやかにおこなわれたとのことです。(反対同盟ブログより)

萩原哲子さんの御冥福を、心よりお祈りします。

萩原哲子さんの通夜、しめやかに(反対同盟ブログ)
萩原哲子さん 安らかに(反対同盟ブログ)
萩原哲子さんの逝去を悼む 戦争、開墾、闘争…戦(いくさ)続きの生涯全う(週刊『三里塚』)

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<反対同盟 北原事務局長の弔辞>

追悼のことば

萩原哲子さんへの弔辞を読み上げる北原鉱治事務局長

 93歳の生涯を全うした萩原哲子さんに心から追悼の意を表したいと思います。

 8月18日午前6時39分、あなたは、ご家族の深い愛情と手厚い介護の中で、看取られ永眠されました。
 93年の生涯は、戦争、開墾、空港反対闘争と、大変な時代を生き抜いてこられたと思います。戦後、今は亡き夫の作治さんと10年間の開墾を経て1956年に東峰部落に入植、竹林・松林がおおう原野を、月明かりとトンビグワ一本で開墾した苦労は、あなたの手からうかがい知ることができます。その中で、一男一女を立派に育てられました。

 やっと生活が軌道にのりはじめた頃、1966年空港建設計画が一方的に襲いかかりました。それは農家の血のにじむような苦労を踏みにじり、夢を奪い、農業を捨てよというものでした。とくに萩原家にとっては、農業構造改善事業の一環として国が計画したシルクコンビナートにのりだした矢先のことと聞いています。当時、この一帯のすべての農家に、農民として、人としての生き方が問われました。

 その後の41年間あなたは家族とともに生き抜いてこられました。
 空港問題が始まってからの今日までの41年間は、日常的なたたかいの連続でした。13年前までは今は亡き作治さんとともに、あなたは家族を励ましながら、後継者の進さん、静江さんを見守ってこられました。新聞には毎日目を通し、野球や相撲のほかテレビニュースもよく見、援農に来ている支援の学生と談話を好み、励ましておられました。
 また、同級生であった亡き市東東市さんを励まし、ともに闘おうという信念を持ち続けられました。

 何年か前の2月ごろの寒い時期に、私があなたのお宅へ伺ったとき、コタツで話をしたことがあります。「北原さん、このたたかいは大丈夫だろうか」とたたかいの行方を心配する言葉がありました。「絶対に勝利させましょう」と約束をかわしたことが思い出されてなりません。
 もの静かな言い方の中に、何物にも動じない強さをいつも感じておりました。

 ここ何年かは、病に伏せながらも、家族の温かい愛情の中で、お孫さんやかわいいひ孫に囲まれながら、暮らしてこられました。
 永い間ご苦労様でした。安らかにお休みください。
 以上をもって追悼の言葉といたします。

2007年8月21日
                      
三里塚芝山連合空港反対同盟  
事務局長・北原鉱治

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