マキァベリ『君主論』ノート

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4.『君主論』の批判点=その階級的性格

 われわれはこれまで『君主論』を貫く「政治」の核心点について学んできたわけだが、そのためにも批判点に関しては一応タナ上げにしてきたのである。だが誰が読んでも『君主論』の具体的内容が、直ちに革命運動に適用できる代物ではないことははっきりとすることだろう。 では『君主論』は一言でいって何が問題なのか。それは本書の階級的性格であり、それにもとづく政治目的に他ならない。

 マキァベリの政治目的は、フランスをはじめとする大国支配を打ち破り、イタリアの統一をかちとり、イタリアの近代的中央集権国家への道を切り拓くことにあった。それをメディチ家といった一封建領主に託したのである
 すなわち封建領主を活用しながら、ブルジョア革命を遂行していくことがマキァベリの戦略であったと言いうる。

 われわれの政治目的が、プロレタリア階級の独裁を通じた階級社会そのものの廃絶=共産主義社会の実現であることと比するとき、双方の決定的な違い階級的非和 解性ははっきりするだろう。
 こうした相違は自ずと双方の政策の内容をまったく異ったものとさせる。すなわち『君主論』にあっては侵略 政策と民衆抑圧政策は基軸中の基軸であり、これをもって国の領土を拡大し、民衆から収奪し、国(=支配者)を富ませることがめざされたのである。だがわれわれは こうしたことを阻止し、打ち破るためにこそたたかうのであって、双方の政策は水と油の関係にあるのだといえる。

 ともあれ政治は武器と同じく技術(手段)の体系である以上、極言すれば、その使い方一つで反革命的なものにもなり、革命的なものにもなるのである。ただいずれにせよ言えることは、「武器の使い方を習得し、武器の使い方に練達し武器をもつことにつとめないような被抑圧階級…は、抑圧され、虐待され、奴隸としてとりあつかわれる値うちしかない」(レーニン『プロレタリア革命の軍事綱領』)のと同じように、「政治の使い方」を習得しない階級に未来はないであろうということである
 したがって、革命的な前衛をめざすわれわれは、労働者階級の未来に対して勝利を保証する責任を負っており、それ故政治を主体化する義務を負っていると言わなくてはならない。

 ただそこで留意しなければならないのは、「策士策に溺れる」がごとく、技術面にばかり目がいき、自らの階級的立脚点を見失うようなことがあってはならないということである。そのためにも『君主論』主体化に向けた前提として、マキァベリに対する階級的批判の視座ははっきりと保持しておく必要があるのだといえよう。

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