元活動家のつぶやき

【追悼】ずるいよ!笠置さん!

晩年の笠置華一郎さん。カサ・カサホームページより許可を得て転載 先日、知り合いから、元戦旗・共産同の代表代行だった笠置華一郎さんがメキシコで亡くなったらしいというメールをいただき、しばしモニターの前で呆然としました。私は泣きたいのにまったく泣けませんでした。まるで砂を握り締めるような、体の水分が枯渇したような、そんなやりきれなさに、その時はとらわれていたのです。

 党の最高幹部でありながら、いつも闘争の前面に立って若いメンバーを守って闘う姿、革命に対する少年のような純粋な思いと正義感、そして私生活での決して満たされることのない寂しさ、この三つが渾然一体となった人物。それが私にとっての笠置さんでした。

■「偉大な革命家」としての笠置さん

 やはりまず何よりも、私が初めて会ったときの笠置さんは、元日大全共闘の闘士であり、荒さんと共に戦旗・共産同を創設したメンバーの一人であり、元全国労共闘議長であり、そして荒さんが獄中にいた期間の「党首代行」として3・26管制塔占拠闘争を指導した偉大な革命家でした。

 笠置さんは常に現場では部隊の先頭に立ち、若いメンバーの後ろ盾となり、そして機動隊の弾圧などには火を噴くような抗議をされていました。機動隊のほうが数が多くて劣勢の時も、笠置さんが来ると一気に雰囲気が変わったものです。一方で、他の戦旗派の誰よりも党派人であり、組織人だった。それは官僚的な意味での組織人間ということではなく、自らの情念と正義感と革命への情熱といった心情的なものを、「党」という現実的・物質的な存在へと昇華した姿だったように思います。そういう意味でも理想的な革命家だったと思います。

 私が知る中で笠置さんほど「革命家」という言葉がぴったりくる人はいなかったと思う。「活動家」はたくさんいた。「理論家」もいた。中には「政治家」や「陰謀家」、「政治ゴロ」みたいなのもいた。自己という存在に拘泥するあまりに「反組織人」になる人もいた。そんな中で笠置さんの存在は傑出していたと思う。うまく言えなくてもどかしいのですが、ちゃんと自己を保ちつつ、それを組織の中に昇華しておられました。

■酒とゲバラを愛する少年のような革命家

 これは月並みな表現ですけれども、笠置さんはまるで「少年のような」としか他に言いようのない目と笑顔をしておられました。傍から見れば絶対に「党のエライ人」とは思えないほど、誰に対しても気さくな笑顔でごく自然に声をかけられ、親身に相談にのり、酒をこよなく愛し、飲むと革命とチェ・ゲバラを語る人でした。
 だいたいが結集したばかりの若い活動家の「恋愛相談」にのったり(しかも紋切り型の組織的見解ではない)夜通し親身になって「恋ばな」につきあったりしてくれる「党の最高幹部」が他の組織のどこにいたでしょうか(笑)。

 そして何よりも、笠置さんが酒を飲んで語る「革命」はとても純粋で美しかった。しかもそれは一方的に語られるのではなく、いつも私に問いかけ、語りかけながら、内面に深くしみいるものでした。私の革命観、左翼観は、笠置さんから得たものだと今では思えます。そしてそれはそこから「マルクス主義」の理論を取り除いたとしても、今もって私の人生を決定づける指針を与えてくれる力を持つものです。

 と、いうか、私の記憶の中では、あまり笠置さんが「理論」を語っているのを見たことがありません。戦旗派の文献に収録されるような論文などもほとんどなかったと思います。私は笠置さんと一緒に生活していた時期がありますが、話はいつもゲバラであり、中国革命であり、ベトナムであり、韓国民衆であり、そして三里塚農民でした。荒さんとはたまに接する程度で、近しく会話する機会もほとんどありませんでしたが、荒さんの著作は多いから、その内省的で謙虚な文章に感動したりしました。その時は笠置さんの話と荒さんの著作に矛盾はなかったのです。この二人が私の政治的な「師」ということになるでしょうか。

 余談ですが、私は戦旗派のパラチェン(左翼思想の放棄)後の荒さんの文章を読んで愕然としたことがあります。それは「共産主義のように人々に倫理を押し付けるようなことは無理がある」という趣旨でした。私は「そうだったんですか、荒さん!」と叫びたくなりました。それは「(共産主義は)無理がある」という部分に対してではありません。私達が目指した革命を、荒さんが「一般大衆に特定の倫理観を押し付ける」ものだと理解していたことに対してです。これは笠置さんがいつも語っていた「人間解放の思想としての革命」とは180度正反対の革命理解です。その当事は矛盾がないと思っていた二人ですが、やはり根本的な人間性のところで二人は随分と違っていたのかもしれません。

■ふと見せる寂しい横顔

 実は笠置さんは荒さんなどより遥かに破天荒なところがあって、若い頃は随分と女性遍歴を重ねたこともあるといいます。学生結婚をした後も、それはおさまらなかった(と、自分で常々語っておられた)。それはレーニン主義的な規律に反した「誤った自由恋愛主義的な傾向」であると自己批判されているのを(酒を飲みながらですが)何度も聞いたことがあります。

 こう書くと、なんだか「破天荒な英雄が色を好む」みたいなエピソードですが、実際はそうではありません。なぜそんなことをしていたのかということについて「寂しかった」と語っておられた。結婚すれば、この寂しさが何とかなると勘違いしていたと。二十歳そこそこの私にはよくわかりませんでしたが、その後の人生で、この「寂しさ」を抱えた人に何人も出会うことになります。そして私も自分の中にこの「寂しさ」を発見していくことになりました。

 めったにご家族の住む自宅(もはや「自宅」と言えるような状況ではなかったと思いますが)に帰ることはできませんでしたが、それでもごくたまに帰った時には、当時小学生だった息子さんのことを、私によく話してくださいました。子供に何を伝え、何を残すことができるのか、それは私に話すというよりも、自問自答しているような感じだったでしょうか。のちに離婚された奥さんのことは、あまり話そうとはされませんでしたが、とても気を使っておられるようにお見受けしました。いろんな思いがありすぎて、言葉にならなかったんだろうと思います。

■風の噂に消息を聞いて

 それはともかく、私は組織を離れてから、笠置さんの消息をまったく知りませんでした。まだネットもなかったですしね。でも、他の戦旗派幹部の消息などは興味なかった(Jさんゴメン(-人-;) けれど、笠置さんの消息だけは知りたかった。戦旗派が正式に革命を放棄したあと、あの笠置さんはいったいどうしているのかと。
 なぜなら、古今の哲学者の名前を並べたて、普通に日本語で「組織の活動家」と言やあいいものを、わざわざ「ブントのアクティビスト」などと言い換えてみたり、とかく小難しいカタカナ言葉を乱発する今の「ブント」に、私の知る笠置華一郎さんはおよそ似つかわしいとは思えなかったから。

 やがてネットが普及しだしたある日、私は思い立って2ちゃんねる掲示板の該当スレッドで、笠置さんの消息を尋ねてみたことがあります。そこで返ってきた答えは「上福岡に左遷され、毎日飲んだくれていたが、何を考えたか任務を放棄して今さらキューバへと逃げ出した」みたいなものでした。SENKI紙上にキューバからの投稿が載ったこともあるそうですが、10年以上運動の世界と縁が切れていた私は知りませんでした。しかし私はむしろこのレスに安堵したくらいでした。「キューバかあ!」と思いました。ゲバラを熱く語っていた笠置さんを思い出し、そうだ!それでいいのだ!と思った。

 当時は戦旗派創設以来の古参幹部の現状について、ろくな話(噂)を聞かなかった。基本的にはみんな「左遷の上パージされてしまった」というのがそれでした。おそらく「革命家・笠置華一郎」の居場所は、今の「ブント」にはないだろう。戦旗派は変わってしまった(と、いうか、すでに無くなってしまったというほうが正しいでしょうが)し、また、荒さんも変わってしまったから。

 しかし笠置さんにおよそ「内部抗争」だの「荒さんに反旗を翻す」だの、ましてや「分派」なんて行動は似合いそうもない人ですから、それだったら笠置さんのキューバ行きの選択は最良のものの一つだろうと思ったわけです。ですが、同時に、自己の人生と革命の未来を、すべて「戦旗・共産同」という組織に賭けて半生を生きてきた笠置さんにとって、そこにいたる思いはどのようなものだったろうかと、勝手に想像して勝手に心を痛めました。誰のせいでもないかもしれない。でも、忸怩たる思いがしたことも事実です。

■砂を噛むような悔しさの中で-訃報の第一報を聞いて

 その後、笠置さんがキューバを離れてメキシコに渡ったことを聞いたのは、つい最近のことでした。「なぜメキシコか」ということについては知りませんでした。また、現在のSENKIの活動家が、笠置さんについては否定的な評価をしている、あるいは最大限善意に解釈しても「パラチェンについてこれなかった過去の人」的な見方をしているらしい印象をこの頃に持ちました。もちろん笠置さんの人間性ゆえに、回りの人からは親しまれていたようですが、それでも、私のように偉大な先達として尊敬したり、その生き方から学ぼうという姿勢とは違うもののように感じていました。

 そこへもってきての突然の訃報です。しかも「裏切られた革命家」トロツキーと同じメキシコでの客死であるという。

 悔しかった!私はいつの日か、必ずまた会える日がくると信じて疑っていませんでした。その日を楽しみにさえしていたくらいです。後悔の念が押し寄せました。そして同時に、笠置さんのような左翼の宝とも言うべき、傑出した古参革命家が居場所のない組織にした荒さんに、苦労を共にした同志に尊敬をはらわない(と私には見える)その姿勢に、わたしは憎しみさえおぼえたのです。

 私は笠置さんの死とその晩年を、その時に「悲しい」と思いました。「やりきれない」とも感じた。せめてその死が孤独なものでなかったことを心から祈りました。そしてだれかと笠置さんについて語り合いたかった。知り合いにメールを送りまくり、さらに2ちゃんねるにまで書き込みました。しかも気持ちがすさんで慌てていたのでしょうか「笠置さん」が「笠木さん」になっているのも気がつかないままで。

■幸福だった笠置さんの人生

 ところが・・・です。往々にしてこういうものは、すべてが終わってから情報が集まってくるものす。
 いや、それ以前に私はなんで今まで「笠置華一郎」でネット検索をしなかったのでしょうか!!

メキシコ日本人宿「カサ・カサ」ホームページ
   ↑
 結構知っている人も多かったようですが、私は知りませんでした。「共産趣味」関係のページには行かないので、この手の情報には疎いです。この「カサ・カサ」のページに出会ってから、一気に笠置さんの消息についての情報が入ってきました(知ってりゃ教えてくれれば良かったのに!)。

 笠置さんは97年に自分の意思と決断で日本を離れた後、文字通りの「世界革命浪人」としてキューバに渡られ、そこで2年間を過ごした後、中南米各地を旅しておられたそうです。そしてその途上でメキシコ先住民の民族解放運動であるサパティスタ民族解放軍(EZLN)に出会い、その活動に共感。そしてサパティスタの存在と活動を伝え、支援するため、日本人宿「カサ・カサ」を立ち上げておられたのです。SENKIのサイトにも03年10月5日の日付で笠置さんの投稿文が残っていました。

 それにしても、この「カサ・カサ」のページは、なんて素敵な追悼ページなんだろう!私のコメントとしては僭越すぎると思うけれども、作者の片桐さんにはどうしてもお礼を言いたい。心から感謝申し上げます。下にある写真も、「カサ・カサホームページ」から許可を得て転載させていただいたものです。

晩年の笠置華一郎さん。カサ・カサホームページより許可を得て転載晩年の笠置華一郎さん。カサ・カサホームページより許可を得て転載

 あはは、笠置さんだ。髪もトレードマークの髭もすっかり真っ白だけれど、それ以外はあまり変わっていませんね、笠置さん。子供達に囲まれて、なんて幸せそうなんでしょう!あは、やっぱりゲバラのTシャツなんて着ちゃって。
ずるいよ!笠置さん!私なんかよりずっとずっとずっとずっとずっとずーっと!何倍も幸せそうじゃありませんか。

 良かった・・・・。

 ここまで書いて初めて涙があふれてきました。今、号泣しています。
今まで泣けなかった。自分は冷たい人間なのかとさえ思った。でも、笠置さんは幸せだったのだ、自分なりの人生をまっとうしたのだとわかった瞬間、自分でも驚くほどの涙が堰を切って一気にあふれだしてきました。

 良かった。本当に。心が溶けたようです。涙が止まらない。本当に。

 カサカサの掲示板に、なんと笠置さん本人の書き込みが残っていました。
 日付は今年の7月20日が最期のものでした。なんでもっと早く気がつかなかったのか、悔やまれます。

■笠置さんはやっぱり笠置さんだった!

晩年の笠置華一郎さん。カサ・カサホームページより許可を得て転載 でも笠置さん、あなたは一人になっても、組織なんてなくなっても、どこの国へ行っても、やっぱり笠置さんのままで、少しも変わらなかったんですね。どこに行っても回りの人から好かれてしまうんですね。羨ましい!

 おそらく晩年は、ブントがどうの荒さんがどうの、そんなことはちっぽけなことに思えたでしょう。SENKIの人たちに対しても、他の人に対するのとまったく変わらずに接しておられたようです。
 これは簡単なことのようで実際はすごいことです。自分が創設し、一度は「最高責任者」をつとめながら、最終的にはそこから離れざるを得なかった党派なのです。こういう場合、だいたいの年寄りは、愚痴ったり、今の組織に「批判」ならぬ難癖をつけたり、あるいは過去の栄光や武勇伝を繰り返し語るだけの毎日だったりするもんです。でも、そんな形跡が微塵もない。

 きっと毎日が充実して忙しくて、思い出しもしなかったかな?大勢の若者が笠置さんに協力していたようですね。追悼ページを読んでも、笠置さんが過去を愚痴ったり、武勇伝を誇るなどという姿勢とはまったく無縁で、常に現在と未来を語り続け、絶望ではなく希望を語り、そして語るだけでなく精力的に行動し続けていたことがわかります。そしてそれが「年寄りの冷や水」などではなく、実際に大勢の若者の心を打っていたことも。

■バトンを握り締め直しながら

 笠置さん、あなたが私達にしてくれたこと、手渡してくれたバトンを、きっとメキシコで出会った人々にも手渡し続けておられたのでしょうね。

 やっぱりあなたは凄い人だ、笠置さん!それはわかっていたはずなのに、まだまだ私はあなたを見くびっていました。脱帽です。ぐうの音もでません!やはりあなたは私の生涯のお手本だった。

 先にも書いたように、笠置さんには左翼思想における「理論的業績」はほとんどありません。しかし笠置さんの業績とその魅力は、その人生の「行動」と、語った「言葉」そのものの中にあります。その遺産は活字の中ではなく、笠置さんと接した多くの若者達の心の中にこそあります。その志は多くの若者が受け継ぎ、発展させていくでしょう。そしてそれこそが笠置さんが生きたことの証であり、マルクス主義や左翼理論をも越えて後世に残り続けていくものです。

 私はあなたからいただいたバトンを、見失いかけていたかもしれない。一人になっても、組織がなくなっても、どこへ行っても、私は私です。もう一度あなたからいただいたバトンを握り締め直し、残りの人生を生きていきます。どうか見守っていてください。そして安らかに。

 それから、どうぞゲバラにもよろしくお伝えください。


●メキシコ日本人宿「カサ・カサ」について

 笠置さんが旅立たれてから、「カサ・カサ」はしばらく閉鎖されていたようですが、片桐さんらの尽力によって、11月下旬からは再開されるそうです。また、ここにある晩年の笠置さんの写真は、すべて「カサ・カサ」からお借りしたものですが、掲示板にて使用許可をお願いしたところ、片桐さんより以下のような丁寧なレスをいただきました。

草加耕助さん、是非写真を使ってください。昔の同志の方々の温かいメッセージが最近あちこちで見られます。笠置さんの人望と徳に改めて思い知らされた気持ちです。カサ・カサのHPのものは全て笠置さんのものと思っていただいて、笠置さんの気持ちをよくご存知の方々に自由に使ってもらって結構です。

 片桐さんは党派時代の笠置さんをご存知ありません。そして私はメキシコ時代の笠置さんをまったく知りません。しかし共に笠置さんの遺志を受け継ぎ、後世に伝えていくために、私もできるだけの協力はしていきたいと思います。

カサ・カサホームページより許可を得て転載

 それにしても、もう一年、いえ半年でも早く「カサ・カサ」の活動を知っていたら、このブログとも連携しながら、笠置さんといっしょにいろいろな活動ができたろうにと悔やまれてなりません。
いえ、もう悔やむのはやめましょう。過去を教訓にはしても、過去にはとらわれなかった笠置さんの精神を受け継いで、前を向いて歩いていきたいです。

 以下、「カサ・カサ」ホームページにあった片桐さんのメッセージを転載しておきます。私も家族がなければすぐにでも世話人に応募したいのですが。。。でも、管理人じゃなくて世話人としたところが、笠置さんらしいなあ。なるほど、旅人の「管理」ではなくて「世話」をする人ですか。

創設者、放浪する革命家、笠置華一郎。
彼の最後の舞台であった日本人宿カサ・カサ。
カサ・カサの始まりは、笠置さんのこの時代への挑戦の最後の舞台として、多くの旅人が考え、発信し受信する舞台として生まれました。
そして、今カサ・カサは新しい意味を与えられようとしています。
たくさんの人と出会い、受け入れ合い、共同していくこと。
自分自身の枠を、世界を広げること。
そうした経験を求める人々に、世話人(宿主)という場を提供する宿として、存続しようとしています。
新たな世話人(宿主)を募集します。半年、一年、三ヶ月・・短い期間でもかまいません。
少しでも、カサ・カサという空間が作り出す歴史の歩みに協力してくださる意志があるなら、このアドレスまでご連絡ください。
hataraitehataraite@hotmail.com
たくさんの人々がつながり、あらゆる世界がありうる世界を。


●2ちゃんねる「ブントスレPart11」よりの転載

※2ちゃんの「ブントスレ」パート11における、笠置さんへの言葉のうちから、いくつかを転載保存しておきます。このスレは書き込みが1000を超えましたので、まもなく普通には読めなくなりますから。

917 :革命的名無しさん :2005/10/02(日) 08:29:47
笠置華一郎さんはチェゲバラとようやく会えることが出来たんだ。
今頃飲み交わしている酒はテキーラかな。

世界革命戦士へ黙祷。

919 :革命的名無しさん :2005/10/02(日) 08:34:29
>>915
笠置さんなくなられましたか。合掌。
ただ、悲しい最期ではないと思いたい。彼とて荒だけに囚われてたわけじゃないだろう。
彼の思い、考え方、いろんな必然がメキシコでの生活をもとめたのだと思う。
小権力を利用して、自分の欲求を満たそうとするより、矛盾や欺瞞がなくて
ずっと潔よかった。
私もまた、彼の激動の人生と、ともに行動した日々を想い、心よりご冥福をお祈りします。

924 :革命的名無しさん :2005/10/02(日) 09:13:47
>>922
> http://www1.u-netsurf.ne.jp/~silent/a-world-0155-04-kasagi.htm
おおおおお、笠置さんのお顔をまた拝見できるとは。
メキシコに行かれたとは聞いていましたが、お亡くなりになりましたか。
9月12日ですか。ご冥福をお祈りします。

928 :革命的名無しさん :2005/10/02(日) 09:40:12
とーちゃん 歳を食ったけど素敵で凄く良い顔してるよ。
彼こそ正真正銘の革命家でゲバリスタでロマンチストだ!
俺は笠置さんの人生は幸せだったと信じたい!

謹んで御冥福を御祈り申し上げます。
合掌

931 :革命的名無しさん :2005/10/02(日) 09:59:48
http://www.geocities.jp/sancristobal_casakasa/tuitou1.htm
追悼ページを、1ページずつ見て読んで、泣けた・・・

932 :革命的名無しさん :2005/10/02(日) 10:08:02
俺も追悼ページを読みながら号泣している。
笠置さん カッコイイよ!物凄くカッコイイよ!
とーちゃんこそ本物の放浪革命家だ!最期のゲバリスタ笠置華一郎さん!
色々なことを教えて頂いてありがとうございました!

942 :革命的名無しさん :2005/10/02(日) 11:15:44
くそっ、涙がとまらねえぜ。カサ・カサという宿、訪ねてみたい。

943 :革命的名無しさん :2005/10/02(日) 11:34:54
今更後悔してもはじまらないけど、メキシコのカサカサっていう日本人宿を訪ねて笠置さんと色々と話をしたかった。
でも、現地の子供達や犬に囲まれて幸せそうだね!とーちゃん!

947 :革命的名無しさん :2005/10/02(日) 11:38:10
いつものこと程度だよ。でも、そんなこととは関係なく、メキシコで
幸せだったようだし。彼はあくまで彼の人生を全うしたのだと思う。

948 :革命的名無しさん :2005/10/02(日) 11:41:19
留置場の中で両手に手錠を架けられひきずり回されながらも、自分よりも二回りぐらい若い警察官に頭突きを喰らわし蹴りを入れていた。
最期まで権力に対しては反抗的で革命戦士の人生を立派に全うした笠置さん...
今頃はゲバラとテキーラを酌み交しているのかな?

950 :革命的名無しさん :2005/10/02(日) 11:53:32
とうちゃんは向こうでも胡坐をかいて座っているのが眼に浮かぶようだ。
小屋に入るといつも笠置さんは胡坐かいていなかったか(笑)。

955 :革命的名無しさん :2005/10/02(日) 12:16:16
笠置さんの太いガラっとした声が懐かしく思い出されます.
今はただ安らかにお眠りください.謹弔.

956 :革命的名無しさん :2005/10/02(日) 12:22:26
>>950
とーちゃんは三里塚でも花島ビルでも関西でも千葉でも蕨でも上福岡でも、ずっとあぐらをかいていたよ。
俺は知らないけど、沖縄でも日大のバリケードの中でも恐らくあぐらをかいていたと思うよ。
カサカサとかいう宿で、笠置さんの手料理をもう一度食いたかった。
不味かったけどなぁ(苦笑)

964 :革命的名無しさん :2005/10/02(日) 12:38:39
くそっ、なぜ涙がとまらないんだ。笠置さんは人生の最期まで「かくめい」を夢見たんだな。

968 :革命的名無しさん :2005/10/02(日) 12:51:11
来年辺りに訪ねてみるかな。
そのカサ・カサっていう宿へ笠置さんの面影を偲びながら。

973 :革命的名無しさん :2005/10/02(日) 13:30:07
今日は笠置さんが最期まで夢見た「かくめい」を想いながら黙祷する。次スレよろしく。


●笠置華一郎関連ページ

カサ・カサホームページ
メキシコ・サンクリストバルの日本人宿カサカサ(←笠置さんのブログ)
静かな振動
サンクリストバル・デ・ラスカサス(中南米縦断旅行写真)

笠置さん(ぐ ち ぐ ち ブ ロ グ)
今日の反省(イランという国で)
 ↑コメント欄に笠置さんのエピソードが・・・しかも爆笑!笠置さんらしいや。
訃報(自由と正義)

メキシコでは5万人が英米は戦争やめろと訴えた 笠置華一郎(Bund WebSite)
メキシコからの手紙 笠置華一郎(Bund WebSite)
笠置華一郎さんの逝去を悼みます(Bund WebSite)

コメント

    • 追悼 とうちゃん
    • 2005年 10月 03日

    なんと、あの「とうちゃん」がなくなっていたとは!メキシコでサパティスタの支援をしているという近況は「SENKI」でしっていました。
    http://www.bund.org/opinion/1123-4.htm
     相変わらず飲んだくれていたみたいですが、革命の夢を見続けていた。草加さんも書いているとおり、根っからの戦旗の活動家で情熱的な革命家だったなー。朝から酒臭かったり、やることが頓珍漢だったりは、よくあったよなー。それで、一緒に活動していたころは、オレも若くてよく論争したもんです。でも、とうちゃんはいつも、論争ではムキになっても、最後は「戦旗派魂で頑張ればいい。やってみろ」みたいな感じで、生意気なオレの「若気のいたり」を、それこそ「とうちゃん」的に受け止めてくれたなー。オレは、そうしたとうちゃんから、全共闘運動の息吹(良い面も悪い面も)を教えてもらったような気がします。とうちゃんは、その個人的な欠点や欠陥を含めて、非常に魅力的な戦旗派の活動家だった。常に、若者と一緒に、第一線で戦う情熱と気概を持った革命家だった。
     戦旗―ブントの現場を去ったと聞いた後も、ととうちゃんの動向(戦い)は、「SENK」を通じて知ることが出来たし、何年か前には、ちょうど帰国していて、グランワークショップで再会することもできた。そこには変わらない「とうちゃん」がいた。とうちゃんは、最後まで戦旗派の活動家だった。ブッシュの戦争政策に対して、共にたたかう「同志」だった。
     共に戦った日々を思い出しながら、今日はとうちゃんと二人で、久しぶりに朝まで酒を飲みたいと思います。また論争になるかな……。

    • ニャンケ
    • 2005年 10月 03日

    笠置さんのご冥福、心よりお祈りします。

    85年9・29の準備の過程で、小屋の3階の広間で行われた会議の席で、
    「竹ザオで相手のノドを突いたら死んじゃうんじゃないでしょうか?」
    とメンバー結集まもなかった私が質問したときに、ほとんどの仲間は爆笑していたのに、笠置さんだけが生真面目に、やさしく、こたえてくれました。

    草加さんの追悼文にあるとおりの人だったな、と涙腺があやうくなっています。

    笠置さんと共に権力に正面からたたかう戦旗のひとりとして参加できたこと、絶対に、忘れないで生きていきたい。笠置さんに合掌していいのかどうかわかりませんが、素直な心のまま、合掌させてください。

  1. 日大全共闘のかつての仲間で先日黙祷を捧げました。
    黙祷に参加したのは経闘委、法闘委、文闘委、芸闘委、理闘委、教員共闘、それに農闘委です。
    農獣医闘争委員会の後輩は、「髭にロングヘアー、目つきが優しくなっただけで昔の先輩と同じだ・・・」

    • はんぺん
    • 2005年 10月 05日

    黙祷
    直接指導は受けませんでしたが、理論家というよりはアジテーターとしての印象があります。
    個人的には一度だけ、戦旗社からの帰りに新宿駅の近くのアカシヤでビーフシチューをご馳走になりました。牛肉とは無縁の生活でしたからむちゃくちゃおいしかった。kimの会議では涙ながらに自己批判していたことを覚えています。もっと思いでもあるのですがうまく言えません。      黙祷

  2. とうちゃん、多くの人に、元の同志達に慕われていたんだね。
    僕は2チャンネルには行かないので、とうちゃんへの思いを書いている人達がいるなんて知らなかった。それにメキシコでは色々な人と出会い、交友を深めたようだし。

    色々なことはあっただろうし、言いたいこともまだ沢山あるかもしれないけれど、もうとうちゃんはいいよな。
    上福岡でとうちゃんが、僕に告げてくれてことは、僕のエートス(精神)の一つになっているよ。

    僕はその時、とうちゃんは組織を辞めた人間だから、何も答えることができないまま、苦笑で流すしかなかったけれど、とうちゃんの思い、精神は、俺が引き継ぐよ。
    その後は、誰か若い人たちが引き継いでくれるだろう。

    それでいいよな、とうちゃん。

    ps.
    とうちゃんとは、長い付き合いだったね。モン闘にとうちゃんがいて、バリケードの中で知り合ってからだかな。
    そうそうモン闘の仲間には、連絡をとったよ。ヤスさんが、連絡のつく人にはとうちゃんが亡くなったことを、伝えてくれているハズだよ。

    • チョシ
    • 2005年 10月 06日

    笠置さんの訃報に接して、私如きがコメントするのは大変気が引けるのです。
    私は草加さんと違って直接指導をいただく機会を得ることができませんでした。
    私の知る笠置さんは三里塚の現闘の小屋で泰然と胡座をかいている姿です。

    現行隊で派遣されていたある時、多分援農が中止になったか何かだったと思うのですが小屋の三階で先輩とゴロゴロしていると
    笠置さんが「お前らヒマそうだな」と海に連れて行ってくれたことがありました。
    連日慣れない農作業をしている地方の学生にちょっとした休憩と息抜きのために気を使ってくれたのだと思います。

    九十九里かどこかの海だったと思いますけど、運転は笠置さんがしてくれました。
    (尤も私も先輩も免許すら持っていなかったのですが)
    空は曇り空で海水浴に絶好な天候とは言い難かったのですが、それでも私は嬉しくて楽しくて仕方がありませんでした。
    車を停め歩き出すと、ちょっとした丘の向こうに海が見えました。
    私はそれでもうたまらずに走り出し、着替えもそこそこに海に飛び込みました。
    世界革命だとかスターリン主義がどうしたとか言っていてもまだほんの19歳の子供だったのです。
    笠置さんはそんな私たちを微笑みながら見ていました。
    今思えば砂浜に寝転がってお酒でも飲んでいたのかもしれません。

    残念ながら行き帰りにどんな話をしたのかは全く憶えていません。

    憶えているのは曇り空の下で風に髪をたなびかせながら私たちを見ている笠置さんの姿です。
    いや、あれは私たちを見ていたようでもっと遠くを見ているようでもありました。
    もしかしたらただボンヤリしていただけかもしれませんが(笑)

    私たちは多分世間の一般的な人々よりもちょっとだけロマンチストで、正義感が強く、弱い人達には優しく、権力者には屈さない、
    そんな人間でありたいと願うからこそ左翼になったんだと思います。

    笠置さんが教えてくれたゲバラの言葉
    「革命家になるのは簡単だけど、革命家であり続けるのは難しい」

    草加さんの心のこもった追悼文を読んで、私は身もだえするような恥ずかしさと嫉妬心を覚えながら、
    ここに書き込むことを何度も躊躇しました。

    最後までロマンチストで正義感が強くて弱い者には優しくて権力には屈せず、そして最後まで革命家であり続けた笠置さん。

    私は恥ずかしさをこらえてここに書き込むことで、笠置さんが託されたバトンの欠片でも拾うことができたら...と考えています。

  3. Jさんと30数年ぶりに再会しました。
    再会といっても学部が違うので始めてお逢いするのですが。
    地元でイラク反戦の市民運動をしている若い女性から頼まれ代理で振り込んだ管制塔カンパの振込み用紙をお見せしたら大変喜んでくれました。
    Jさん私と同様、頭は随分と寂しくなっていましたが笑)。
    笠置さんの元全共闘仲間が1968年当時の写真を追悼で掲示板に上げてくれました。
    全体会議(私達は毎晩必ず開いていました)の中心に位置するのが笠置先輩です。
    掲示板はURLに書き込んでいます。

  4. (再掲)ブログ旗旗 » 【追悼】ずるいよ!笠置さん! – 旗旗 http://t.co/YUtS5iJkLV

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  1. 2005年 10月 04日

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