〔考察〕「反・反原発」と「反原連的脱原発」の奇妙な親和性

by ときわ列車
常磐在来線主義者 今朝、mixiでのつぶやきにて「福島民友が反原発運動が福島差別を助長したことにやっと触れてくれた」という趣旨のものを見て、僕は怒りと驚きを覚えました。
 なぜならば、福島県の地元紙の一つであるこの「民友」は系列こそ読売系ですが、動労水戸の常磐線竜田運転再開反対意見をいち早く掲載するなど、なかなか「骨のある」新聞だったからです。それが一体なぜ、という思いが膨らみ、普段は朝日新聞福島版をとっているためコンビニで会社帰りに「民友」を買い、問題の記事を読みました。
 それは「民友」の連載記事『原発災害「復興」の影』として掲載されていました。記事の主旨は大体以下の通りです。

  • 反原発デモに違和感や反感を抱く人たちがいることは確かである
  • デモの中で風評被害払拭の動きに対し「食べて応援なんかするな」という言葉が聞こえる
  • 首都圏反原発連合のミサオ・レッドウルフ氏も「当事者意識が希薄な人がいる」と認めている
  • その一方ミサオ氏は「デモを続けることが重要」として参加者の発言に寛容である
  • 自称「脱原発派」の田村市の男性の談話
    『首都圏のデモには違和感を感じる。声を上げるのは大事だが、原発をなくすためにどう政治や世論を動かすか考えるべき。これでは自己満足だ』
  • 福島大学特任研究員・開沼博氏の談話
    『反原発デモが福島のためと言いながら「あんなところ住めない」などど平然と言う人が運動内部にいることが嫌悪感を呼び起こしている面がある』
    『反原発運動が福島差別を助長した面はある。社会運動として非常にまずいことをした』

 たしかに「いわき駅前アクション」などをしていて嫌悪感を示されたこともあります。5月31日のいわきデモにおいても石を投げてきた人はいます。
 でも、「嫌悪感」が全てではありません。5月末のデモに飛び入りで参加した「いわき市民」がいたこともまた事実です。その意味でもこの記事において反原発行動を「首都圏」のものに限った上で論立てしていることはよろしくないと思います。だとしたらそれこそいわき駅前アクションや5・31デモも「福島を差別する行動」になりはしませんか?確実に「福島県民」や「いわき市民」が参加しているこれらのアクションが「福島差別を助長」していると言うのなら福島県民が自分自身を差別するという矛盾した、いやまったく成立しない図式になってしまうではありませんか。この記事は「福島県内で反原発を主張する」人を全く顧みていないと言えます。

 さて、記事が言うような「反原発が福島差別を助長する」という認識それ自体について考えてみます。僕はこれもまた「左翼」や「中核派」という『言葉』への嫌悪感が影を落としているように思います(なぜ「左翼」や「中核派」が「差別用語」として使われているのかということについては文末のリンクを参照して下さい)。声を上げるのではなく、目的達成や意見表明の方法論を優先する「優等生」的なやりかたこそ重要であり、「左翼」がやってきたような方法など記事概要にありますように「自己満足」に過ぎないと突き放す態度は典型的なパターンでしょう。
 僕に言わせればそういう態度こそ差別用語としての「左翼」「中核派」のイメージに囚われ、真剣に声を挙げている福島県内の人(例えば佐藤幸子さんや椎名千恵子さん)を「差別」する結果になっていると断じます。それどころか、彼らが差別しているのは「放射線被曝による健康被害を心配する福島県人」「現に甲状腺に異常が出てしまった福島県人」であると言えます。いっそ言ってしまえば、こういう人たちによって現に甲状腺にのう胞をもつこの僕自身が「差別される立場」になっているかもしれないのです。

 さて、タイトルに絡めてもっと考察してみますと、「反原発=福島差別」の思考パターンと、記事でも取り上げたミサオ氏の「反原発の敵=中核派」という考え方の間には、実はかなり親和性があるのではないかと思います。
 かたや「反原発で福島差別を助長するな」、かたや「反原発の一点で集まろう」…一見していずれも「労働者の味方」な態度でありますが、内実をよく見ると権力への迎合性がどちらにもかなりあるということです。
週刊ポスト記事 首都圏反原発連合(反原連)が警察に対して「お行儀よく」しているというのは有名な話ですが、反原連は「デモを続けるのが大事」と言いつつそのデモに「ルール」を設け、そこからの逸脱を許さないという閉鎖性が見えます。以前書いた日記でも言及しましたが、反原連の中心人物のミサオ紙は「中核派」に関して「(デモの最中で)主催者名を書かずに、あたかも自分たちが呼びかけ人であるかのような乗っ取りフライヤー(チラシ)を勝手に作ってオルグ(勧誘)に利用しようとしていた。こうしたことをいまやられるとマイナスにしかなりません」と一昨年の週刊ポストの対談記事で言っています。この意見、先ほど挙げた「民友」記事における田村市の男性や開沼氏の意見とそっくりではないでしょうか?
 ミサオ氏は「デモを続ける」と言いながら、「党派」が入り込み、勧誘活動をしただけで「運動のマイナスになる」と断じました。そして田村市の男性は「声をあげること」を大事なことと位置付けつつも、現状の運動のあり方を「自己満足」と突き放し、開沼氏は「福島差別を助長して、社会運動にとってまずいことをした」と低い評価を下しています。
 これらの態度に共通するのは「広く支持されるかどうか」がまず先行しており、そのためには「中核派は入れない」「政治や世論を動かす方策を練ろう」「福島差別は助長するな」と要求実現に向うに当たって自ら足枷をはめて国や大衆を「刺激」しないことばかりが先行しているということです。
 確かに、特に事故直後に「福島県民お断り」という張り紙を出した店が現れるなど許し難い差別があったのは事実です。でもだからといって福島県(のみならず東日本の広い地域)が放射能で汚染されたことは厳然たる事実であり、そこから目をそむけて「福島差別をするな」というのは原発事故を無かったことにする態度であり、それを望む国や東電を喜ばせるだけです。「福島差別につながるから」と被曝や放射能汚染についてスルーした上で「脱原発」だけを言うことがはたして意味を持つのでしょうか?それこそ「当事者意識が希薄」な「自己満足」でしかありません。裏を返せば被曝の問題に正面から向き合うことは決して自己満足ではできないことなんです。
 そもそも原発が福島に作られたこと自体が「都会で抱えきれない原発は地方に置こう」という差別の発現だと言えるのです。さらに放射線被曝に苦しむ人やその影響に不安を覚える人をないがしろにして「反原発は福島の敵」などとするのは、放射能をばら撒いておきながら責任をとらない国や東電を免責する態度であり、ひいては福島県内での福島第二原発再稼働を最終的に認める態度であると断じなければなりません。
 だとすれば究極の「福島差別反対」とは、原発事故を起こした国や東電の責任を追及することであり、その責任をとらせるために「反原発・被曝反対」の声を挙げることであり、そこにおいてたとえ中核派などの左翼党派が入り込もうが何だろうが、彼らも含めて「仲間」として共に行動することなのではないでしょうか?その意味であたかも「誰でも受け入れている」かのように書いている今回の記事はミサオ氏の認識をミスリードしているかもしれません。今回の記事を書いた記者は一昨年の週刊ポスト記事についてよく知らない可能性もあるでしょう。

 結論を言いますと、先日の石原環境大臣の「最後は金目でしょ」発言に明らかなように、この国の「お偉いさん」こそが福島差別の主体であって、「原発反対」を叫ぶ民衆ではないはずです。なのに「民衆同士」でいがみ合っては「お偉いさん」の思うつぼです。「誰が一番悪いのか」を良く考え、「闘う相手」を間違ってはならないと思います。
 繰り返します。真に「福島を差別している」の主体は国であり、歴代政権であり、電力会社なのです!

中核派全学連

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5 件のコメント

  • 反原連への批判で「ちょっと違う」と感じたこと。

    まず最初に福島県の人々の闘いに敬意を表します。
    そのお一人であるときわ列車さんにも心からの連帯を。

    この日記も特に前半部分は「ふむふむ」と共感を持って読ませていただきました。
    ただ一つ苦言を呈するならば、「主催者名を書かずに、あたかも自分たちが呼びかけ人であるかのような乗っ取りフライヤー(チラシ)を勝手に作ってオルグ(勧誘)に利用」というのは、ごく普通にやってはいけないことだと思います。常識で考えればわかると思います。

    以前、私が実行委に入っていた集会で、彼らにこれをやられたことがあります。自分たちの名前で「○○集会に参加しよう」というタイトルのビラを作るところまではいいです。それもダメだと言ったら、それこそときわ列車さんの言う「中核派差別」になってしまいます。けれどもその集会の日時や場所だけ書いて、主催者を書かない。自分たちの連絡先だけが書いてある。つまりそれを見た人には中核派(系)が主催する集会で、その集会への連絡先は中核派だというふうに見えるように(あきらかにわざと)作ってあります。

    これって、やられた人でないとわからないと思いますが、むちゃくちゃに腹が立ちます。まだ反原連みたいな大きなところだから「こうしたことをいまやられるとマイナスにしかなりません」くらいの言われ方ですんでいると思ったほうがいいです。つまり大企業の模倣品を作ったようなもので、中核派のほうが笑われるからです。

    けれども私たちがやってるような、中核派よりずっと小さな市民団体の集会でこれをやられたらどうでしょう。家族でやってる町工場が苦労を重ね、命運をかけて開発した新製品を、そこそこの規模と歴史をもった企業がのっとり(パクリ)に来たようなものです。その怒りや嫌悪感、そして中核派への恐怖心や悔しさがわからないのでしょうか?

    そのことに抗議した方の話では、まるで自分らが不当なことを言われたようなブスッと不機嫌な顔をして、プイと横を向いたきり謝罪はおろか言い訳すらしなかったとか。いったい何様のつもりなんでしょう。これで「反原連の統制」を笑えるのでしょうか。

    思うに、ときわ列車さんが言いたいのは、反原発運動における、物取り主義的な傾向、自己肯定(エゴ)を全面開花させた方向での歪んだ「原発怖い」意識、まあ、そういうのが自然発生的に出てくるのはいい(仕方ない)にせよ、そこに迎合するのみならず、そういう内容だけに運動や参加者のスローガンまで強制して固定しようとするあり方への、まさに福島県民としての鋭い指摘だと思います。
    そういう電力消費地における自己肯定や生活主義的な保身という、一枚のコインの裏表として、「反・反原発」と「反原連的脱原発」には親和性があるということが言いたいことなのではないでしょうか。

    原発のみならず、福島そのものを愚弄するような一部の言説もここから出ていると思いますし、その中には「福島差別」と言われても仕方がないものもあると思う。それはちょうど「在特会」へのカウンターにおいてさえ、彼らファシストに対して、ものすごい差別的な罵倒を行う例がどうしても出てくるのと同じです。それは近年にはじまったことではなく、何十年も前から運動の中にそういう残念な人はいるのです。

    この例として、三里塚反対同盟の故萩原進さんがおっしゃっていたことを思い出します。
    あのあたりは反対運動の中で、いつしか無農薬有機野菜の栽培が活発になり、今や関東圏ではその一大産地と言えます。近年でこそ有機栽培野菜の需要が高まり、反対同盟農家もいくつかの業者に卸しています。その中でも大口業者である「ら○ぃっしゅ○ーや」の注文カタログに、こんな二つの宣伝文句があったそうです。「がんばれ福島!がんばれ日本!復興を応援しよう」的な文句と共に別のページに「当社では安全な関西の野菜を仕入れております」。これが同じカタログに載っていたそうです。萩原さんたちは同じ農民として激怒し、損失を被ってでも、以降は「○でっ○ゅぼーや」への野菜の納入をいっさい断ったそうです。

    この二つの文句を並べて矛盾を感じないのですね。こういう発想の人たちが今、今度は「美味しんぼ叩き」やら、「食べて応援しよう」とか、「反・反原発」の立場から「風評被害」がどうのこうの言っている。その本質は何もかわらないのです。その最大の親玉であり扇動者が、ほかならぬわが政府だということなのでしょう。

    だからときわ列車さんのおっしゃることはわかります。それに連帯、支持することが第一の私の気持ちです。
    ですがやはり「味噌もクソも一緒」ではよくないと思います。やっちゃいけないことは誰がやってもいけないのです。そういうふうになんでも敵と味方をわけて、敵は全部悪くて味方のやることは全部OKみたいになってしまう(ときわ列車さんがそうだとは言いませんが)ことへの反発こそが、反原連的な統制を批判する場合の味噌になると思います。だから私たち自身が反原連に対して同じことをしていたらいかんと思うのです。たとえ私自身がどんなに彼らから叩かれたとしても、それでもます連帯こそが、彼らに対する第一の言葉であり続けたいと思っています。

  • > 家族でやってる町工場が苦労を重ね、命運をかけて開発した新製品を、そこそこの規模と歴史をもった企業がのっとり(パクリ)に来たようなものです。その怒りや嫌悪感、そして中核派への恐怖心や悔しさがわからないのでしょうか?

     確かにそんなことをやられたらもう恨みしか残りませんね…今のところいわき駅前アクションなどいわきの行動ではそのようなことはありませんが、同じようなことがそのうち起こるのではないかという懸念はあります。そんなことがあれば現状維持している共闘関係は総崩れになり、権力を喜ばせるだけになると思います。

    > そのことに抗議した方の話では、まるで自分らが不当なことを言われたようなブスッと不機嫌な顔をして、プイと横を向いたきり謝罪はおろか言い訳すらしなかったとか。いったい何様のつもりなんでしょう。これで「反原連の統制」を笑えるのでしょうか。

     僕も何度か「党員」であろう方に疑問をぶつけたことはあります。でもその度に一笑に付されるか、「それはお前が真剣に闘っていないからそう思うんだ」と返されるのがオチでした。僕自身に至らない点があるのは重々自覚はしていますが、疑問をぶつけた途端に「個人の資質」を問い、「起こっていることに『人間として』考えれば我々に正当性があるのは明白だ」と言われたこともあります。確かに「人間として」考えれば、例えば国が正式に避難指示も解除していない常磐線の楢葉町区間の運転再開なんぞ許せはしません。でも、その気持ちが動労水戸という「労組」やNAZENという「団体」ならともかく「党」の全肯定にまでつなげようとするのは未だ違和感があります。

     いわきの仲間の中には僕が中核派に「担ぎあげられている」と心配する人もいます。または正面切って草加さん同様「中核派の問題を本当にわかっているの?」と言われたこともあります。客観的に見れば僕は「重度の中核派シンパ」に見えるのもいたしかたないとは思います。ただ、僕の望みはあくまでもその中核派すら巻き込んだ、5月の集会以上の一大連帯をつくることです。その意味でも僕は自分がNAZENのメンバーであることはアクションの場では言いますし、一方ではもし「中核派系」の方がいわきの仲間の意見を頭ごなしに否定したなら(といってもそれは時折完全に僕個人の主観になってしまいますが)、そこで僕が何とか折り合いをつけようとは努力しています。

     答えにならなかったかもしれませんが、いわきでの様々な取り組みの一切合切を動労やNAZENで全て主導する(させる)ことは望んでいません。「それぞれの主導の者に、めいめいが自由に参加し合う」ようにしたい…それだけです。

    > 反原発運動における、物取り主義的な傾向、自己肯定(エゴ)を全面開花させた方向での歪んだ「原発怖い」意識、まあ、そういうのが自然発生的に出てくるのはいい(仕方ない)にせよ、そこに迎合するのみならず、そういう内容だけに運動や参加者のスローガンまで強制して固定しようとするあり方への、まさに福島県民としての鋭い指摘

     そのように言っていただけるのなら幸いです。本当にただの「原発反対」では意味は無いんです。帰りたくても帰れない仮設住宅の方と話したことや現在電車の運転が再開された竜田駅周辺の様子を見たことも、福島県内の甲状腺異常の多発について聞いたこともない人は首都圏のみならず全国各地にいると思います。問題の新聞記事は首都圏の運動を槍玉にあげつつ「全国の反原発運動」一般がそういう傾向を持ち「福島を差別し」ているかのような印象を持たせるには十分です。

     でも福島で運動している現地出身の人たちはそれも重々承知の上で、なおかつ、そんな現状を打破する意味でも「福島の人間がもっと声を上げなければならない」という強い決意を持っています。だから時に複雑な心情をも吐露することまであります。そういう「生の声」が無ければ人を動かすことはできないなと思います。

    > 「がんばれ福島!がんばれ日本!復興を応援しよう」的な文句と共に別のページに「当社では安全な関西の野菜を仕入れております」。これが同じカタログに載っていたそうです。萩原さんたちは同じ農民として激怒し、損失を被ってでも、以降は「○でっ○ゅぼーや」への野菜の納入をいっさい断ったそうです。

     さすが萩原さんですね!「同じ農民」として福島の農家の苦悩を深く理解していらっしゃったんだなと思います。そもそもその「復興」という言葉自体に「経済が『正常に』機能すればそれでいい」というニュアンスが多分に含まれていると思います。そして「○でっ○ゅぼーや」の運営陣にはその意味での「復興」しか頭に無かったからこんな矛盾した態度がとれたのではと僕は思いました。だとすれば、「○でっ○ゅぼーや」の態度は石原環境大臣の「最後は金目でしょ」発言と根っこは同じですね。

    > なんでも敵と味方をわけて、敵は全部悪くて味方のやることは全部OKみたいになってしまう(ときわ列車さんがそうだとは言いませんが)ことへの反発こそが、反原連的な統制を批判する場合の味噌になると思います

     「敵は全部悪い」ならまだいいとは思います。しかし、それが即座に「味方のやることは全部OK」にはなりえないでしょう。最初のレスの繰り返しになるかもしれませんが、僕がいわきの運動に参加するある「党」の方に「連帯してくれる一般の人の意志は最大限尊重しましょう。あくまでも個人で動きたい人や(労組でも旧来的な市民団体でもない)『いわき駅前アクション』としてやっていきたい人もいるのですから」と言ったところなんと「おまえはそうやって人を縛ろうとするのか?」と言われてしまいました。

     僕に「人を縛りたがる」傾向があること自体は認めますが、じゃあ動労水戸やNAZENに入ること、ひいては「党」に入ることを強く勧めるのなら良いのか?「組織が人を縛ってはいけない」と言いながら「党」関係団体の闘いこそ全てだとそれこそ「縛り」をつけようとしているではないかという疑問はあります。

     今、僕はそういう疑問を正面切ってぶつけることができない時もあります。でも、動労水戸が本当の意味で連帯する市民の意見を聞くなら福島の状況は良い意味で一変すると思います。

     僕も疑問は持ちながらも、いわきでの運動を継続していきます!

  • 草加耕助氏の苦言「「主催者名を書かずに、あたかも自分たちが呼びかけ人であるかのような乗っ取りフライヤー(チラシ)を勝手に作ってオルグ(勧誘)に利用」というのは、ごく普通にやってはいけないことだと思います。常識で考えればわかると思います。」に対しときわ列車 氏は、何の回答もしていないのですか?
    状況は、細かく記述されていますが、肝心の1点については、何も回答しないのは何故?

  • 案山子様>
    援護射撃(なのかな?)ありがとうございます。
    問題を提起した本人として、私はときわ列車さんの悩みや葛藤を受け止め、それで納得とは言わずとも、了解しています。「答えてない」とは思っていません。ここにおける当事者同士としてはそういうことです。

    ときわ列車さんが私のあげたような事例の責任者や団体のメンバーならまた別でしょうが、そうではないのですから、実際答えようがないという側面もあると思います。その上で、今まで中核派(系)の人間からだけ一方的に聞かされてきた内容で、なんとなく相手が連帯を拒んで不当な排除を企んでいるだけのように思い込んでいたことが、私の書き込みに納得して、中核側にも反省する点が多々あるということを理解してくださったと思います。

    >確かにそんなことをやられたらもう恨みしか残りません
    >共闘関係は総崩れになり、権力を喜ばせるだけになる
    >党の全肯定にまでつなげようとするのは違和感があります

    私は私なりに、ときわ列車さんがなぜこういう不満を爆発させるに至ったのか、ときわ列車さんが言いたいこと、提起したいことは何なのかを考えながら、同じ反原発を願う仲間として苦言を呈したつもりでした。だからとりあえず「今は」これで充分だと思っています(あくまでも「今は」ですが)。次はときわ列車さんの提起された点について、こちら側が応える番だと思っています。

    案山子さんがそうだとはもちろん言いませんが、こちらの立ち位置などは曖昧にしたまま、相手側に非のある点にだけ集中して議論を展開し、相手を追い詰めていくのは議論ではなく議論もどきの「勝ち負けゲーム」になりがちで、ネットではよく見かける展開です。私はそうならないように注意したつもりです。

    なのでこれは要望ですが、もし、議論を続けられる場合は、そうならないよう気をつけて、ご自分の立ち位置や経験、問題の点以外のときわ列車さんからの提起や批判(運動への不満)も含めて、総合的に運動の発展や連帯の強化にプラスになるように、案山子さんなりの運動のあり方に対する提起を含めて書いていただけると幸いです。それが私やときわ列車さんとは違うものであっても、むしろ歓迎です(もし偉そうな書き方に見えましたらごめんなさいです)。

    元反戦自衛官の小西誠さんの言葉です「闘いでは敵の中にさえ味方をつくるべきなのに、左翼は味方の中に敵をつくるようなことばかりしてきた」…案山子さんが左翼かどうかは知りませんが、運動に関わったり言及するものとしては、心して噛み締めるべき言葉だと思います。

  • 久しぶりに自らこの日記を読み返していたら、まさにジャストなタイミングでコメントが付いていたとは…嬉しいです。

    >案山子さんへ
    >肝心の1点については、何も回答しないのは何故?
     すみません、回答になっていませんでしたね。「主催者名を書かずに、あたかも自分たちが呼びかけ人であるかのような乗っ取りビラを配る」ことは僕もやってはいけないと思いますし、少なくとも「NAZENいわき」として絶対にやりたくはないです。

     おそらく「中央派」で長らくやってきた人は「非公然・非合法の党」論理で逃げると思いますが、そんなに「中央派」系の集会に来て欲しいならNAZENならNAZEN、動労なら動労などの公然的な部分なら堂々と名乗ればいいだけの話です。

     また、ちょっと話が違うかもしれませんが、NAZENいわき主催の集会用にビラ作成時に、作成を依頼した動労水戸の方が「いわき駅前アクション」のブログに掲載した写真を使用したことが問題となったことがあります。

     あるアクションのメンバーが「これは無断使用だし、自分のようなまだ賛同金も何も払っていないメンバーがあたかもNAZENであるかのように見せるのはどうかと思う」と言いましたが、ビラ作成者は「ネットに掲載したものだから」と言い訳していました。これを見て僕は「これって中央派の『革命無罪』の悪い面なのかな」と思いました。結局者写真の直接の撮影者の同意を(後付けですが)得たことでこの問題は大きくなりませんでしたが、この件は草加さんの指摘に通じることではないかと今は思います。

     なので、少なくとも僕が直接かかわっている「中央派」の人が、草加さんの指摘することをやろうとしたらそれは止めますし、ちゃんと「名乗るべき範囲」を正直に出すように言います。

    >草加耕助さんへ
     ありがとうございます。

    >とりあえず「今は」これで充分だと思っています(あくまでも「今は」ですが)
     『今は』ですね…心に刻んでおきます。何かにつけて「党と労働運動」のことばかり言ってその他の運動をまったく連帯しないまでも「下位」においている感が近年の「中央派」に見受けられます。このあと掲載予定の「8.17集会」での富田晋さんの発言はそういう「党」としての姿勢を(そこに至るまでの苦悩はあったのでしょうが)結局受け入れて沖縄現地闘争よりも「動労千葉のような運動を沖縄でも」ということを優先する自己決定をしてしまったんじゃないかなと思っています。

     何より長年「シンパ」にとどまっていたせいか、他党派の方が「中央派」の問題点故に「連帯相手」と認めなくなりつつあるを見るのも、逆に「中央派」がそれ見たことかと独自路線を強めることも僕にとっては苦しいことでしかないのです。

     中央派だろうが関西派だろうが解放派だろうがアジア連帯講座だろうが、みんないざという時には一緒に連帯して闘うべきなんですし、その時はもうすぐそこまで迫ってるんだと思います。

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