勝利を持続させる党 戦旗派85年年間総括

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二、八五年階級攻防の概要(Ⅱ)

85年7・28戦旗・共産同政治集会

 八五年後半期最初の闘いとしての7・28政治集会は××××名の結集をもって東京都勤労福祉会館にて圧倒的な高揚のうちに戦取されたわけであるが、成田用水辺田・中郷決戦の組織化との関連でいえば、まずわが同盟は、この7・28政治集会を戦取するにあたり、第一に用水決戦を闘い抜く戦略的総路線の骨子を、中曽根の国家改造計画=戦争国家計画との対決として簡明化し、成田用水決戦は中曽根の戦争国家計画の骨子をなす五空整粉砕の位置にたつものであることを明らかにすることから、取り組みを開始した。

 つまり三里塚闘争が、わけても成田用水-ニ期着工攻撃との闘いが、安保-日韓体制打倒闘争との関連でいえばいかなる位置に立つのかの明確化が必要であったわけであるが、それをわれわれは日帝による侵略反革命戦争準備のための権力再編-7・22行革審答申にみられる戦争国家計画との関連において、五空整粉砕の闘いとして位置づけきり、これを7・28政治集会のメインスローガン「中曽根の戦争国家計画を打ち破る秋期大攻勢へ」として定式化したのである。
 この結果、成田用水辺田-中郷決戦の安保-日韓体制打倒闘争にしめる位置はきわめて鮮明になり、7・28をつうじ革命党が八五年秋、全力を傾注して成田用水決戦を闘い抜く必然が、大衆的にも全くクリアーに打ち出されるに至った。

 第二にはわが同盟は、熱田派反対同盟が用水闘争を同盟として取り組む態勢を作り上げるためには、われわれみずからが戦争論・暴力論の主体化をなし、大衆的実力闘争を犠牲を恐れず牽引しぬくことによって、用水闘争の地平を規定しきるべきことを痛感し、そのための独自のイデオロギー作業に取り組んだ。これは八五年八月発行の『理論戦線』十九号松木沢論文「戦争論・暴力論の革命的復権にむけて」として結実したわけであるが、この理論作業の完遂によりわれわれは、革共同の構造的内ケバ主義をのりこえる「階級的受苦に対する抗拒」としてのプロレタリア暴力論の骨格をつかみとり、用水実力攻防を担い抜く主体のイデオロギー的立脚点を形成しえたのである。
 これはわが同盟が政治の手段として暴力を駆使する、文字通り「戦争は武器をもってする政治の継続である」ことを実践する主体にまで自らを高めあげるためには、避けて通ることのできない対象化作業であり、この完遂が用水闘争にもたらした影響は非常に大きい。

85年9・29三里塚_辺田大会戦_戦旗・共産同

 第三には、成田用水辺田・中郷決戦組織化のための核心をなす辺田・中郷地区用水絶対反対農民との結合、および農民の政治的姿勢の保持のために、八五年二月の第十三次現行隊をひきつぐ第十四次(六月三十日~七月十四日)、十五次(九月八日~二十九日)、十六次(十月十日~十一月二十九日)現行隊を次々と現地攻防に派遣し、われわれ戦旗・共産同の闘争意欲と取り組み体制を三里塚現地に刻印しきったことである。

 とくに第十五次現行隊は9・29戦闘実現のための決戦行動隊としての役割りも担わねばならなかったわけであるが、社学同の主要カードルおよび地区労働者カードルが職を辞してこの任につくまでして、われわれ戦旗派は用水現地攻防の責任党派としての役割りを担おうとした。
 この現行隊の奮闘に支えられることによって、反対同盟内部に用水決戦への戦闘的気運が次第に形成されはじめ、また北原派の七月よりの大衆的実力闘争への突入は、熱田派にもインパクトを生ぜしめ、用水実力攻防に対し敵対することを許さない土壌が次第に作りあげられていったのである。

 第四には、対諸党派工作にあっても、第四インターが既に勢力を落としており、闘わないことを構造化させていることに対し危機感を抱きはじめたプロ青の一定の左展開をはじめとして、労活評、青共同など六派を用水絶対反対派として束ねることにわれわれは勝利し、支援共通の意志として反対同盟の用水闘争への取り組みを要請する「申し入れ」を実現した。
 これは日比谷公会堂において行われた「東峰裁判完全勝利をめざす9・15集会」などに、用水闘争をあいまい化させる第四インター、三支労などが流れ込み、5・19~9・15の線において三里塚闘争を規定づけようとしたことに対して、決定的な意味をもっていた。

 つまり熱田派反対同盟は、農民から支援まで含めて、用水絶対反対派と用水推進派、或いはその中間派に「分岐」する可能性があること、しかもその場合には支援の分岐においては戦旗のみが鬼子的に存在するのではなく、もっと構造的に左右に分解する可能性があることをこの六派共闘の成立と用水粉砕闘争への「取り組み要請」は意味したのであり、反対同盟の用水闘争への決起は辺田・中郷における用水絶対反対農民十数戸の存在とも相まって、構造化される以外なくなったのである。
 又、この支援六派による「申し入れ」により、反対同盟は結局、7・14を皮切りとする8・18、9・29、10・27の用水・二期阻止連月行動に取り組むことになったのであり、その中心党派としてわが同盟は位置し、政治的牽引性を発揮することになったのである。

 以上四点にまとめられる政治=組織的な対象化と具体化をもって、わが同盟は7・28政治集会での強固な意志統一をふまえて用水攻防完全勝利の陣形をしき、決戦に突入した。
 それは7・14、8・18と続いた二期阻止・用水粉連月行動に責任党派としてかかわり、闘争体制を保障しつつ、組織内的には用水決戦行動隊を選抜し、戦史研究や徹底抗戦の思想の幾度にもわたる意志統一をふまえた9・29辺田大会戦の敢行として、結実化していった。

85年9・29三里塚_辺田大会戦_戦旗・共産同

 以上のような周到な準備をもって実現された9・29辺田大会戦は、戦術的にいえば後退戦の組織化に遅れ、七十五名の被逮捕者を出す結果となり、一気に戦闘部隊を喪失してしまうような不充分性も内包したのであるが、成田用水攻防の組織化、反対同盟の政治的動員の実現という戦略的観点からいえば、圧倒的な「政治の手段としての暴力の駆使」の勝利性を刻印した闘いであった。

 第十五次現行隊および用水決戦行動隊の日帝権力機動隊に対する徹底抗戦は、わが同盟戦旗・共産同がすさまじい戦闘力を有していることを、用水絶対反対農民に対し決定的に印象づけ、同時に第四インター=青行路線のもと現地攻防ばなれの状態にあった熱田派反対同盟に三里塚闘争二十年の歴史性を再度想起させ、カツを入れる役割りを担ったのである。

 しかもこの戦闘の貫徹によって、たんに大衆動員力においてのみでなく大衆的実力攻防においても戦旗は頼りになるという判断が、小川源さんや小川剛正氏、熱田一氏らの内部に形成され、第四インター=青行的路線にかわる、三里塚反対同盟設立以来の原点、「非妥協・不屈」の徹底抗戦路線が、用水攻防において採用されることになったのである。
 もって熱田派反対同盟は、そのスローガンを変え、「成田用水絶対反対」の看板を辺田・中郷七ヵ所に建て、中郷の人民連帯小屋前を用水決戦のための集会場として整地し、用水推進派農民との対決も辞さぬというまでに、革命的再生をここでとげるに至った。

 ちなみにこの用水攻防をめぐる熱田派の路線転換は、9・29戦闘のあとの着工時実力闘争の組織化をめぐり、支援諸党派の実力決起をうながすオルグをわが同盟と分担した労活評が、『烽火』共産同・全国委派をオルグした際、全国委は自分達が実力攻防を担うとは一切言わないまま、「ともかく何でこんなことになったのかが問題だ。熱田派は去年は用水を取り上げなかったのに、今年は用水絶対反対にいつのまにかなってしまった。一体何でこんなことになってしまったのか、それが問題だ」と、禅問答のような「回答」を繰り返すばかりであったというまでの急転換であった。

 まさしく、それ程までに圧倒的な熱田派の路線転換をもたらし、基本路線そのものをシフトさせたのは、誰が何といおうとわが同盟の9・29戦闘を頂点とする用水闘争組織化の影響性においてなのであり、現闘および十四次~十六次現行隊の奮闘の成果であることがはっきりと確認されねばならない。

85年11・20成田空港内機動隊舎を直撃_戦旗・共産同

 こうして熱田派の路線転換をかちとることに勝利し、われわれの戦略的総路線との結合環を再度つくりあげたわが同盟は、九・十・十一月のすべてを、骨格的に成田用水闘争の牽引において闘いぬいた。その集約点となったのは11・30三里塚現地闘争であったが、この闘いにわが同盟は××××名の全国結集をもって臨み、9・29戦闘での七十五名不当逮捕をはねかえす組織力をみせつけたのである。
 なおかつ9・29戦土のいくつかの例外をのぞく完黙闘争の貫徹によって、わが同盟は千葉県警による事後逮捕攻撃も封じ込め、基本的な点においてすべての政治目的を達成することに勝利した。

 づづく用水着工時攻防に対しては、熱田派全体がこれに取り組む枠内にて闘いを組織し、闘争を全体化することに基軸をおきつつ、11・20空港内南端機動隊D隊舎への改良型M22五発をもっての攻撃、および11・21水資源開発公団千葉総合管理所へのゲリラ・パルチザン戦闘をもって応え、八五年成田用水攻防のしめくくりの闘いをやりきったのである。

 十二月は用水実力攻防において一定落ち込まざるをえなかった大衆動員力の回復をめざし、12・15労学総決起集会の組織化に全力をそそぎ、これをもって八五年階級攻防の集大成をなす方向にむかった。

85年12・15労学総決起集会_戦旗・共産同

 12・15集会にあっては昨12・16集会を上回る××××名動員に成功し、しかも市民団体、戦線あいさつをふくめ実に十五戦線からの連帯発言を克ちとり、基本的に協商懇構造、第四インター、プロ青など市民主義・地域住民闘争主義グループとの攻防に八五年階級攻防をつうじわれわれが克ちぬき、確固不抜の党的権威、人民的領導性をしめるに至ったことをさし示すことができた。
 熱田一氏、小川源氏、小川剛正氏の三氏の三里塚よりの連帯あいさつは、八五年三里塚攻防-用水決戦をつうじての戦旗・共産同の路線的一貫性・大義性に対する承認の連帯あいさつであり、第四インターの没落と破産に対する、わが同盟の勝利の進撃の姿を開示したものといえるのである。

 以上を総じていうならば、八五年階級攻防にあってはわれわれは
(1)五波七ヵ所に対するゲリラ・パルチザン戦闘を組織し、しかもM22ロケツト弾の開発に勝利するなど革命党としての武装力の飛躍的な強化を克ちとったこと。
(2)9・29戦闘を組織化し、敵権力とのすさまじいゲバルト戦をおこない、なおかつその後の完黙闘争に勝利するなど、大衆的実力闘争の実現においても飛躍的な前進をとげ、戦旗・共産同の戦闘能力を実証したこと。
(3)八四年の三度をひきつぐ、6・16、7・28、12・15計三度の戦略的××××名動員体制の定着化と構造化を作りあげたこと。
(4)同時に革命党の総司令部たる本部ビル建設費の全額返済を一年間ですべてやりきり完全取得に勝利し、部局体制を確定するなど、中央指導部の形成発展にも前進したこと。
(5)協商懇構造とのせめぎあい、戦旗排除の策謀を骨格的に粉砕し、逆に第四インターにかわる主力党派=新たなる主流派としての位置を共闘関係においてしめるに至ったこと。
(6)用水闘争の領導にみられるように熱田派反対同盟との結合をふかめ、二期着工阻止の戦闘的気運を高めあげるなどその革命的再生の道を切り拓いたこと。
(7)日帝中曽根の戦争国家計画との対決を鮮明に打ち出し、政治主張的な集約環をつくり上げることに成功すると共に、戦争論・暴力論の構築という独自のイデオロギー作業にも勝利し、武装し闘う革命党としての立脚点を鮮明化させたこと。
(8)埼王県警の破防法弾圧、9・29での大量逮捕・起訴攻撃に対し苦闘を強いられつつもこれをはね返し、破防法弾圧に耐えぬく革命党の背骨をさし示したこと。
(9)中核派による八三年春党派戦争宣言後の攻防、対日帝闘争の革命的推進による内ゲバ主義の逆規定の闘いに継続的勝利をおさめ、三年間にわたりテロ攻撃を封じ込め、第四インターの「反内ゲバ」路線にではなく、「対日帝」実力闘争路線をとるわが同盟の闘い方に革命闘争勝利の原則的生命力があることを実証しぬいたこと。
(10)もって中核、カクマルにつぐ第三の組織動員力を有した革命党としての地歩を不抜なものとし、ブント系の主力というにとどまらない独自の政治的組織的位置性を日本階級闘争史上に占めるに至ったこと、などの諸成果をあげることができたのである。

 まさしく八五年にあっては、「北西風をこえる党へ」の闘いに勝利した。これをひきつぎ八六年階級攻防にあっては、試練をこえた飛躍をかけて乾坤一擲の挑戦を試みるべき位置にわが同盟はたっている。そこで確認されるべきは勝利を持続させる党の形成という問題にこたえることに他ならない。

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