青年の党派たれ! 戦旗派86年年間総括

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三.86年に到達した位置性

86年4・29天皇在位60年式典粉砕闘争

 86年階級攻防の政治組織的総括点の個々の内容検討に入るまえに、わが同盟は86年階級攻防をつうじ如何なる政治的位置にたったのかを明確化させ、以後の任務、およびそこでの発展を基礎づけたわれわれの基本エトスにつき内容を整理しておきたい。

 86年の闘いをつうじわが同盟が獲得した政治的成果の第一にあげられるものは、3・25-4・29闘争や10・14-10・19闘争をつうじ、或いは熱田派反対同盟に対する影響力の増大をつうじ、わが同盟がその社会的存在性において日帝権力にとっても無視できない実在性を示すに至ったということ、日帝権力の政治動向に対し部分的ではあれ規定性を与える位置にまでみずからの存在性を高めあげたということである。
 これはわれわれが武装し闘う力を蓄積し、日帝権力の政策遂行に対しそれをはばむ力を蓄積した結果もたらされたものであり、たんなる大衆動員力ではない革命党としての戦闘力がこれを条件づけているのである。

 人民が武装し、支配に抗し、投獄も死をも恐れず闘いぬく抗戦意志を持続させ、かつ現実的な物理力を有しているということは、支配階級にとって大変な脅威である。
 現に4・29-サミットの強行にあたっては3万人-70億円などという警備費用を投入し、日帝支配階級はその反動政策を強行する以外なかったのである。しかも3・25戦闘の実現はそれをも打ち破った。
 その結果まさに非対称的戦争の論理(支配者と抵抗勢力の戦争においては、人民・抵抗勢力の側は負けなければ勝ちであり、権力・支配勢力は勝たなければ負けである)が進展していくことによって、物理力を有した反体制勢力が存在し、恒常的に闘いを継続しているというその事実の一点が日帝権力にとり極限化された課題となり、三里塚二期の強行にしても、用水三号工区の着手にしても、4・29-5・4後のこちらの戦闘体制がとかれた時を狙って日帝権力は5・8用水三号工区の抜き打ち着工をする以外なくなるとか、10・4判決による熱田派の懐柔の成果を見定めつつ、10・26による北原派の闘争鎮静化にあわせて10・27に二期本格着工にのりだすといった対処をとる以外なくなっているのである。かかる逆規定性の重要なコアをなすのが、われわれの党的武装の飛躍的前進にあることは言うまでもないであろう。

 このような日帝権力の政策遂行を逆規定するような関係性を現出せしむるに至ったのは、78年3・26管制塔占拠以来の大成果であり、しかも現時点にあってはそれを革命党としての恒常的武装力の保持によって貫徹しているという点において、86年階級攻防をつうじわが同盟が到達した政治的位置の高次性は歴然とするのである。

 第二には、北原派の中核に対し熱田派の戦旗という具合に、あるいは前述したように4・29実委を「戦旗荒派」などと日帝警察権力の中枢がいわざるをえなくなっているように、全国政治闘争の中心党派の位置にまでのしあがり、日本の議会主義に立脚しない反体制勢力・新左翼の基本動向に対し影響力と規定力を与えられる存在にまで、みずからの位置性を高めあげた点である。

 これはもちろん第4インターが内部分解し、3・26管制塔占拠の意義を革命的に継承することができなくなり自滅したということにも客観的には影響されている。
 しかし第4インターが崩壊したのは彼等が革命党としての内実の創造を本質的なところでやりきれなかったからであり、それ自体われわれのあずかり知らぬことである。同様の条件にさらされつつわが同盟は生き残り、党勢を保ち、困難をのりこえ、発展してきたのだ。

 第二次ブントの69年7・6赤軍分派発生による実質的な崩壊より17年の年月を経て、不屈の抗戦意志を保ちつづけてわれわれは再生し、諸党派への階級的規定力を構築するに至ったのだ。それこそわれわれの苦闘の産物であり、みずからつくりあげた政治的遺産であることを確認しておきたい。

 第三には70年安保闘争で崩壊し、その仇花として連赤問題などを生み出したブント潮流の革命的再生の姿を、わが同盟の存在によって刻印したこと、およびブント系列中の圧倒的主流派としてのポジションを確定させたことである。

 もとよりわれわれは客観的には「ブントの巣に、違う鳥の卵がはいっていただけだ」(ボル派『ボルシェヴィキ』No4、P36)とか、「諸君らは、もともとブントではないのである」「今日では戦旗・共産同が60年代の中核派のような潮流的存在になってしまった」(同P37)などと言われるブントの異端の徒でしかなく、今更のようにブントの主流派としてのポジションを確定させたことを確認しても仕方ないかもしれない。

 だが、しかしそれでは一体われわれは何だというのだ。それこそどこから来て、どこへ行くというのか。
 わが同盟はたしかにブントの全くの鬼子的存在であったが、第二次ブントの崩壊のあとその革命的再生をめざし、今日まで闘いぬいてきたのである。

 もちろんそれは連合ブント構想だとか、党の統合などという方向ではなしに、みずからが自己発展し、拡大することにより、単一のレーニン主義党として再生するという方法においてであった。その意味でわれわれにとっては、ブントの革命的再生とは、わが同盟の自発自転の結果としてのみもたらされるものとして措定されるものであったが、これを86年階級攻防をつうじわれわれは物質化したということである。アダチ分派問題に対しても実践的結着をつけ、わが同盟の主流派性を一層きわだたせたのである。

 第四には安保-日韓体制打倒を戦略的課題として闘いぬく武装闘争派としての位置性の確立をつうじ、最終的に協商懇-第4インター、プロ青の潮流から自立した、独自の政治勢力としてのポジションの形成に勝利したことである。

74.5.30戸村一作世直し大集会 東京・日比谷公会堂

 共労党系列、第4インターとわが同盟との共闘関係形成は1974年戸村一作氏の参議院全国区への立候補にさいしての「連帯する会」への参加以来のものであり、当初は第4インターの圧倒的ヘゲモニー下にその路線に規定される形で、われわれは闘い抜いてきたのである。
 しかし歴史をもっとたどれば1966年の三派全学連再建時以降70年代に至るまでは、ブント、中核、解放派のヘゲモニー下、八派共闘は機能したのであり、ただ第二次ブントの四分五裂という党的敗北のみが、75年当時の第4インターとの政治的関係性を形づくったのにすぎない。

 わが同盟はかかる関係性を払拭し、われわれ独自の戦略的総路線にもとづき第4インター路線を克服しつつ闘いぬくことを、80年以来追求してきた。それは79問題の総括をかけた闘いであり、この進展が「連帯する会」からの84年7月の脱退に至る攻防をつくり出したのである。
 そして遂に85年用水攻防から86年天皇-サミット決戦を経て、わが同盟は動員力による大衆運動的規定性を、闘争領導の統一戦線的規定力にまで高めあげることに勝利し、第4インター、プロ青とは別個の、独自の戦略的総路線にもとづき闘いぬく政治勢力としての地歩を確立したのである。

 今後とも第4インターに対しては、それが武装闘争ヘの敵対をつづけ、右翼市民主義をかつぎ回ることにより日本階級闘争の戦略的前進を阻害するかぎり、もともとの左翼反対派の位置におしとどめてやらねばならない。
 第4インターは革共同の最右派勢力であり、78年開港決戦で突然戦闘的市民主義の花をさかせたが、それを「20年に一度の出来事」として再びしぼんでしまい、本来の姿にもどった反レーニン主義潮流である。われわれの問題把握の在り方とは所詮水と油だ。その組織体質において、余りにも戦術左翼主義であリ、大衆ブラ下がり路線であり、前衛党建設へのトロツキー的敵対者でしかない。

 結局われわれはこの三年間、外在的には三・八分裂後の中核と闘う形をとったが、内在的、思想的、組織的には第4インターイズムと闘いぬく必然において今日に至ったのである。
 七九年問題とはわが同盟の第4インター化との闘いであり、この事実を忘れてはならない。第4インター化することは、わが同盟が滅ぶことなのだ。
 ゆえに86年作り上げた政治関係を保ち、独自の安保-日韓体制打倒潮流としての地歩を守りぬき、共労党や第4インターを逆規定する本来の歴史的関係を保つこと、これをガッチリと意志統一しておきたい。

 第五には熱田派の主力党派としての規定性、熱田派反対同盟を左から牽引できる唯一の党派的存在としての位置を確定したことである。

確約書

 これは今まで第4インターやプロ青と混在化し、第4インター的ヘゲモニーもあれば、戦旗的ヘゲモニーもあるといった関係性におかれていたものを、三里塚闘争20年の歴史性を守り抜き、非妥協不屈の精神で闘い抜かんとするなら、それはわが同盟との結合において闘いぬく以外ないのだという関係性を86年階級攻防をつうじ刻印したということを意味する。

 9・14菅沢基調に対する9・15抗議声明問題については、依然として青行右派部分と対立する関係性におかれているわけであるが、86年12月28日、以下の確約書をとりかわすことによって、われわれは9・21謹慎処分を解かれることになった。

 一、同盟の指示に従います。
 二、同盟と考えがちがった場合には、同盟に相談します。
 三、同盟がその指示に従わないと判断したときは、現地から出ていきます。

 石井武氏や石井新二氏などが、こうした条件をつけて戦旗をのこすことに同意する以外なかったのは、われわれが最も献身的に、原則的に闘いぬき、熱田派反対同盟を下支えする存在であることを、結局彼等も認めざるをえなかったからだ。

 わが同盟はここにおいて作り上げた規定性、ヘゲモニー性をはぐくみ、反対同盟の条件闘争化を許さぬ立場をとりつづけ、何が何でも二期決戦に勝利しなければならない。そして熱田一氏、小川源氏、小川剛正氏、鹿嶋清氏などの信頼に応えぬかねばならない。
 われわれがどこまでできるのかの正念場は87年にあり、反対同盟農民と革命的に結合し、今日の関係性を一層きわだたせる形で、共に闘いぬこうではないか。

※詳しい事実経過は「三里塚二期決戦を熱田派と共に闘いぬく覚悟」を参照してください

⇒ 革命党としてのわが同盟の共同主観

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