第三章 闘争
第16話 空港・閣議内定(1)
一九六六年六月二二日の朝だった。
風薫る初夏の朝風が麦畑を渡って、武治の部屋まで吹き込んできた。青く出揃った麦穂がそよ風になびいて、波打っていた。
武治は朝の五時には、必ず眼を覚ました。風邪でもひかぬ限りは、床を蹴ってむっくり起き上がり、畑を見回るのが彼の日課の始まりだった。――畑から帰ると妻の説子がいれてくれたお茶を飲むのが、開拓以来二〇数年来の習慣だった。
陽の出前の畑は朝露にしっとりと濡れて、作物はまだ眠っているように見えた。妻と丹精した作物が朝ごとに生長し、実りの秋を迎えていくのが、眼に見えた。武治はそれを見るのが唯一の楽しみであり、生き甲斐だった。
彼の一日はまるで土から生まれ、土に生きるかのように、明け暮れした。雨が降ってもかっぱをひっかけ裸足で土間に降り、畑巡りだけは欠かしたことがなかった。
今朝も畑から帰った武治は、部屋で朝刊を見ながらお茶をすすっていた。
「おーい、説子。今年の作はいいぞ」
「よくなけりゃ父ちゃん、しょがねえよ。ひでりと大雨の皺寄せがきてるだから……」
「うむ、それでも今年は今までにねえ豊作だ」
朝陽が爽やかに、畑の彼方の松林から昇り始めた。武治の横顔を淡紅色に染めて――。
その時、武治が突然、「おーっ」という異様な呻き声を上げた。見ると新聞に吸いつけられるようにして、眼をそらさない。
「何かあったの?父ちゃん」
妻の言葉に耳も傾けず、彼は一心に新聞を読み眈った。
「説子!これ見ろっ」
武治は紙面を指さした。
「あらっ、三里塚に国際空港が……」
全国版にはトップ記事の五段抜きで、急拠「富里から三里塚に空港建設が閣議内定した」と報じられていた。
説子は武治の手から、新聞をひったくった。
「内定といえばきまったということ?父ちゃん」
「まずきまったことだ。この地図を見るとこの木の根、天浪、古込から東峰、天神峯はすっぽり入っちまう」
「だけど本当に政府はやる気かしら?」
「とにかく、今夜にでもみんな集まって、対策を練らねばなんめえ」
降って湧いたようなこの出来事――何と解釈したらいいだろうか。「こんなことになるならいっそのこと、早く富里の農民と一緒になって空港に反対しておけばよかった」と、武治は思った。――
その時、武治の脳裡を掠めて通るものがあった。三里塚の十字路を左に折れた三軒目の、戸田以策の家の前に立っている立看板である。
「富里空港反対キリスト者連盟」
いつもチラと横目で見過ごしてきた立看板だったが……。
「そうだ、川向こうの火事だとばっかり思ってたのが大間違いだった!」と呟いた武治は、富里農民の「農地死守」が、いくらかわかるような気がしてきた。武治はそわそわして、何とも落着かない表情だった。
説子の手から、読んでいる新聞をひったくるようにして、武治は立ち上がった。
「俺、ちょっと源二のとこへ行ってくるっ」
いい棄てると、さっさと草履をひっかけて土間に降り立ち、大股に前の丘を駈け上っていく武治を見て、説子は呟いた。
「せっかちだなー」
源二の家では家族揃って、朝飯のところだった。武治は突っ立ったまま黙って、ぶっきら棒に源二の鼻先に新聞を突きつけた、
「何だい、兄貴……」
「これ見たか?」
「けさまだ新聞見ていねえ」
「見ていねえ、これ見ろ」
「何かあったのか」
「あったもねえもねえ!」
源二は持っていた箸を、パチンと食卓に置いた。武治から新聞を受けとると、紙面をくるくると見回した。
「ここだよ源二、ここだ」
あまり大きくトップ記事になっていたせいか、眼に入らなかったのだ。武治に指さされて注目した。
「これじゃ全く寝耳に水だ。兄貴!しかし、これでいくと百姓なんて虫けら同然だよな」
「虫けら以下だよ。今夜にでも部落集会を開いて、これからどうするかを、木の根でも早くきめねえとな、源二」
その晩だった。武治の家に、部落の主だった者八人ばかりが集まった。
「やっぱり火の子がてめえの頭に降りかかってくりゃ、黙ってもいられねえ」
「だからやっぱり富里と一緒にやってれば、こんなことにゃならなかったべな」
その時庭先にバイクの音がして、講かがきた様子だった。武治が外を覗いた。
見ると石井幸助が見知らぬ一人の青年を、引き連れて入ってきた。彼の紹介ではその青年は、日共県本部から派遣されてきた臼木という男だった。
新聞を見ていち早く駈け着けたという臼木は、みなの前に立っていった。
「みなさん、私は二年間富里農民とともに闘ってきました。わが党の方針も富里と変わっていません。やはり富里が勝利したのも、共産党、社会党と一緒に闘った成果です。共産党もみなさんの先頭に立って、最後まで闘います」
「うむ、やっぱり百姓は素人だから何もわかんねえし、何やるにしても指導して貰わねえとな……」
と、武治はいった。
そこへ源二が遅れて入ってきた。少し酒気を帯びてか、顔を赤らめていた。彼は年とは見えず髪の毛が真白で、兄の武治とは性格も異なって如才なかった。
「や、みなさんご苦労さま。今日は出荷で川崎の市場まで行ってきたんで、すっかり遅くなっちゃって……」
「みんな待ってたよ、源二さん」
「や、とにかく大変なこった。俺もよ、咋日の朝、兄貴に新聞を見せられて、たまげただよ。空港がよ……」
「全く寝耳に水だよ」
「うん、やっぱり富里のように、まず反対同盟を作ることだよ」といって源二は一同を見回した。
源二は農業のかたわら野菜の出荷業をしていたので、よく富里方面にも買い出しに出かけて行った。だから富里の反対運動をよく知っていたのである。
1962年池田内閣当時、羽田国際空港にかわる「第二空港建設構想」を運輸省航空局が発表。建設地として「千葉県富里案」と「茨城県霞ヶ関案」が候補に挙げられた。しかし運輸族の綾部健太郎が「千葉県浦安沖埋め立て案」を主張すると、建設族のドンだった河野一郎が「木更津沖埋め立て案」を強力に主張するという具合に対立し、自民党の大物達の都合で候補地は二転三転した。
1965年7月に河野が急死すると主導権は運輸省に移る。ここで千葉県知事の友納武人が、「農村地帯である北総地域の工業化に繋がる」という理由で佐藤栄作首相に千葉県富里案での決定を要請。これを受諾した佐藤は同年11月新空港を富里に内定した。
頭ごなしの決定に怒った富里農民は2500人が千葉県庁に抗議に押しかけるなど激しい反対運動を展開し大混乱となる。これで暗礁に乗り上げたと思われた矢先の1966年6月22日、政府は突然にこれまで名前も出なかった「三里塚案」の決定を唐突に発表した。実はこの三里塚案は、佐藤内閣を誕生させた自民党副総裁の川島正次郎と運輸省次官の若狭得治及び友納知事の3者の談合で決定し佐藤首相がこれを事後承認したものだった。
彼らはマスコミの取材に対して「富里は古くからの富農地域であり、立退き戸数もおよそ1500戸になるのに対し、三里塚は貧しい戦後の開拓農家が多く、皇室所有の御料牧場があるので立ち退き戸数も数百戸で済む」だから買収も楽だろうという実に安易な発想を語っている。が、それはあくまでも机上の空論であり、現実にそこに住んで生活している地元農家の民意というものを無視した上に読み違えていた。
実はまさにこの「国が決めたことに従え」という民意よりも有力政治家や官僚の協議と妥協を優先する傲慢な態度こそが、富里案が暗礁に乗り上げた最大の理由であったのだが、政府は「富里の教訓」を全く逆に解釈し、当初から機動隊を前面に押し立てた強硬な「電撃作戦」を展開。官僚たちは地元農民の陳情を門前払いにした。苦労に苦労を重ねてようやく開拓地も軌道にのりかけていた三里塚の農民たちはこの「虫けら以下」と言われる無礼な扱いに激怒。政府の思惑とは全く逆に、ついに戦後最大の巨大な民衆闘争へと発展していく。
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