懐古的資料

文献採録】左翼運動のスターリン主義的歪曲を克服せよ(前編


 ハンガリー動乱(映画『君の涙ドナウに流れ』より)

 私が18歳の頃、戦旗・共産主義者同盟、正確にはその傘下の大衆組織である社会主義学生同盟(社学同)への結集を決めた論文です。今となってはこの論文をそのまんま信奉しているわけではもちろんないし、たとえば中国スターリン主義の人民抑圧の実態に無知で、態度が甘すぎるという批判もあるでしょう。それでもその骨格部分というか、ものの考え方や発想方法において、現在の私の人生観にも大きな影響を与えた論文です。

 実はそのこと自体、自分でも全く気がついていなかったのですが、ネットなどで文章を書きはじめるようになって、あらためてそのことに気がつき、我ながら憮然としました。それくらい、特に左翼運動といわず、人生のあらゆる場面で応用が利いてしまうということでしょう。まあ、自分としては生きていく上で決して悪い影響ではなかったと思ってはいます。とはいえ、いまさらこんなの掲載していったい誰が読むのかという話ではあるのですが、羽賀さんの投稿もあり、私と真面目に「論争」したいという物好きな(特に右派の)方は、せめてこの論文くらいは一読しておいてほしいと思ったものです。

 とにかく10代の頃の私にとって(そして当時の多くの左派の若者にとって)、左翼運動を進めるとかいう以前に、どうしたらソ連(スターリン主義者)のようにならないか、自分が属する運動や組織が、ソ連なんかとはどこが違うのか、そこが大きな問題であり、それがはっきりしないくらいなら、どこの運動や組織に属するのも嫌だという、強い不信感がありました。

 まず、当時の日本共産党は、ソ連、中国、ポルポト派などのあり方に対して「あんなものは左翼ではない」から「自分たちとは無関係」という見解であり、これは私には問題外であると感じられました。
 次に<反帝・反スタ>を標榜する中核派は、「カクマル戦争」にのめり込んでおり、それが左翼運動全体に影を落としていましたし、たとえばこちらの元中核派(しかもゴリゴリの)方々が集っている掲示板を精読していけばわかるように、彼らの「反スタ」とは結局は「一国社会主義論」などの理論的な批判に終始しており、かつ、その立場から自派に逆らう者すべてを「粉砕・打倒・処刑」すべしなどという路線であって、私にとってはそれこそがスターリン主義そのものであるようにしか感じられませんでした。
 こういう中核派スターリン主義に対して、<トロツキズム>の第4インター派が、70年代後半から「反内ゲバ主義」を掲げて急速に勢力を拡大しました。しかしそれも私には、「左翼運動内部の誤り」であることを認めている点で共産党よりはマシではあるけれども、そんなの別に左翼でなくても言えるレベルのことであって、左派の意見としては物足りない没主体的なものだし、結局は共産党と同じものであるとしか思えませんでした。

 いったい、みんな立派なことを言って、当たり前のように「スターリン主義」を批判しているけれども、スターリン個人を悪者にしてそれで終わりなのか、あるいは今は立派なことを言っているあなたがたが、数年後にはスターリン主義的な政治を行っていないと言い切れるのか、その保証はどこにあるのか。ほらほらもう反対派に対して抑圧的なことをしてるじゃないかと。
 この私の問いに対して、「そんな『保証』なんてどこにもない」と言い切ったのが戦旗派でした。「スターリン主義とは『自分の外にある打倒対象』ではなく、自分の中にあるものだ。ゆえにスターリン主義と闘うとは、自分の日々の実践や、その自己点検と省察、主体形成のことでしかありえない」。さらに「その闘いに終わりはなく、それを忘れた時に党はいつでもスターリン主義に落ち込む」と言われ、これこそ私が感じていたこと、言いたかったことだと思いました。ゆえに戦旗派は、「反スタ」ではなく、「左翼運動内部のスターリン主義を克服していく」それも理論的な口での批判ではなく、実践的にスターリン主義を超えるような左翼運動と組織を登場せしめるべきだという、<スタ克>の立場に立っているということでした。そしてこの論文を読み、それがインター派のような「活動家の道徳」レベルではなく、ちゃんと社会変革の運動や左翼理論と結びついていること、つまりスターリン主義とは別個の地平で左翼運動が成立する可能性を示したものとなっていました。まさに「我が意を得たり!」と猛烈に感動し、その可能性に自分を投機してみたいと思ったのです。

 このサイトでも、数年前にそのあたりをちょいと書いた時、主義者Yさんあおざかなさんから「スタ克の内容を知りたい」というリクエストをいただき、この論文の転載を考えましたが、すかさず黒目さんから、「そんなの戦旗が言い出す前からノンセクトの間では常識だよ(フフン)」みたいなことを書き込まれて、悪気はないんでしょうけどなんかやる気をなくして今日にいたっておりました。けど、先日、GO@あるみさんのところでスターリン主義の話題を論じる機会がありまして、再びこの論文を読めるようにアップしておきたいと思うようになりました。ようやくにして「懐古的資料室」にひっそりこっそりアップすることができましたが、さほどアクセスも反応もなく、まあ、このまんま読みたい人だけが読んでくれたらいいかと思っておりましたが、羽賀さんの投稿もありーので、表に出しておくことにしました。

 まあ、全部をブログに載せるには長文なので、3回にわけて、予約投稿機能で3日で全部表示されるようにしておきます。その間、ちょっとネットはお休みします。集会4連チャン疲れと、私生活でやることがたまってしまいましたので。ネットは暇がある時にやる、生活を犠牲にしないことを原則としておりますのでご容赦ください。お気が向きましたらランキングへの投票クリックもお願いしますね。それでは、以下本文です。 

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革命運動のスターリン主義的歪曲を克服せよ

論文目次

 はじめに(論文発表当時の世界情勢)
 1.アフガン侵攻にみられるスターリン主義の反人民的本質
 2.スターリン主義批判の原点としてふまえられるべき諸点
 3.ロシア1920-30年代の歴史とそこにおいてふまえられるべき視点
 4.スターリン主義の本質規定をめぐる問題
 5.思想としてのスターリン主義
 6.近代思想の克服をかけたスターリン主義との闘い
 7.左翼革命運動のスターリン主義的歪曲を克服せよ

はじめに(論文発表当時の世界情勢)

アフガニスタンから撤退するソ連軍 1979年12月アフガニスタン革命へのテコ入れとしてなされた、ソ連軍の軍事的侵攻は、今全世界に巨大な波紋をなげかけている。
 ホメイニ派学生達によるイラン米大使館占拠に苦慮し、中東における権益の確保に血眼となっていた米帝は、これさいわいと商業ジャーナリズムの一切を使ってのソ連批判にのりだし、反ソ包囲網の形成をつうじての巻き返しを策謀し、日帝支配階級はその尻馬にのっかってリムパック(環太平洋合同軍事演習)への参加-自衛隊の事実上の海外派兵を実現した。
 米CIAは1980年代におけるソ連の石油輸人国への転落を宣伝し、東欧支配のかなめとしてソ連が作りあげたドルージユバ(友好)石油パイプラインがからっぽになることを全世界に訴え、ひいては資源・エネルギー危機に際しての自由世界の結束と、「危険なるソ連」への警戒をよびかけている。

 1975年のベトナムからの米帝の放逐以来、世界の趨勢は披抑圧民族・人民の勝利に対する帝国主義の後退として決定づけられてきた。「労働者国家」は反対に相対的にその力を増し、分裂対立をはらみつつもなお帝国主義を追いつめ、徐々に「包囲する側」へとその立場を逆転させてきた。
 だが米中条約の調印が中国にとっては国民党勢力の国際舞台からの放逐、台湾への封じ込め、安保常任理事国への昇格による国際的桧舞台への登場といった国益をもたらしたとしても、その結果、日-中-米三国同盟に対するソ連の警戒心を刺激し、ベトナムヘのテコ人れ、中-ベト戦争の勃発へと至らしめたように、国際共産主義運動の勝利とプロレタリア国際主義の観点に立った世界政治へのかかわりがそこにない限り、「労働者国家」群の力の拡大それ自身が、第三世界など被抑圧民族・人民にとり、かえって桎梏(しっこく)となるだけであるというパラドックスが現出しはじめていることも冷厳な事実である。

 ソ連軍のアフガニスタン侵攻はまさにそうした悪例の典型であり、キューバなどの直接の同盟国でもこれを承認できず、カストロが批判演説をおこなわなければならないような、国際共産主義運動の混迷と分裂を象徴づける事態として、歴史的に銘記されるべきスターリン主義の陥穽(かんせい)である。
 われわれは1956年のハンガリア革命の圧殺、1968年のチェコスロバキアでの人民弾圧とならぶ許しがたき犯罪行為としてソ連軍の侵攻を糾弾し、ひいては現代革命遂行の主体にとり、必然的課題となったスターリン主義の克服の方途につき、ここにおいて論及し、われわれの考えをまとめたい。

 ブント系諸派がおしなべて中共派となってしまい、反帝・反社帝と中国共産党の出先機関じみたことを喋りまくる風潮に対し、われわれは独自の観点にたつスターリン主義批判を貫徹し、その内在的止揚克服にむけて実践的に努力奮闘していこうではないか。

1.ソ連軍のアフガニスタン侵攻にみられるスターリン主義の反人民的本質~歴史的な経緯~

アフガニスタン地図 アフガニスタンは面積は日本の約二倍にあたる65万平方キロもありながら、人口は2100万人しかいない、ほとんど砂漠と山地からなる農業と遊牧生活の国である。
 東部はパキスタンと接し、パキスタン西部と同一民族であるパシュトーン族が住んでいる。北部はソ連と接し、やはりソ連南部の少数民族と同一であるタジク族やヌリスタニ族などが住んでいる。もともとはイギリスの植民地であったわけだが、第一次大戦後君主制として独立した。
 パキスタンはジアウル・ハク大統領がイスラム至上主義を掲げて統合を急いでいるが、一方ではインドとの抗争をかかえつつ、その内部にパキスタンからのパシユトーン族の独立運動であるパクトニスタン運動や、大バルチスタン運動とよばれるバルチ族の独立運動をかかえ込んでおり、アフガニスタンとも不断に対立する関係性にある。

 アフガニスタン革命の進展は、まず1973年4月に国王の従兄弟であるダウドがザヒール・シャー国王を倒し、君主制を廃して共和制へと転換をとげることからはじまったわけだが、このダウドはもともとパクトニスタン運動の推進者であったため、シャー打倒後にパキスタンとの対立が強まり、ソ連からの経済・軍事援助によってこれと対抗しようとしたことでダウド政権は親ソ派に流れることになった。

ダウド大統領 一方、アフガニスタンにおけるマルクス主義的潮流である人民党(ハルク)の創設はこのダウドによる共和制への移行前、1965年にまでさかのぼる。1967年にはタラキやハフィズラ・アミンを指導者とするハルク派と、親ソ派のパルチャム派に分裂し、このパルチャム派の指導者にミル・アクバル・ハイバルやバブラク・カルマルがいた。両派は1977年に一度連合するが、すぐに分裂し、その過程でパルチャム派のハイバルがダウド政権に殺害されたことからクーデターに至り、1978年4月、最初の共産政権がハルク派のヘゲモニーの下タラキ首相、アミン副首相として発足した。しかしそこで遂行されようとした土地改革は多量の50万にも及ぶ難民がパキスタンに流人する結果となり、共産政権に対するイスラムゲリラが戦闘を開始するのである。

 タラキは首相として土地改革を推進しつつゲリラの掃討にのりだすが果たせず、パルチャム派の圧殺による権力固めにも失敗し、1978年12月にはソ連との間に友好善隣協力条約を結んで援助の増大をはかり、それをテコにパキスタンと対抗しようとしつつ、結局1979年9月副首相であったアミンに追放され、アミンはパキスタンとの共存に乗りだすのである。しかしこのアミンによる権力掌握、パキスタンとの和解は、ソ連からのアフガニスタンの相対的自立の気運をもたらすことになり、これに対してソ連は1979年12月親ソ派であるパルチャム派のバブラク・カルマルを押したてて軍事侵攻を開始することになる。

カルマル議長 従って現在の政府軍はパルチャム派に指導される形となり、ハルク派は逃亡・反抗し、78年4月の共産政権成立以来の権力基盤は大きく崩れている。ソ連の侵攻は、名目的にはパキスタンを拠点とする反政府活動をアメリカや中国が武器援助し、これがアフガニスタンの左翼政権を危機におとしこめているからということだが、事実上はアフガニスタンの左翼政権がイスラムゲリラに抗しえずに崩壊しかかっており、しかもハルク派・アミンがソ連離れしてアフガニスタン自立の方向へ向ったことに対しての歯止めの処置であって、ソ連の翼下ヘアフガニスタンをしばり続けるための処置である。
 一方ではホメイニのイランにおけるイスラム革命を支持しつつ、他方ではアフガニスタンのイスラム蜂起を抑圧しようとするのは、ソ連内的にはこの中東での激動がソ連内部のイスラム圈少数部族へ波及することを鎮静するためといわれ、ソ連にとっての防衛処置ということである。

 しかし問題は「ファシスト共の反革命攻撃に対する革命の防衛」としてソ連軍兵士などに説明されているその対処が、アフガニスタン人民にとっては外圧と軍事的侵略行為としてしかその目にうつらず、7万ものソ連軍の侵攻に対し、2月カブールでの反ソ人民決起にみられるように、またそもそも政府軍から2万もの脱走者がでるなどアフガニスタン人民に対する敵対行為以外とはなっていない点にある。
 ソ連のやっていることは強大な武力をもっての無理なおしつけ的革命の輸出であり、これに対しイスラム諸国会議でイスラマバード宣言が発せられ、「国境を追われた難民とアフガニスタン国民の信仰、独立、領土保全、民族自決を守るジハード(聖戦)への物質的援助」が叫ばれる時、アフガニスタン人民にとっての正義、民族的尊厳は、ソ連とパルチャム派にではなく、難民とムジャヒデイーン(反政府ゲリラ)の側にうつってしまうのだ。

 世界でもっとも貧しいという一人あたり国民所得が年間100ドルにしかならないという国、アフガニスタンじゅうたん、アーモンドや桑の実などのドライフルーツ、水色の宝石の一種ラピスラズリだけが特産物という低開発国の人民にとり、パキスタン政府が帝国主義者共の援助により一人4ルピー(年間150ドルになる)を難民キャンプで与えるのに対し、ソ連は戦車と軍靴だけを与え、人民の民族的尊厳の気持をふみにじるという時、そこには革命の大義は成立せず、その軍事侵攻は、一個の政治の問題と考えても反人民的暴虐行為以外ではなくなってしまうのである。

 アフガニスタンの解放は、アフガニスタン人民自身が解決すべき課題であり、その内的なモメントと結合しない革命の輸出は、決して世界史の未来を切り拓かない。だからわれわれはソ連の意図が何であるかだとか、何故侵攻したのかを解釈することよりも、現になされている行為そのものが反人民的であり、人民の正義の気運に呼応しないものであるというその一点においてこれを糾弾するし、大国的抑圧行為として弾劾する。

アフガニスタンのイスラム・ゲリラ いわゆる反政府回教徒ゲリラと呼ばれるのは、サイド・ガイランを指導者とするアフガニスタン回教民族革命党や、グルプディン・ヘクマトヤルにひきいられた回教党、そして民族解放戦線やジャマーテ・イスラミなどの諸組織であり、その拠点はいずれもパキスタンとの国境ないし、パキスタン領内にあるわけだが、もともとその力は強大なものではなく、何よりも人民と結合した勢力ではなかった。
 しかしタラキにはじまる土地改革の強権的推進は、部族社会であるアフガニスタン各地の部族長、イスラム教団の指導者の利害と抵触し、何よりも大衆の現実生活を支配してきた宗教的・世俗的意識、習慣と真向からぶつかることになり、それを政治的・思想的に集約しきれぬまま、難民や反政府ゲリラヘと追いやる形となってしまった。

 78年4月のハルク派の権力掌握で発せられたアフガニスタン革命の基本任務30項のうち、それ自体最も革命的な方策であった「民主的な土地改革の実施」と「民主的権利の拡大と社会福祉」が最下層のアフガニスタン人民に理解されず、むしろ遊離したものとなってしまい、イスラム教団や各部族の地主と人民との抗争という関係性をつくれず、逆にイスラム教の側に追いやる形となってしまった点に、結果としての土地改革の革命性の喪失を見るべきであり、それをソ連軍が戦車と機関銃で補完しようとするやり方に、スターリン主義の反人民的性格を見てとるのでなければならない。

 土地改革それ自体はいかに革命的な政策であったとしても、それを支持し推進しようとする階級的ないしは階層的基盤がなければ空論であり、ましてやソ連軍の侵攻によりその気運の一切が消しとんでしまい、民族的憎悪と反感だけがそこに生み出されるとしたら、革命の内実はきわめて空疎な、反人民的なものへとその性格を一変させてしまう。
 現下のアフガニスタン情勢はそうした方向へと、ますますつき進んでいるようにわれわれには見えるし、ソ連軍のアフガニスタン全土からの即時撒退は、だからこそ焦眉の課題である。アフガニスタン革命とソ連のそれへのかかわりにおいて問われていることは、まさに政治の質の問題であり、反人民的な思想的内実の誤りであって、スターリン主義の実践的な陥穽がここに表出されている。

 帝国主義者共はこの情勢にのっかり、リムパック80において米軍と日本の自衛隊、カナダ・ニュージーランド・オーストラリア軍の共同軍事演習を実現し、インド洋-太平洋を結ぶ環太平洋防衛、PATO構想の実現にむけて大きくのりだしている。同時に朴なき韓国にあってはチームスピリット80が開始され、共産主義の侵略の脅威がソ連軍のアフガン侵攻をひきあいに出しつつ宣伝され、ひいては韓国内の反政府活動の弾圧が画策されている。
 結局ソ連の行為は帝国主義者共の反共宣伝に材料を提供するだけとなり、アフガニスタン人民の反ソ暴動をひきおこし、何一つ国際共産主義運動の前進に寄与しないばかりか、その桎梏となっているだけなのである。

 まさにかかる如きスターリン主義の反人民性との闘いは、現代革命の重要課題の一つとならざるをえなくなっており、ここでのわれわれの主体的な立場の鮮明化が、今こそ問われているのだ。

(次回「スターリン主義批判の原点としてふまえられるべき諸点」に続く)

コメント

    • たけ(39)
    • 2009年 11月 24日

    集会4連チャンお疲れ様です。東京暮らしは色々と忙しそうですね。

    論文を読んで、「草加さんが事あるごとに『外在的な問題ではなく内在的な問題である』旨の発言をしているのはこういう考えが根底にあるのだ。」と納得しているところです。

    私は今でこそ『右派』を名乗っていますが、最初に持った思想は『共産主義思想』だったりします。
    当時(10歳頃)の私はヒマがあれば百科事典を読み漁っていました。(単に知識が増えるのが楽しかっただけですが)
    そのうち、何を血迷ったのか『思想・哲学』の巻を開いており、気が付けばマルクスの写真(例の髭モジャの)が掲載されているページを熱心に読んでいる自分がいました。
    そのとき初めて『共産主義』にふれたのですが、そのときの印象が「これは素晴らしい世界なのではないか?」というものでした。
    その後しばらく自分なりに調べていたのですが、出てくる情報は残念なものばかり。(過激派の活動や共産主義国の実態など、小学生には刺激が強すぎたのかもしれません。)
    何故そんなことになるのか訳がわからなくて親類に聞いてみたりしたのですが、誰もが口を濁すばかりでまともに答えようとしてくれない。(親父に聞いたら殴られました(笑)。)
    そうこうしているうちにすっかり興味を失くしてしまったのですが・・・もし、自分がもっと早くにこの手の論文に出会っていたら、自分の主義・主張はどうなっていたかわかりませんね。
    そういった経緯を持つだけに、『在特会』やその支持者は『残念な人達』としか言いようがありません。(紅衛兵扱いするのもよくわかる気がします。)

    ちなみに、私が『右派(保守)』であるのはゲーム(PC)の影響が相当に強いです。
    歴史シミュレーションが好きで、取り扱っている時代背景なんかを調べているうちに・・・気がついたら『保守(的な)思想』に染まっていました。
    まぁ、考えを整理し始めたのはつい最近(2年ほど前から)のことだったりしますけど・・・

  1. たけさん>
    ありがとうございます。
    確かにちょっと挑発的なことを書いたけど、まさか本当にこの論文を全部読んでくれる「右派」がいるとは思いませんでした。
    それにひきかえ私はダメだなあ。もっと右派の方の主張もちゃんと読まないとね。ただ言い訳するようですが、ネットで読める右派の文章って、あんまり面白いものがないんですよ。まあ、右派系のサイトが増えすぎて、逆に面白いものがさがし難くなっているだけかもしれませんが。

    >こういう考えが根底にあるのだ。」と納得しているところです

    なんだか楽屋裏を見られたみたいで恥ずかしいですね。私は別に喧嘩して組織を離れたわけではありませんので、ちゃんと事務所(アジト)に置いてあった私物は普通に持ち出しました。だからその時点で購入していた文献とかはわりとごっそり家にあるんですよ。内部文書みたいな本当にレアなものは早くに捨ててしまい、一般に販売していた書籍しか残っていませんが、今から考えれば惜しいことをしました(笑

    でもちょっと前までの日本人は、私に限らず常に『外在的な問題ではなく内在的な問題である』という問題意識というか発想方法は多かれ少なかれみんな持っていたんじゃないかなあと。今なら「自虐」とか言われて鼻で笑われてしまいそうですが、実はそういうところが日本人が誇るべき美徳の一つであったのにと、その美徳を必死に破壊している自称「愛国者」たちの実践活動には日本人の一人として非常に腹立たしい思いがしています。

    しかし10歳でマルクスに興味ですか。早熟ですねえ。私の10歳頃と言えば「今のままでいいから」という理由で自民党を支持してましたよ。12歳頃にやはり百科事典で左翼思想を知りましたが、「過激すぎる」と思いましたね。13歳頃にはやはり「今のままの平和な日本でいてほしいから」という理由で社会党支持になりましたかねえ。要するに典型的な小市民というか、西部邁言うところの「愚民」でしたねえ。

    >ちなみに、私が『右派(保守)』であるのはゲーム(PC)の影響が相当に強いです

    うーん、私が左傾化したのは文学かなあ。芥川から太宰にいってしまいまして、ああいうのに中高生時代にはまるのはよくありませんね(爆)。別に太宰が左翼的なわけでもなんでもありませんが、この論文で言うところの「どうにもならない社会的規定力をもつ資本家的商品経済社会における人間疎外、くびきからの逃亡と、ドロップアウトを合理化し、自己をなぐさめる手段としての個人の自己発現」ってところですか。どんどんとアナーキーなものに憧れ、マイナー志向になっちゃいました。

    あと、イジメとかも受けていましたが、自分のことよりも、同じようにイジメられていた友達が「原因不明」の体調悪化で急死してしまいましてね。くわしくは自己紹介に書いてありますが、そういうことも影響しているのかもしれません。

    時代的にも今はもう自分が「普通」であることを強調して全体の中に逃げ込みまずが、私の頃はまだ「普通ではない」ことをこそ誇り、全体の中から抜け出すことに意義を見出す風潮が、まだ残っていました。いわば端境期だったのかな。定期的に「全共闘ブーム」「70年代ブーム」「80年代ブーム」とか、かつて若者が元気だった時代への憧憬が繰り返されていますが、ちょうど私のころが、既存を否定して自分で新しいものを創りだす若者文化が死滅し、誰かが作った既存のものを後から観察するオタク文化に徐々に吸収されていく時代だったですね。自分の中にもその両方の志向があると感じます。もともと初期のオタクって左翼とそんなに相性悪くなかったよ。ネット初期の頃は右派の人から「左翼なんてみんなオタクだ」とか罵倒されてたし。

    >そういった経緯を持つだけに、『在特会』やその支持者は『残念な人達』としか言いようがありません。
    >(紅衛兵扱いするのもよくわかる気がします。)

    『在特会』は保守派じゃなくてカタカナ「サヨク」ですよ。彼らは日本の伝統文化の継承者ではなくて破壊者でしょうね。自分の若い頃を見ているようで恥ずかしくなりますけどね。ちょっと前にこのサイトに「私はあなたの歳になっても今の運動を続けています」と書いてくれたのがいたでしょ。あれ、私が二十歳くらいの頃に全く同じセリフを言ったことがありましてねえ、恥ずかしいやらまぶしいやら微笑ましいやら(笑)。本当に今は何を言っても無駄だと思いましたよ。

  2. 「旗旗」サイトで様々な事を勉強させて頂いております。

    88年頃から93年頃まで戦旗と関わっていました。
    今は○派系の労働組合員です。
    戦旗は「スタ克」、○派は「反スタ」をスローガンにしています。

    どこまで戦旗の「スタ克」の思想を理解しているかは自信はありませんが、今の組合にいると嫌でも「スターリン主義の問題」を考えざるを得ません。

    それはかつ克服すべきとされてきた問題を孕んだ組織運営がなされているからです。
    戦旗では絶えず「実践と省察」という自己の検証作業をせまられましたが、この作業の重要性を今の組合での活動で初めて痛感しています。

    残念ながら地域的特殊性から左翼的な運動に関わり行動するには、今の組合に留まる以外ありませんが、なんとか「スタ克の精神」を組合内に認知させると同時に自身もその精神の正しい理解とその精神を大事にしていきたいと思います。

    漠然とした曖昧なコメントで申し訳ありません。

    今後とも「旗旗」を応援させて頂くと同時に、どこかの集会で草加さんと再会させて頂くのを楽しみにしています。

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