一体コスモポリタンという言葉の正確な意義はどういうのだろう。私にはまずこの疑問が起こった。そこで『井上英和辞典』を引いて見みると、こうある。
名詞=四海を家とする人ひと。一所不住の人。世界的の人。世界主義者。
形容詞=世界主義の。宇宙的。非地方的。四海を家とする。一所不住の。一視同仁の。国家的観念を超脱せる。
これで大抵わかるにはわかったが、更にセンチユリー・ヂクシヨナリーを引いて見みると、こうある。
名詞=One who has no fixed residence(一定の住所を持もたぬ人)、one who is free from provincial or national prejudices(地方的又は国家的偏見を離脱した人)、one ewho is at home in every plac(いかなる場所をも我家とする人)、a citizen of the world(世界の民)。
形容詞=〔一〕Belonging to all parts of the world(世界すべての部分に属する)、limited or resitricted to no one part of the social, political, economical, or intellectual world(社交界、政治界、経済界、又は知識界のいかなる部分にも制限されざる)、limited to no place, country, or group of individuals bu common to all(いかなる場所、国、又は個人の集団にも制限されず、その一切に共通なる)。
〔二〕Free from local, or national ideas, prejudices, or attachments(地方的又は国家的の思想、偏見、又は愛着から離脱したる。
〔三〕Widely distributed over the globe, said of plants and animals)広く全地球上に分布されたる。植物及び動物についていう。)
これだけ読んだのでこの言葉の意義内容が私の頭の中にハッキリしてきた。大和魂を表象する、朝日に匂う山桜がコスモポリタン植物でない事は無論である。大日本の妾宅用に制限された狆(ちん)君が、コスモポリタン動物でない事こともまた無論である。日本主義者、帝国主義者、国家主義者、愛国者、国自慢者などがコスモポリタン人でない事こともまた実に無論である。
しかし私自身はどうだ。コスモポリタンか否か。
私は今、私の少年時代の事を思いだす。明治十九年、私が初めて九州から東京に遊学に来た時、私の友人や先輩の学生間に、よくこういう話のあった事を覚えている。『あいつは他国人に交際している。』『あの男は他県人と懇意にしている。』そしてそれがいつも批難の意味を含んでいた。
しかしその頃はもうそういう事で他人を批難するのは馬鹿々々しいという意見を持っている学生の方が多かった。ただ旧藩の因縁に執着する元気な豪傑連や、小さな愛国者達たちが、他の堕落したコスモポリタンを批難するのであった。私はいつのまにかそのコスモポリタンになって、同郷人とよりも、他国人と、余計に交際するようになっていた。私はその時まさに、日本国という範囲内にあっては、同郷、同藩、同県などいう地方的偏見から離脱したコスモポリタンであった。
しかし日清戦争の起こった頃には、私は一個の愛国者であった。『同郷』『同藩』という事から何等の利益も保護も受けなくなると共に、日本国内における私のコスモポリタニズムはいよいよ徹底していたが、世界列国というものに対しては、依然として多量の排外的感情を持っていた。もしその時『日本帝国』から何ほどの利益と保護とを受けているのかと問われたら、返事には当惑するほどのミジメな貧乏生活を送っていた癖に。
ところが、それから十年たって日露戦争が起こった時、私はすでに非戦論者として×国心を嘲笑していた。私は日本国民として、日本国土の極小の一部分すらも分わかち与えられていない事を知っていた。もっとも、私の父は初め小さな士族として、家屋と、宅地と、その周囲の少しの山と、金禄公債証書の何百円かを所有していたが、私が家督を想像した頃には、公債が無くなったばかりでなく多少の借金があり、家屋と地所とは全部で金七十円に売却したのであった。だから私がその時、日本国民として所有する物は、ただ僅かの家具と、 僅かの本と、僅かの衣服類とに過ぎなかった。そして僅かに文筆労働によって衣食するのであった。
したがって私は、その以前に同郷的愛着、同藩的偏見を失ったと同じように、今は次第に国民的愛着、国家的偏見を失ったのであつた。そしてその後、現在にいたるまで、この本統(ほんとう)のコスモポリニズムは私の心中に層一層の徹底を為し来たっているのである。
センチユリー・ヂクシヨナリーに、形容詞としてコスモポリタンという言葉の用例が挙げてある。
Capital is becoming more and more cosmopolitan ―― J. S. Mill.
資本はいよいよ、ますますコスモポリタンとなりつつある。ジエー・エス・ミル。
資本がコスモポリタンとなれば労働もコスモポリタンになるはずである。資本の勢力、資本の搾取力がコスモポリタンになれば、それに対抗する労働運動も同じくコスモポリタンになるはずである。したがってまた労働運動者の心理がコスモポリタンになるのは当然である。
ただし、資本は一面においてなお大いに国家的であるから国際戦争も起こり、したがって又、国家的社会主義者もあり、コスモポリタンに成り得ざる心理の働きがそこにある。アメリカの資本家に搾取されるのも、日本の資本家に搾取されるのも同じわけだが、日本の労働者としては、全く『同じわけ』に行かない心理が残っている。だからまだ世間に半煮えのコスモポリタンが多い。
私自身としては、まさに一個のコスモポリタンだと信じている。しかし私は『一所不在』でない。明らかに日本東京に居住している。また海外に旅行した事もほとんどない。『四海を家とする』ほどの広い心持ちもない。国語と風俗と人種との関係上、世界のあらゆる国民、あらゆる人種に対して、『一視同仁』というほどの、全く同じ親しみを感じうるとはいえない。したがってまた、『地方的または国家的の偏見』からは離脱しているつもりだけれども、日本人と、日本語と、日本の風俗と自然とに対して、まだかなり多くの『愛着』を持っていることは争われない。
底本:「現代ユウモア全集 第二卷 堺利彦集」
現代ユウモア全集刊行會 1928年10月20日発行
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
本サイト収録にあたって、旧漢字、旧仮名遣いを現代文にあらため、モニター上で読みにくい部分に適時空行をいれています(原文はこちら)
堺利彦 :
福岡県京都郡豊津村生まれ。貧しい家に生まれるが、地元の中学を主席で卒業。第一高等中学校へ進むものの、放蕩し中退。英語教師や新聞記者、小説家と職を転々とするが、1899(明治32)年「万朝報」に入社。黒岩涙香・内村鑑三・幸徳秋水らと交わり、理想団を結成して社会主義を主張する。しかし1903(明治36)年日露戦争時に主戦論を取った万朝報を幸徳・内村とともに退社、平民社を結成して「平民新聞」で非戦論を唱えた。
1908(明治41)年赤旗事件で入獄し、その間に大逆事件が起こるが、獄中のため罪を問われなかった。出獄後、1910(明治43)年に日本初の翻訳会社である売文社を大杉栄らと始める。
1922(大正11)年日本共産党(第一次)の設立に参加し、初代委員長となるが、のちに党を離れ、無産政党運動に転向した。晩年、満州事変が起こった際にも反戦運動の先頭に立ち、脳溢血で路傍に倒れたときも、反戦委員会の帰途で、最後まで非戦・反戦の人であった。著書に「家庭の新風味」、訳書に「共産党宣言」(幸徳秋水と共訳)など。
青空文庫 (大久保ゆう)
参考:wikipedia :「堺利彦」「第一次共産党」
AIコースケと議論しよう! この記事への質問・一言コメントをどうぞ
●回答には文字数制限があるため、内容が簡潔になります。また、制限を超えると途中で打ち切られることがあります。