人は自分が批判しているものにどんどん似ていくの法則ー「あ」さんの投稿を読んで

今回の経緯:「あ」さんの書き込み1草加レス1「あ」さん書き込み2草加レス2

 ●回想・全共闘 ////
 「あ」さん。はじめてご自分の気持ちをぶつけてこられたように感じられて、嬉しく思います。
 私だって毎日の生活は苦しいですし、「畜生!」と思うことなんていくらでもあります。そこで愚痴っているだけではなく、社会の変革に取り組んでいるおられることに敬意を表したいと思います。

 学生時代に「ニセ左翼」とぶつかって、嫌な思いをされたことがあるのですね。それで新左翼系全般に偏見なり悪意を抱くようになったのですね。それは仕方のないことですね。私だって、「あ」さんとは逆ですが、学生時代に、「5対200」くらいで共産党が多数派の場所では、ごく普通にそれこそただビラをまいていただけなのに、共産党に随分と非道な目にあわされました。だから共産党がいくら「正しいこと」を言っても心の底ではなかなか信用できませんし、当事のことを思い出しますと、いまでもはらわたが煮えくり返ることもあります。

 人間ですから、お互いにそういうのって仕方がないんですよね。そういう個人的な経験とか感情はね。もう、そういうのってこれからは根絶したいし、互いの頭を叩き合うことなんてしたくないとは思いますが、私の周辺でも、ある党派の呼びかけとかは正しいし、今はいっしょにやるべきだと思うけれども、かつてその党派との間で嫌な思い出があるからやりたくないなんてことは、いくらでも見聞きします。それがたまたま私の場合は共産党(とか中核派)に対してそういう思い出があるというだけの話です。そういう感情を持つことは責められないと思いますし、誰かを責める気もありません。

 ところが私のそういう個人的な感情が文章の端々に出るのでしょうね。非左翼の左派の人に言わせれば、私は「共産党に批判的」なんだそうです。ですが私はただ国会に議席を持つ公党に、「国民の一人」としてその時々の意見や要望を持つだけの「革新浮動層」の一人にすぎません。幅広く解釈すれば世の中の3割はそういう人だと思うのですが、どうもネットでは支持かアンチか無関心の三つ以外の態度は認めてもらえないみたいで窮屈に思っています。批判的って言ったって、私の場合は「批判的に期待している」つもりなんですがね。そして期待と支持はまた微妙に違うわけで、人の気持ちなんてそんなもんでしょう。

 それはともかくとして、「あ」さんは大切なことを思い出させてくれたと思います。それは簡単に言ってしまえば「人は自分が批判している相手にどんどん似ていく」の法則なんですが、それだけ書くと「あ」さんを「オマエモナー」と揶揄しているように誤解されかねませんので、少しくわしく書いておこうと思います。

 まず、わかりやすい例で言いますと、たとえば旧ソ連や北朝鮮で、共産党にものすごく嫌な思い(ではすまないが)をさせられて、「共産党なんてみんなとんでもない奴らだ。あんな奴らが世の中を少しでも良いほうに変えるなんてできっこない」と言う人がいたらどうしますか。「あ」さんが新左翼全般に対して言っているのもこれと同じことなんですが、こういう時に人が言うことって、主張の左右にかかわらずにあんまり変わらないパターンがありますよね。

 たとえば「オレとは関係ない」からはじまって、当初の思想や方向はよかったが「やり方が悪かった」とか「指導者に能力がなかった」とか、または「本人はいいことをしようと努力したが周囲(や他国など)が悪かった」とかね。そして最後に、「あれは真の○○主義の姿ではない」とか「裏切り者だった」みたいなところに落ち着いて、「オレたちこそが真の○○主義者だ」という流れになる。これは戦前の天皇制ファシズムなどの愛国主義を批判された時の右翼から、スターリン主義の実態を批判された時の左翼まで、少なくともパターンとしては全く同じ。私はそういうのは「死ぬまで言ってろ」としか思えないですね。つまり満足できる回答ではない。

 そうではなくて、もし「やり方が悪かった」というなら、なんでそういうやり方が出てきたのかを深く考えないといかんでしょうと。こう言いますと、だいたいの人が当事の政治力学とか個人の資質とかに還元してそれを論じるだけで満足してしまい、やっぱり「やり方」とか「周囲の人間(や他国)」とか「特定の誰か」が悪かったで、すべて理解したような気になっている。アホかと思う。確かにそういう表層的な「政治」のレベルでの分析は出発点だし、必要不可欠なものだけど、その出発点だけで終わっている。

 つまりそういう「やり方」が発生して是とされる「思想」のレベルでの検証がない。そのことをよくよく考えていけば、実は個人であれ組織であれ、自分(たち)の中にも、自分がそうやって批判している相手と同じものを、内部に抱えていることに気がつくはずなんです。それに気がつかないで批判している人は、結局は相手と同じ土俵で闘っているにすぎない。だから部分的にでも相手を打ち負かして覇権を確立した場合には、今までさんざん批判していた相手(の一番悪い部分)とそっくりになってしまう。そんなに大きな歴史的な問題でなくても、現在のネトウヨさんたちのやっている言動が、私(たち)から見れば極めて北朝鮮的な体質であることは、すでに多くの人が指摘しています。

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 そういうネトウヨらに見られる日本社会内部の「北朝鮮的なるもの」総体との闘いこそが、私にとっての一番の課題なわけで、政治的な主張というのはそれを基底として後から派生しているものなのです。そういう問題意識からは、「正しい主張をしている共産党が伸びれば日本がよくなる」と単純には思えない(伸びてほしいとは思っていますが)。たとえばネトウヨの何が問題なのかを常に考え続けていないと、いつのまにか自分がネトウヨの裏返しの存在になっていることに気がつく日がくると思うのですよ。主張が正しければそれでいいという問題ではないと思うのです。

 もちろん主張の宣伝や選挙運動も大切でしょうが、もっと実践の中で、社会の中で、「なるほど、あんたらはこういうものをつくりたいんだねえ」と、(それに反対するか賛成するかは別問題です)誰の目にも見えるものをつくりあげてほしい。まずは党の内部の関係性において先行的に示すべきだし、次に周辺の人々や運動実践の中でつくりあげていくべきです。そういう実践をやらずして、「正しい主張の宣伝」だけで世の中が変わるとは私には思えないです。私が「あ」さんの実践の報告をお待ちしていますというのは、「あ」さんが目指している社会とはいったいどういうものなのか、それを知りたいからです。そういうことは共産党の公式な主張を読んだってわからない貴重なものです。実は「公式の主張」なんかよりも、むしろそういうところでこそ人は共産党を判断し、信頼もよせるのではないでしょうか。

 こういう考え方を現役左翼時代の私(たち)は「主体形成」と呼んでいました。スターリン(ロシアマルクス主義)やトロツキー(西欧近代主義的マルクス主義)の系譜を引く人たちからは、「主体形成主義」などと「主義」をつけて蔑称されていましたけどね。現役を離れた今でも、スターリンやトロツキーのマルクス理解の中には「人間」というファクターが欠落しているんだろうなと思っています。これは共産党を含むそういう批判者たちが非人間的な政治ロボットであるという意味ではなく、ちゃんと毎日の実践の中では、この人たちの間でも人間的な熱情や理想、感動的な逸話は無数にあるわけなんですが、それが党の共産主義論や思想のレベルでは疎外されている(機械的唯物論=タダモノ論)がゆえに、部分的にしろ多数派や権力をもった空間では、共産党であれどっかの党派であれ何かおかしなことになってしまうことが多いと思うのです。殺風景で冷たい資本家的な「個人主義」に対置しうる、魅力的で共産主義的な内実がないというか。

 共産党って、「少数派の仲間」であるときは、本当に良心的で献身的で頼りになる仲間なんです。そういう意味では頼りにもするし尊敬もしています。一方で、いざ共産党が多数派で、こっちが少数派という関係になると、これでは自民党のほうがまだマシと思えるくらいにエゲつない態度を平気でとるんですよ。まあ宮本顕治さんが存命中の時代の経験でして、今は知らないんですが、これは共産党が嘘つきだとかいう問題ではないと思います。共産党は嘘をついたのでも手のひらを返したのでもないのです。むしろ政治のレベルでは一貫しているのですよ。つまり彼らは少数派の時も、多数派になってからも、常に「正しい主張」を実行しようとしているだけで、本人たちの頭の中では何の矛盾もないのです。

 しかしそれこそスターリン主義が発生してきた歴史そのものではないでしょうか?毛沢東やポルポト政権の元で、たくさんの民衆が死んだといいます。では、「ポルポトは悪人だった」と断罪すればそれで事足りるのでしょうか?とんでもないと思います。とりわけ毛沢東はすこぶる善人というか人間的には神でも悪魔でもない普通の人で、情熱をもった理想主義者だったと思います。彼はその理想を実現し、人々を救うために努力を惜しまない人だった、そのせいで多くの人が死んだと考えたほうが、むしろ歴史は複雑怪奇にならずに理解しやすいと思います。私はスターリン主義というのは、政治のレベルでは共産主義、思想のレベルでは資本主義という、ちょっと考えただけでもそら恐ろしい結果をもたらすであろうことが、最初から約束されていた組み合わせだと思っているのです。

 どうでしょう?私の能力がないばかりに、簡潔に説明することができす、長くなってしまいましたが、言わんとすることは伝わったでしょうか?私が主張の宣伝だけではなく、「実践の報告をお待ちしています」と書いた真意もわかっていただけますでしょうか?別に日常活動を報告しろという意味ではないのです。

 「あ」さんは自身の実体験とそれを補強する日本共産党の公式見解に基づいて、新左翼系のことばかり批判したいのでしょうけれども、各現場の実態は、どこそこの党の「公式見解」とはずいぶんと違うこともあります。それは夫婦喧嘩でも、夫から事情を聞くか、妻から聞くかでかなり違って見えるとの同じことでしょう。私の実体験からすれば、共産党だってカクマルと似たようなものというか、私にとって「中核派・カクマル・共産党」は内ゲバ主義の御三家であって、違いは単なるレベルの問題にすぎないのです。

 市民運動的な経験とその見地から、そういう「レベルの問題」は大切とかいう人もいます。まあ、運動現場でおつきあいするかどうかを決める時にはそうでしょうね。けれど、人民に対して自分たちに未来を委ねよと主張する「党」として見ればそんな言い訳は通用しません。大学の自治会とか労組とか、部分的にせよ市民社会に先駆けて彼らが「権力」をとった場所での彼らの実践活動や、そこで反対派とどういう関係を築いているのかは、まさしく彼らに国家権力を委ねた場合にどんな社会が待っているのか、その雛形に他ならないし、そういう目で見ないといけないのです。

 私の場合は10数年ぶりに集会とかに出るようになった時に、そういう個人的な共産党(と中核派)への「嫌な思い出」は全部許すと決めたのです。許すからにはすべてを許します。ですが許すと忘れるは違います。共産党が今の「公認の党史」にあるような言い訳をやめるまでは、非道は非道として忘れることはしません。いつまでもしっかりと記憶していきます。その上で、共に闘うべきだと思った時には共に闘うし、正しいことを共産党が言っているなら、その主張の範囲内において「共産党は正しい」と言うし、応援だってする。もちろん批判するべき点は批判することもあるだろうけど、それは昔の「うらみ」からくる偏見ゆえではさらさらない。

 もちろんこれは私の個人的な決意ですから、「あ」さんや他の人に押し付けたりするものではありません。私が「共に闘います」と言ったって、共産党が「嫌だ」と言えばそれまでの話ですしね(笑)。でも、私がそう考えたということを、ネットで書いて公表することも、いろんな考えが並立して存在する中で一つの材料としての意味があると考えているのです。つまり自分の考え一色で世の中が染まることが「よいこと」だと私は思っていません。私の考えだって常に変わっていきますが、それも「あ」さんを含む他の多くの方々が自分の考えを提示してくれているからこその賜物であって、思索を深めていける。それが「複数主義」ということであって、私はこれからの運動はいろいろな場面でこの複数主義ということが極めて重要な考えであると思っています。「自分の考えを押し付ける気は無い」とか「荒しは許せない」というのはそういう考え方からなのです。あとは単に自分の人生という旅の中の一つの風景にすぎないという思いもあります。

 かつての私の仲間内では、中核派の運動展開を批判し続けていました。それは数の上では非・反代々木系の左翼運動の主流派なのに、実践では運動を束ねる主流派には本質的になりきれない、どこまでいっても「わが派があらゆる場所をヘゲって制圧し、最後にわが派が天下をとる」という発想、「最大の党派闘争は自民党(今なら民主党か)との党派闘争である」といったような、革命を党派闘争の延長線上にしか考えられない歪んだ発想、一言で言って「政治はあるが思想がない」機械主義的でスターリン主義的な革共同イズムを批判してきました。他にも書き出せばいろいろありますが、要するに、その批判の延長の一つとして共産党も批判してたし、民衆にとって求められる「党」とは何かということについて拙いレベルで青臭い議論をしていた。だからこういう時に、要点は定まらないながらもずらずらと文章が出てくるわけですわ。

 もちろん、その「政治」の分野におけるしたたかさやプロフェッショナル性、機構化された組織のあり方に関しては、中核派にも共産党にも別の意味で敬意をはらって学び、追いつくべき存在だと考えていました。プロフェッショナル性に対してアマチュアリズムを対置したり、いくら内ゲバ主義でも自分たちより権力と闘っている中核派運動に対して反中核運動を対置するなんてのは、負け犬の遠吠えだと思います。共産党や中核派を批判するのであれば、たとえ規模的に小さくても、共産党や中核派などとは違う反権力運動を作り上げて、それをもって対抗していく、どちらがより権力と闘うかを競うべきだと思っています。

 党の人間である「あ」さんと、市井の個人である私ではかみ合わない点も多々あるとは思いますが、そんなところです。むしろ「あ」さんが嫌う「ニセ左翼」の党派の人間のほうが、私より「あ」さんの感覚に近いかもしれませんよ。
 まあ、とりあえず負け犬の一匹がここで吼えているくらいに思っておいてください。でも、犬は犬でも赤犬なので、少しやさしくしてやれば尻尾をふるかもしれません(笑

コメント

    • 2010年 3月 17日

    お返事ありがとうございます。しおらしくなった「あ」です。
    まず最初に「在日とかどうでもいいんだよ」という発言についてですが、差別で書いたわけではありません。在日だろうが日本人だろうが、そういう区別付けが不要であるという意味です。といっても、別にその民族性を否定するわけではありません。(これについての反論があれば是非お願いします)
    なんて書きましたが、自分自身物事を区別する人間なのかもしれませんね。区別して「あれは違う」「これはそうだ」という人間かもしれません。
    どこからどう話をすればいいのか、自分から喧嘩ふっかけておいて、こんなことを言うのは申し訳ないですが。あなたは信じてはくれないかもしれないが、私はあなたがこのようにちゃんと返信してくれることを期待しており、ちゃんと返信しんてくれたのを嬉しく思います。
    私とあなたとでは時代は全く違く、経験も違うでしょう。そして同じ時代を生きている人でも色々な経験をしているわけで「この時代はこうだ!」とか「この時代に生きている人間はすべからくこうだ!」だとかもっと言えば「この組織に所属しているものはすべてこうなんだ!」ということができないということも分かっています。
    だから私も自分自身の所属している党の人間から「俺はニセ左翼から詰め寄られて・・・」とか「トロの連中はゲバ棒でやってきたが、俺たちは素手で戦った」ということしか知りません。
    あなたのお察しの通り、今でも私の言う「ニセ「左翼」」がある程度活動をしている大学に通っていたものです。デモに参加しなければサークル部室召し上げ、自治会費代理徴収などなど・・・私はそういう学生が望んでいないことをやっている人たちが嫌いでした。(本来的に望んでいることかもしれないですが、自覚の無い学生にそれを押し付けるような行動がいやだったのです)
    私はニセ「左翼」にいやな思いをさせられた、しかしあなたは「日共」にいやな思いをなさられた。私はあなたが嘘をついているとは到底思えない。しかしながら私は党の言っていることも嘘とは思えない。
    しかしこれは、両立しえることだと思うんです。今の共産党では私みたいなもんは「はみ出し者」ですよ。
    だから・・・辛いんだ・・・・
    あなたのサイトで「あ」なんていう匿名で書き込みするのも
    正直言えば、私の弱さである。党内での私の立場が下がるのが嫌だし、私自信いわゆる「民主団体」で働いていることもある。過去に除名された人たちのこともある。私自信は「そいつらは悪い奴らだったんだ」ということで私自身とは違うものと区別して考えることもある。しかしながら、私はあなたみたいな「ニセ「左翼」」と対話したいという気持ちもある。しかし私のやっていることは私が嫌いな「ネトウヨ」のそれだということも分かっている。分かっている。しかし、私はこういう行動表現をしてしまう。
    しかし、今の「民主主義」という社会で、社会を変革するということになれば「共産党」しかあり得ないんですよ。だから私は日本共産党なんですよ。
    自分の考え一色で世界を染めることがよくない。
    私にはわかりません。みんなそれを目的として党派活動をするんじゃないんですか?
    私には権力側の「分断」にしか思えません。
    バラバラにすれば、奴らの思い通りにできるじゃないですか。共産党に結集させない行動にしか思えないんです。
    そして私が一番聞いてみたいと思ったことが一つあります。「在特会」に対抗するデモなんです。私も前の書き込みで書きましたが、あれではたして在特会が人種差別をやめると思いますか?
    党はあのことに関して黙殺してますね。赤旗毎日読んでますから分かります。私はその態度が正しいと思うんですよ。連中にたいして何らかの行動を起こせば、それこそが「在特会」を利する行動なんですよ。それよりも一人ひとりと対話することが重点だと思うんですね。
    私の理想と思う社会は、戦争や暴力で傷つくことなく、平和で、私みたいに能力のない人間でも最低限の生活をして、自分がやりたい趣味や楽しみをやり、仕事は上司からの執拗な叱責をうけることなく、プレッシャーを感じることなく、のびのびとやり・・・そういう社会です。
    申し訳ないです。私の性格か、あなたの言うことをすべて受け止めてすべてを返信することができません。でもあなたの返信にこたえたいと思い、頭をひねって書いてみました。私はあなたと違う立場かもしれません、受け入れられないこともあります。しかし話をしたいのです。

  1. 「あ」さん>

    まずですね、私はふだんは基本的にレス不精なので、いつもマメにお返事しているわけではないのね。実生活でピヨっている時もありますから。だからなかなか、あるいは最後まで返事がないこともあると思いますが、その時は許してね。今回は「あ」さんの投稿と、私がふだんから書きたいとおもっていることがたまたま一致したから続いているわけでして、そのへんは今のうちに謝っておきます。

    さて、その上でお返事申し上げますね。

    > まず最初に『在日とかどうでもいいんだよ』という発言についてですが、差別で書いたわけではありません。
    > 在日だろうが日本人だろうが、そういう区別付けが不要であるという意味です。
    > といっても、別にその民族性を否定するわけではありません

    これは私も基本そう思います。彼らの民族の独自性などは尊重しなければならないのはもちろんだし、それは彼らの権利であるわけですが、人間同士の関係や享有する人権において何かの区別をつけるのはナンセンスですよね。だから「在特会」のような民族差別主義者に『在日とかどうでもいいんだよ』と言ってやるのは正しいと思います。

    一方で、そんな「どうでもいい」はずの違いを理由にして、彼らが不利益な扱いを受けているという差別の問題がありますよね。それは法制度の上でだったり、人々の意識の上でだったりします。たとえ意識の上の問題でも、それは社会的な構造やその歴史性がある。そこでは「同じもの」ではなく、厳然と社会的に「違うもの」として扱われているわけです。で、そういう問題を考える時や、考えている人に対して『在日とかどうでもいいんだよ』と言っちゃうのは「スルーできない」言い方だと思ったのです。

    まあ、書き出すと長くなるし、「あ」さんもそのへんは書かなくてもわかる人だと思うから書きませんが、先の「障害者」についてのエントリーにもありますように、『同じだということを強調しすぎると欺瞞になるし、違うということを強調しすぎると差別を正当化しかねない』ということだと思います。なお、それが生み出されてくる社会構造との闘いをぬきにして、道徳的にいくら「差別はいけません」と百万回繰り返しても、たいした力にはならないとも思います(何もしないよりはずっといいですが)。

    続きはまた明日。

    • TAMO2
    • 2010年 3月 18日

    ちょっと関係するかなあ、と思って書きます。

    先日、ソ連の歴史の調べ物で図書館をうろついていたとき、先日死去した立松和平さんの本が一箇所にまとめて展示してあったのですね。その中の『光の雨』がございまして、これは連合赤軍を題材にした本です。

    何気なく手にとって、ぱっと開いた瞬間に(P276だったかな? ややぼやけていますが映像として頭に張り付いています)「人間の弱さを認めてあげることができないと、解放なんてできないよ」と書いてありました。

    過去何度も言われていることと言えば言われていることなのですが、やっぱり衝撃的ですね。

    さて、草加様のおっしゃる「主体形成」あるいは、連合赤軍のおける「共産主義化」という概念ですが、これは哲学史的には「全的人間」という夢、あるいは妄想の産物と思うのです。この概念は、人間はあらゆる分野において能力を伸ばし、開花可能であるというものですが、どうもマルクス主義者にとっては階級闘争の道具として、ひとつの方向に向かせるような傾向をもってしまったと考えています。

    三つ子の魂百まで。人間は幼少のときに作りこまれた性向とか、得手不得手--極端かつ有名な話では、フェラガモは誰に教えられた訳でもないのに、十歳の時に姉へのプレゼントとして精巧な靴を作りました--があります。得手は伸ばそうとしますが、不得手は避けます。小生思うに、それは仕方のないことです。

    だが、それを放っておくと「全的人間」にはなり得ません(笑)。すると、何らかの強制・抑圧を介在させなくてはならなくなります。そのパトスでもって、幹部が人間を道具として考え、「これが人間解放の方向だ、これで君は全的人間の方向に歩める」と措定した方向に無理やり向かせるとなると、どうでしょうか。解放のために、強制と抑圧が正当化されます。それについてこれないものは、粛清・総括。

    いやまあ、本家本元のスターリン時代のスターリン主義はさらに入り組んだおぞましい道に入るのですが、それはそれとして、「全的人間」の夢(妄想)から、分業を憎んだようなマルクス・エンゲルスに問題なしとは出来ないと小生は考えます。

    それへの対案として、小生は「持ち出し思想としての共産主義」というものを考えています。人間、得手不得手やら、長所短所は補い合えばいいし、そうやって生きてきたんですから。

    そういうわけで、「パラチェン」と言って共産主義を撤回した--気持ちは分かるし、正しいと思うこともある--党派とは違い、個人で勝手に共産主義をリフォームしていきたいと思います。

    • 2010年 3月 19日

    >草加耕助さん
    お返事ありがとうございます。新しい日記を二つも作ってくれてうれしいです。別の話題をしたい方には申し訳ないですが、嬉しく思います。
    返信が遅いということですが、別に結構です、あなたの書きたいことと一致しているから書いているだけということですが、そういうことがあっても返信がいただけるのならば私は大丈夫です。

    そして、あなたのこのコメントに対して、率直に「確かにその通りだ、次からは気をつける」と述べます。(以降言いわけがましいことを言います)
    全くその通りです。「在日なんてどうでもいいんだよ」これはまずい言い方でした。こういう日本語を使うのはよくないと思いました。誤解を生む言葉であると思いました。
    しかしながら、私の言葉を「斟酌」してくれたあなたに感謝しております。

    >同じだということを強調しすぎると欺瞞になるし、違うということを強調しすぎると差別を正当化しかねない』

    同じことを思っていました。
    しかし、私のような人間は実は世間的に言えば「障害者」みたいなくくりになってしまうのではないでしょうか。「若者は政治には無関心」「熱くなるのは頭の悪い人間」「マジになってるのは空気読めない奴」とか。
    あなたのこのコメントを見てそう思ったのです。
    いや、私自身にもそういうところはあります。今時の格好をした人を見ると「むかつくなぁ」とか思ったりカップルを見ると「けっ!」って思ってしまうところがあります。「日本共産党」の宣伝対話でも、いやな対応されると「頭の悪いやつめ!」と思います。
    結局は自分自身とは違うものは「腹が立つ」ということなのではないでしょうか。
    うーん。在特会との話にもつながるし、俺のニセ「左翼」嫌いにも話がつながるなぁ。(と、勝手に妄想しています)

  2. TAMO2さん>

    「主体形成」という言葉を使った段階で、そういう人が出てくるだろうなとは思った。
    それがTAMO2さんとは思わなかったけれど、よく考えればさもありなん(笑

    TAMO2さんは含まれないでしょうが、だいたいまあ、この言葉そのものに拒否感を伝統的に示す潮流の論理としては、中央指導部が党員に、党が人民に、自分にとって都合のいい価値観を(暴力的に)押し付けるものであるという理解にはじまり、連赤事件のイメージをそこに重ねてしめくくるというのが一般的な定石というか、わりとステレオタイプな批判でしょうね。

    だいたい誤った思想的な傾向があるというなら、それは特定個人の問題ではなくて、自分たち全体の問題のはずなのに、特定個人を粛清してあまつさえ殺してしまうような幼児性のどこが「共産主義」なんだと思いますけどね。組織原則としても、内部の相互批判は、打撃的な方法でおこなってはいけないのが当然でしょう。そんな子供の遊びレベルの「革命ごっこ」にならないようにするために、誰それが悪かったという個人レベルに還元しない、思想レベルでの問題の立て方が必要だと思うし、主体形成という考え方が必要になってくるのだと思います。そういった主体形成がないから、連赤事件もおこったし、執行部が下部を統制して支配するような党のあり方も発生してくるのだと思う。

    つまり同じ「主体形成」という言葉でお互いに全く違うものを語っているのでしょう。
    「主体形成」という言葉を使うからには、TAMO2さんが書いたような伝統的な反主体形成論についても挨拶しておかなくてはならないとは私も感じましたよ。ただ、今回は左翼思想が人間不在の機械的な発想(タダ物論)になってきたのではないかというのが論旨であって、いわば伝統派に対する戦後派の批判という系譜でしたので、そこまで書いていたらどんだけ長文になるねんということでばっさり割愛しました。まあ伝統派の流れに属する方との対話ですから、そのへんご理解ください。

    要するに、よしんばレーニン主義組織論を全否定して、党内民主主義を徹底し、風通しをよくしたとしても、それで党官僚的なあり方や、党が人民に君臨しようとするような発想がなくなるわけでは全くもって全然ないと思います。「人民のため」と言いながら、実際には党の主観を人民に押し付けようとしているだけではないのか、中央の主観を下部党員に押し付けようとしているだけではないのか、あるいは党員(や周辺支持者)に対しては、対話と説得を中心とした民主的で左翼的な適切な対応がなされている場合でも、非党員に対してはそれが貫徹されないような人民抑圧の党になっているのではないか、そういうことを常に点検し、自己省察していくことは、制度的な民主性とは別に必要な作業だと思うのです。そういう作風をもった党派たれということを、私は主体形成という言葉で表現しているのです。それはそこに到達するべき目標地点があるかのような、宗教的な「悟り」や「解脱」のようなものではありません。ましてや「主体形成を成し遂げた人」なんて幼稚な表現は内容的に自己矛盾です。

  1. 2010年 3月 18日
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