山行体験記3)女性隊のリーダーに選ばれて:上州武尊山行

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上州武尊山行・個人総括(3)

いざ極限的な状況に追い込まれたとき、ブルジョア社会で育まれてきた女として作られた性へと回帰していったりする。「女だからできなくても何も言われないだろう」とか……
手の感触がない。よく見ると手が赤黒くなり、ぷっくりとふくれあがっている。痛い。だが、離したら落ちてしまう。……

最悪の体調に苦戦した初日

厳冬期登山イメージ写真

 今、照りつける日ざしの中を一歩一歩、歩むごとにザックの重さが私の肩にずしりとくい込む。だが、「みんなふんばっているんだ、そんな中で私がバテでもしたら、隊は誰か引っぱっていくんだ、何とかがんばり続けなければ」そんな思いで、私は体調の不調を精神力でカバーしようと努めているのだった。

 この山行を決定した当初、隊の編成で女性隊をつくるという方針のため、私自身か隊のリーダーとなってこの山行を担っていくことを任せられたわけだが、正直いって初めは不安であった。それは、(1)女性だけですべてテントをも持っていく中で、鎖場通過ができるだろうか、(2)三人とも冬山二回目、山行そのものも三回目という初心者で、果して私が牽引していけるのだろうか、という理由による。
 そしてさらに山行の二週間前、引っ越しをしているとき、荷物を持ち上げたとたんにギックリ腰になり、骨までその影響を受けて炎症を起こし、医者に通う身に陥っていった。不運は続くものである。その時のホコリの吸いすぎで、ぜん息の発作を起こし、トレーニングはもちろんできなくなり、体調そのものが全く変調してしまったのである。
 こういった状況の中で乗鞍を数倍するような冬山に挑戦するのは非常に勇気がいった。なぜなら私にとって、山行そのものに未知の領域が多く、縦走で、鎖場で、雪が深く、三重苦であると聞かされており、今までのように荷物も男性にたよっているわけにはいかず、そんな中でどういった状態になるのか判断がつかなかったからだ。

 しかしながらこの山行は何のために行うのか、今まさに中曾根政権のもとに二期着工攻撃が目前に迫りくる中、これと対決しうる戦争遂行能力を身につけ、日帝国家権力に勝利しうる武装力を高めていく必要がある。そして隊として行動し、登頂することにより、組織力と貫徹力をもった主体へと、自己を形成していく場としての山行であり、共産主義者たらんというわれわれにとって、肉体的に極限的な境地に追いやられたときでも、自己を組織の中へ投じていくことにより、全体を勝利へ導いていくことは、当然ながら問われてくる問題でもあった。
 だからこそ今回においては女性活動家としての自立を目指し、組織者へと自己を練磨していくものとして、何としても今回の上州武尊山行に臨み、最後まで頑張りきることが今の私の課題なんだといいきかせた。たとえ腰痛が再発し鎖場で落ちようが構わない、という大きな決意でもって挑戦したのである。

 こういったことの中で、今私は雪を踏み固めながら、すぐにでも倒れこんでしまいたい気持ちを押し殺し、確実に一歩ごと足を踏み降ろし、この広大な山に挑んでいるのだった。
 乗鞍と違ってすぐベースキャンブ地に着くのでもない。非常に長い行程のように感じられ、私自身途中荷物分担をしなおす中で、体調は回復に向かっていった。が今度は別の一名がバテていく。しかしこれも基本的に××地区の女性隊の中ですべて解決するという方針のもとに、○名で全体のあとを追いかけながらやりきっていった。最後はA同志をB同志がピッケルで引っぱりつつも男性隊からの援助の手をはねのけ、自力で全員がキャンプ地に着くことができた。

 一旦ほっとしながら、真暗な中でA同志を休ませ、テントは二人で設営していったが、ヘッドランブなしで行ったためきつかった。しかし行く前に練習をしておいたので、すんなり張ることができた。とにかくこの日はA同志、私とも体調がすぐれず、A同志が真ん中で寝ることにより、全体の体調の回復をはかっていった。

縦走貫徹への決断

 二日目は前日と比べると全体的に体調がよくなっていたけれども、最も体調のよいC同志にテントを運んでいってもらうことにし、あくまでも全員で登りきることを目指していった。
 朝、テント撤収が、水を含み凍りついているせいか、遅れたため。またも全党のうしろの方になってしまった。が、全体はラッセルをしながら進んでいっているので何とか追いつき、ほっとした。天候はなんとかもちそうである。改めてこの頂きを眺め、この雄大な山頂を征服しようとしているんだなと思うと、行くまでの弱気はふきとび、喜びへと変わっていった。

 予定では今日降りることになっていたが、日標である上州武尊を登りきり、剣ヵ峰、不動ヵ岳をこえて武尊登山口に出るには、今日一日では無理である。そのため職場の都合とか体調とかに個人差があることを考え合わせ、上州武尊山頂から引き返す部隊と、当初の計画にそって山行を継続する部隊の二手に行軍を分けることになった。どちらに判断するかはパーティ独自で決定する、ということである。
 決定するとき、地区の者は先に進んでいてそこには誰一人居ないので、地区全体がどうしたのかもわからない。しかし置いてあるザックとか、山行における気構えを考え合わせるならば、きっと男性隊は当初の計画どおり行くだろうと思った。

 振り返ってみれば、今回二隊もつくった女性隊の意義は何だったのか。元気のあるとき、余裕のあるときはすんなりと頑張り、革命的主体をめざして男性・女性にこだわることなく、自己を活動の中に動員するよう努力する。しかしながら、いざ極限的な状況に迫い込まれたとき、ブルジョア社会で育まれてきた、女としてつくられた性へと回帰していったりする。「女だからできなくても何も言われないだろう」とか、やりきろうとしない自分を自己批判的にとらえ返すのではなく、責任を他へ求め、場合によっては方針を決定した指導部、組織の問題へとすり替えることにより、グチをもらしたり、不満をさらけだしたりする。そのことにより、自己を自立した主体ヘと成長させていくよりも、むしろ「第ニの性」としての女性の位置にとどまる自分に安住し、積極的な組織への関わりを怠ってしまうことになっていく。

 だからこそ、ここでの決断は大きな意味があった。確かに自分においては体調も当初からよくなかったわけである。また職場も、医者に通ったり山の準備やらでその前から休んでおり、何の断りもしていなかったため、急に休んだら少人数の職場では当然仕事も困難となり、風当たりが強くなることが予想される。
 だが私が今回の山行に参加するにあたっては、当然山行が長びくことになることも予想していたことだし、たとえ職場でイヤミをいわれたりクビになろうとも構わないと思っていた。また体調の不調に関しては、精神力で乗りこえていけば何とかなると思った。革命運動を担っていこうと決意し、逮捕も辞さず、死をも賭けてと普段からロにしていることを、実践段階において日和ってしまうことは何としても避けなければならないと思ったのだ。

 だからどんなことがあっても隊全体を当初の予定通りに縦走を貫徹させることが、勝利の喜びと自信へと導き、女性活動家への自立を形成するんだという確信のもとに、隊を縦走貫徹へと牽引していくことが、今私に問われていることを実感した。
 決定するとき、別の女性隊と合流して相談しようとしたが、「職場の都合と体力に合わせ、私達は今日下山するよ」という言葉を聞いたとき、隊全員がこの苦しい中をさらに登りつづけていくことに同意するかどうか不安になったりもした。(実際には、別の女性隊も山行を貫徹しきり、100地区の勝利の一翼をがっちりと担っていった)

 縦走を貫徹することを提起したとき、前日の疲れ等の体力的な問題とか職場の都合などで帰ろうという意見が出たりした。しかし、もしも全体の体調が整わないのなら私が明日テントを運んで荷物分担を重くしてもいいという決意のもとに、「女性隊の自立ということが、こういうとき問われるんだ」と言い、最後まで縦走を継続することを提起したとき、全員が同意してくれた。A同志にしても前日の疲れや職場の問題のことも含め初心者ばかりの女性隊で貫徹することは不安だったに違いない。が、そういった状況の中においても、自らが最左派として戦旗派の位置を支えぬくべく縦走の継続を決意していった。そしてC同志にあってもテントを運び、自分のペースではなく、隊のペースに合わせる中で、体力のある者が弱い者をフォローする形を守り抜いてくれた。そういった中での決意だった。

 歩いていくと、100地区の男性が(荷物をとりに)もどって来るのに顔をあわせた。もしかしたら100地区でも多くの人がここから下山するのかもしれないと思った。そうだとしたら、そのような状況の中で自分達で縦走を貫徹する方針に対しての不安や不満とか、志気の後退が出るのではないかと思い、再度「もう一度下山するか、継続して行くかを決定しようと思うけれども、方針が決定したら、自分達で決めたことだからグチは言わないでくれ」と問い直した。全員が前進することに同意した。縦走を継続することに隊の方針は決定したのだ。

 隊の誰もが以前の乗鞍と比べたらはるかにきつく、そのあとどんなことか待ちうけてくるかもわからない不安を持っていた。だが、この決定の中で、私自身も他の同志達の主体的な女性活動家としての自立した積極性と献身性に応えぬいていけるようがんばっていくことを決意した。ここで帰るのと登りきるのとでは、終わったあとの満足感、喜びにおいて雲泥の差があるし、今後の活動に対する気構えも大きく違ってくる。

 そしてわれわれは登り続けた。ふりむくと、ペースが隊のペースよりも自分のペースになってしまい、先に進んでいる自分に気づく。リーダーとして、やはり最も苦しい者に合わせ、ときには励ましながら行かなければならない私がこんなことではいけないと思い、時おり振り返りながらゆっくりと登っていった。
 途中雪が凍りかけているのと岩場があるとのことでアイゼンをつけた。しかし進みながら二回もアイゼンがはずれてしまった。技術的に未熟なことは仕方ないかもしれない。だがしかしアイゼンを何度もはき直すことによって隊のペースがくずれて、体力が消耗することを心配し、先に行ってもらったりもした。あとで知ったのだが私のアイゼンは部品がひとつ足らず、不良品だったらしい。悪いときに悪いことが重なるものだ。

剣ヵ峰を越えて

 そうしているうちに剣ヵ峰の鎖場のところまでやってきた。ふらふらしていたけれど、岩も思ったより楽な気持ちで登りきれた。というよりも、「落ちたらどうしよう」というような恐怖が疲労でかき消されていたという方が正確であろう。ともあれ、かつて子供の頃、無邪気に遊び、石垣を登っていたときの気持ちとオーバーラップしながら、岩場が敵というよりも、むしろ自己と自然とが一体であるような感じで登っていった。皆もついてきてる。それどころか、もう一隊の女性隊と男性隊の一部とも合流した。非常にうれしかった。一端途中まで下り、再度登るには大きな決断があっただろうか、これで100地区のほとんど全部が全行程を貫徹する道を選んだわけだ。

 そうこうしているうちに疲れたせいか、何度か吐いたりしたけれど、今の私にとって、そんなことはどうでもいいことであった。とにかくやりきっていくことに意識を集中し、臨んでいった。
 岩場を降りるとき、素手でテープを握っておりていった。途中でザックが木の枝にひっかかる。取ろうとしてもなかなか取れず、手の感触もない。よく見ると、手が赤黒くなり、ぷっくりとふくれあがっている。痛い。だが、離したら落ちてしまう。必死でテープをつかみ、ザックはD同志が枝を払いのけてくれたため降りることができた。あまりの指の痛さに思わず手袋を出し、こすり続けた。この色にしてこのはれあがった太さ。もしかしたら指をちょんぎっちゃうのかな、なんて思いつつ暖めた。やっともとに戻った。見るとC同志も同じことをしている。そんな痛々しい思い出をはらみながら、第一の難関を突破し、二日目のキャンブ地に到着した。

 すると男性隊の人達がコーヒーを沸かして待っててくれた。この一杯の暖かなコーヒーはわれわれの苦しみや疲れを。一挙に吹き飛ばすかのようなおいしさであった。女性のみんなで回し飲みをして、身体と同時に心もどれほど暖まったことか。私達は、もうすでにコ-ヒーやお荼はすべて使いきって何もなかったから、コーヒーにありつけるなんて夢にも思わなかった。
 この日は三人で協力してテントを設営し、ラーメンを食べた。隣のテントの男性隊からもスーブを分けてもらい、本当に暖まる思いだった。疲労のため食欲は出なかったが、おいしく食べられた。都会においては何のへんてつもない食べ物であるが、山ではコーヒーもラーメンもスープも、本当に感激して味わうことができた。

 前日と比較してみるならば、一日目は他の女性隊の補助のもとに登っていったわけだが、二日目は三人でやりきり、しかも苦しい道を選択していったのだ。そして夜はここまで来たことの喜びでひと安心しつつも、明日に備えて早く寝ることにした。たとえホッとしても山では体力がかんじんだ。特に今回はきつい山行であり、しゃべりすぎることにより体調を乱すことを心配して、9時頃眠るようにした。夜は一日目よりも風の抵抗が少なく、ある程度眠れた。

不動ヵ岳の絶壁

 次の日は、前日の朝出発が遅れたことを思い直し、四時起床を三時半起床にした。その成果があってか、出発はスムーズにいった。すべての行程において、ワカンやアイゼンの使用は隊の判断に任せられる。初心者の私にはどこで何をしていいのかわからないけれど、他の隊の様子を見たり、このかんの経験から、雪が深そうだったらワカン、岩場があったら初心者にとってはアイゼンがあった方がいいなどと自主的に判断して、やりぬいていった。

 不動ヵ岳においては一時間ぐらい待ち続け、全党のうしろの方で登っていった。見てると簡単にできそうに思えても、実際にやってみるときつい。あと10センチ足が長かったらどんなに楽かもしれないなどと思ったりしたが、そんなことを考えてもこの現実でやりきるしかないのだから、一歩一歩足を確実に踏み込むのを待って何とか登ったら、すぐ絶壁で、向きを変えて下らないと落ちてしまう。かつて誰かが落ちたらしい記念碑がある。テープに頼り下っていくうちにアイゼンがはずれた。しょうがないから片手でアイゼンを持ち、ゆっくりと降りていった。しばらく待っていると二人がやってきて、難所をやりぬいた安堵感と共に(前の隊とは大差がついたようだが)あとは地道におりるだけだった。

 他の隊は全く見えないが、最後に残った男性隊にルートの指導を受けながら、転び転び降りてゆく。後ろを振り返ると、A同志も転びつつ、しかし疲れを振り払いついてきている。日ざしの暑さが口渇をよび、雪を食べて歩く。E同志にもらったつららは大切に食ベながら行った。男性隊をみていると、ふかふかの雪をすばやく駆けおりるが、私達はよろめきながらしか進まず、体力がすり減っていく。しかし全体の最も後ろにいるわけだから、ゆっくりと休むわけにもいかない。厳しいけれど、ほとんど休みなしで、たんたんと降りていく。「だが、あとは下るだけなんだ」そう思いながら、時には「がんばろう」と励まし合い、脱水症状と暑さと疲れ、またザックの重さなどと闘い、なかなか終わりのない道を歩み続けた。
 どういうわけか、チェ・ゲバラがボリビア山中で闘ったことや、中国の長征の旅で死にそうになっても勝利に向けて闘っていった革命家のことが頭に浮かぶ。そして彼らの遺志をひきつぎどこまでも歩き続けるんだ、そう思って極力自分の消耗は押し殺し、隊の勝利のことを念頭におき、ときにはピッケルで身体を支え降りていった。

 やっと人家に出た。皆の顔がほころぶ。バス停に着いたときは全党の最後だった。だが岩場での順番のことを思えぱ、それほどタイムの差はなかったらしい。しかしたとえ遅くとも、未熟な者同士が自分達の力を合わせることによって全行程を完遂しぬいた成果は大きい。
 わが隊においても体の不調を乗り越えやりぬいたA同志、最後まで凍った重いテントを背負いながら体力的に隊を牽引しぬいたC同志。そういった中で、私も彼女達に応えるよう山行をやりきったのだ。まさに隊全員による勝利であった。さらに初日においては地区のもう一つの女性隊B同志らによる協力のもとでの女性隊としての成功。そのことにより地区そのものの山行を勝利へと導き、全党的にもラッセル部隊等の牽引により、全体としてやりきったのである。

 自分自身においては技術的な未熟さや、それに伴う判断の不充分性があったといえる。それに自分で地図をみて判断するというよりラッセルのあとを頼ることによって初めて縦走を貫徹することができたものといえる。そういった未熟さは、今後の山行において一つひとつ改善していくつもりでいる。
 しかし今回の山行では得るものが非常に多くあった。

さらなる前進をめざして

 まず一点として、縦走で鎖場、深雪という条件の中を最後までやりぬき、二期決戦にむけた実力闘争を担いきる主体へと自らを鍛え抜いたということである。
 二点目として、女性隊だけで男性に頼ることなく、厳しい冬山を部隊で貫徹しぬき、戦旗派を担いぬく自立した女性革命家へと自らを一歩飛躍させていったということである。

 私自身、昨年の地区での八ヵ岳山行においては、みぞれの中という悪条件のもとで体調をくずし、バテてしまったことがあった。そのときは、自分が現実的に権力と闘い、人民の解放のために生涯をかけぬくんだという革命家としての自覚が、観念においてのみあるだけで、実際的には「第二の性」としての女性の位置にとどまっている自分があったと思う、そのときも確かに最後まではやりぬいたが、弱音をはいたり、ペースを遅くしてもらったりもした。しかし今回はそういった甘えを自ら戒しめ、苦しくとも隊の牽引ということを念頭において、未だ不充分な点は多いことと思うが、行動し続けた。その中でつかみとった成果を、山行に始まり山行に終わらせるのではなく、地区活動の一歩前進を刻印するものとして発展させていきたい。女性的な甘えを克服する中で、自らが組織者として積極的に100地区を支えぬけるような革命的主体ヘと自己変革を遂げていくよう奮闘していきたい。

 特に今、われわれはボリシェヴィキ党建設を自らか担いきれる主体たることを問われ、それを現実化すべきところにまできているのだ。今や100地区は全党の最先頭で闘いぬくことを決意している。私自身その一翼をガッチリと支えるよう、今後の活動に従事していく決意である。

(「闘う労働者」41号 掲載時原題:「自立した女性革命家への飛躍めざし隊を牽引すべく奮闘しぬく」)

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