以前に在特会の桜井誠さんが、「左翼こそファシスト」という趣旨の発言をしていて、「この人は何を言っているのだろう?」と首をかしげたことがあります。ファシズムというのは資本主義が危機の時代に「民主主義社会」で特有に現れる極右の一形態を指す社会科学の用語であって、桜井さんの言っていることは「左翼=極右」というわけがわからない意味になってしまいます。
つまりファシズムとは、資本主義が危機の時代に、そのあおりを受けて経済的にも没落しつつある都市部中産階級を主な支持層とし、自分達が没落したのは「左翼や外国人(ユダヤ・在日など)のせいだ」と言うデマで大衆を煽ると共に、通常の資本主義イデオロギー(=個人主義)を否定して、国家や民族など「共同体への回帰」を掲げる国粋主義運動の一変種です。そして外に向かっては必然的に「共同体の防衛」を掲げた軍事拡張路線をとることになるわけです。日本においては従来の保守勢力までひっくるめて、「戦後民主義」の範疇に入るものを何でもかんでも「左翼」扱いして攻撃しているような人々がこれに入るでしょう。
だから、たとえ右翼ですら全部がファシストというわけではないのです。つまり単なる「保守反動」とファシズムは違います。従来の資本主義支配層をも攻撃する擬似的な革命性(今ふうに言えば改革路線)を示すことが大きな運動的特徴であり、そこにファシズムが現状に不満を持つ一部の若年層をひきつける秘密があります。だからファシズムは資本主義が好調に推移している時代には大きな勢力にはなりません。その時代にはむしろ資本主義の富の再配分を要求する社民が伸びます。逆に資本主義の危機が大きいほど、そしてその時の大衆の不満を(無力化した社民に変わって)左翼がうまく吸収できない時に、ファシズムは不満の受け皿として大きく育ちます。ゆえに下からのファシズムは「民主主義国家」にのみ特有に見られる現象なのです。
ですから桜井さんがスターリン主義的な「共産党一党独裁」を批判したいという意図だと最大限に好意的な解釈をしてあげるにしても、もしそうならごく普通にそう言えばいいことであって、桜井さんの言辞は「単なる物知らず」という恥をさらしているだけです。桜井さんの言い方だと、朴正煕やスハルト、マルコスなどのいわゆる開発独裁や、さらには中世の絶対王政、それどころか古代奴隷制からフランス革命のロベスピエールまで、なんでもかんでも「ファシズム」に分類されてしまいます。別の言い方をすれば桜井さんは全体主義一般や単なる独裁制とファシズムをごっちゃにしているわけで、いくら印象操作やプロパガンダ、デマゴーグの類だとしてもあまりに粗雑で無知にもほどがあります。「俺が新しいファシズムの定義を決めたんだからいいんだ!」というジャイアンなことをおっしゃるなら別ですがwww。
とは言え、確かにファシズムには「全体主義(=アンチ個人主義)」という以外に統一的な思想がありません。その「全体」を表すものが民族と国家なのですが、自己を正当化するイデオロギーとしては、ドイツ・ロマン主義であったり天皇制であったりと地域によってまちまちです。ゆえに上の定義自体もそれらの最大公約数という面があります。マルクス主義のように「これ!」と言ってかっちりと提示できない曖昧さゆえに、ファシズムは単なる「暴力的な右派」の代名詞や政治的な罵倒語として多用されてきました。しかし「ソフトファシズム」という言い方があるように、必ずしもファシストは暴力的に登場するとは限りません。それどころか「新しい左派」や「進歩派」の一部としての仮面をつけて登場してくる危険性もあるのです。世界中のファシストが判子で押したように「右翼ではなく中道」と自称していることにも注意が必要です。
まあ、いまや、「右翼的な主張をしながら中道を自称している」ということが、逆に「こいつはファシストだな」と見当がついてしまう非常に顕著な特徴になっていると思います。どうもファシストは上で見たような諸特徴に規定されてなのか、どうしても「中道」を名乗りたくてウズウズして仕方がなくなるという、奇妙なメンタリティが働くようなのです。普通の右翼ではこういうことがありません。
なお、少なくともファシズム思想において成立する「全体主義」とは、資本主義のイデオロギーである「個人主義」が先にあって、それに対するアンチとして成立するものです。
本来、自由競争の原理に根ざしたブルジョア個人主義と、それによる人間性の否定、つまり「物の世界」は、何でも「商品」としてしか価値を有さない社会=資本主義を変革・解体することなしにはなくなりません。
全体主義はこのブルジョア個人主義(=資本主義)に対する直感的な反発を吸収し、崩壊した幻の「共同体」を再構築せんとするイデオロギーです。つまりブルジョア的な「個人」という名のイデオロギーに「全体(=国家・民族)」を対置することでこれを「超克」せんとするイデオロギーが全体主義です。
しかし資本主義経済をそのままにして、いくら国家や民族を神秘主義的なヴェールにくるまれた「神聖ニシテ犯ス可カラザル」ものとして登場させたところで、現存する社会が資本家的商品経済として存在している以上、それはどこまで行っても「共同体」なんかではあり得ず、資本の論理に根ざした利害対立が貫徹する社会にすぎません。
結局、全体主義者のやっていることは(その主観とは全く逆に)危機に瀕した資本主義・商品経済というブルジョア個人主義体制を救済するために、国家・民族・天皇などという幻の「共同体」すらを資本主義イデオロギーへの生け贄として捧げて消費してしまう行為にすぎないわけです。
ファシズムに走る人たちの「善意」、すなわちブルジョア個人主義への直感的な反発は、本来は「資本主義社会における個人と全体の分裂の止揚」を目指す左翼思想に向かうことにおいてしか解決できないものです。ところがそれとは全く逆にファシズムにからめとられ、自分たちの味方である左翼に憎悪を燃やす彼らは、まさしく自分で自分の首を絞めていることに気がつかなくてはならないと思います。
まあ、それはともかく、今回、左翼活動家時代の古い本棚から、「現代ファシズム論序説」という小論文を取り出して読み返してみました。その全文はこちらにあります。ざっとでも読んでいただければすぐにわかるように、もちろん「過激派学生」の書いた文章(笑)なのですが、著者の資質もあって必ずしもセクト的でなく、特にドイツにおけるナチスと共産党のせり合いの中で、なぜ共産党が大衆の支持を得られずにナチスに破れ去っていったのか、そのナチス(ファシズム)勝利の要因を歴史的な経緯をふまえて考察している点などは客観的で、現在の日本における私たちにとっても示唆深い点が多くあると感じました。間違いなく力作ですが、確かその「客観性」ゆえに、党中央の指導部からはあまり評判がよくなくて、むしろ批判されていたように記憶しています。
今日、左翼の中の少なくない部分が「ファシズムとの対決の必要性」を掲げていますが、その根拠とされているのが、一九二〇~三〇年代におけるドイツ共産党の「ファシスト過小評価」と「社民主要打撃論」の誤りによる自滅と敗北です。しかしその「過小評価」の内実は、左派を根こそぎ弾圧してしまった「ファシストの暴力性」を過小評価していたからだとばかりは必ずしも言えません。従来のようにファシストの凶暴性を糾弾するだけではなく、むしろ、なぜ左翼ではなくファシストの側が大衆の支持を獲得することができたのかという点をこそ、詳しく分析すべきだなのだと論文は訴えています。
ところが実際には左翼だけでなく、社民や保守リベラルを含めて自分達が大衆の支持でファシストにせり負けたことを何ら主体的に切開せず、すべてを「ヒトラーの演説の才能とデマゴギー」に還元してしまう態度が見られますが、実はこういう態度こそがファシズムへの敗北の真の要因だったのではないかというのが、この論文の問題意識です。
そんな総括では、今度は逆に「やらないとやられてしまう!」とばかりに「社民主要打撃論」の裏返したる「ファシスト主要打撃論」に陥ってしまう他はなく、大衆から見れば両者ともチンピラにしか見えません。この点では当事正しくも「社民ではなくファシストとの対決を第一にすべきだ」と訴えたトロツキーも実は同罪だとしています。それは本来の反戦運動や反貧困、共生社会などの運動の力にならないばかりか、かえって運動現場に混乱を持ち込むばかりだと。
実は、資料室に掲載した全文とは別に、左翼的なバイアスのかかった「過激派的」な部分を除き、在特会などの「運動」に直面した今の私たちにとっても示唆を与えてくれるのではと思える部分を「ノート」としてまとめてここに掲載するつもりでいました。
けど、それもやってみると時間がかかることがわかり、今の勤務状態では完成がいつになるかわからない。朦朧とした頭でダラダラとまとめていたのでは、「ノート」自体が長文で散漫になり、結局は本文を読んだほうが早いだろうということで、これは断念しました。orz…
とりあえず以下に論文の目次(と各章へのリンク)だけ掲載しておきます。上記のような視点で読まれることをおすすめします。初心者の方が自分で調べる前に、ざっとした歴史的な経緯などを見ておく意味でもおすすめですよ。
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現代ファシズム論序説 目次
1.一九二〇~三〇年代のファシズム認識
イ)ファシズム研究の主体的立場
ロ)コミンテルンのファシズム認識
1)コミンテルン第四回大会
2)ドイツ十月蜂起の挫折
3)資本主義の相対的安定期の中で
4)ドイツ共産党対ナチ
5)敗北の後に
6)コミンテルンの限界
ハ)トロツキーのファシズム認識
1)トロツキーとスターリン
2)「十月の教訓」
3)「社会ファシズム」論批判
4)トロツキーの限界
ニ)現代ファシズム論の問題点
2.ファシズムとは何か
イ)みすごされてきたものは何か
1)ナチ登場の背景
2)ナチの政治主張
3)ナチ党左派
4)ナチの「擬似革命性」
ロ)国家社会主義ドイツ労働者党
1)「擬似革命性」の本質とは
2)全体主義とは何か
3)全体主義と資本の論理
4)国家社会主義の本質とは何か
ハ)思想としてのファシズム
ニ)体制としてのファシズム
3.現代とファシズム
イ)ドイツ共産党は何故敗北したのか
1)「ファシスト過少評価」の本質
2)全体主義イデオロギーヘの屈服
3)中間層とナチズム
4)上からもちこまれた「共産主義」
ロ)ファシズムといかに闘うのか
1)帝国主義の侵略反革命を蜂起・内戦へ
2)革命運動のスターリン主義的歪曲を克服せよ
参 考
◇在特会反対だけで果たして良いのか?(アフガン・イラク・北朝鮮と日本)
◇首猛夫×矢場徹吾「対談・排外主義に抗する」(反戦生活)
◇レイシスト的保護主義グループの成立(1)(私にも話させて)
◇日本は右傾化しているのか、しているとすれば誰が進めているのか-12-(私にも話させて)
◇ファシズム(wikipedia)
◇ファシズムとは何か(トロツキー・インターネット・アルヒーフ)
◇軍国主義、ファシズム、ナチズムとは?(日本共産党)
内なるファシズム、それとどう付き合うか(超危険)
ブログ・旗旗にコメントしようとしても、上手く出来なかったのでコチラに思うところを書く。
基より、純粋なるファシズムを想定することは小生には出来ない。ただ、ファシズム成立の過程を歴史書から見ると、ファシズムなるものに自分が包摂されていてもおかしくないと思う感覚を否定することができないのだ。
さて、ファシズムは今や悪者である。しかし、当時、ハイデッガーをはじめとする知識人を魅了した。二十世紀最大の歴史家とも言えるカーさえも、あの皮肉な、筋金入りの自由主義の王国=イギリスの知性でさえも、部分的には『危機の二十年』で評価しているところもある。この辺、触れることさえドイツでは現在物凄く危ないこと――学者世界から抹殺される――なので、ドイツではナチズム・ファシズム研究については世界で一番遅れた状況になるであろう。欺瞞を弄することをしないならば、ファシズムにはある種の肯定的側面があったことも無視するわけにはいかないであろう。例えばアウト・バーンは何故可能だったのか? ユダヤ人抹殺の裏で、国民無失業に出来たのは何故か? 例えそれが障害者皆殺し、ユダヤ人皆殺しの上に立ったものであったとしても。
共産主義国家に生きたくないように、ファシズム国家に生きたくはない。しかし、共産趣味者として、共産主義が保持していた可能性と同じ「破砕物」の煌びやかな美を、ファシズムに見ないわけにはいかない。ソ連が崩壊する時、共産主義、マルクス主義の何がしかの崩壊を見、破砕される断片を「破砕物」として吟味したように。否、「階級」という言葉を「民族」に置き換えれば、実は成功したのはファシズムではないのだろうか?
さて、階級闘争と民族闘争を考えてみよう。第一義的に階級闘争は排除の思想である。勿論、マルクスらご本尊は、プロレタリアートを様々な階級(農民、自営業者などなど)と連携してブルジョアジーを打ち倒すという図を描き出す。しかし、現に行われ、権力奪取に成功したプロレタリア革命なるものは、農民の大虐殺を齎し、自営業者の破滅を齎した。とどのつまりは、プロレタリアと仮想されたもの(すなわちプロレタリア指導者としての共産党)以外の、肉体的死にまでは至らないものの、政治的死と社会的死に帰結した。スターリンの本を読めば分かるが、スターリンは決して馬鹿ではない。むしろ、彼によるマルクス・レーニン理解は、特にレーニンの弟子としての彼というフィルターを通せば、正統でさえあると言えると小生は思う。正統性があれば、敵を殺してもいい、というのが彼らの考えであるとすれば――政治の本質からすれば、例えばカール・シュミットを参照にすれば、実に正しい考えである――、スターリンは誠実にそれを実行したと言えよう。
ナチス流の民族闘争は、反ユダヤ闘争と言えよう。それは仮借なく貫徹された。ユダヤ人の完全殲滅を自らの使命と純粋に、誠実に考えたヒトラーは、それを誠実にやり遂げようとした。彼は死ぬ時、人類が感謝するときが来るとまで言った。ヒトラーは狂人と我らは判断するが、しかし非常に優秀で誠実な狂人であった。理性と狂気は対立物だと考えられていたが、実は違うのだ。理性と狂気は手を携え得るものなのである。ちなみに、他の事例で言えば原爆なる狂気の凶器を産み出したものは、その時点の最高の知性である。
言葉は違えど、そして失敗の質は違えど、スターリン主義に帰着した共産主義と、ナチスを生み出した社会主義(ムッソリーニはレーニンの謦咳に接したこともあり、レーニンに優秀であると認められている)には時代の最高のモノがあったのは間違いない。だから、大衆を獲得できたし、各種の欺瞞を感じつつも、当時の知性を吸引できたのだ。
我らはファシズムを、様々な価値判断と共に、総体として見なければならない。そこには、共産主義をはじめとする左翼とは無縁ではない、むしろ兄弟と認識せざるを得ないファシズムの断片を見るからである。ファシズムは敵である。しかし、あまりに近しい敵である。何しろ魅了されるし、魅了されるのはとりもなおさず自らの中にそれがあると思うからである。
もっと言えば、共産主義(スターリン主義と地続きだ)にもファシズムにも、共通する否定すべき何かがあり、同時に否定し切れない何かがあると思う。
(未了;メモ;ファシズム成功の理由がまだ書かれていない)
左翼がファシストですか? どこをどう見たらファシストに見えるのでしょうね(呆)
確かにムッソリーニのファシスト党やヒトラーのナチスには社会主義的な色合いが濃い部分もありますが、それだけで『左翼=ファシズム』というならば右翼の思想というのはいったい何なのでしょう。
もし、自分の主張や思想を広めるために『都合のよいもの=右翼』『都合の悪いもの=左翼』というのならば、それは右翼なんかではありません。ただの『ご都合主義』でしかありません。
別のエントリーのコメントで少し触れたことがあるのですが『統治の倫理』と『市場の倫理』というものがあります。(あのときは別の言葉でしたが)
『統治の倫理』とはその名の通り統治者の倫理で共同体防衛を優先させる考え方(価値観)を持っています。言い換えれば『武士道』ということになるでしょうか、これは『右翼の思想』に通ずるものがあるといえます。
対して『市場の倫理』というのは『商人道』と言い換えることができそうです。相手を選んでいては商売になりませんし、世が平和でなければ商売なんてできませんから連帯や平和を重視する傾向があります。
そしてそれは『左翼の思想』に通ずるものがあるように思います。
(草加さんの左右をあまり問わない姿勢こそ『本当の左翼』と言えるのではないでしょうか?いつぞや「ニセ左翼」などと書き込んでおられる御仁がいらっしゃいましたが、あちらこそ「ニセ」という気がします。)
さて、右翼にしろ左翼にしろ『理想(というか主張)』を掲げて支持者とか同志を集めるわけですが、この『理想』というのがいろんなものが混じっていてなかなかに興味深いものがあります。
右翼の場合『統治の倫理』オンリーの思想だとバカしか集まらない。そして一般の人は極端な意見(思想)を嫌いますから溝は広く深くなっていく。
だからある程度左翼の『市場の倫理』を取り入れた理論を展開したりするのですが、自分達にとって都合の悪い部分を相手(左翼)に押し付けようとする姿勢はいかがなものか。
とはいえ、左翼の中にも「自分の意見が絶対正しい」と信じこんで、他者の意見を徹底排除しようとする御仁が存在しているのも事実です。(右にもいっぱいいますが・・・)
そういうのを指して「ファシスト」とか言っているのかもしれませんが、これは自分が正しいと思うがゆえに『統治の倫理』に呑まれているのでしょう。
また、左翼の場合、基本的な思想や理論は市民権を得やすいと思うのですが、過去いろいろあったために、一般人からみて「なんとなく怖い」というのがネックになっているように思います。(天皇制反対というのもありますが)
しかし仮にその部分を克服できたとしても、『統治の倫理』抜きの左翼というのもちょっとありえないように思います。
なぜなら集団で行動する以上、各自がてんでばらばらに行動したのでは話になりませんから『規範』というものが必要になります。ここに『統治の倫理』が入り込んでくるわけなのですが、気がつかないうちに侵蝕されちゃうんでしょうね。
例えば、社会主義であったはずのナチスがファシズム化したり、スターリンのソ連みたいなことになったり、近いところでは内ゲバとか・・・国とか集団とかを統率する限りは避けては通れない道なのでしょうけど。
普通なら右翼の理論の中に左翼の理論が混じったりすれば(逆の場合も同様)すぐにでも気付きそうなものですが、エントリーの内容をみるとそうでもないのかもしれません。
大多数の方は右翼と左翼を同一線上の対極に位置しているとみなしていますが、実のところ『統治の倫理』と『市場の倫理』というのは基準となる軸が違うのではないかと考えています。
そして、人間というものは、自分の立ち位置からしか物は見えないし、自分の思想・信条しか基準がないから道を誤るのかも知れません。
たとえば『市場の倫理』がX軸、『統治の倫理』がY軸といった場合、(X=いくら)というのは見えていても、Yの基準がない(わからない)から行き着くところまで行ってしまうのではないでしょうか。
横から見るとあまり動いていないように見えても、違う方向から見るとすごい事になっているのはよくある話ですから。
まぁ、右翼にしろ左翼にしろ『統治の倫理』『市場の倫理』の双方からは逃れられないように思います。
もっとも、ファシズムなんてのは『統治の倫理』の極端な姿であることは間違いのないところですが。(スターリニズムもまた然り。)
拙文ですが、もし未読でしたらお暇なときに参考までにお読みください
収容所体制と難民流出
http://hrnk.trycomp.net/siryolist.php
ファシズム論もいつか書かねばと思ってるんですけど、資料がたまるばかりです。まあファシズムの一つの曖昧ですが提議として「極めて単純な価値観を提示し、それに基づく善悪二元論に大衆を巻き込んでいく。現実にある様々な多様性や矛盾を無視し、一見反対しにくい『正義』の概念で人びとを脅迫的に敵味方に分類していく」というのもある。
これは左翼にも右翼にも見られる傾向ではないでしょうか。私もよくやったよ、正直。今も知らないうちに自分がそういう態度を取っているかもわからないし・・
たけさん>
いつも興味深い長文の考察をありがとうございます。お返事を書き出したのですが、これも長文になってしまって止まっています。次の休みにまとめてエントリーとしてあげるつもりでいます。
三浦さん>
ここで言う「ファシズム」とはちょっと趣旨が違うかもしれないと感じましたが、「全体主義」に関する記事をありがとうございます。興味深く読ませていただきました。「体制としての全体主義」という感じだったかな。特殊な受け止め方かもしれませんが、私にとっては体制や運動論というより、個人としての考え方の面で参考になりました。
まあ、なんと言うか、私が「右翼こそスターリン主義だ」と言ったら、それはやっぱり不正確だし変テコな批判なわけでして、体制として完成した後には、「全体主義」としての政治・社会構造みたいな共通する面もあるかもしれないけれど、やはり成り立ちや発生過程においてはファシズムとスターリン主義は(とりわけそれを防ぐ意味で)別物として検証していかないといけない面があると思います。ここで言っているのはそういうことだとご理解ください(北朝鮮や中国はもはやスターリン主義とさえ言えない気もしていますが)。
活動家時代には「自分たちの問題」として、ファシズムよりもむしろスターリン主義発生のメカニズム検証を主に考えていたと思います。それを右派のファシズムと共通のものとして考えるような発想はなかったなあ。日本国内においては今のところ、幸か不幸かスターリン主義は左翼運動内部の問題にとどまっています。社会全体では民主主義社会に特有の現象としてのファシズムのほうにこそ考察の対象にしなくてはいけないと思っています。