まとめ
以上のことからわれわれは、『君主論』にみられる近代政治は否定すべきだという結論に達するのか。否、すでに確認したように、あくまでもそれは「否定の否定」の対象であり、現局面にあってはその主体化こそが問われているのである。「武器を鉄くずにかえる」ためにこそ、 武器の習熟が必要不可欠であるように、近代政治止揚のためにも、政治の論理的対象化と実践的習熟こそが求められているのだ。
こうした観点性ぬきに、あるいは飛びこえてスターリン主義的政治の克服のみを問題にしていったならば、それはスターリン主義的政治に対する観念的アンチを対置することでしかないのであって、新たな主流派をめざすわれわれにとり、左翼反対派性への後退をしか意味しないのである。要は、政治の大道を歩むことであり、そうした政治展開の実践的プロセスにおいてスターリン主養的政治の実践的是正をなしていくべきなのであって、現局面にあって最も緊要な課題は、それをなしていくための前提条件たる政治そのものの論理的→実践的対象化なのである。
それはまた、この間実践的に主体化がめざされてきた『戦争論』の核心問題、すなわち「政治の手段としての軍事の行使」といった内容性の更なる主体化であり豊富化に他ならないのである。
全ての同志・友人諸君!
われわれは自らの歩んできた道に自信を持たなくてはならない。われわれはあらゆる困難をはねのけ、自らの力だけを頼りに党的勝利と前進を日本階級闘争に力強く 刻印してきたのだ。同時にわれわれは自らの歩んできた道に責任をとらなくてはならない。歯をくいしばり、勝利を重ねてきたわれわれの党的強さに対して数多くの人民が未来を託し、広大な支持を寄せているのである。十ニ ・一五集会に結集した各界人士や市民の発言、わけても三里塚農民のわが同盟への期待の声を想起せよ!われわれはこうした人民の勝利と解放への切望に応えきらなくてはならない義務と責任を負っているのだ。何と光栄なことではないか!
そうした人民に応えきること、すなわち「勝利する革命党」として日本階級闘争の新たな主流派として登場しきることのために、今われわれにとって喫緊の課題は、<力>を持つこと、すなわち<政治的力量>を飛躍的に増強することに他ならないのだ。それ故今こそ全党の同志は政治を主体化し、その核心命題である軍事を主体化しなくてはならない。そして政治や軍事が観念論の入る余地のない、すぐれて現実的な問題である以上、流血も投獄も死をも恐れぬ敵権力との激突の中で、これをつかみとるのでなくてはならない。
喜ばしいことに、われわれの眼前にはそうした激烈な 戦場が準備されている。それが天皇・サミット・三里塚二期決戦にほかならない。この全世界人民わけてもアジア人民の一点の曇りもない大義性のかかった聖戦に、全同志が乾坤一擲の飛躍をかけ、突入することをもって、 この決戦の真赤な坩堝のただ中から、自らの革命的政治家、革命的軍人への成長をたたかいとろうではないか。
本論の最後に再びマキァベリの愛したリウィウスの言葉をかかげたい。
「やむにやまれぬときの戦いは正義であり、武力の他に望みを絶たれたとき、武力もまた神聖である」
(初出『理論戦線』20号:1986年3月1日発行)
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