ハロインと文化の日 文化って何だ?

投稿者:味岡 修(三上 治)
ハロウィンの赤ちゃんの写真

by 味岡 修

 孫のハロインで仮装した写真をメールでみた。何とかレンジャーに扮した姿でうれしそうな表情にこころが和んだ。先月の月末にかけてのハロイン騒ぎには違和感があったのだが、こんな風に日本の社会に浸透して行くのかと思った。

 巷ではハロインの次はクリスマスという声が強い。ちなみに今日は「文化の日」だ。今日という休日が「文化の日」だということは誰もが知っているだろうが、それが何に由来するかは誰もわからないと思う。ハロインやクリスマスのような生活から発生したものではなく、風俗として入ってきたものよりも意識は薄いのではないだろうか。これは何なのだろう、と思いながら経産省の方に足を運んだ。

 「文化の日」というからには文化とは何かという疑問がいつもついて回る。この理由ははっきりしている。11月3日を「文化の日」というがこれは戦前までは天長節と呼ばれていた。戦後に天長節は廃され、「文化の日」に変わったけれど、何が文化であるかを明瞭にしなかったためだ。ただ、休日として引き継いだだけなのだ。

 天長節という言葉をほとんどの人はもう知らないだろう。「文化の日」といえば天皇が「文化功労者」に文化勲章を与える日としてその名残はあるのだろうが、これは国民とはピントが離れている。僕にはそう思える。文化というのは生活の中から生み出した様式であり、それをたたえる祝祭の日が「文化の日」であろう。

 かつて明治天皇の誕生日に因んだ天長節だった11月3日が戦後廃止され、意義を変えられて「文化の日」となった。その意義は不明瞭なままなのだ。三島由紀夫流にいえば「文化概念としての天皇」が残滓のように残っていて、それが文化勲章の日としてある。ただ、国民の意思においては影は薄いのであり、ハロイン程の力もないのである。これは健全というか、当たり前のことであり、この日を「明治の日」にしようという意見もあるらしいが、とんだ錯誤である。

 僕は影の薄い「文化の日」をハロインなど想起しながら思ったのだが、これは文化が多様化に向かって拡散し、国家的(共同的)な集中を失っている状態であり、これを歴史的な必然であり、よき兆候と考えたらいいのだと思う。

 国民的な文化は生活の中から生まれてくるだろうが、差し当たっては拡散していく過程を経るのであり、その展開からしか国民の文化はでてこないのだと思う。天皇、あるいは天皇制をもってこの拡散を集中に変えようとする試み、あるいはそれを志向する面々はでてくるだろうが、それは功を奏しはしないだろう。

 「文化の日」を「明治の日」に変えたからと言ってハロインを超えるような祝日にはならないし、祝祭日とはならない。歴史的な基盤が違うのだ、歴史的な基盤の変化に基づいた文化が生まれ、それが祝祭日を生み出すには過渡的であり、拡散が続いていくのであるとしても。

 こんな「文化の日」を思いながら衆院選挙のことを考えた。自民党や与党は数の上で勝ったが、その主張によって勝ったのではない。彼等はその勝利に空洞性とおびえを感じているはずだ、それは彼等が国家的、あるいは社会的な構想や展望を打ち出し、それで勝利したというのではないのだ。

 彼等の掲げた「自衛隊の憲法への明記」についてもそうだ。これについてここでは論及しないが恐れるにたらずだ。それだけは言える。それよりも、僕らが、現状を超える政治的・社会的構想を創出できるか、どうかであり、問題は僕らの主体の側の力なのだ。現在はそのための根底としてどういう考えを持つかが問われている過程だと思う。

 それは自由、個人、あるいは人間の尊厳を根底にした共同の世界を創り出そうとするかどうかだ、そしてこの第一歩が難しいのだし、そこは立ち止まり、立ち止まり、進めばよい、政治的なものはいつも意外な展開をするし、その意味では自民党や与党が波乱状態になっていくことは必至だ。国民的な文化も生まれる時は生まれる、政治も同じだ。(三上治)

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1件のコメント

 味岡修様
 コメント欄では初めまして。間違いがあるので指摘いたします。
 11月3日が天長節であったのは明治天皇が亡くなる明治45年(1912年)7月30日までです。それから天長節は大正時代は8月31日(公式には10月31日)、昭和時代では4月29日、現在では12月23日となっています。一方11月3日は昭和2年から昭和22年まで明治天皇の功績をたたえる「明治節」と呼ばれる日でした。そして昭和23年、日本国憲法が公布された記念日として「文化の日」となったのです。
 それでは、失礼いたします。

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味岡 修(三上 治)souka
文筆家。1941年三重県生まれ。60年中央大学入学、安保闘争に参加。学生時代より吉本隆明氏宅に出入りし思想的影響を受ける。62年、社会主義学生同盟全国委員長。66年中央大学中退、第二次ブントに加わり、叛旗派のリーダーとなる。1975年叛旗派を辞め、執筆活動に転じる。現在は思想批評誌『流砂』の共同責任編集者(栗本慎一郎氏と)を務めながら、『九条改憲阻止の会』、『経産省前テントひろば』などの活動に関わる。