by 味岡 修
先への不安が歴史に目を向けさせる
世田谷線というローカルな電車で都心に出る。なかなか便利だ。最近は洒落たボディ広告もしている。その線路にはいつもの事だが雪が残っている(雪が降るといつも遅くまで雪が残る)。ベンチに座るとひんやりと冷たい。身体中をカイロで温めているが、それでも寒いのだから、気温が下がっているのが分る。
テレビではこの冷え込みが昭和45年ぶりだと報じていた。昭和45年と言えば1970年で、あの前後に僕らは毎年、大学にバリケードを築いていたのだが、寒波の襲来とやらで、バリケードの中で寒さに震えながら湿った毛布に潜り込んでいたのを思い出す。
1968年から今年は50年目という事で全共闘運動のことが振りかえられる。明治維新は1868年で150年目ということもあり、こちらもいろいろと話題になっている。NHKの大河ドラマが西郷隆盛を扱っているのもそんな一つだろうが、関連する本も多く出ている。今の時代の先行きが見えず、不安が人々にあるから、明治以降の歴史を見直してみようという気運があるのだろうと、思う。
歴史へと目が向くのは現在の不安と深く関係している。経産省前への通い路の電車の中でもスポーツ新聞ではなく、歴史書をひもとくことが多くなった、最も今は野球もキャンプ以前でスポーツ新聞が面白くないこともある。直ぐにキャンプははじまるからそうすればスポーツ紙に目がいくのだろうが……。
佐藤愛子『九十歳。何がめでたい』
そういえば、昨年の二つのベストセラー本が年を越しても売れ続けている。一つは吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』(漫画も含めた新装本、最初は1937年に出版)、もうひとつは『九十歳。何がめでたい』(佐藤愛子)である。こちらはエッセイ集だが彼女のエッセイは続々と出ていてどれも版を重ねている。通い路のついでにこれらには一応、目を通した。
ベストセラー本は少し時間が経ってからしか読まない主義できたが、少し趣旨がえし目を通している。本の売れない昨今、少しでも売れればという気がしているからだ。両作品とも良かったし、共感するところもあった。佐藤愛子の時評風のエッセイは痛快で、重苦しい時代に風穴をあけるような心地よさがある。
例えば、佐藤愛子はこの本の中で新幹線の「のぞみ」が三分の時間を短縮したことに騒いでいることに「何がめでたい」と痛罵していた。走行時間のスピードアップに狂奔していることに疑念を呈していたのだ、今なら、台座に亀裂があって、もしかすれば大事故になったかもしれない事態に何をしているのだとかみついたかもしれない。あるいはリニア建設の談合事件にリニアって本当に必要なのか、と言っているかもしれない。
「文明の進歩」何がめでたい
彼女は社会が「文明の進歩」(技術の進歩による社の進歩)という通念を推し進めていることに疑念を呈しているのだ。こういうことが無意識にまでなっていて、少し考えれば何これということが昨今は目につき過ぎる。
僕らは原発問題のことでそのことに気づいてきたが、築地市場の豊洲移転問題も同じことだったように思う。原発問題は粘り強くこの問題が問われているが、築地市場問題はうやむやに処理されている。移転先の豊洲市場の土壌汚染問題が取りざたされたのだが、そもそも築地市場の移転とは何か、何故、移転なのかが問われたのに、それは議論の深まず、ほとぼりが冷めるのを待って移転になりそうだ。
何とも後味の悪い始末の付け方だ。築地市場の老朽化し、手狭になったから、機能的に利便な所に移転するという理由だったのだろうが、築地市場としての歴史と価値なんてものはきちんと検討されなかったのだ。都心の開発幻想と同じである。オリンピックを名目にした開発とやらの問題に通づずることである。
3・11以前には原発は「安全で単価が安い、原発がないと電気が足りない」という神話が流通していたのだが(もちろんそれに疑惑を呈する声はあったにせよ)、また、その背後に「文明の進歩」という概念というか、イメージがそれを背後で支えていた。
3・11でこの原発神話が崩壊したことは疑わないし、「文明の進歩」ということに人々が疑いの眼差しを持ち始めたことは疑いない。ただ、これが本当に疑われ、歴史的な無意識とよべるようにまでなっていた文明≒進歩の概念やイメージ(大きくは意識)を根本的に検討するという事態にはなっていないのだと思う。それは現在の難関事なのだと思える。上で述べた築地市場問題がうやむやに処理されつつある事態はその難しさを物語っている。
近代という幻想への疑いを持つ
「明治150年何がめでたい」という言葉も目につく。明治維新から150年の今、それ以降の社会の推力となってきた、近代という幻想、それは文明≒進歩という幻想でもあったのだが、それは疑われ出している。明治維新の150年をめでたいという意識が疑われ、見直したいという事には近代の幻想が疑われなければならないということだ。そういう気運のあることはいいことだが、それはまだ端緒にすぎないのだ。
原発再稼働―原発存続に固執する電力業界や経済界、それに官僚は電力事業独占と既得権にしがみついているのだが、さすがにもう、「文明の進歩」(核の解放と平和利用)ということは言えなくなっている。テントのあった場所につくられた経産省のデジタル広報板には自然エネルギー―や再生エネルギーに先頭で取り組んでいると宣伝している。
送電線の解放という一番肝心なところで電力業界が取っているのはその独占による再生エネルギーあるいは自然エネルギーの普及の妨害である。利用率のことが新聞に出ていたが、彼等が陰に陽に妨害してきたことは明瞭である。再生エネルギーや自然エネルギーの普及は原発の保持には邪魔なのだ。独占のうまみを電力業界は受けすぎてきたのだが、それは原発保持の根底にあることだ。
だが、彼等も原発再稼働や保持の根拠を語れなくなっていて、それらを推進する権力機構の閉鎖的、独善的な構造によってやっているだけだ。かつてのように原発の存在の意味を語れなくなっている。彼等は国民に見えないとことで独善的にことを進められる日本伝統的な権力機構(官僚機構)に依っているだけだ。
「進歩」の一人歩きが、その意味を失わせる
技術の進歩というか、それを僕らはいろんな場面で見ている。いうまでもないことだが、僕はここでいう「文明の進歩」ということを否定しているのではない。それは僕らの生存の矛盾や制約を超えていくべき事を生んでいるし、そのもたらすもの、その意味を否定していない。上で述べたことで言えば、新幹線という存在のもたらしたもの、それはよきことだとだと考えている。
いわゆる自然についても、自然はあるがままであったのではなく、手が加えられることで変化してきたのであり、自然の保存というのはそうして事を否定しないのだと考えている。技術は、それだけが可能な事と言えるような社会の推力であり、力であることを承認している。
しかし、「文明の進歩」という観念。それに支えられた技術の進展が、一人歩きし、進歩という意味、その根拠を失ってきている。という事態もみているのだ。「文明の進歩」という技術の進展がその意味(必然性)を分からなくしてきている事態に直面しているのだ。僕らは自己の生の再生産のための必要性、あるいは必然性という視座によりながら、技術の進展の方向性を、その是非を問わなければならない事態に立ち会っているのではないか。それが現在なのだ。原発のことをはじめとして僕等はその種の問題にぶっかっている。
技術の発展と社会化の中で、それらを僕らの生、生のための必要性ということに立ち戻り、検討する必要があるのではないか。僕は人々が生活の中で、そのために人々が創り出してきた知恵や工夫(精神的なことも含めて)を評価し存続ということを大事なこととして考える。佐藤愛子のエッセイは「文明の進歩」の名によってそれが足蹴りにされ捨てられていく事態に異議を申しているのだが、その痛快さも、その怒りも、そうした思いを多くの人々が心の底に持っていることによるのではないか。そんなことを思う。(三上治)
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