by 中野由紀子
12月21日の夜、「三里塚芝山連合空港反対同盟」の事務局次長の萩原進さんが心筋梗塞のため急逝されました。69歳でした。携帯の留守電に知り合いから「亡くなった。周りに知らせてください」と入っていて、びっくりして信じられないまま草加さんにもメールしました。
全国集会では、いつだって人一倍熱く強く語られる方でした。お若いころは初代青年行動隊長として先頭に立って闘っておられた方です。私のまったく知らない時代からずっと三里塚闘争の中心的存在として闘ってこられたわけです。
[amazon_link asins=’4434125540′ template=’hatahata’ store=’hatahata-22′ marketplace=’JP’ link_id=’e107faec-eaef-11e8-a747-197782da4e34′]この10月の全国集会では、いつもに増して強い口調で党派に対する厳しい批判をされていました。また、集会後の交流会に参加させていただいてお話をうかがったときには、いつもと変らずお元気でした。党派に属したことのない私は、党派の皆さんの中で恐縮しきりでしたが、感じるものがあり少しだけ意見を言わせていただきました。
萩原さんの党派に対する批判を聞いて、生意気にも〈そのとおりだ!〉なんて思って、「党派の人たちって党派単位でものを考えるから大変だな。党派を通して市東さんや萩原さんに繋がるのか。もっと直接なんかしてもいいんじゃないかなー」とか思ってしまった。なんかこうもっと体当り的な何かっていうか。草加さんにその感覚をボソボソと話してみたら、「党派外から見た人の意見は結構大事なんだ。感じたまま言ってみたら」と言われました。
で、「いつもパワフルで熱いスピーチを聞いて、強いなぁ、かっこいいなぁって思って憧れています」なんて言いました。「党派の人の話を聞いてるとちょっと違和感がある。もっとみんな萩原さんに添って直接何かできないかと思うんですが」なんて生意気なことを言いました。だってそう思ったんだもん。そんな無責任な意見も萩原さんはじっと聞いてくださいました。私から見ると、党派の皆さんってすごく独特で、ちゃんと党派の色に染まってる。かえって動きにくくなってる感があるっていうか。
党派の皆さんは、三里塚農民と寝食を共にしながらいろんな形で闘争に関わっておられるというのに、失礼なことを言いました(党派の皆さん、ごめんなさい)。
28日、草加さんと告別式に参列させていただきました。私、喪服持ってなかった。二度と戻らない実家に置いたっきりでした。急な参加だったので準備する時間がなかった。パンツとシューズは黒でしたが、黒の上着がなくてグレーのフリースのジャケットで行きました。皆さん当然ちゃんと喪服で来られていましたので、思い切り恥ずかしかった。でも、萩原さんなら「そんなこどはどうでもいい。来てくれるのがうれしんだから」と言うに決まってる!と都合よく思い込むようにして参列しました。
斎場に入ってすぐのロビーには、たくさんの写真が貼ってありました。畑で撮ったもの、闘っておられる姿、デモの時のもの、厳しい顔、笑顔、いろいろな萩原さんがいました。ビデオも流れていて、その声や映像を見たらグッとこみ上げました。泣かないように我慢しました。お花をお棺に入れながらお顔を拝見しました。いつも血色の良かったお顔が白かっただけで、他はなんにも変わりませんでした。だけどもっとちゃんと見ておいたらよかった。なんでだか、あんまり見られなかった。
闘いの途中で突然に逝ってしまわれたことがまだ信じられません。悔しいと思います。私も悔しい。みんな悔しい。安らかにと祈りたいんだけど、三里塚の状況を考えたら安らかになんかできないよ! 昨年だったかの壇上でも、「もう肉弾戦でもってね、血を流す覚悟でやらないとならないんだ」とおっしゃっていたのを強く記憶しています。
私も千葉県の生まれなので「千葉なまり」はとても懐かしい。「こんなね、おがしなこどがね、あっていいものでしょうか!」という萩原さんの声が、今も頭の中で響いています。また、三里塚だけでなく、沖縄の闘い、福島の闘い、反TPPの闘いを、全部繋げてやっていくことが大事だとおっしゃっていました。そのためにも、ひとりでも多くの人に三里塚に来てもらいたいとも。あらためて自分のできることをやっていこうと思いました。
萩原進さん、一旦、さよなら。
◆萩原事務局次長が遺した言葉
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