武装を内包する革命党Ⅱ 戦旗派83年中期総括

投稿者:草加 耕助

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三、7・5ゲリラ・パルチザン戦闘は「第二次ブントヘの舞戻り」という試練派の批判に応える

 ところで三~五月闘争過程から春夏大攻勢を闘いぬいた現在、われわれの闘争政治過程を一定ではあるが内在的に見すえようとする位置に立ったものとして、革共同試練派が戦旗派の政治展開を批判する文章をその機関誌に掲載している。それはまるでわが同盟への意見書とでもいうべきものであり、思い入れにみちたものだが革共同的な高慢さに充ちたものでもある。われわれの政治展開を対象化する意味においても、ここでこの批判の内容を取り上げ、反論を加えておきたいと思う。

 『勝利に向っての試練』第24号、巻頭の「戦旗・共産同の諸君!勣揺するな!」瀬戸内高志署名の論文がそれであるが、要約すればそれは、(1)われわれが「三・一八中核派への申し入れ」以降、必要以上の妥協と屈服を中核派に対しおこなってしまい、階級政党としての責任を回避する方向をとり、一切を反対同盟の責任にゆだねるという誤った対処をとりつづけていること。
 (2)その中で第二次ブントの小ブル急進主義に舞戻る政治におちこみ、七・五ゲリラ・パルチザンにあっては中核派官僚のゲリラ主義にひかれ、インター批判によってみずからの「左翼主義」小児病を合理化せんとしている。責任ある階級政党への道はブント主義に舞戻ることによっては不可能であり、動揺を止めてブント主義止揚を求めてきた自らの道にかちかえれ、というようなものである。

 そこでの批判にはいつでも政治が理想どおり展開できるものであるなら、正しい指摘として認めざるをえない点もある。だが現実的にはそれは全く理念的な図式にみちており、決定的なことは実際の政治過程に加わっていない応援団的な「あるべき姿論」で物事を見ており、理念で現実を切る身勝手さに支配されている点で誤っていると言わねばならない。

 瀬戸内高志は何というか自分をレーニンになぞらえ、丁度『左翼小児病』でレーニンがドイツの左翼共産主義者を批判した言葉と気分をもってわれわれを批判しているのであるが、中核派官僚のテロどう喝によって実際上大衆政治過程に登場しえないでいる自分達の現実については、全くロをつぐんでしまっている。
 つまり己になぞらえれば中核派の暴力的どう喝の前に非公然的に文書をもっての批判活動だけしかなしえない自分達なのであるが、それを大衆的に公然と登場し政治展開をなすわれわれに投影することによって、中核派批判を至上目的とした自分達の政治展開にわれわれを添わせる必然があるかのように、すべてが書かれているのである。

 だがことわっておくが、われわれは決して試練派のような中核派の「分派」なのではない。われわれにはみずからの歴史性があり、依ってたつ戦略内容かあり、『左翼小児病』のとらえ返しをもって中核派官僚の政治展開をことごとく批判したいという現在の試練原(瀬戸内高志や宮崎杏子)の意にそえない面があったとしても、それは致し方のないことである。この事実を前提的に試練派は理解していない。

 ともあれそこで提起されていることを引用しよう。

1)「諸君らは、中核派との内ゲバを回避せんとする正当な政策のために、三里塚闘争の指導責任まで回避せんとしている。諸君らは、残念ながら軍事力を背景とした中核派官僚のどう喝に動揺し、なめられ、見下げられてしまった」
「われわれは、諸君らが、反対同盟の多数派の民主的決定に従わず、あまりにもヒステリックになった中核派官僚に対して、彼らとの内ゲバを回避せんとした努力、また三里塚闘争の勝利のためにはささいなことでの分裂をさけ、再統一が必要なことを訴えた努力、そして、そのためには分裂した両者の『政策的歩みより』を訴え、こちら側から妥協することを表明した態度-これらを高く評価する」「われわれは、熱田派反対同盟が、敷地内六戸を含む北原派反対同盟の疑惑をはらすために、一坪再共有化の諸条項をもっと検討すべきであったし、また政策的な妥協を行うべきであったと思う」
「しかし、戦旗・共産同の諸君!諸君らは必要以上の妥協を行い、その結果、大衆を教育する価値をもつ階級政党としての批判活動まで放棄してしまったのである」「マルクス主義者の『妥協』とは、相手への批判を正しいと思っているのに撤回したり、自らの見解を曲げ、あるいは沈黙することにあるのではない」

2)「諸君らは自らの指導責任を回避し、全人民的政治闘争を即座に組織できぬことのいらだちと、自らの能力の欠如という現実を、逆に選挙闘争や労働運動への革命的取り組みを開始している第四インターに対して、小ブル急進主義と半無政府主義の立場からの批判でごまかしているのだ!」「熱田派反対同盟や第四インターの当面する運動より、いついかなる時でもゲリラをやっていればよいとする中核派官僚のゲリラ至上主義の方が革命的であると思いこみ、赤軍派同様の武装闘争を美化し、第二次ブントの小ブル急進主義と『左翼主義』小児病に回帰してしまった」
「諸君らのゲリラが全人民的政治闘争に結合してゆく思想にもとづいているのか、それとも中核派官僚と同様な小ブル急進主義とアリバイ的ゲリラの思想にもとづいているのかを問題としている」「中核派官僚のごとくゲリラ戦を自己目的化し、ゲリラ戦の中から全人民的政治闘争が生まれるといったブランキズム的発想を止めようではないか!そうではなく、全人民的政治闘争を組織し、準備してゆく一環としてのみゲリラ戦は有効であり、必要なのである」「諸君らは、ゲリラ戦をもちあげ、社共に代ってプロレタリアートの多数者を組織できず、第四インターほどの組織力と影響力すらもてぬ、その現実に絶望し、ブロレタリアートの多数者を獲得してゆくすべての革命的闘いを逆に罵倒し、ゲリラ戦に自らのちっぽけな党の存在証明を求めているのである」

 試練派の主張している趣旨については、以上でほぼすべてを引用したはずである。われわれはスターリン主義の内在的克服の観点からも、まずもって自分達に都合のいいことだけ言ってもらい、不都合な批判にたいしてはほっかむりして済まそうなどとは考えていない。それで回答したいと思うが、ここでの試練派の批判についていえば、試練派こそ左翼共産主義者の理想主義を丸出しにしてるだけだと言わねばならない。
 もちろん正しい指摘だと言うべき面もあり、例えば最初に引用した三里塚三月攻防をめぐるわれわれの対処については、政治というものが常に理想の在り方で遂行できるものであるなら試練派の主張するような打ち方はベストであったろうが、それをやりきるだけの主体的準備が全くわれわれには欠けていたということである。
 後の方の七・五ゲリラ・パルチザンの遂行をめぐる諸問題についていえば、われわれの意志統一からいっても試練派の批判は誤った認識に立っており、思い込みと決めつけに規定されてるだけで全く正しいとはいえないものである。

 それ故第一に「三・一八」をめぐる諸点につき、原則問題との関連で反論したいことは、試練派が依拠するようなマルクス主義の原則の適用についての考え方は、決してレーニン主義を正しく理解している観点ではないということである。つまり試練派は「マルクス主義者の妥協とは、相手への批判を正しいと思っているのに撤回したり、自らの見解を曲げ、あるいは沈黙することにあるのではない」として、「三・一八」をめぐるわれわれの中核派への現象上の屈服を批判するのであるが、はたしてそうした在り方のみがレーニン主義の政治展開における真髄をなすものであろうか。

 われわれはそうは考えない。何故ならば「左翼小児病」においてレーニンは「戦争が敵に有利であって、味方に不利なことがわかっている時に、戦争をはじめることは罪悪である」と主張していたはずである。すなわち、「あらかじめ不利だとわかっている戦闘を避けるために『迂回、協調、妥協』ができないような革命的階級の政治家は、ものの用にたたない」と言って、ヴェルサイユ講和を絶対に認めず闘いぬくことが革命的だとするドイツの左翼共産主義者を批判したのではなかったのか!又、『一歩前進、二歩後退』においては、「譲歩の精神はつぎの二つの場合には正当であるし、必要でもある」と言い、「譲歩するものが、譲歩を要求するものの正しさを納得した場合」「あるいはより大きな害悪を避けるために、事業に有害で不合理な要求に譲歩する場合」をあげているのではなかったか!!

 理想はともかく、現実の政治過程の進展にあっては、たとえ自分達のほうに正当性かおり、相手が誤っているのであっても「見解を曲げたり、沈黙すること」はありうるのである。そうした場合でもそれが「プロレタリアートの階級意識、革命精神、闘争し勝利をかちとる能力の一般的水準を低めるのではなく、高めるために適用されていく」(=『左翼小児病』)のであれば当為をなすのであり、それがレーニン主義における原則の適用の論理である。

 「三・一八」にそくしていえば全くの無防備、丸腰の状態にあったわれわれは、それ以後武装を開始し、全党の戦争へむけての意識を喚起し、その屈辱をのりこえることを任務として闘ってきたのである。決してすべてをおっぼりだして逃げ出そうとしてきたのではないのだ。
 つまり革命的プロレタリアートの階級意識、革命精神、闘争し勝利をかちとる能力の一般的水準を高めるための猶予を「三・一八」をつうじわれわれは求めたのであり、「彼等にはブレスト講和は(三・一八は、と読んでほしい)、革命的プロレタリアートの党にとって原則的にゆるされないものであり、有害である帝国主義者との妥協と思われたのである。それはたしかに帝国主義者との妥協であった。だが当時の情勢ではどうしてもそうしなければならない妥協だったのである」(=『左翼小児病』)と言わねばならないのである。

 試練派の諸君はブレスト講和を批判するブハーリンなどモスクワ派と、あるいはヴェルサイユ条約を絶対認めないというドイツ左翼共産主義者と、結局は同じことを理念的に言ってるにすぎない。それをレーニンの立場と錯綜してわれわれを批判するのであるから、われわれもレーニンの言葉をもって再度反論しようではないか。
 「妥協にもいろいろある。一つ一つの妥協、あるいは一つ一つの妥協の変種について、その情勢と具体的な諸条件とを分析することができなければならない。強盗からうける災難をすくなくし、強盗をとらえたり銃殺する仕事をらくにするために強盗に金と武器とをやる人と、盗賊の獲物の分けまえにあずかるために強盗に金と武器とを与える人とを区別するすべを学はなければならない」
 「政治のうえでは、必ずしもこの点は、子供にでもわかる右の例のようには簡単ではない。だが生活上のあらゆる場合にあてはまるできあいの決定を前もってあたえたり、あるいは革命的プロレタリアートの政治にはいかなる困難も、いかなる複雑な状態もないと約束するような処方箋を労働者のために考えだすことを望むものは、それは山師にすぎない」(=同)のだと!

 もっとありていに言えば、「三・一八」はわれわれにとり苦肉の妥協であり、たしかに必要以上の妥協であったかもしれない。しかしそうする以外なかったのは、われわれがわずか数年で動員力を数倍化させた全くの青年期の党派であり、カードルの政治経験も全体的に若く、乏しいものであり、いきなり中核派と戦争状態に突入して持ちこたえるだけの軍事力、兵員数、そこでの政治展開やそれを担い抜く活動家の主体形成、そもそもの党的構えを持ち合わせていなかったからである。一切の問題はそこに存在したのである。
 われわれが内在化させていたこうした具体的な諸条件をかんがみ、なおかつ一坪をめぐるインターとわれわれの昨秋までの論争を考えれば、それまでの歴史的経緯からいっても一坪共有化運動の推進において責任党派として責務を果たすべき位置にあったのはわれわれではなく、他ならぬ第四インターであることは余りにも明白なことである。一坪運動の推進それ自体を「連帯する会」の共同歩調のために妥協する形で取り決めただけのわれわれに対し、「一坪共有化運動の権化」と化して中核派と戦争をやれと要求することが、如何に唐突であり、無茶苦茶な要求であるかは、少し脈絡を持って考えれば誰にでも理解できることである。
 しかるにそういった歴史過程を何ひとつかんがみることもなく、全く図式化された革命党派の在るべき姿一般から逆投影して批判しているのが試練派なのであり、しかも自分達自身はといえば「地下秘密文書」の発行をもって、全く非公然的に中核派官僚の批判を繰広げているだけなのであるから、どっちが左翼共産主義であり、「左翼小児病」なのかははっきりしていると言わねばならない。

 第二には、ましてや七・五ゲリラ・パルチザン戦闘の遂行を「赤軍派への里帰り」だとか、「第二次ブントヘの舞戻り」と批判するのは、笑止千万な理念的批判の典型というべきものであり、われわれが「中核派官僚のゲリラ主義にとびついた」とか「ゲリラ戦に自らのちっぽけな党の存在証明を求めている」などと言うに至っては、試練派の右傾化、インターと同じような右翼日和見主義への転落をこちらが批判しないわけにはいかない。

 われわれが七・五ゲリラ・パルチザン戦闘の遂行において意志統一したことは、(1)「ゲリラ・パルチザン戦闘の遂行は、全人民的政治闘争の一環として、大衆的実力闘争を豊富化する鮮明な政治目的の下貫徹されるべき位置にあり」(2)「大衆的実力闘争の全体的な武装闘争的発展、全人民的蜂起への道をめざすということであり、特殊部隊のゲリラ戦の遂行をもって党的武装闘争に置き換えるという現在の中核派のような闘い方は否定されるべき方向以外ではない」(3)「半公然や非公然闘争を内包するからといって、公然闘争の基軸性とそこでの大衆動員の勝利がないがしろにされては絶対にならず、そうした場合には革命党と革命勢力としての全的発展はありえないのである」(「武装を内包する革命党Ⅰ」より)といった内容である。

 それにもとづき全人民的政治闘争の一環としてのゲリラ、つまり六・一九反中曽根・反安保闘争での意志統一をひきつぐ七・五戦闘としてわれわれは闘いぬいたのである。のみならず七・五パイプライン第三管理棟へのゲリラ攻撃にとどまらぬ反対同盟を説得しての八・七パイプライン供用開始阻止闘争への取組み、そこへの全力をもっての大衆結集の連関構造のうちにわれわれは八三年春夏大攻勢を打ちぬいたのである。
 言い換えれば、これはまさに試練派が望むような全人民的政治闘争の一環としてのゲリラ戦の在り方そのものであり、それを「はじめて着手した選挙闘争の敗北によってゲリラに走る」などと断定するのは、「私の断定的言い方を同志的に理解してほしい!」という注釈が文中にあったとしても、余りにもわが戦旗・共産同を安っぽく見すぎた俗物的批判であると言わざるをえない。

 六九年春に明大に入学という瀬戸内高志は、七〇年安保闘争への大衆的武装闘争の高揚を体験しておらず、それを政治経験として蓄積していないのである。彼のゲリラ戦の経験は中核派の糾察隊としてのそれのみであり、いわば内ゲバ戦のみの体験ですべてをおしはかっているのだ。
 たいした経験とはいえないかもしれないが、われわれは六七年十・八羽田闘争以前から、六五年日韓闘争の敗北をひきつぎつつ闘い抜いてきたのであり、すくなくとも瀬戸内高志がいうようなことは七〇年安保闘争の総括として主体化しているのである。
 しかるに瀬戸内のわれわれへの見解にはあまりにブントヘの偏見が色濃くやどっており、全部十把ひとからげである。つまり革共同にありがちな「ブント=単ゲバ=武装蜂起主義=小ブル急進主義」といった図式が頭の中にできあがってしまっており、結局、中核派と同じような尊大な立場においてしか、われわれを理解することができないでいるのだ。

 そうした俗物的見解に対しては事実においてひっくり返していく以外ないと思うので、「誤解だ、見方をかえてくれ」等と哀願はしないが、われわれが七・五ゲリラ・パルチザン戦闘への取組みに対しなした政治的意志統一だけからいっても、その批判が全くまとはずれであり、ただの「ブント」なるものへの思い込みと決めつけでしかないことは、容易に判明することだと思う。
 こうした批判が末だまかりとおるということは、われわれを除いたブント系の惨状を見れば一定致し方ないことであり、革共同を上回る自己修養、主体形成の励行によって武装し闘う革命党をつくり土げること、それこそがわれわれの実践的回答であることを是非とも確認したいと思う。

 われわれ戦旗・共産同はこれまでいくども確認してきたように、全く独自の、そうであるがゆえに非ブント的と言われつづけた真にマルクス主義的な観点をリゴリズムをもって守り続けた異端のブントである。そのためにわれわれは第二次ブントの渦中にあっては、或る意味では異端の徒のように排斥されようともしたのであるが、しかし実践的にブントを名乗るどの部分も、われわれをのりこえることはできず、結局全部潰れてしまったのであった。
 それは何故か。それはわれわれがもっともレーニン主義に忠実であり、ボリシェヴィキ的であったからに他ならない。この歴史を守りぬくことによって、小サークルと化してうごめく他のブント系に対し優位を感じることに満足するのではなく、他ならぬ革共同両派をしのぐことに政治生命のすべてを賭けて闘い抜くこと、それがこの日本の地におけるプロレタリア革命の遂行のためにはさけてとおることのできない課題であり、宿命でもあることを、すべての同志諸君が理解してほしいとおもう。

 試練派にしてからが要するに革共同の歴史の優位を念頭において、「ブランキズムヘの舞戻りだ」と七・五戦闘を批判してるにすぎないのであり、「児戯にも等しい考えだ」等というとおり、全人民的政治闘争の戦略的領導をめざし闘い抜くわれわれを子供あつかいしたくてうずうずしているだけなのである。それはそれで構わぬが、しかし今日まで勝ち進み、独自の党建設をおし進めてきたわが戦旗・共産同がそんなに単純な、子供じみた組織であるのか否かを、七〇年安保をも上回る政治的大高揚を切り拓くことにおいて、今一度はっきりと検証しぬいてみせようではないか。

 何処にいるのか姿も見えぬ試練派への反論については以上で充分であろう。何故ならば彼等はおそらく機関紙『戦旗』をかい間みるだけで、われわれの一切を推測しているのであり、わが同盟の客観的在り方を批判するための資料が余りにも不足している。同様に第四インターについても、何の実体分析もなく機関紙『世界革命』を読むだけで思い描いているのであり、インターの惨状を知らなすぎるのである。

 それは中核派に追われる瀬戸内高志の悲劇を表現するものであり、彼等が公然と大衆運動に登場でき、そこにおいてわが戦旗・共産同の政治の在り方を正面きって批判することを、われわれは望むものである。その時こそ実践性における試練派の力はすべてためされるのであり、われわれに投げかけた言葉は全部自分に返るのだ。
 その現実の淘汰の中で相まみえ、論戦するときまで、われわれのさらなる反論は胸にたたんでしまっておきたい。

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