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七.専門化とマニュアルの推進に対する考え方
今日までのわが同盟の前進、わけても83年三・八分裂以降の飛躍的発展が主体的根拠を有したものであること、すなわち組織活動の質的高度化を技量の高度化をつうじつちかいつつ、それを担う担い手の意識性の飛躍的発展を克ちとることによって、それが物質化されてきたものであることは、これまでの提起においても明らかとなったと思う。
現実の活動形態が高度化し、より質の高いものとなっている以上、その担い手がそれに習熟し、己の主体的力量性として身につけていくことは、今や焦眉の課題である。それに立ちおくれている己の現実の前でニヒルになったり、ただ絶望感にだけさいなまれてやけくそになっているのでは、更にわが同盟は前進をとげ、組織活動の高次化も実現されていくのであるから、一層の低迷をまねくものでしかないことも、今や明白だ。
革命党が本当にシビアな局面においこまれ、その克服をかけて乾坤一擲の飛躍を試みているときには、まさにその担い手に一切のプレッシャーはかかってくるのであり、そこでの苦闘を共にすることができず組織にブラ下ることによって革命家としての命脈を保ってきたような場合には、やがてその試練を己が担わねばならなくなった時、実践において必ず馬脚をあらわす以外ないのである。
本当にそういった、ものすごいプレツシャー状態の中でわが同盟は闘い、それをはねかえすことによって前進をとげてきたのだということを、すべての同志諸君が理解してばしいと思う。とくに今日までのわが同盟の発展を実体的に支えぬいてきた組織局-地区党下の闘いにあっては、組織者としての技量性をかけ値なしに高めあげてきたのであり、又ゲリラ・パルチザン戦闘を担いきってきた部分は、24時間の政治警察との死闘のなかで己を打ち鍛え、息づまるような緊張の連続を生きぬき、闘いぬいてきたのである。
それらのわれわれの経験性、同志諸君の苦闘の軌跡は、追体験的に主体化されていくことが問われており、その必然にかられるからこそ、牧歌的概念の克服を強調し、革命家としての技量性の構築を、繰返し訴えるのである。
主体的力量の絶対的形成をもってブチ破っていこうとしなければ、どうしようもないブ厚い壁が、われわれの前にたちはだかっている。ますます兇暴性を増す日帝権力-警備公安警察の、国民の血税をすきなだけ使っての増強がそうであり、また、70年代のすべてを内ゲバにあけくれ、何十人もの相互テロルをやり、殺人集団として己を完成させてきた革共同両派の存在がそうである。又日共スターリン主義も47万党員をかかえ反トロキャンペーンを縁り返している。
こうした巨大な相手のすべてをのりこえていき、兇暴な警備公安警察を打ち破っていくためには、己を宗教団体と位置づけるのでない限り、倫理主義者ぶって禅坊主みたいな説教をたれているだけではどうにもならないことは今や誰もが納得できるであろう。
まさにわが同盟は明白にパワー・ポリティックスを駆使できる存在へと高まっていかなければならず、そのためには戦争と暴力を政治の手段として駆使できるようにならなければならない。それを支えるものは確固たるイデオロギー性・思想性だけではなく、実践に対処できる技量なのである。
ロシア革命においてボリシェヴィキがツァー専制の白色反革命を打ち破っていくために軍事専門家を必要としたように、わが同盟もまた、プロレタリアートが全世界を獲得するための礎(いしずえ)となるために、今や技量を有した専門家を必要としている。
組織局には組織化の専門家を、編集・印刷局には編集と印刷のプロを、統一戦線部局には外交のプロを、ゲリラ・パルチザン戦闘の遂行のためにはそのための技量を有した軍人革命家を、現闘には現闘の、社防には社防のプロを必要としているのである。
それはわれわれがサークルから言葉の真の意味での前衛組織へと発展していくために必要な要素であり、この人材の形成という「党のための闘い」を断固として推進していかなければならない。
さらにわが同盟が83年以降推進してきた、党の機構化・マニュアル化の問題も、こうした必然性にもとづき励行されてきたことである。
われわれはマニュアル化をつうじ組織活動形態の同一性を作り上げ、同一の組織的判断基準にもとづく有機的機能を高めあげようとしてきたのである。
このマニュアル化の促進によって作り上げてきた構えの構築は、大きな前進をわが同盟に保障してきた。
だが今、対象化しておかねばならないことは、ブルジョア的な近代合理主義、極言すればトヨタの「カンバン方式」に見られるような生産効率第一主義の立場から、マニュアル化が推進されるのであれば、それは何らブルジョア社会を内在的にも止揚していくことにはならないということである。
つまりマニュアル化し機構化することの意義を再度明確化させ、マニュアル化することによって克ち取るべきものを概念化させる必然がこのかんの攻防への対処のなかに存するのである。
このことを、例えば85年9・29辺田大会戦の大量逮捕との関連で述べてみよう。
9・29辺田大会戦においては、午後3時35分から部隊展開に入った戦旗派行動隊は、辺田公民館前での投石戦に入り、これを四波繰り返し、次いで旗ザオ隊が突撃、機動隊を完全に坂の上まで追いつめた。その後投石と旗ザオ戦を縁り返し25分間攻防をつづけ、4時撤収を開始した。直後辺田公民館と辺田十字路を結ぶ農道の真中に火炎車をくり出し、機動隊はここで火の手にはばまれて追ってくることができなくなったわけである。
ところがこのあと座り込みをやって道をふさいでいたデモ隊は動きはじめ、行動隊を隊列に合流させる準備がなされていたにもかかわらず、行動隊は「旗ザオを構えたままジリジリと後ずさりする」と決めたマニュアルにしばりつけられてしまい、すみやかに撤収を完了し部隊に合流しきることができず、増援された権力機動隊が小川剛正氏の抵抗の田や農道の右側、剛正氏の抵抗の田の左側の休耕田を突っきって突撃してくる攻防にモロにさらされ、結局75名の被逮捕者を出すことになってしまったのであった。(=『戦旗』522号を参照せよ)
ここで総括すべき諸点は、もちろん行動隊の諸君の行動にあるのではない。戦闘の部隊指揮において、事態が進展していくことについていけなくなり、戦局が有利のあいだに退却する決断を下せず、「機動隊に背をむけるのでなく、旗ザオを構えたまま後退する」というマニュアルにしばりつけられることによって、その後の無法なテロ・リンチを浴せかけられ、多量逮捕をまねかしめた点、そこでの指揮におけるマニュアルの適用に総括点があることを、マニュアル化の問題をとらえかえすひとつの例証として問題にしているのである。
同様の戦闘にそくしていえば、83年11・6レーガン来日阻止常盤橋戦闘においては、午後6時50分日比谷より常盤橋に到着したわが同盟の隊列が常盤橋公園傍をジグザグデモ中、行動隊とデモ隊列中から牛乳ビンを雨あられと機動隊にあびせかけ、その直後行動隊が機動隊二個小隊に襲いかかり徹底的に粉砕、数度の突撃をもって指揮車もろとも敗走せしめ、それに連られてその後方警備にあたっていた機動隊数百も逃走するなか、敵が体制をととのえ反撃にうってでる直前に、わが同盟の行動隊を含む全部隊はさっさと東京駅に撤収、権力機動隊が地団駄をふんでくやしがるなかを帰還したことを、想起せねばならない。(=『戦旗』477号を参照せよ)
この時の被逮捕者は11名であり、被起訴者は2名であった。
もちろんそのどちらもがその時点で果たした戦略的意義は同一であり、政治的大勝利を克ちとったことは言うまでもないのであるが、さっさと退却した常盤橋戦闘と、マニュアルを守って後退を遅らせた辺田大会戦では、われわれが受けた実体的被害においては、大きなへだたりがあるのである。
これらから、提起したいことは以下のごとくである。
つまりマニュアルは、敵に勝利し、攻防に打ち克つ実践的手段、もっとも妥当性を有した方法としてあるとき、それを順守することが勝利をもたらすのであり、攻防の弁証法とかけはなれた時点で、「マニュアルを守るために守る」「マニュアルを決めるために決める」といった硬直性において適用されるならば、それはただの死んだ教条にかわってしまう危険を常に内包するものだということである。
先に述べた「冬山には必ず毛の下着を着ていき、濡れても体温でかわかす。寒かったら酒をのむ」などというのもそうだが、それがマニュアルとなっているために実践的対応力や、発展性をつくり出すことができなくなる危険を内包していることを、その適用において知らねばならないのである。
このことを対象化できずに、近代合理主義そのままに、ブルジョア企業の従業員管理マニュアルや営業マニュアルみたいなものを集大成していくのが、組織の発展の度合をさすなどと考えてしまうならば、とてもスターリン主義を内在的に克服する道などひらけようもないし、そもそもブルジョア社会に拮抗し、のりこえていく共産主義的内実など絶対に形成できないのである。
何故ならば共産主義的政治の核心となるものは、ブルジョア社会をこえでる思想的内実、自分の頭でものを考えることができ、判断を下すことができる主体形成にこそあるからだ。何にも判断できず、わけがわからないからマニュアルにすがる、或いは思想的内実を内在的に作りあげていけないから、外側からマニュアルで規制していくといった考え方とは、全く位相を異ならせるのである。
要するにマニュアル化をすすめていくことは必然だが、しかしそれはそのヴィジョンとして、マニュアルにたよらなくとも、その現場、現場で、もっとも的確な判断を下すことができ、その己の主体的力量性、能力性において敵に打ちかてる革命的イストの形成を射程にいれたものでなければならず、それは壮大な人間革命、普遍的人間への接近という階梯に組み込まれたものでなければ、意味がないのである。
思想性のない革命家は共産主義者ではない。
わが同盟がめざし、作り上げようとしているプロレタリア革命の内実は、ブルジョア社会を抜本的にこえでる思想性、人間性、普遍性を内包した人間の革命であり、物化され疎外されたブルジョア社会の焼き直しみたいな世界をめざすのであるならば、そもそも生涯をかけ、人生を賭して革命運動に生きる必然など、何にもないではないか。
まさしくドイツ・イデオロギー命題(=「したいと思うままに今日はこれ明日はあれをし、朝に狩猟を昼に魚取りを夕べに家畜の世話をし、夕食後に批判することが可能になり、しかもけっして猟師、漁夫、批判家にならなくてよい」という普遍的人間への接近の提起)の実現こそが、共産主義革命運動のガイストであり、わが同盟戦旗・共産同のめざす方向である。
つまり、一方における専門家の育成、プロフェッショナルとしての技量の育成という現実攻防への対処の必然、マニュアル化による党活動における機構化の推進という命題と同時に、専門家をはぐくみ、マニュアル化を推進する思想的意義やその位置性が対象化されていかないならば、わが同盟の発展は死滅すべきブルジョア合理主義への悪無限的接近にしか結局なりえず、思想において近代ブルジョア社会をこえられない存在にも成り下ってしまう危険、これをおさえきったうえで闘いぬいていくことを意志統一しておきたい。
しかるのちに、マニュアルは敵との攻防に打ちかつ最も合理的な方法、実践的有効性を有した対処の仕方として集大成されたとき、その最大限の効力を発揮するものであり、有効性がないときにはマニュアルそれ自体をとりかえるべきであることをおさえてほしい。
しかもそれは、それを決めることに意味があるのではなく、主体化し、実践する時に位置をもつものであること、それを遵守することが勝利への道であることを、ここでの最後に訴えておきたい。
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