裏金問題を放り出した拙速総選挙だった
自民党議員の内部では今一つの人気だった石破茂が総裁になった。石破は自分が総裁に選ばれることはないという想定の上で、もし自分が総裁に選ばれるなら「自民党がどうにもならなくなった時」と書いていた。『保守政治家 石破茂』(講談社)でだ。
文字通り、こういう危機感を自民党の議員の面々は持っていたのだろうか。自民党の議員たちは長期政権だった安倍晋三の政治の実体が暴露される中で、危機感を持ち、否応なしに反安倍であった石破を選んだのだろうか。それはいうまでもなく、統一教会との癒着の露呈であり、裏金の暴露であった。次々と露呈する安倍政治の裏、というよりは実態へのあきれが、彼を選ばせたのであろう。
石破は安倍に干され、自民党の内では異端であり、それだけに冷遇されていた。その中で石破は安倍政治を批判し、しばしば正論というべきものをはいていた。自民党という荒野に咲く花のように思われていた。ある新聞は石破の総裁後の動きを「野に咲く花を花瓶にさしたら枯れてしまった」と評していた。言い得て妙であるが、そう思わせる総裁選後の石破の言動だった。少しでも人気のあるうちにと踏み切った総選挙であるが、裏金議員の公認問題を含め拙速の観を免れない。
石破で裏金政治(保守政治)は変えられない
裏金問題や統一教会問題は慣習的(惰性的)な自民党政治の露呈であり、根が深い問題であり、石破では解決の方向は見いだせないと思う。裏金議員で自民党が公認しなかった議員でも当選すれば、当選後は公認にし、役職も用意するという。これでは選挙で裏金を必要とし、当選すれば裏金をつくらざるを得ない悪循環を繰り返すだけであり、金力を政治力とする自民党政治を根本から変えることにはならないと思う。
自民党政治は裏政治(金と利益誘導)という慣習(惰性)を本質としてきた。それが金権政治(ロッキード事件やリクルート事件など)の露呈するたびに政治改革が叫ばれてきたが、それは現実化するものではなかった。政治資金の出入りを規制する政治資金法をつくったがこれは抜け穴の横行するザル法であったのだ。石破はこれをルール違反として指摘するが、裏政治という現実がルールを無視するのである。
安倍政治への批判点はどこだったか
安倍政治とは、戦争法や共謀法などの戦争ができる体制に国家を変えて行く政治(権威主義的で国家主義的政治)の推進であったが、その一方で議会を無視し、民主的な政治を破壊する政治でもあった。これは採決という形式論とは別に、「討議による統治(合意形成)」という民主政治の破壊だった。安倍が取った政治手法としての非民主的な政治手法には批判が強かったのだが、それは議会でまともな討論をせず、強行採決と閣議決定で法案をつくり、それに沿った政治を行ったものである。
これは彼らが口にする法の支配とか、法に沿った政治なるものの実体をよく示している。立法府における討議による合意というのは、その手続きを含めて近代民主政治の根幹をなすものであるが、それを形骸化してきたのが安倍政治である。表でいえば、議会での採決と閣議決定で法をつくり、政策を現実化していく政治(自民党というより保守政治の常套手段)である。議会で討議すべき法案、例えば原発ゼロ法案(議員立法として提起)などは塩漬けにしたまま、取り上げもしなかった。
左翼への対抗でしかない「自由と民主」のいい加減さ
これは遠く1960年の日米安保条約改定の批准過程で、安倍の祖父だった岸信介が取った強行採決に淵源するのである。この岸の政治手法は議会での法の成立を多数決の問題に歪め、討議による合意を骨抜きにしたのである。これは戦後の保守政治が常套手段としてきたのであり、安倍は露骨なまでにそれをやったのである。
この自民党政治を裏で支えてきたのが金力による政治、「裏政治」だった。表での非民主的な政治を支えていたのは選挙を中心とした裏政治であったのだ。統一教会問題は自民党のイデオロギーである自由と民主が共産主義への対抗的なもの、反共的なものにすぎず、その自由や民主主義が実体を欠くものであったことを示している。いうなら、彼らの自由や民主主義のいい加減さを示しているのが統一教会との癒着である。要するに自由や民主主義は名目であって、それに反することをやってきたのだ。
「党内討議の復活」を掲げる石破だが
こうした現状に対して石破は著作の中で、安倍政治が議論(討議)を封印し、排除する政治を批判し、国会での討議の背後にかつてはあった自民党内部での討議の不足を指摘する。自民党の総務会での討議は喧々諤々たる議論としてあり、その活力があったというのだ。
自民党が近代政党としての意味を存在させていたのはこの総務会での討議であるという指摘は興味をそそるところがある。けれども、これは強行採決と併存していたのである。戦後の保守政治は岸の強硬採決を国会運営として保存してきたのであり、それは宏池会系の保守もかわらないのである。
石破は強行採決や閣議決定は避けるということを明言できるか。それで自民党の総務会の討議も復活させられるか。民主政治というのは国家権力の制限、公平で自由な選挙、討議による合意形成であるが、彼はそれを実行できるか。とりわけ慣習による統治でなく、討議による統治をやれるか。そのために戦後の保守がやってきた政治を精算できるか。安倍政治への批判をそこまで徹底できるのか。岸信介に淵源する政治手法を精算できるのか。
【自民党総務会とは】党大会、両院議員総会に次ぐ常設の最高意思決定機関。法案や条約を党の総意とするべく閣議決定の前に審議・修正する。党内の異論や意見対立を取りまとめて調整し、国会では野党対策に一本化させる役割。激しい議論が多かったが、討論の上で最後は全会一致を原則とした。内閣や執行部に党としての意見を伝え、閣僚に批判や苦言を呈することもあった。かつては「ご意見番」の重鎮が多く所属したが、小泉内閣の郵政選挙による党内粛正で「官邸主導」が強まり、特に安倍政権ではほとんど注目されなくなった。(草加注)
田中角栄の最後の弟子
石破は自身を田中角栄の最後の弟子であるという。田中を保守=リベラルの原点とでもいうべき政治家であるという。田中角栄は異形の保守政治家であり、その評価は難しい政治家である。西郷隆盛に似たアジア型の政治家である。石破の「地方創生」というのは田中の評価と結びついて出てきたことである。
それなら原発問題をどう考えているのか。原発廃止と地方創生は深く結びついた事柄である。地産地消といい、エネルギー創出から生産と消費の構造の変革へという、そんな地方の社会と経済を変えて行くには原発問題の解決が不可欠だ。彼の地方創出にはそれがない。絵空事にしか聞こえない。
田中角栄をリベラルな政治家というところは異論のあるところだが、保守とは何かも含めて検討してみたいと思う。彼のアメリカ従属からの脱却(日米地位協定の見直し)、田中角栄の非戦論の評価、国防諭と憲法改正、アベノミクスの批判など、本書には興味そそることが多い。その辺の評価を、彼の著作からも読み取れるが、彼の言動をもう少し見てみたい。
味岡修(三上治)
※文中見出しは旗旗でつけたものです
新品価格 |
AIコースケと議論しよう! この記事への質問・一言コメントをどうぞ
●回答には文字数制限があるため、内容が簡潔になります。また、制限を超えると途中で打ち切られることがあります。