戸村一作:著『小説三里塚』(目次へもどる)
第43回 荒畑(1)
六月下旬になって、やっと平和塔が着工した。武治は妻の説子の作った弁当を自転車の荷掛にくくりつけると、毎朝ペダルを踏んで桜台に通った。
連日コンクリート練りや鉄筋曲げで、武治はくたくたになって帰ってきた。一杯飲んでタ飯を食うと、もう死んだようになって眠るばかりだった。それでも一晩ぐっすり寝て起きると、不思議に元気になって、桜台通いを連日続ける武治だった。彼は一日も早い平和塔の完成を夢見ていた。
いつものように納屋から自転車を押して、出かけようとしたが、弁当がない。
「説子、弁当は……」
「父ちゃん、弁当どころじゃねえよ、あれを見なよ」
説子は畑の方を指さした。武治は説子の指に従って畑に眼をやった。荒れた里芋畑が眼に入ってきた。
「そんなこといったって岩山部落では、家族総動員だど……」
「だって芋畑だか落花畑だかわかんねえほど、草で……。父ちゃん」
「団結小屋の巖さんが昨日現場でいってたが、あしたは千葉大の民青の学生が援農に来るからってよ……。草くらい何んだ」
「本当にあした来るのかい」
「巌さんのいうことだから間違いはねえよ」
巌さんとは武治の畑の中にある木の根団結小屋に住んでいる、民青のオルグのことだった。彼はこね首で、よくジープを運転して歩いていた。どこかの牛乳会社に働いていたがそれを辞めて、木の根団結小屋のオルグに回されてきたということだった。その頃、小屋には民青が住んでいた。
「ほかから来た人が工事場のテントに泊まり込んでやってるのによ、現地の者が知らねえ振りができっかよ。それに今やってしまあねえど間に合いやしねえ」
武治は説子にいい棄てると自転車に飛び乗り、坂道を上って行った。その後姿を見て説子は、思わず長い溜息を吐いた。――そして考えた。
「平和塔」とは農民にとって、一体何だろうか。本当に武治の信じるように、空港阻止の不落の牙城となるものだろうか。いや、あるいはそうかも知れない。そうだとすればまんざら反対もできない。
彼女は一人呆然と立ちつくし、武治の遠ざかりゆく姿を見守った。武治の姿が松林の陰に見えなくなると、説子は畑に蹲って草むしりを始めた。息子たちも母親の思うように役立たず、彼女はただ一人荒畑の中に取り残された形だった。
最近、特に畑を増やした武治は、三町歩余りを耕作していたので、いつも初夏の頃になると雑草に追われっぱなしだった。抜いても抜いても出てくる雑草の芽には、手を焼いた。これはどこの家も、みんな同じで、すっかり取尽した畑にも二、三日雨でも降り続こうものなら、空からでも蒔いたかのようにびっしりと雑草の芽が吹き出ていた。
どこにこんな雑草が潜んでいたのかと、不思議に思うばかりだった。いくら抜いても征伐しきれない雑草――百姓の仕事は雑草との闘いでもあるようだった。
特に今年は武治が毎日平和塔通いで、説子一人だから、雑草に追いかけられっぱなしである。説子は畑の中を一日中、四つん這いになって廻らねばならなかった。爪の中に土がくい込み、血が滲んだ。それでも説子は、草むしりを止めなかった。
大粒の涙が説子の眼からボタボタと落ちて、乾いた土に染み込んだ。一畝の雑草を取るには、相当の忍耐を要した。百姓にとって夏の草むしりほど、退屈でいやなものはなかった。いくらむしり取っても、なかなか向こう端にまで行きつけなかった。特に中年太りした説子にとって、草むしり仕事は苦痛だった。
里芋畑の畝は、遠くて長かった。武治の畑は畜カ作業をするために、特に長畝だった。一畝の半分もいかないのに、根が尽き、立ち上がった。
空を仰いで腰を伸し、右手で腰の辺りをポンポンと叩いては思った。
「あすこそ本当に援農が来てくれるのだろうか?」
説子は毎日、雑草むしりで明け暮れした。彼女の心痛の種は、寝ても覚めても雑草だった。この雑草では、一年の収穫はゼロだ。収穫がゼロでは、一家の生計が成り立たない。一家の主婦として、これほどの脅威はなかった。今にどこが落花生か里芋畑かも解らなくなるかも知れない。
説子が心配なのは、武治が平和塔に夢中になっている間に畑は草ぼうぼうで、「ざまあ見ろよ」と条件派の者に後指をさされることだった。このままいけば必ずそうなるにきまっている。説子はそう思うと、居ても立ってもいられなかった。
それでもけさの武治の言葉を思い出すと、気分を取り戻すこともできて、自ずと精が出るのだった。
次の日の朝が来て、小屋の巌さんがやってきた。
ホッとしたのもつかの間、
「けさ千葉の県本部から連絡があって、平和塔の仕事の関係で援農隊は工事現場に回り、こっちには来られなくなった」というのである。
説子は開いた口が塞がらなかった。気が遠くなる思いだった。
武治のいうことを信じ、今日こそ……と思っていたからである。援農隊が木の根に黒山のようにやってきて、瞬く間に雑草は取り払われ、日頃笑っていた奴らを見返してやりたかった。ところがそれが全く当てが外れてしまった。説子の気の減入るのも、無理はなかった。
「俺だけでも手伝えばいいけど、東藤先生が資材運びに東京まで行ってくれというので……」
巌はそういうと、くるりと踵を返して帰って行った。持っていた鎌が、彼女の足下にポトリと落ちた。援農隊に後を託して武治は、今朝はことのほか早く桜台に出かけていった。「巌さんだけでも……」と思ったが、それも駄目だった。
それから一〇日後、援農隊がやってきた。平和塔の基礎工事が、一段落したからというのである。時すでに遅く、畑は説子が心配したように、どこが畑かわからない荒地と化していた。畑は野鼠や蛇の住み家となった。人の背丈が隠れるほどの雑草を見ては、援農隊の若者たちも眼を回して佇んだ。
素人がいかに寄ってたかっても、どうにも手がつけられそうもなかった。一日汗水垂らしても、一畝もできなかった。
せっかくの援農隊も精も根も尽き果てた。二日目に彼等は雑草退治を止め、さっさと引き上げていった。一人取り残された説子は、帰ってきた武治に黙って里芋畑を指し示した。
見ると、民青援農隊が見棄てていった畑が、草ぽうぼうで放置されたままだった。
「援農隊はどうした?」
「帰っちゃったよ!」
「帰ったあ?」
武治は開いた口が、塞がらなかった。
その翌日から武治は、平和塔工事を休むことにした。まだ手元の暗い未明から、畑に出た。すでに初夏に入った雑草の根は、深く固く作物の根を結んで、雑草を引き抜けば、大切な作物まで引き抜かれてしまった。いっそのこと、そのままにしておいて、秋の収穫を待ったほうが……ということになった。
武治の隣り畑は条件派で、従兄弟の竜崎登だった。見渡す限りよく手入れされて、草一本見当たらなかった。説子は登の畑を横目で、チラと見ていった。
「おら家じゃ父ちゃん、農協にだって借金もあるしよ、今年の作が穫れなかったら、どうするんだよ。夜逃げだよ」
「……」
武治はしょげきって、何の弁解もできず、ただ黙ってうつむいていた。――突然、説子は武治の胸ぐらを掴んで、ゆさぶった。彼の頭が前後左右に、グラグラと揺れた。
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