第六章 欺瞞(後編)
第45話 逮捕
一九六八年四月二二日の払暁だった。岩山部落はまだ朝霧の中に、眠っていた。麻生禎和の妻まつが床を抜け出して、ようやく朝餉の支度にとりかかろうとして、台所の土間に峰り立った時である。外でコツコツと、表入口の雨戸を叩く者がいた。
まつは「こんな朝早くに……」と、不審に思いながらも、雨戸を一枚細目に手継って外を覗いて見た。
三人の背広服を着た見知らぬ男が立っていた。突然、その中の一人がまつに一枚の紙片をチラつかせながらいった。
「麻生さんはいますか。成東署の者ですが……。麻生さん」
まつは起きむくれの寝ぼけ眼を擦りながら、思わず庭の向こうをチラと見た。ジュラルミンの大盾を持った機動隊が背を見せて、入口いっぱいに立ち塞っているのが見えた。
まつは高鳴る心臓の鼓動を、押さえていった。
「こんな朝早く何で……」
そういい終わるか終わらないうちに素早く三人の男は、まつを中に押し込めるようにして雨戸をこじ開け、強引に屋内に侵入してきた。彼等は成東署の私服に案内された千葉中央署の二人の刑事だった。麻生禎和の寝込みを襲い、逮捕に来たのである。
目つきの悪い刑事の一人が土間に立ったかとみると、突然、ガラス戸を開けるが早いか、身をかわし座敷に飛び上がった。部屋には蒲団が敷かれてあって、一人の男が眠っていた。
刑事は見下して、再ぴ白い紙片をチラつかせていった。
「あなたは麻生さんですね」
男は驚いた様子で、蒲団の上にむっくりと半身を起こした。見ると頭は毬栗坊主である。
坊主頭は上を見上げて、「私は麻生さんではありません」といった。
その声は、太かった。
「麻生さんでない?麻生さんはどこにですか」
「麻生さんはそちらのようです」
坊主頭は仕切りの、唐紙を指さした。
指さす彼の傍には、団扇太鼓の入った頭陀袋と黄衣が置かれてあった。
妻のまつがいち早く寝ている禎和に急報するために、納戸に入った。物音に気づいた禎和は寝間着姿で起き上がったところを、三人の男に有無をいわせず逮捕された。
隣りの部屋に寝ていた伜の和夫が、飛び込んできた。
「何の理由で逮捕なんかするんだっ」
くってかかったが、すぐ突き飛ばされてしまった。寝間着姿でただおどおどする禎和を、二人の刑事が両側から腕を握って手錠をかけ、連行しようとした。
「着替えさせるから待って下さい」と、まつが禎和の上衣とズポンを持ってきた。
「いや、自動車の中だからこのままでいい。着替えは持っていけばよい。どれっ」
横柄な口調の成東署の私服というのが、まつから衣服をひったくるようにして、もぎ取った。
家族が呆然として見守る中を、禎和は曳き立てられていった。まつと伜の和夫がおろおろしてなす術もなく、その後を追って庭に出た。
その時だった。
ドラム罐がけたたましく鳴り出した。麻生の家のすぐ傍の三叉路にあるドラム罐らしい。すると、遠く近くのドラム罐が一斉に連打され始めた。朝の空気を震わせて響いてくる各方向からの音が交錯して、異様な雰囲気を醸し出した。
部落の人々がぞくぞくと、麻生禎和の家の前に集まってきた。――が大盾を並列した機動隊に遮られて、誰一人入ることができない。隣家の庄兵衛の裏庭から入ろうとしたら、そごにも機動隊がいて通路という通路を塞いでいた。見ると麻生の家の回りはぐるりと隈なく、機動隊に包囲された形になっていた。
これを知って腹を立てた区長の斎藤文雄が寝間着姿で、機動隊の真前に躍り出て叫んだ。
「この大馬鹿野郎らめ、何しに来ただっ」
それにつれて、「帰れーっ」という罵声が、あちこちから挙った。
拳大の石が宙を飛んで大盾に当たった。ガチャンという音をたてて、機動隊員の足下に転げ落ちた。続いて石の飛礫がバンバンという音を立てては、大盾に当たって跳ね返った。
一隣、サーツと機動隊がうごめいた。――かとみると大盾を翳し、身構えて一歩進んだ。彼等は手に手に、警棒を握っていた。
その時、腰縄をかけられ、二人の私服刑事に両腕をとられた麻生禎和が、機動隊の中を潜り抜けて、表通りに曳き出されてきた。それを見て一斉に表入口の方向にみんな集まってきた。路上にはさっきから一台のジープが待っていた。麻生はそれに押し込められるようにして、二人の刑事の間に挾って座った。
乗るが早いか、ジープは走り出した。その時、麻生の妻が機動隊を潜り抜け髪を振り乱し、裸足で走り寄ってきた。動き出したジープの窓辺に齧りつき、叫んだ。
「父ちゃん、頑張れよーっ」
「危いーっ」
傍にいた私服刑事の一人が、麻生の妻を抱きかかえるようにして、引き剥した。
ジープが部落はずれの「籠屋」の前を通過するときだった。窓からはっきり麻生の眼に映ったものがある。それはジープと同方向の三里塚に向かって、大股に歩いている一人の男の姿だった。まちがいなく東藤だ。彼は黄衣に頭陀袋を肩にしているから、遠くからでもすぐそれとわかった。
彼は夕べは麻生の家に泊まった。彼を中心に家族とともに夜更の一二時過きまでも、平和塔のことなどで語り明かした。麻生も東藤の三里塚闘争の取組み方や計画案にすっかり共鳴し、感激してしまい寝つかれず、ようやく朝明近くなって熟睡したところだった。
そこへ、刑事に踏み込まれたのである。彼が物音に気づいて眼を覚ましたときは、枕下に立った刑事五人に取り巻かれていた。
ジープはすぐに東藤を追い抜いた。
麻生は後をふり返ると、ガラス越しに東藤の歩く姿がよく見えた。彼の姿は見る見る遠ざかっていく――。
彼はどこへ行こうとするのか。遠ざかっていく東藤を見た麻生は、何ともいえない違和感に胸の掻きむしられる思いがして仕方なかった。
夕べと今朝の東藤は全く同じ人物で、歩く姿も同じだが、全く違った二人の人間に見えてならなかった。麻生は一抹の疑惑を抱いて、もう一度かえりみたが、すでに曲がり角に隠れて見えなかった。
麻生は岩山部落内でも人一倍、感情型で、闘争意欲に燃えさかっていた男だった。彼の操る自動車には、いつも武器としての石油罐が用意されていた。部落でも旧家で中堅層の年齢で、反対同盟としても先鋭部隊の一人だった。
その朝逮捕された者は、麻生禎和、岩沢藤助、麻生明ら三人だった。理由は二月一四日、岩山部落で公団職員と測量士に対する傷害事件だった。その日から六八日目だった。三人を逮捕するために千葉県警本部から機動隊が三百人も出動し、彼等の家を包囲した。
藤助が逮捕されるとき、妻のとよは髪を振り乱し半狂乱になって、機動隊にくってかかった。大兵漢の藤助もアルコール分が入ると見違えるように元気だったが、その朝は寝起きでおとなしく曳かれていった。とよは二人の私服刑事に曳かれていく藤助の後を追ってひた走った。素早く自動車の中まで飛び込もうとした。
気丈なとよは機動隊員の手を振り切って、動き出した車を追った。拳で、窓ガラスを、割れるほどガンガンと叩き続けた。そして藤助に向かって、吠えつくように力いっぱい叫んだ。
「父ちゃん、がんばれよーっ」
そして、くるりと機動隊の方を振り返ると、再び大声で怒鳴った。
「機動隊のこん畜生ら奴っ、早くけえれーっ」
とよは仁王立ちに突っ立ち、眼を爛々と輝かせた。その形相は見る者の背筋を寒くさせた。藤助を乗せた車はそんなことには頓着なく、門口を右に折れて坂を下っていった。
麻生明はまだ二六歳の独身青年で、禎和も藤助の家もともに、そんなに離れてはいなかった。朝の澄んだ空気を震わせて、天神峰、木の根の方からもドラム罐の連打音が、間断なく伝わってくる。いち早く他部落から団結小屋の学生たちが、オートバイや自転車で乗り着けてきた。そのうちに各部落から反対同盟の農民が自動車を疾走させて、ぞくぞくと集まってきた。たちまち朝の静けさを破って岩山部落は、動乱の巷と化した。
機動隊も私服も反対同盟の逆襲を恐れてか、風のように疾走していった。
麻生禎和らは三人とも傷害罪で、千葉地検によって起訴された。彼等の弁護士は反対同盟の弁護士ではなく、東藤敬通の手引きによって、自由法曹団の日共系弁護士がこれに当たることになった。
この岩山事件がきっかけとなって、その後の岩山部落の動勢が変化し、やがて闘いが骨抜きにされていくのである。
事件後は、先鋭だった岩山部落の農民たちも、すっかり鳴りを潜め、見違えるように変わってしまった。結局、麻生禎和、岩沢藤助、麻生明らは、執行猶予一年の刑でけりがついたが、その後、麻生明を除いて麻生禎和、岩沢藤助、斎藤文雄ら奉讃会の農民らは条件派に切り変わっていった。
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