告知もなくひっそり(こっそり?)オープンさせていた「懐古的資料室」の中に、「左翼思想入門の入門」というコーナーを設けました。とりあえず3本ほど掲載しましたが、いずれはまっぺんさんとこのレッドモール党の「文献・資料室」や「懐古闘争の記録」に負けないものに成長させていきたいと思います。
まっぺんさんとこの資料室は「社会主義・共産主義のお勉強をめざす人たちのために」となっておりますが、うちはなんせバカ左翼御用達サイトなんで、そんなにたいそうなもんではありません。まっぺんさんとこは本を一冊まるごとテキスト化したものがゴロゴロあるというすごさですが、旗旗では「入門の入門」という名に恥じず(?)、比較的短くて帰宅してから晩飯前にすぐ読めるものばかりにしていくつもりです。
たとえば左派に限らず右派の人でも、一応はマルクスだの左翼思想だのも、どんなもんか「とりあえずチェックしときたい」という方もおられますでしょう。さらに、右派に限らず左派の人でも、「今どきいちいちマルクスなんぞ読んでられるかぁ!」という人は多いでしょう。特に我々バカ左翼には「なんとかズルして難しい本を読んだようなふりをできなものだろうか?」という需要があるだろうということで、そういう皆様の今宵のお供にいかがでしょうか?というくらいのコンセプトです。だから現役バリバリのマルクス-レーニン主義者の皆さんは、あんまり大真面目に噛み付いたりしたらダメよ(笑
とりあえず実家の押入れをひっくり返していたら、私が青春ド真ん中なガキの頃に書いた「マルクス『賃労働と資本』学習ノート」が出てきたんで、これを載せました。つーか、これが出てきたから思いついたコーナーだということは秘密です。せっかくなんで、コーナー開設記念にブログのほうにも載せておきます。
「はじめに」の部分は左翼のお約束ということで、ついて行けない人は飛ばしてくださっても結構です。しかし今読むとまぶしいわ、この部分(泣笑)。本題は「1. 労働力商品の価格としての賃金」からです。
一読してマルクスは、別に現代の私たちの生活実感とかけ離れた難しいことは何も言っていないことに気がつかれると思います。特に工場労働や日雇い派遣を経験した人なら「うんうん」とごく普通に納得できる内容のはず。まあ、今の資本主義はもっと複雑で、金融資本はこんな産業資本みたいに牧歌的な「労働者の搾取」なんてレベルじゃない。まさに鬼が鬼を喰らう世の中で、私らはその足元で右往左往して逃げ惑いつつ、明日のオマンマの心配しているわけです。もうここまで巨大化して世界政治をコントロールする資本の動きは、こりゃ~誰も止められんわって感じですが、でも誰かが止めないとなーと思います。
また、国家が経済過程に介入して矛盾を調整したりおこぼれの「福祉」政策(それもできなくなってきましたが)で労働者階級を買収する国家独占資本主義が多かれ少なかれ今の世界の主流なわけで、ここに書いてあることは資本主義の根本、または出自というような感じになります。しかしおこぼれもらってきた労働貴族なんかは、「お前らのせいでダメになった!」と上(政府・与党)からも叩かれ、下(労働者・大衆)からも突き上げられ、自己保身に汲々です。ああいうのを「左翼」とおもっちゃだめよ。しかし左翼が頑張らないと、こういう資本主義の危機が全部大衆にしわ寄せされ、あげくの果てにその不満がファシズムに回収されて無力化されてしまいます。
と、いうわけで、以下、「マルクス『賃労働と資本』学習ノート」であります。
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マルクス『賃労働と資本』学習ノート
はじめに
現在われわれは切迫する三里塚二期着工や、三月チームスピリット侵略演習をはじめとする追いつめられた帝国主義者共の凶暴な攻撃を前にして、全身全霊をかけてこれを粉砕するべく、一丸となって正月返上でフルに闘いぬいている。
もちろんこれらの闘いを、一般的な「戦争はいやだ」的意識や、農民への同情といった内容においてのみ闘うならばそれは決定的に不充分であり、反帝反侵略の階級的観点において闘う以外に決して運動の発展や展望は見い出せず、そればかりか階級的成熟を遂げる韓国民衆や戦闘的三里塚農民との根底的連帯などありえない。
しかしその「階級的観点」とか「階級闘争」とか、一口に言う内容とはどんなものなのか。
マルクスは『賃労働と資本』の中で次のように提起している。
「われわれはこれらにもとづいて、つぎのことを証明した。それは、どんな革命的反乱もたとえその目標がどんなに階級闘争からかけ離れているように見えようとも革命的労働者階級が勝利するまでは失敗するほかないということ、どんな社会改良も、プロレタリア革命と封建的反革命とが一つの世界戦争で勝敗を決するまでは、ユートピアにとどまるということである」(大月文庫版、以下同じ)。
マルクス自身もこの『賃労働と資本』を、ヨーロッパ全土で民主主義革命の嵐が吹き荒れながらもいたる所でブルジョアジーの裏切りによって敗北していった、その激動の一八四八年から四九年に執筆しているのであり、文字通り右のような問題意識に貫かれたものとしてあるのである。
今まで私自身「わかりきったこと」としていたこのような内容を一般にマルクス経済学の入門書とされている『賃労働と資本』の学習をつうじて再確認していきたいと思う。
そして「ブルジョアジーの存在と彼らの階級支配との基礎をなしており、また労働者の奴隷状態の基礎ともなっている経済的諸関係そのものに、いまやくわしくたちい」り、今後の労働者活動家としての自己の定立化に向けた一助としていきたい。
1. 労働力商品の価格としての賃金
一般に賃金というと、一定の労働時間や労働給付に対して資本家が支払う一定の貨幣額だということになっている。つまり賃金とは労働者が具体的になす労働の価格のようにみえる。
しかしそれはただ、そうみえるだけである。実際に労働者が売り、資本家が買っているのは労働ではなく、労働カなのである。
労働力とは人間の生きた体のうちにやどり、労働するさいに用いる肉体的・精神的(知識など)な力のすべてのことであり、その具体的な働きが労働である。つまり機械が作業能力をもっていても、労働者が動かさなければ作業をしないのと同じ関係である。ただ労働カは売るといっても自分の体からはなして相手に渡すことはできない。だからより正確には、労働者は自分の労働力を使う権利を資本家に売るのである。労働者は一ヵ月や一日というふうに時間をかぎって労働力を売り、資本家は約束した期間労働者を働かせて生産することにより、労働力を消費する。
だから労働者が労働を開始した時には彼の労働力はもうすでに資本家のものであり、彼の生産物もまたすべて資本家のものである。ただ賃金は普通、労働がすべて終わった後で、つまり労働力を使ってしまった後で支払われ、長く労働すればするほど高くなるという賃金システムが、賃金を”労働の価格”のようにみせたり、自分の労働によって得られた”営業収入の分け前”のようにみせかけているだけである。
実際には資本家の側から言えぱ「生産に必要な商品の購入」という点で、労働力も工場の建物や機械も、まったく同じ位置しかない。「もの言う機械」にすぎないのである。「だから賃金は、自分の生産した商品に対する労働者のわけまえではない。賃金は、資本家が一定量の生産的労働力を買いとるのにもちいる既存の商品の一部である。だから労働カは、その所有者である賃労働者が資本に売る一つの商品である」
さてこうして「賃金とは、労働力の価格に対する、人間の血肉以外にはやどるべき場所のないこの独特の商品の価格にたいする特別の名前にすぎない」ということが明らかになった。
この労働と労働力の区別ということが、実は非常に重要なことなのである。
なぜならもし労働者が売り、資本家が買っているのが労働力ではなくて労働であるならば、資本家は労働者を搾取することができず、その利益も発生しないからである。
このことにたちいる前に、そもそも労働とは、すなわち人間がものを生産するとは、いったいどういうことなのか。そこにどんな意味があるのかについて考えてみよう。
2. 生産関係と階級
人間が自分達の暮らしに役立つ物質的富を生産するということは人間が自然の改造を行うということにひとしい。
なぜならば人間は神ではないのだから、無から有を生みだすことは決してできないからである。人間にできるのは、自然に存在するもの(木・鉱物・石油など)の形を変えて、人間に役立ちうるようにすることだけである。
ところで人間はこの自然の改造をおこなうにあたり、太古から決して孤立しておこなったのではなく、集団をなし、社会を形成しておこなってきた。
「生産のさいに、人間は、自然にはたらきかけるばかりでなく、また互いにはたらきかけあう。彼らは、一定の仕方で共同して活動し、その活動をたがいに交換するということによってのみ生産するのである。生産するために、彼らはたがいに一定の連絡や関係をむすぶが、これらの社会的連絡や関係の内部でのみ、自然に対する彼らのはたらきかけがおこなわれ、生産がおこなわれるのである」
だから生産(=自然の改造)には、自然と人間との関係であるという側面と、自然の改造にさいして人間と人間とが結ぶ関係(生産関係)という、二つの側面がある。
それゆえ物質的富の生産は、いついかなる時でも、社会的生産である。つまり人間が生産をおこなうというのは、社会が生産をおこなうというのと同義である。
そしてこの「生産関係」は、「その総体において、社会関係・社会と呼ぱれるものを、しかも一定の歴史的発展段階における社会、独特の、特色ある性格をもった社会を形づくる。古代社会、封建社会、ブルジョア社会は、そういう生産関係の総体であって、それと同時にそれぞれの人類の歴史上の特殊な発展段階をあらわしているのである」
このようにして、人間は生産をおこなうさいに(自然を改造するさいに)、人間と人間との関係である生産関係を結ぶのであるが、その生産関係を決定づける基礎になっているのは「生産手段」の所有関係である。
生産手段とは、木や鉱物などの改造される自然と、道具や機械や建物や道路などの、人間が自然の改造にさいしてもちいるすべてのもののことである。
人間は生産手段をもたなけれぱ生活に必要な物質的富を生産することができない。だから生産手段を独占的に所有している人間集団は、所有していない人間集団の労働を搾取することができる。
生産手段を誰が所有しているかという関係は、ブルジョア社会の中では、人間と物(商品)との関係のように思えるが、実は、人間にとって絶対必要な生産手段の使用、処分に関して、特定の人々が他の人々を排除するという人間と人間との関係である。
こうして、生産手段を所有するかしないかによって区分される人間集団=階級が発生した。
生産手段を独占的に所有する階級は搾取階級となり、生産手段をもたない階級は被搾取階級となった。
およそあらゆる階級社会において生産手段を所有する搾取階級は、生産手段をもたない被搾取階級(奴隷や農奴)を、自分達が所有
する生産手段をもって働かせ、その生産物の中から被搾取階級が生きのびるのに必要な分だけを残し、後の剰余生産物をとりあげることによって成立していた。
資本主義社会における資本家と労働者の関係も、実はまったくこのあらゆる階級社会に共通な搾取階級と被搾取階級の関係なのである。ただそれを「商品形態の自由と平等の非階級的形式のもとに取りあげる」(宇野弘蔵『資本論の経済学』)ということにすぎない。
その「非階級的形式」というのが賃労働であり、労働力という商品の”自由な”売買による「商品形態」なのである。次にそのことを見ていこう。
3. ブルジョア的生産関係としての賃労働
資本主義的生産関係は、資本家が労働者の労働力を商品として買い、それと同じく商品として買った生産手段を結合して、新しい商品を生産するという関係を基軸としている。
この場合、資本家の”もうけ”はどこから出てくるのであろうか。それは労働カという商品の持殊性がその根拠となっているのである。
資本家は労働力を買い、自分が所有している生産手段を使って労働させ、新しい商品を生産させ、労働力を消費する。一方、労働者はというと、労働力を売った代価(=賃金)で衣食住をはじめとする生活資料を買い、それを消費することによって、労働力を再生産するのである。
さてこの場合、労働者が買った生活資料の中には、彼が自分で生産した商品が含まれているかもしれない。しかし彼がもうすでに資本家のものになっている労働力を使って生産した労働生産物は当然にも資本家のものとなり、彼は自分で生産しながらそれを商品として買わねぱならない。
たとえばある労働者が、消耗した自分の労働力を再生産するために必要な一日あたりの生活資料が、もちろんさまざまな生産部門におけるさまざまな労働者の労働カによるとしても、全体で四時間の労働によってつくられた労働生産物だとする。だとすると彼の一日の労働力は、四時間分の労働の対象化されたものとして価値を有しているということになる。
しかしもちろん彼の労働は四時間で終わるわけではない。彼は資本家のもとでたとえば八時間働いて一日の仕事を終えるのである。つまり彼の売った労働カの価値は四時間分の労働の対象化されたものである。そして資本家はその労働力を、四時間分の労働生産物(を代表している貨幣=賃金)をもって買いとる。しかしながら彼が資本家のもとで生産するのは八時聞分の労働生産物であるのだ。
労働力はそれが商品であるという点で、他のあらゆる商品とかわりないが、まったく特殊な商品である。
先の例では、労働者は最初の四時間で自分の賃金分のものを生産してしまい、あとの四時間はまったく資本家のためにだけ労働する。この最初の自分のために働く時間のことを「必要労働時間」といい、後の資本家に捧げる部分を「剰余労働時間」という。(図A)
資本家にしてみれば、四時間の労働生産物(を代表する賃金)によって、八時間の労働生産物を手にいれたことになる。これがもし労働者の売っているものが労働力ではなく、労働であるならば、こんなことがあり得ないのは容易に想像がつくだろう。
八時間の労働の価値は、八時間の労働によって生産される労働生産物の価値であり、四時間分の労働生産物で買えるのはやはり四時間の労働である。これでは資本家は新しい生産物を得ただけであって、何一つ損も得もない。
このような交換関係は、たとえばわれわれが職人さん(大工とか植木職人)をやとった場合などにみられる。われわれは彼らの労働とその成果を手にいれるだけである。
このように資本主義体制でも、他のあらゆる階級社会と同様に、生産手段を所有する階級が、持たない階級を労働させ、その労働の成果を搾取するという関係が成り立っている。ただ、奴隷に対するムチが、商品取りひきの自由と平等の原則(!)に置きかえられただけである。
それでも労働者は資本家に労働力を売る。なぜ売るのか。生きるためである。
本来、人間の生命活動と可能性の発現である労働は、労働者にとって何の意味もない。ただ”かせぎ”を得るための手段である。その生命活動をやめた休息の時にだけ、労働者の生活ははじまる。
「労働力の販売を唯一の生計の源泉とする労働者は、生きることを断念しないかぎり、買手の階級全体、すなわち資本家階級をすてることはできない。彼はあれこれの資本家のもちものではないが、資本家階級のもちものである」
これが資本主義体制の基軸的生産関係である。もちろん現実の生産関係はもっと複雑きわまりないものであるし、また、その時代における段階論・現状分析を正確になさねば資本主義全体を把握することはできない。しかしながら、ブルジョアジーによる労働者の搾取関係は、資本主義が資本主義であるゆえんとして、その原理論的内容としてふまえられねばならない。
4. 価値法則の貫徹
さて、先の労働者の例で、彼は一日あたり消費する生活資料に匹敵する生産物を、四時間で生産していた。そして彼がもう四時間の剰余労働をなすことによって、資本家は四時間分の「剰余価値」を手にいれる。このことは労働力商品の売買が、そしてまたその力によってつくられた生産物の価値の大きさが、特定の労働時間の対象化されたものであることを示している。
およそすべての商品は、具体的効用である「使用価値」と、他の諸商品との交換比率を表わす「交換価値」とをもっている。この交換価値を貨幣で評価したものが「価格」である。
ところで、まったく性質のちがう諸商品が交換されあう時、この商品の両者に、質的に同じで量的に比較可能なものがなければ、両者の交換比率は決定されえない。それが商品の「価値」と呼ぱれるもののことである。そしてその商品の価値の大きさは、その商品の生産に、直接・間接に要した社会的必要労働時間によって決定される。このことを「価値法則」という。
この場合の労働時間とは、個別の資本家が生産に要した労働時間のことではない。ある商品を生産するのに必要な、平均的な労働の熟練度、平均的な労働の強度(=ある時間内に支出される労働量、労働者の緊張度のこと)のもとで要する労働時間のことである。これを「社会的必要労働時間」という。
だからある商品の価値の大きさが、その商品を生産するのに必要な労働時間によって決まるというのは、個別の資本家についてではなく、一つの産業部門全体についてしか言えないものである。
価値を生みだすのは唯一、労働であるということは、労働力の価値が、たとえば四時間の労働によって対象化されるものであるならば、総体の労働時間を九時間、十時間と延長していけば、資本家の手にいれる剰余価値(=もうけ)も増大する。しかしこの乱暴な方法(低賃金長時間労働)にはおのずと限界のあることはもちろんである。
一方、生産性の高い新しい設備を導入して、労働者が自分の労働力の価値を生産してしまう時間を短縮すれば、相対的に剰余労働時間は延長されていく。
もちろんその商品を生産するのに要する労働時間が短縮されれば、その商品のもつ「個別的価値」は下がる。しかしその商品の価値は、社会的必要労働時間で決まるのであるから、個別の資本家が自分だけ生産性を高めた場合、彼は実際の価値以上でその商品を売ることができるのである。
しかしそれは長く続かない。他の資本家達もこぞってこの新しい設備やシステムを取り入れはじめるからだ。彼の個別的価値は社会的価値となってしまう。彼は今までと同じ価値を手に入れるためにはより大量の商品を売らなければならない。ただ、剰余労働時間は明らかに長くなっており、よりいっそう多くの労働を支配し、搾取が強まることとなる。
この競争におくれをとった資本家はみじめである。彼の商品は今まで通り十の個別的価値をもっていながら、社会的価値である五で売らねばならない。「うちの会杜は旧来の手間のかかる方法で製作したので、高く買ってもらわないと困る」ということは通用しないのである。この競争に負けることは、資本家にとって破滅をも意味してしまう。
価値法則の貫徹によるこの競争が、資本主義社会の急速な発展を保障してきたのである。
さて、ところでこの価値法則は”等労働量交換の法則”とされるが、現実には、等労働量交換がおこなわれているわけではない。現実に交換価値を決定しているのは「需要と供給の法則」である。
需要が多いのに供給が充分になされないならば、その商品の価格は上がる。逆に供給が需要をこえてなされ、その商品が市場でだぶつくならぱ、その商品の価格は下がる。
この買い手と売り手、買い手同士、売り手同士の競争の、様々な力関係でその時の価格は決まる。
こうやって、需要が多く、商品の価格がその価値以上に高騰している産業部門には、高い利潤を求めて資本が、それにつられて労働力が流れこんでくる。その結果供給は増加し、商品の価格はその価値どおり、あるいはそれ以下にさえ下がって流入は止まる。
反対に、需要より供給の方が多い産業部門では、商品の価格はその価値以下に下がり、資本は流出していく。そしてその産業がすでに時代にあわなくなっており、したがって減亡する以外ない場合をのぞいて商品の価格は上がり、流出は止まる。
こうして常に無政府的な運動をくり返しながら、一つの産業部門全体について、少し長い期間をとってみると、社会的に適正な「労働の比例的配分」が実現されている。
およそすべての社会にとってその存立の条件は、その社会がもっている労働生産力を、社会が必要とする割合にあわせて各産業部門に配分されねばならない。そうでないならば、社会にとって絶対に不可欠な物資が絶対的に欠乏したりする。
資本主義社会では余りに多くの無駄を含みながらも価値法則の作用によって、この労働と生産手段の比例配分が達成されるのである。
このように現実の商品価格は需要供給の法則によって決定されながらも、価値法則はこれをいわば裏で規制する法則として、商品経済を、ということは資本主義体制全体を規制しているのである。
今まで見てきたような価値法則は、1)商品の価値の大きさは、その商品の生産に直接・間接に支出される社会的必要労働時間によって決定され、2)その価値が商品交換の基準を規制し、その結果として、3)社会存立にとっての条件である「労働の比例的配分」を達成し、さらに4)労働生産性を自動的に上昇せしめる。
5. 賃金における価値法則
もちろん労働力商品と、その価格である賃金も、その例外ではない。というよりは、すでにみたように労働力商品の売買を基軸として、価値法則は貫徹されるといえるのである。
賃金は、まずもって需要と供給の法則によって決定される。その時々の売り手(労働者)と買い手(資本家)の競争の力関係において、賃金は変動する。しかしこの変動の内部では、賃金は常に労働カの価値の大きさによって、つまりこの労働カ商品を生産するのに必要な労働時間によって決まるであろう。それはつまり生きた労働者を今日も明日も、労働力商品として維持するために必要な生活手段(衣食住など)の価値である。また、その労働者を労働者として育てあげるために必要な価値(修業費)である。
この点についてはいくつか注意しなければならない。まず労働者の生活手段の価値であるが、これには家族の生活手段の価値が含まれている。つまり、老年や死亡で消耗された労働力を、新しい労働カと交換できるようにするためには、その労働者一人分の生活手段だけでなく、家族の生活手段、すなわち労働者の繁殖費を含む。これは資本家階級全体にとって絶対に必要なことである。
そしてこの労働者の生活費と繁殖費のなかには労働者の生理的・生物的な生活にとって絶対必要な生活手段の価値(生理的生活費部分=賃金の最低限界)と、労働者が文化的生活を営むために必要な生活手段の価値(文化生活費部分)にわかれる。
文化生活費部分は、その時代・地域における労働者の、平均的文化的欲望の範囲によって決まる。たとえぱ現在的には冷蔵庫やテレビぐらい持ち、年に何回かは家族連れの旅行に行くぐらいはあたり前になっている。それもできないのは安い賃金ということになるだろう。
そしてさらに、これらの生活費とは独立の修業費がある。修行期間が何年もかかる複雑労働の熟練労働者は、それだけ賃金が高い。また一般的に中学卒よりも高校卒、大学卒のほうが賃金が高い。それは資本主義社会においてはそれだけ「金のかかった上等な商品」だからという理由にすぎない。
最後に、このようにして成立する”労働力の価値”のうち、修行費をのぞいた労働者の生活費部分のことをマルクスは「最低賃金」と呼んでいるが、これは個別の労働者が必要とする最低限のことではなく、社会的・平均的にしか成立しないものである。たとえば一口に”労働者者の生活費”といっても、ある人は子供が五人いるかもしれないし、ある人は一人かもしれない。しかし修業費や労働時間などの条件が同じであれぱ、この二人の賃金は平等である。しかも現実には幾百万の労働者は、生活し、繁殖するのに充分な価値をうけとっているわけではない。しかし、労働者階級全体の賃金はその変動の内部で平均化されて、この最低限に一致する。
こうして次のことがわかる。労働者は資本主義体制のもとでは、自己を労働力としてしか社会的に表現できない。資本主義社会における人間の値うちは、商品としての値うちなのである。中学卒よりも大学卒のほうが労働力として高級であり、社会的にも高い地位になる。自己を労働力として表現できない「障害」者は、きわめて低い位置しか与えられない。そしてすべての幸福と地位の規準は貨幣量である。それへの道は他者との競争であり、これに勝つことだ。
これがブルジョアジーの人間観であり、社会観であり、ブルジョアジーが支配する社会では一般的なイデオロギーとなるわけである。
さて、このようなブルジョア体制は、何かしらごく自然にそうなってしまっているとか、あるいはその逆に警察や軍隊の強制のみで存在しているわけではない。ちゃんと物質的な基礎をもっている。それが「資本」なのである。次にそれを見ていこう。
6. 資本=ブルジョア的搾取関係の物的表現
会杜の「資本」とかいった場合一般にそれだとされるのは、まず第一に資金であり、工場の建物とか機械とかである。そしてブルジョア経済学者もそう考えている。
「黒人奴隷とは何か?黒色人種の人間である。右の説明はこういう説明とおっつかっつのものである。黒人は黒人である。一定の諸関係のもとでのみ、彼ば奴隷となる。紡績機械は紡績するための機械である。一定の諸関係のもとでのみ、それは資本となる。これらの関係から切りはなされたら、それは資本ではない」
では、一定の諸関係とはなにか。
まず工場に投下された資本(=産業資本)は、図Eのような循環運動をする。
資本家ははじめ、たとえば10億円の貨幣(Gという符号であらわす)をもって商品を買い入れる。
この商品は二種類のものからなっている。一つは生産手段(Pm)つまり工場の建物や機械・原料などである。もう一つは人間の労働カ(A)である。
この場合、たとえばこの両者に5億円ずつ使ったとしよう。資本家はこの両者をむすびつけ、生産過程(P)を通して15億円の価値をもった新商品(W´)を生産しそれを市場で売って、15億円の貨幣を得る。差引きで5億円の剰余価値(m)が資本家のもうけである。彼はこの剰余価値を得るためにこの作業をくり返す。
ところでこの新商品の価値はどこから来たのであろうか。5億はもとからあった原料や機械(の摩耗分)の価値が、新商品(W´)にうつってきたものである。(わかりやすいように、機械や道具も一回の生産ですべて摩耗して価値をうつすものとして考える)だから残りの10億円が、労働者がその労働によってつけ加えたものである。
労働者はたとえば八時間働いて最初の必要労働時間四時間で自分の価値5億円をWにつけ加えてしまう。残り四時間の剰余労働時聞で、資本家のもうけとなる剰余価値を生産する。剰余労働を長くすればするほど”もうけ”が大きくなることがわかる。
この図における最初の10億円は「総資本」である。このうち生産手段の買い入れにもちいられる5億を、その価値が変わらないところから「不変資本」(c)といい、労働力の買い入れに使われる5億円を、その価値が増殖するところから「可変資本」(v)という。
資本にはこの他に産業資本の生産物を売る「商業資本」(図F)や他資本に金を貸す「貸付―もしくは利子生み―資本」(図G)がある。
これらのことを見ると、資本とはまず第一に、あるときは貨幣形態、ある時は商品形態、ある時は生産手段と労働カの形態をとる”価値”である。
第二に資本は剰余価値を生み、自ら増殖する価値である。価値が増殖するのは資本家階級によつて労働者階級を搾取するために使われるからである。だから剰余価値を生むというのが資本の本質である。
「資本の本質は、蓄積された労働が生きた新しい労働のために新しい生産の手段として役立つという点にあるのである」
第三に、資本は循環し運動する”価値の運動体”であり、その循環の中で剰余価値を生む。この運動をやめれぱただの機械であり、商品であって資本ではない。
まさしくこの資本がブルジョア社会の基礎であり、すべての矛盾の根源だと言ってもよい。受験戦争から侵略戦争までいっさいの差別・抑圧は、この循環の鎖をたち切らないかぎり、決して解決されはしない。
この資本の鎖をそのままにしての改良主義や組合主義は、まったくその展望をもち得ない。われわれは現在的に最も必要な闘争を闘いながらも、この資本を、階級社会を、地球上から根絶するために闘うのだということを念頭に置かねばならないのである。
こうして「賃労働と資本」は、同じ一つの関係を表わす言葉だとわかった。それでは、この関係の枠内にもうすこし立ち入ってみよう。
7. 資本家と労働者との交換関係
マルクスは名目賃金と実質賃金、さらにふみこんで相対的賃金の区別を論じている。
「名目賃金」とは、十万とか二十万とかの貨幣額で言いあらわされた賃金のことであり、「実質賃金」とは、その貨幣額で買うことのできる物質的財貨やサービスの価格を考慮に入れた賃金のことである。よく言われるように名目賃金が上がっても、物価がそれ以上に上昇するならぱ、実質賃金は下落したことになる。これを”絶対的窮乏化”という。
「相対的賃金」とは、資本家が手に入れる利潤とくらべてみた賃金のことである。この相対的賃金は、資本と労働カとの力関係をあらわす。また社会的発展水準とその中から労働者階級に回されるわけまえの比率をあらわす。実質賃金が上がる場合でも、相対的賃金が下がれば労働者の社会的地位は低下する。つまり「われわれは欲望や享楽を、社会を基準としてはかる。われわれはこれらを、それを充足させる物を標準としてはからない。欲望や享楽は社会的なものであるから、それらは相対的なもの」であるのだから。これを”相対的窮乏化”という。安下宿でふるえる人に「君は原始時代とくらべると大変に豊かだ」と言ってなぐさめになるだろうか。
それではこの相対的賃金の騰落を決める一般的な基準はどんなものだろう。商品の価値は三つの部分から成り立っている。1)資本家が前貸しした道具や機械などの消耗の回収と、原料の回収。2)前貸しした賃金の回収。3)これらのものを差しひいた残り、つまり資本家の利潤である。
このうち1)は前からあった価値の回収にすぎないが、2)と3)は労働者が新しく作りだした価値である。もちろん賃金は生産物からのわけまえではないが、実際にそうであるように、生産がくり返しおこなわれるものとしてみた場合、今賃金に支払われる資本は、前の生産で、労働者が労働によって生みだしたものに他ならない。そこで賃金と利潤とを、労働者が生みだした商品の価値の二つの部分とみることができ、両者の大きさを比較することができる。それが図Hである。
機械や原料の生産手段から移ってきた5cをのぞく、労働者がつくり出した価値はというと5v+5p=10である。賃金が上がって6vとなれぱ利潤は4pと下がる。逆に資本家の利潤が上がって6pとなれば賃金は下がって4vとなる。
このように賃金と利潤は反比例し、労働者と資本家の利害はまっこうから対立する。
「これでわかるように、われわれが資本と賃労働の関係の内部にとどまる場合においてすら、資本の利害と賃労働の利害はまっこうから対立する。資本が急速に増大するのは、利潤が急速に増大するのと同じことである。利潤が急速に増大できるのは、労働の価格が、相対的賃金が、同じように急速に減少する場合だけである」
最後に、労働者と資本家の利害は決して対立しない、むしろ一致するという、マルクスに対する古くて新しい、ブルジョアとその追随者からの批判がある。その内容についてはすでに出つくしており、マルクス自身が百年以上まえにだいたい論破しているが、ここでは生産性向上運動に代表される現在的にも広く流布されているものについて見ていきたい。
たとえぱ、ある工場で何らかの生産性の向上運動(実は労働強化にすぎないのだが)を実施したとする。それまで労働者がつくり出す価値が10億であり、そのうち賃金が3億で、利潤が7億、つまり3v+7p=1Oだったとしよう。
生産性向上運動によって労働が強化され、二倍の労働量が支出されて20億の価値を生み出すようになったとしよう。賃金と利潤の比が前のままなら6v+14p=20となる。一見すると賃金も利潤も二倍になり、労働者も資本家も得をしたようにみえる。しかし実際に得をしているのは資本家だけであり、労働者は損をしているのである。
その第一は、まえの10億も、あとの20億も、ただ労働者だけがすべて生みだした価値であるということだ。労働者が搾取されていたのは前が7億だったのが、今では14億と倍増している。しかも賃金と利潤との差も、前の4億から8億へと倍になった。欲望や享楽は社会全体の水準ではかられるのだから、たとえ賃金が上がっても資本がもっと大きく増大してしまえぱ、労働者の地位は下がる(相対的窮乏化)のである。
第二に、労働強化をおこなうと労働力の消耗度が大きくなる。しかも労働力(肉体)の消耗度は加速度的に大きくなることを計算に入れねばならない。労働の強度が二倍になると、労働力の消耗度、したがって労働力の価値は四倍、八倍になる。労働強度が二倍になり消耗度は四倍になったのに、賃金も二倍にしかならないのでは、実質賃金は切り下げられたに等しいのだ。
しかも現実の生産性向上運動では、価値が10から20になっても6v+14p=20とはしないで、4v+16p=20というように、賃金の上げ幅はなるだけ低くおさえようとする。よりいっそうの搾取・収奪が強化されるだけなのである。
参考リンク
◇「賃労働と資本」全文テキスト(レッドモール党サイト)
◇「賃労働と資本」(書評Blog)
◇「なにをいかに学習すべきか」(2)賃労働と資本(レッドモール党サイト)
まさかと思うけど、「質問」とか「反論」とかしないでね!
普通の大人は高校時代に習った物理の法則とかうろ憶えでしょ?
それと同じことでありますσ(^_^;)
こんなテキストあったかなぁ~?
あったような、なかったような。記憶は遠い霞の中だ。
それでも中身は、まだ、理解していると。(笑)
ただし、テキストを読みながらか、ノート(うん十年前にとったもの)を参考にしないと「講義」は、出来ないのだが。(笑)