以下は管制塔勝手連の柘植洋三さんが、「3.26直後の財界の休戦申し入れ顛末」として寄稿された文章の転載です。桜田武日経連専務理事(当時)らによる、三里塚反対同盟への「休戦」申し入れの経緯と顛末であり、半ば成功しかけていたことに驚きます。その場合は「年度内開港」を公約していた福田政権の退陣にもつながりかねないものでした。
微妙な問題でもあり、今までかかわった当事者らへの信義を守って語られることはありませんでしたが、すでに27年の時が過ぎ、その多くが一線を退き、鬼籍に入りました。そして現在の国交省・法務省の行っている、管制塔元被告への「損賠請求」が歴史的にみてどのようなものなのか、当時の財界首脳との対応ややりとりと比較する中で、あらためてその浅はかさも浮かび上がっていると思います。
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ーー転載ここからーー
3.26直後の財界の休戦申し入れ顛末:柘植洋三
日経連専務理事の手紙
「西村卓司様 桜田武」
「先般は御面識の儀を得て小生としても心おきなく意見を申し上げ、又戸村さんはじめ皆様のご意見を承はる事が出来大変に有難く且うれしく存じ候。其後福永健司大臣と一夕懇談仕りご要望の点等傳えて進言仕り候も思ふに任せず残念に存じ候。要するに政府12年に亘るやり方の不誠意にある事は明らかと存じしが、・・・」
上記は、3.26闘争直後の5月、日本資本主義の総本山である桜田武日本経済団体連合会専務理事(当時、以下同)から、日本左翼労働運動のトップリーダーである西村卓司氏に宛てられた手紙の一節です。この手紙が送られる事となった次第の中に、管制塔占拠を中心とする3.26闘争が、どのように巨大な衝撃を日本の支配者階級の中枢部に与えたかが象徴されています。その件について私が承知していることを報告致します。これは、なにかの機会に3.26闘争を戦った全ての仲間達に、報告しなければならないと27年間思い続けていた事柄です。
管制塔が占拠された78年の3月26日直後から、日本は一種権力の空白状態に陥りました。福田内閣が、内政の最重要課題として設定した3月30日の開港が、14000名の機動隊を擁する大警備を突き破って粉砕されたのでしたから、政権の命運は風前の灯となりました。与党から全ての野党まで、過激派狩りを大声に叫びこの点では挙国一致のようになりました。戦前戦中の治安維持法にも匹敵する成田特別立法に反対したのは、青島幸雄議員一人でした。体制が危機をはらむと与野党の区別なくその擁護に走る歴史上繰り返されて来た事態に陥りました。政治機能は常道をはずれヒステリックに沸騰していました。
戸村委員長の出席が条件
こうなると、実にさまざまな表と裏の組織が、事態収拾の手柄を立てる野望を持って反対同盟や、占拠を主導した党派に対してアポイントをとる画策をしてきました。 富塚三夫 総評事務局長の使いから、各種の右翼、小川国彦社会党代議士の地元組織を通しての接触、4Hクラブで現地に深い影響力のあった吉田巌千葉県企画室長など、あらゆるチャンネルが功名をあらそって蠢動しました。石橋元反対同盟副委員長や内田元行動隊長その他がそれと接触し、政府側と対談する場面もありました。
そんな4月のある日、昨年逝去した今野求第四インター政治局員から、電話があり、 「西村卓司氏が、成田駅に着くから、一人で迎えてくれ」 と言ってきました。
迎えると西村氏は、言いました。 「誰にも、聴き取られない所で話をしたい」
「それでは、喫茶店などではないほうがいいでしょう」
ということで、現地に向かう桑畑に入って話を聞きました。
話の要点は、
・財界がそろって、休戦の交渉を求めている。
・休戦とは、政府は5月20日開港をしない、反対闘争側も休戦期間中攻撃しない、という事である。
・交渉に財界は、桜田日経連専務理事、 土光敏夫 経団連会長ほかが出席する。
・反対派は、ほかの誰が出ても信用出来ないので、戸村一作委員長の出席が条件である。
以上でした。
戦力の大半を失っていた当方
当方は、3・26闘争で数年かけて準備してきた戦術のほとんどを使いきり、2月の要塞戦と合わせて2百数十名の逮捕者を出して、戦力の大半を失っていましたから、5月20日開港を中止しての休戦というのは望むところでした。管制塔占拠に匹敵する新しい闘争方針を確立し、激減している戦闘力を回復するためには一定の時間がぜひ必要でした。
西村氏は、加瀬勉氏をこの話に入れるべきか尋ねました。
「今後の展開を考えれば、ぜひ入って頂くべきです」
西村氏と加瀬氏とが労農合宿所近辺の山中で話す事なりました。加瀬氏は即同意され、話は簡単に済みました。
戸村さんを動かすためにどうしたらいいか相談しました。
「反対同盟幹部の一番難しい人に同意をもらって、その後戸村さんに話すことが得策です」
その日は、反対同盟幹部の実力闘争派に話しました。結論は、
「俺達は承知した。しかし戸村さんに話すのはお前達でやってくれ」
という事でした。
「死にかかっている若者もいます!」
翌朝、午前9時前から戸村さんの自宅に伺いました。戸村さんの出席の応否を10時までに、先方へ電話にて回答することになっておりました。
西村さんの詳細な説明にもかかわらず、戸村さんは行くとは言いませんでした。
「そのような、敵の総大将達と同席して話したくない」
時間が刻々と過ぎていき、10時を回りました。西村さんは、三里塚第二公園の公衆電話に走っていき、帰っては戸村さんと話すことを繰り返しました。
「今、戸村さんと話している、なかなか行くと言ってくれない」
三度目くらいに、私がほとんど叫ぶように言いました。
「戸村さん、2月の要塞戦を含め3.26闘争で若者たちが何百人も逮捕され、大怪我した者、死にそうな者もいる。管制塔は破壊されて、3月30日の開港は粉砕された。この後、敵の大将と掛け合って5月20日開港を止めるのは戸村さんあなたがやって下さい!」
西村さん・加瀬さんのお話に加えて、この叫びが胸に響いたようで、戸村さんは行くと言ってくれました。10時30分を超えていました。西村さんは、公衆電話に走り、『行くこととなった』と伝えました。
当日は、当方から、戸村一作三里塚芝山連合空港反対同盟委員長に加えて、反対同盟幹部二人と西村さん加瀬さんが向いました。
勢ぞろいした日本資本主義の頭目達
先方は、桜田武(日本経済団体連合会専務理事)/土光敏夫(日本経済団体連合会頭)/中山素平(興業銀行頭取)/今里廣記(日経連広報委員長)/秦野章(参議院議員・その後法務大臣)/五島昇(日本商工会議所会頭)が迎えました。(このうち二人は海外でしたが、国際電話で直結されていました)
当時の財界のフルスタップがそろっていたわけです。
先方は、ほとんど桜田武が発言し、概略以下のように話しました。
「そもそも、成田問題がこのようにこじれているのは、政府の12年にわたる不誠実に問題がある。成田はこのまま開港しても、天皇陛下が外国に行幸される際使えるものではない。三池問題など戦後の大問題は、最後はわれわれ財界が始末を付けてきた。暗礁に乗り上げている成田問題も我々が、打開策を政府に提案したい」
これに対して戸村さんは、席上の相手を見据えて
「話し合いなど必要ない、実力闘争あるのみ」
非常な迫力で、政府の連綿と続く理不尽を糾弾しました。
会談は二回行われました。結果として
1、政府は予定している5月20日開港を一年間延期する。
2、一年間の休戦をする。その間、双方は共に実力行動を留保する。
3、その間に双方の合意がなければ、一年後には戦闘再開。
4、財界は、この条件を福田内閣に受け入れさせるために、運輸大臣に会見する。
以上のことが、合意されました。
一年の開港延期、一年の休戦
当初、休戦期間は、無期限とする事が財界側から提案されましたが、当方は、『無期限』というのは一週間でも三年でも当てはまってどうとでも解釈できる、一年と期限を切って、政府は開港を延期し、当方はその間攻撃をしないこととすると主張し、前記の合意となったのでした。
財界のトップ達が、 福永健司運輸大臣に会って此の停戦の話を申し入れるのは、5月10日過ぎとなっていました。福田政府に責任を取って政権を投げ出せと言うに等しいこの申し入れの『切り札』は、
『政府は、反対同盟との話し合い解決を喧伝しているが、戸村一作委員長と会えていないではないか、我々財界は委員長と会ってかかる内容で話をつけた。これで事態収拾を図れ』という事でした。「我々財界のみが戸村さんと会っている」というところが決定的なポイントだったのでした。
1978年5月10日
こうした動きに符合して、三里塚現地では、5.20の開港粉砕の実力闘争準備とあわせて、赤軍派・中核派など三里塚闘争にかかわる全ての党派に呼びかけて、『5.20開港が強行されれば、3.26を上回る戦いで粉砕する共同声明』を作成しました。
5月10日、30数党派・団体の共同声明を千代田農協の2階を会場とした記者会見で発表しました。50人くらいの記者が集まっていました。そこに、とんでもない情報が飛び込んできました。
『戸村さんが、千葉で福永運輸大臣と会っている』
記者達は、脱兎のごとく記者会見の会場を飛び出し、千葉に向いました。会見場はたちまちのうちに空になりました。
『今朝、ご自宅の近くで戸村さんに、何処へお出かけですか?と伺ったら、渋谷の山手教会ですとおっしゃったがあれは?』と思いました。
5月10日の戸村―福永会談をセットし、戸村さんをトップ会談の土俵に引き込んだのは、 土屋秀雄千葉日報社長と自民党成田空港建設促進委員長佐藤文正でした。彼ら二人は、絶体絶命の窮地に陥っていた福田政府の命脈を生き長らえさせる手柄を立てたわけです。会談は平行線で終わったのでしたが、担当大臣が反対派の委員長とトップ会談をして「誠意を尽くした」とのポーズがあの加熱した事態の渦中では決定的だったのでした。
かようにして、財界連の停戦協定案は、申し入れる直前にキーカードを失い、福永運輸大臣によって『私どもも戸村委員長と対話して努力しております』と体よくかわされる事となりましたが、戸村委員長には、前述の『事柄』の細目は伝わっていなかったようで、そこから対応の仕方にずれが生じただけのことで、戸村さんの「一切の話し合いを拒否し、実力闘争によって5.20開港を粉砕する」熱情と決然たる態度は終始一貫変わることがありませんでした。その証拠に、3.26闘争の当日、三里塚第一公園での反対同盟主催の集会に対していわば「分裂集会」であった菱田小学校での空港包囲突入占拠集会に、非常な困難を越えて登場され、バイクヘルにて激烈な挨拶をされたのは、ほかならぬ戸村一作委員長だったのでした。
「進言仕り候も思ふにまかせず」
冒頭の桜田日経連専務理事の手紙はこう続いています。
「・・・其後福永健司大臣と一夕懇談仕りご要望の点等傳えて進言仕り候も思ふに任せず残念に存じ候。要するに政府12年に亘るやり方の不誠意にある事は明らかと存じしが、その後法務省刑事局長伊藤(栄樹)氏と成田問題を話したる際同局長も此の件は認め居り候。向後の事は小生も判断致し兼ね候らへ共、何とか不満乍ら解決の道を政府にも強く要求仕る所存に候」(今野求追悼文集より)
福田政府は、「何とか不満乍ら解決の道を政府にも強く要求仕る」財界の圧力を背後から受け、横からは、警察庁や与野党の成田特別立法の第2要塞や岩山団結小屋への全面適用や『過激派』のライフルでの射殺などを要求するヒステリックな圧力受けながら、正面からは、再び実力闘争に突入していった反対闘争の脅威の中で、「手を合わせる」(福田)気持ちで、5月20日開港になだれ込んだのでした。
以上の経過について私は、管制塔の被告たちに、「貴兄たちの戦いはかように日本支配者階級を震撼せしめた戦後階級闘争史に輝く大闘争であった重要な証拠」として報告する義務があると考え、克明なメモを複数とっておりました。残念ながらメモは、猛烈を極めた家宅捜索への対策やその後の事態の中でなくなりました。したがって以上の記述は記憶と当時の新聞と「今野求追悼文集」に基づくもので、多少のずれがあるやも知れません。ですが本筋のところは紛うことのない事実です。
この事実は、関係したごく少数の人々によって26年間厳密に封印され、昨年の今野求をしのぶ会を通してその断片が初めて活字にされていることを先述の文集で知りました。
道理に反する暴挙
財界連を動かした経過の主役は、徹頭徹尾管制塔を占拠した17名の戦士であり、横堀要塞に立てこもった40数名の仲間であり、9ゲートから突入して燃え死んだ新山たちです。さらには、労農合宿所、菱田小学校に結集した人々、8ゲートひいては2月要塞の仲間たちであります。
今なお、この件の秘匿にこだわる方面もあって、叱られる事にもなりましょうが、管制塔占拠をめぐって、1億300万円の損賠の強制執行が27年を経て16人の被告たちに襲い掛かり、彼らの生活、家族関係、人間としての誇りと尊厳を砕こうとしている今であればこそ、あの戦いの全実像を開示し、その巨大な意味と歴史的な意義を共有して、この攻撃に立ち向かう運動の一助とせずして何ぞやと私は信じます。
時効を直前にしての、1億300万円の損賠の攻撃は、どれだけあの戦いが日本の支配者を震撼せしめ大混乱に陥れたかの証左でもあります。
管制塔の元被告たち及び共に3.26闘争を戦ったすべての皆さんに、かの闘争の巨大さを物語る財界の休戦協定案をめぐる動きについて、以上謹んで報告申し上げました。
もう一度、桜田日経連専務理事の手紙の一部を読み返して見ます。
「要するに政府12年に亘るやり方の不誠意にある事は明らかと存じしが」
「その後法務省刑事局長伊藤氏と成田問題を話したる際同局長も此の件は認め居り候。」
つまり、日本資本主義社会の頭目たちも、『成田問題』の根源は、「政府12年に亘るやり方の不誠意」にある事を承知しており、今回の損賠攻撃の際『判決の事務的な執行』を唯一の口実とした法務局の官僚でさえこの件(政府12年の不誠意)は、認めている事が浮き彫りにされています。このことからも、今次の強制執行は、大トラブルの原因者が、原因者であることを承知しながら、その横暴を身を挺していさめた者に損賠を要求するという道理に反する暴挙であることは明らかです。
峻険のその度ごとにわれわれは、巨大さと深さとを加える
しかしながら、この理不尽な暴風に刺激されて、温かい恵みの雨が降りしきり、輝くような新しい芽が全国で育っております。サイトで見る限りでも、千葉や仙台で27年ぶりに仲間たちが集い始めています。数え切れない言葉が交わされ、熱い心が集まっています。
管制塔の前田元隊長は、まだ何がどうなるやら分からない7月19日のアピールで断言しました。
「わたしたちは再度手を取り合う幸福に浴しました」
良くぞ言い切った。
一ヶ月を過ぎて今まさに私達は再度手を取り合いつつあります。心がひとつになりつつあります。その幸せを感じている仲間たちが沢山います。
見せしめ攻撃の卑劣非道が極まっているからでしょう。
宮沢賢治は農民芸術概論の結論の一節でこう言っています。
……われらに要るものは銀河を包む透明な意志、巨きな力と熱である……
われらの前途は、輝きながら峻険である
峻険のその度ごとに四次芸術は、巨大さと深さとを加える
詩人は苦痛をも享楽する
永久の未完成これ完成である
(以下略)
事態が峻険であればあるほど、われわれは、巨大さと深さを加えます。
われわれは、前田元隊長のように苦痛をも享楽する詩人の魂を持った仲間達です。
銀河を包むような透明な意志と巨きな力と熱をもって、1億300本の火炎弾を投げつける戦いを見事に完成させましょう。
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