by 味岡 修
12月8日っていえば自然に思い浮かぶのは太平洋戦争の開戦であった。12月14日の「忠臣蔵」というか、これもおとらないものあった。だが、最近は少し違う。人に言われないと、また、新聞などを見ないと12月8日も、12月14日も直ぐに何の日だったか気がつかない。自然に思い浮かんではこない。「…遠くなりにけり」という言葉があるが、これとはちょいと違って、記憶が反応しないのだと思う。
これは何なのかといぶかしく思う。「年の瀬」という感覚も変ってきている。一年が過ぎゆく速さを実感することは年々深まるにしても。
何の変哲もない日々にあるのだが、それにしても本当に悲しい知らせはあるものだ。中村哲さんの訃報である。
中村哲さんとは講演会のあと少し話したことがあるだけだが、彼のやってきたことには驚きと言葉に言い表せない感激をした。彼の活動についてはあらためてここで語る必要はないだろうが、彼の講演を聞いた人は、また話したことのある人は誰もが一様に感動し畏敬の念を持ったのだと思う。言葉なんぞいらないものだった。
彼のやったこと、そして僕らが受けた感慨をいつの日か言葉にしたいが、今は、それは不可能である。ただ、彼の生前の姿をテレビなどで見るたびに、言いしれない悲しみが深まって行く。これは彼の存在と行為が何物にも代えがたいものだったことを伝えているのだろう。(三上治)
葬儀での追悼の辞
「ペシャワール会」村上優会長(葬儀委員長)
中村哲先生。先生の御霊を前にお話しするなど考えもしませんでした。今の私には、先生の死を受け入れる余裕はありません。いくら力を振り絞っても、押し寄せる悲しみに圧倒されるばかりです。ですがペシャワール会の会員を代表して言葉を述べよと多くの人々が私を後押ししています。中村先生、力をお与えください。
中村先生。先生がヒンズークッシュ山脈のティリッチミールに登頂された翌年の1979年、トレッキングに誘っていただきましたね。足を延ばしてカイバル峠を越えてヘラートまで、さらにバーミアンまでと計画していました。しかし旧ソ連軍によるアフガン侵攻で国境が閉鎖されたと聞いて、ヒンズークッシュ山脈の麓のギルギットに赴きました。山の中で満天の星を見ながら、命について語り明かしたのが長い交誼(こうぎ)の始まりでした。そのとき先生は、命の不平等について強い口調で語られました。山岳部にすむ貧しい人たちが簡単な病気で亡くなっていくのを見て、手を差し伸べないことの不条理さを語っておられました。
その後先生は、1984年5月にペシャワールミッション病院に赴任されました。パキスタン北西辺境州でのハンセン病根絶計画を担うためです。ペシャワール会は、中村先生の医療活動を支えるために、その前年に700名の仲間、人々が集い発足いたしました。
それから36年の月日が経ちます。
中村先生。幾多の困難がありましたね。当時のペシャワールには300万人を超える難民が押し寄せていました。先生は、その苦難について私たちに語ることは少なく、人の命の不平等や世の中の不条理なことについては、心の中に押し込めて、いつも前を向いて淡々と歩まれました。
ミッション病院を出て1986年には、JAMS クリニック Japan Afghan Medical Service を創られ、それを核に PMS 基地病院を創られました。その前には、アフガン東部の誰も手を差し伸べたことのない山岳最深部のダラエヌールやワマまで3つの診療所を作られました。
2001年の9.11事件後の米軍によるアフガン空爆の時には飢えや寒さで餓死寸前の20万人以上の人々に小麦粉や食料油も届け、首都のカブールに臨時診療所を5か所作られました。
そういう戦乱がつづく中で、2000年からは、追い討ちをかけるように大旱魃(かんばつ)がおこりました。
中村先生が井戸を掘ると言い出された時も戸惑いましたが、農業用水路を造ると言われた時には、そんなことができるのかと不安がつのりました。先生はそれが人々の命を助けるために必要だからという理由を挙げられましたね。人を理解する深い洞察力を源泉として、分かりやすい言葉でいつも語られました。そしてそれを黙々と実践してゆかれました。結果として、1600本の井戸を掘り、16500ヘクタールの大地を緑に甦らせました。
でも先生は、そんな大きな仕事を成し遂げながら、おっしゃることは、とても平易なことでした。人の幸せとは、「3度のご飯が食べれて、家族がいっしょに穏やかに暮らせることだ」と。
中村先生。先生が筑後川の山田堰から学んだ取水堰の伝統工法は、PMS方式という名で、アフガニスタンに根付き、将来的にはアフガニスタン全土に拡がろうとしています。先生に「名誉市民証」を授与されたアフガニスタン・イスラム共和国のガニ大統領は、PMS方式こそ、農業国アフガニスタン復興の「鍵」だとおっしゃいました。
日本では、何度も皇居に招かれて当時の天皇陛下や皇后陛下に活動報告をされ、「思わぬところに理解者がおられた」と語られていましたね。
中村先生は良心を生きてこられました。いつか「アフガンにはよい人も、悪い人もいる、がそれを含めて共に生きている」と話されました。先生は、この35年間、アフガニスタンや日本の膨大な人々のこころの支えとして実のある事業を完成させて来られました。
そういう中で凶弾に倒れられ、尊い犠牲者になられました。先生は、誰も彼も分け隔てなく、丸腰で歩まれました。これも天の思し召しなのでしょうか。先生の尊い犠牲は私たちに前をむいて進めと力をこめて後押しをしています。
言葉を失って悲しみや喪失感などを超えて、押しよせる記憶があります。先生が書かれたこと、話されたこと、言葉を交わしたこと、そしてペシャワールやアフガニスタンで共に体験したこと、そのヒンズークッシュ山脈の麓を旅したことが駆け巡ります。支援していただいた皆様もそれぞれの「中村哲医師」との想いを共にしていただけると思います。中村先生を介してペシャワール会としてつながった人の輪があり、会員や支援者の皆様がおられます。
私たちは先生の御霊に誓います。
第1に、ペシャワール会は中村哲先生の意志を守り事業継続に全力を挙げます。遺志ではなく今も私たちのこころの中で生きておられる中村哲先生の意志として。
第 2 に、これまで中村哲先生がいつもされていたように、遠い先を見つつ、決して後ろをむかず前を向いて歩みます。様々な困難を超えてこられた中村先生は、今でも私のこころの中で語りかけてくださいます。その声と語り合いながら会員や支援者の皆様と共にアフガニスタン、そして平和を望む世界の人々と事業の支援を続けます。
これから中村先生が目の前におられない中で、如何にPMSの事業を維持できるか、不安ではありますが、アフガニスタン・日本で支援していただく人々と共に歩んでまいります。
私は45年前に中村哲という人に出会いました。中村哲という人が人生の横にいたことが私の、そして多くの人々の人生の最大の幸いだったと思っています。出会いが人を変える、その出会いを選択するかどうかは私たち一人一人の手にあると感じています。
これまでのお導き、ありがとうございました。
2019年12月11日
ペシャワール会 会長 村上優
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