2003年春、イラク攻撃4週間前…
アメリカによる攻撃開始が予見されながらも、日々の日常に勤しむバクダットの人々。
子どもたちにレスリングを熱心に教える元オリンピック代表兼駐車場経営者、
カフェでの談義に花を咲かせるおじいさんたち、
靴屋のおじさん、大学教授、そして通訳者のパレスティナ人男性……。
それぞれが見るイラクと世界に対する考えや立場は異なるが、朗らかであった人々の空気は、爆撃開始後一変する。
世界がプロパガンダの嵐にさらされるなか、監督は自分の目で見た「イラク」を伝える。
山形国際ドキュメンタリー映画祭ほか、世界各国の映画賞を受賞した作品で日本語版もあるが、予告編はこの英語版とギリシャ語版しか見つけることができなかった。
オーストラリア/2005/アラビア語、英語/
カラー、モノクロ/ビデオ/90分
監督、撮影、編集、製作:ウェイン・コールズ=ジャネス
音楽:イラクの様々な音楽
製作会社、配給:イップソ・ファクト・プロダクション
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監督のことば
私たちイップソ・ファクト・プロダクションがドキュメンタリー映画『Life at the End of the Rainbow』の製作を終えたのは2002年だった。それまで中東を拠点としたドキュメンタリー映画を撮っていたこともあり、世界が戦争に向けての準備に入った2003年12月に、ほとんど理解されず、触れられることのなかったイラクで製作にとりかかることにした。
西側諸国で紹介されていた情報といえば、AK-47ライフルを振りかざして「ジハード、ジハード、ジハード!」と叫ぶ扇動者たちの短いニュース映像だけだった。数カ月間、何度か州を越える旅を重ね、なんとかイラクへのビザを取得することができた。
戦争に至るまでの期間に私たちは4週間かけてイラクで撮影を行った。資金とテープの不足にもかかわらず私は、開戦直後の「Shock and Awe(衝撃と恐怖)」作戦の間も、イラクに滞在することを決めた。オーストラリア政府と資金提供者の嫌がらせにも屈せず、私たちは出会った人々の生活を記録し続けるためにイラクに戻った。
もっと感動的でセンセーショナルな映画を作るべきだったかもしれない。だが私たちは、ドキュメンタリー製作は人類のためにも、人々と状況を誠実にドキュメントすることが必要だと強く信じている。
私たちは語られるべきストーリーに声を与えることが仕事なのだ。
語ることができない、あるいは、語られることのないストーリーを語ることに専念しているのだ。
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