by ジグザグ会 / 草加耕助
私たちジグザグ会代表の合計8名は格安航空券にて複数の飛行機に分乗、22日の朝に羽田を離陸し、昼前には順次那覇空港に到着しました。一日目の写真報告です。
※以下、画像をクリックで拡大します。
那覇空港に到着
ジグザグ会、直接行動(DA)の共同、辺野古リレーの協力という形で現地派遣団を編成、参加者を募って沖縄訪問が実現した次第です。
派遣にあたっては3団体で沖縄の講師を招いての合同の学習会、参加経験者の体験を聞くなど、内部で沖縄についての認識を深めてきました。そのかいもあって、参加者数は一度も現地に行ったことのない者を中心に20人規模となりました。
普天間基地を見下ろす嘉数高台
空港からレンタカーで移動を開始、最初に普天間基地を見下ろす嘉数高台に向かいました。嘉数高台の入口にある宜野湾市の看板のほか、やはり「ハブに注意」の看板が本土の人間としては気をひきます。
嘉数高台の頂上にある展望台は「かけがえのない地球」をイメージしています。正面に普天間基地を一望。ちょうどオスプレイが飛来してくるところ(上右写真)でした。
展望台に設置されている宜野湾市の碑。宜野湾市略図(上中央)を見れば、ちょうど真ん中に普天間基地があり、危険性のみならず、移動・交通・経済発展も阻害していることが容易に推察されました。
碑文「平和都市ぎのわん」
この展望台は地球を象徴しています。
宜野湾市は昭和60年3月18日「反核、軍縮を求める平和都市」を宣言しました。第二次世界大戦中激戦地となったここ嘉数高台から世界の人々に恒久平和を呼びかけます。宜野湾市民は子孫繁栄を願って人類の滅亡につながる核兵器の廃絶と軍備の縮小を強く求めます。
かけがえのない地球を人智をもって守りましょう。
宜野湾市
海兵隊基地・普天間飛行場に関する解説板もあります。碑文、解説板と普天間基地を見て、それぞれの思いからか無口になる本土の私たち。そのまま無言で展望台をあとにします。
沖縄戦の激戦地でもあった嘉数高台についての解説板。嘉数での戦闘は沖縄戦における最激戦地のひとつ。ここは日米両軍の戦死者に加え、おびただしい地域の住民が戦争に巻き込まれて犠牲になった地です。
お昼ごはん(ソーキそば)
嘉数高台の風景。沖縄の桜は本土のソメイヨシノとは違い、カンヒザクラ(寒緋桜)が中心で、花見はだいたい1月にすることが多いと宿のご主人に教えてもらいました。ハイビスカスも綺麗に咲いていました。
お昼は嘉数高台の前にあるソーキそばのお店でいただきました。観光で行ったのではないので、そういうのは全く調べてなかったのですが、「三丁目の島そば屋」というお店で、観光客には人気のお店だったみたい。
お店おすすめの、豚の三枚肉に角煮も入ったソーキそばを注文。脂身が苦手なのでおっかなびっくりでしたが、口の中でジューシーにとろける感じで凄く美味しくてびっくり!
那覇などの中心地ではそうでもないですが、沖縄は食べ物の値段が安くて量も多いのがいいですね。食堂でおかずや麺類を注文すると、何も言わなくても普通にご飯がついてくるのも感激です。
私だけではなく、みんながみんな凄く美味しいと大満足でした。ひょっとして地元の味を観光客向けにアレンジしてあるのかもしれませんね。沖縄料理初心者にもおすすめです。
メーカーは違えど、どこの食堂にも置いてあった島唐辛子エキス。使いどころが本土の私にはわからないけど、こちらでいうと七味感覚なのかな。このメーカーのはやはり初心者向きなのか、あまり辛くなかったが、ものによってはすごく辛いのもあるらしいので注意。
脂身やホルモンが苦手で心配していた私でしたが、沖縄料理美味しいやん!これなら恐るに足らずと思ってしまった……のが翌日の悲劇につながるのですが。
「沖縄ぜんざい」というメニューがあったので、甘味が好きな私は興味をもって注文してみました。かき氷の上につぶあんと白玉をトッピングしたもの。本土の宇治金時などと違って、すごくさっぱりしていて何杯でも食べられそうです。こいつはまた食べたいな。
さんぴん茶にはお世話になりました。どこに行ってもこれが標準っぽかった。琉球コーラとかの炭酸類は、味が甘くて濃いものが多いような気がして、わたし的には微妙でした(個人の感想)。
写真左の「何が出るかな?買うまでわからない自販機」は、同じものが山梨に仕事で行った時もあったなあ。
沖国大の米軍ヘリ墜落現場
続いて沖国大の米軍ヘリ墜落現場に行きました。ここは事件の時に黒焦げになった木が保存されています(写真左)。
墜落現場は道路沿いの敷地ですが、このように誰でも気軽に入れるように整備されていました(中央)。記録を展示するWebサイトや、時間がなくて回れませんでしたが資料展示室もあって、誰でも入ることができるそうです。事件を絶対に風化させないという沖縄の人々の姿勢がひしひしと伝わってくるようです。
※沖国大サイト 米軍ヘリ墜落事件のページ
写真右は事件直後の同じ場所の写真です。日本人をすべて締め出した上で米軍が調査し、立ち入り禁止の外側で日本の機動隊がそれを守っています。まさに敗戦後から現在までの沖縄を象徴するような一枚です。
私は右翼ではありませんが、それでも「これが独立国家と言えるのか!植民地じゃないか」と悔しい思いをしたのを覚えています。沖縄の人々はどんな思いだったでしょうか。
嘉手納基地「道の駅」へ
車は北部を目指して今度は嘉手納基地にさしかかりました。那覇から比較的近くの米軍基地や施設は、外から見る限りはもう使われてないんじゃないかと思えるものもありましたが、嘉手納だけは別格です。ものすごい活気と緊迫感にあふれています。
とにかく嘉手納はどこまでも基地、いくら車を走らせてもまだ基地!ものすごく広大です。嘉手納や普天間の感覚というのは、東京23区でたとえると、山手線の内側が全部米軍基地で、そこからひっきりなしに戦闘機やヘリが自分たちの生活している頭上を低空で飛び回っていると言えば想像できるでしょうか。
「かでな道の駅」で休憩。正面には嘉手納町出身の野口総管の銅像(上左)があります。中国から甘藷を持ち帰って琉球に広め、度重なる飢饉から人々を救った功績でウムウプスー(芋大主)と呼ばれて慕われたそうです。
この琉球の甘藷を1615年にイギリス人が長崎に伝え、さつま芋の名前でたびたびの飢饉から日本の農民を救った。つまり野口総管は間接的に琉球のみならず日本の人々も救った偉人で嘉手納の誇りであるということです。
この道の駅の三階ラウンジは、嘉手納基地が見渡せるビューポイントとして有名なんだそうです。さっそく昇ってみました。見渡せるといっても、広大すぎて端は見えません。そしてものすごい勢いで米軍機が離発着しています。その光景に言葉もありません。
基地のフェンス内の滑走路脇に畑と小屋が見えます(左)。こういう形で立ち入りを要求して抵抗している地主もいるとのことですが、この畑がどういう事情で誰が耕しているものかはわかりませんでした。
ひっきりなしに軍用機が離着陸し、そのすぐ先に軍用ヘリが並んで飛んでいました。特に戦闘機は旅客機などとは明らかに違う甲高い爆音で、間近で聞けばかなり不快であろうと思います。騒音問題は、基地のほうが通常の空港より深刻であることが実際に来てよく実感できました。
お互いにどういう感想を言えばいいのかわからず、いつまでも立ち尽くす私たちです。辺野古に行く前にここに立ち寄ってよかったです。いきなり「闘争現場」に行く前に沖縄の現実をよく見て回ることをおすすめします。
少しくだけだ話題で、沖縄限定のフィギアガチャ(左)。ビギンのセットとか欲しくて、心をくすぐられましたが、一回400円と高いのでやめました。どれが出るかわからないしねー。熱くなったらすぐン千円くらいぶっこんだりして。
ラウンジには報道陣専用席がありました(右)。世界中からこの道の駅に撮影に来るようで、この日も大きなカメラを抱えた方がこの席に機材を置いておられました。このラウンジからの映像を、あなたもテレビかどこかで一度は見ているはずです。
一階のおみやげ屋さんで買った「オスプレイNo!」Tシャツ(左)。こういうのが普通に売店で買える。色やサイズもいろいろありました。
「不発弾に触っちゃダメ!」ポスター(右)。今でもちょくちょく出るんですね。見つけた不発弾を「記念」に持って帰ろうとする本土の観光客がいるみたいです。海辺の貝殻じゃないんだから!( `皿´)
嘉手納町学習展示室(郷土資料)
この道の駅には嘉手納町の学習資料室があって郷土資料が展示されています。町内の8割を米軍基地が占拠しているので、自然に基地関係の資料が多いですが客観的かつ郷土愛が垣間見える貴重な資料ばかりです。
沖縄観光に行ったら「キャー、戦闘機カッコイイ」とか騒いで帰るのもいいですが、こういう資料もちゃんと見ていってほしい。そしてもし自分の住んでいる所がこういう状況になったら…そういう想像を働かせてみてください。
左は嘉手納に常駐・飛来する主な戦闘機。
嘉手納基地はアラスカからフィリピンまでをカバーするとされ、その規模と広大さはアメリカ本国を含めて世界に例がない巨大基地です。
嘉手納には年間延べ1万8千機が飛来し、配備されている軍用機は120機とされていますが、さらに外来機とされながら40~50機が実際には常駐しています。それらが常に離着陸訓練・エンジン調整・タッチアンドゴー訓練などを行っています。
右はベトナム戦争時の機体。朝鮮戦争を契機に嘉手納の軍用機はジェット機に変わり、以降次々と新鋭機が投入され続けています。
ベトナム戦争ではB52爆撃機やF4ファントム戦闘機などが投入され、嘉手納から直接ベトナムに出撃していくこともあった。米軍のベトナム侵攻は沖縄なくして実行できなかったし、ベトナム戦争は沖縄の人にとって身近な戦争でした。
嘉手納町の戦前と戦後の地図の比較です。写真左が戦前の嘉手納町です。沖縄戦までの嘉手納町は沖縄本島中部の中核都市として栄えていました。のどかな農産地帯であると同時に、鉄道が走り、製糖工場や学校などがここに集積し、沖縄中部で一番にぎやかな場所として経済的にも発展していました。
写真右が現在の嘉手納町です。町面積の実に83%を米軍が基地と弾薬庫として接収してしまいました。さらに基地は嘉手納のみならず、周辺の市町村にまで広がる超巨大なものとなっているのが地図でわかると思います。
嘉手納町の位置は本来、那覇などの中西部地区と北部地域をつなぐ交通の要衝であり、戦前はその地の利を活かして発展していた。
現在は基地の下になっている地域を、ジオラマとして再現・保存しています。
かつての地図や資料や写真をもとに、細かいところまで再現しているんでしょうね。お年寄りが孫を連れて「うちの家はここにあったのだ。畑はここ」とか指差していたであろう光景が浮かぶようです。展示場で一番大きなスペースをとるこのジオラマに、何かの執念をみるような思いがします。
米軍に「銃剣とブルトーザー」で接収される前の、平和な農村部の暮らしと中心部の賑わい。強い郷土愛が感じられる展示です。
すでに基地のコンクリートの下に埋められた地域の「失われた日々」は、行政の展示ですのでこの程度の中立的な表現になっていますが、本当は「奪われた日々」でしょう。返せ!戻せ!と。
「基地の重圧」土地を盗られただけでなく、生活の隣に入り込んできた軍用基地は、周辺で暮らす人たちに多大な危険と重圧をもたらすものだった。
「嘉手納基地に関する主な事件・事故」控えめな書き方だけど、主なものだけね。日常生活における不安や不満、重大事故にまでいたらなかった普段の「ちいさな」出来事は書かれていない。
聴き比べコーナー
ヘッドホンから同じ音量で、トラック・ジャンボジェット機・戦闘機の3種類の音が聴こえる。それぞれ目の前(頭上)を通り過ぎていく様がステレオで忠実に再現される。そのすべて裁判にもなっている騒音発生源だが、同じ音量でも戦闘機がずば抜けた不快音であることがわかる。
奥にミニシアターがありました。ボタンを押すと上映が始まる仕組み。
83%を基地にとられた嘉手納だけど、残りの17%には今も人々の生き生きとした郷土の暮らしがあるんだよと。そしてまたきっといつの日にか…みたいな内容だったかな。途中から見たので違ってたらごめん。
今は基地の下となったかつての嘉手納の写真が、壁一面に掲げられていました。
辺野古・大浦湾へ「海と風の宿」
さらに北部を目指して車を走らせます。やっと基地が終わって海辺に出た。街路樹をはじめとした植生も、本土とは違っています。
恩納村の国道を進んで名護市にぬけていきますが、かつてはこの国道をまたいで実弾演習が繰り返され、そのたびに道路が閉鎖されて生活に支障をきたしてきました。
名護の市街で買い物をすました後、今夜の宿の「海と風の宿」に向かいます。
沖縄滞在中の宿「ゲストハウス・海と風の宿」に到着!朝5時に家を出てから駆け足で巡って12時間でした。荷物を置いて周辺を散策しつつ、大浦湾を一望する高台(展望台)を目指します。
宿のある名護市瀬嵩地区は、特に反対運動が活発なところだそうで、いたるところに反対の看板やポスターなどがありました。それにしても瀬嵩こども会の看板は本当にほっこりする。おじさんも頑張らにゃ!
反対運動のポスター「基地の島沖縄が問う」と瀬嵩地区の街並み。
共同売店
黄色の建物はこの地域の中心となる「共同売店」。向かいにも一軒売店があります。
右の写真の反対運動のポスターは大浦湾の自然に建設計画の地図を重ねたもの。もし基地ができたらいったいどうなるのかがわかりやすい。
修学旅行生などを中心とした自然体験施設「じゅごんの里」さん。
新作映画「戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)」の公開案内も町で見つけた。
「この美しい海をジュゴンの保護区に」(左看板)その地元の願いのためにもヤマト政府が基地建設を諦めさせよう。本来、大浦湾の自然は世界遺産に登録されてもいいもので、実際そういう声もあるのですが、そうすると埋め立て工事による貴重な珊瑚礁の破壊ができなくなるので政府が動かないのです。
さて、看板をすぎて、道路からいきなり山道に入った先に展望台があります。これは知らなきゃ絶対にわからなかったろうな。
対岸にあるキャンプシュワブと作業台船を見ながら、辺野古リレーの方よりいろいろと説明を伺いました。
ここから見える作業台船には、悪名高いトンブロックが積載されたままです。珊瑚の上に投下するには新たな知事許可が必要で放置されている。最初の工事計画が選挙前に間に合わせるため杜撰な計画だったため、変更申請が必要なものが多く、県や市の許可が出ない現状では、工事は事実上ストップに追い込まれています。今は兵舎の建設などを細々とやっている状況だとか。
宿に戻って自炊する
「海と風の宿」は食事は出ませんが、自分で食材を調達して、台所を自由に使うことができます。ペンションみたいな感じかな。初日はイタリア帰りの大学教員の方が向こうでおぼえた自慢のパスタを披露してくれました。大変に好評でしたよ。
他の料理ができるまで、パスタを食べながら待ちます。今日はいっぱい回ったので、かなりみなさんお疲れのご様子ながら、今日の感想、明日からの打ち合わせなど語らいました。
その後、宿の方や他の宿泊者も交えて交流が続き、話がつきませんでした。楽しかったです。明日からはいよいよ本番です。頑張ろう。
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